趣味と思考の読書

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●お年玉

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                        今年の自分へのお年玉は、これ。
                       待ちに待った文庫化。


 ●『遠い崖』ーアーネスト・サトウ日記抄 朝日文庫 全14巻。(現在、8巻まで文庫化)

 
 幕末の日本へ!

 イギリス公使館の通訳生として来日した19歳の青年サトウ。

 彼が書き記した日記は現在、手にすることができるものだけで45冊。

 (1861年(文久元年)11月4日〜1926年(昭和元年)12月31日)

 それらを手がかりにして、サトウの65年の春秋をもういちどたどってみようという

 萩原延壽(はぎわら・のぶとし)著の「大河ヒストリー」。
   

 ****************

 ★アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow, 1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、
 イギリスの外交官。英国公使館の通訳、駐日英国公使、駐清公使を務め、英国における日本学の
 基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助。

 参照 →http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A6
 


 ●新成人のみなさん、おめでとう。

 ここに紹介したアーネスト・サトウもイギリス公使館付の通訳生(StudentInterpreter)として

 来日したのは、あなた達と同年代の青年でした。
 

★タクシー禁煙考

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 ★前記の、タクシー乗務員という宇宙の二つの構成物の「内ゲバ」?の原因は

 何だろうか?煙草なんだろうか?

 カザフの少年にも尋ねてみた。

 かなり長文の返答メールがあったので、以下に紹介しておきます。

 ************


 ●なぜタバコが悪くて酒はよいのか
 
 最近福岡県の職員が飲酒運転で親子五人の乗る車に激突、三人の子供すべてが溺死するという悲惨な事故が起こった。そこで私は各方面から激しい非難を浴びることを覚悟して、あえて次のことを問いたい。今タバコが社会的にひどく目の仇にされているが、何故もっとたちの悪い酒を、社会から追放しようという声がほとんど聞こえてこないのだろうかと。
 タバコが色々と体に悪いことは今更言うまでもない。しかしそれは吸う人個人の問題であって、喫煙それ自体は社会に積極的な害を与えるような行為ではないと思う。もちろん喫煙によって他の人に嫌な思いをさせたり、更には肺がんや気管支炎などを起こさせたりすることは明らかによくないから、これは社会的な防止策をとる必要がある。また寝タバコが原因の火災も、他人に大きな被害をあたえることがあるのは否定できない。
 しかし酒の害はどうだろうか。酒の呑み過ぎが原因の病気は数え上げるのも煩わしくて出来ないほど沢山あるから、この点ではタバコといい勝負である。ところが酒が他者に及ぼす悪影響となると、まず酒癖が悪いために起因する家庭内暴力から始まって、色々な女性問題
や金銭上のトラブルなど、酒が絡む重大事件は跡を絶たない。
 しかも酒が原因の社会問題となるとこれはタバコの比ではない。最も顕著なものは今回の事故のような、飲酒週転が原因で多発する悲惨な人身事故であろう。また酒の勢いを駆っての喧嘩や傷害事件は珍しくないし、それが殺人にまで発展することさえ稀でない。酒の持つ社会的危険性はタバコに比べて段違いに大きいと言えるのではないだろうか。
 言うまでもなく少し飲む酒は「生命の水」であるが、この水は余りにもしばしば「悪魔の水」に変わる。だから古今東西「酒の害」を戒める教えには事欠かず、アメリカでは禁酒法の時代まであったことは記憶に新しいが、現にイスラーム諸国の殆どは禁酒国である。
 かく言う私は、酒は少しだけなら呑める程度で、タバコは時々パイプをふかす。しかしどちらも全く無くても一向に困らないのだが、タバコが吸える場所と機会が激減したため、ひどく苦しんでいる人を見るたびに、どうしてタバコだけがこんなにも憎まれるのか、酒のほうが遥かにたちが悪いのにとつい同情してしまうのである。
                        (二〇〇六年)
 ★『私はこう考えるのだが』 鈴木孝夫 人文書館 2007.12.10 より。

 ****************

 次の引用です。ご存知ミスター・「千夜千冊」の正直な発言です。

 ★終わりの、(拍手)に注目あれ。(笑い)

・・・すでに私もいろいろなところに書いてきました、が、コーヒーハウスは今日の社会にいくつもの近代モデルを送り出しているんです。
 
たとえば「ジャーナル」が誕生しました。雑誌というメディアはコーヒーハウスから生まれたんです。トーリー党やホイッグ党といった「政党」もコーヒーハウスを拠点につくられた。ロイド保険のような「保険会社」もロイズ・コーヒーハウスに出自したものですし、「広告」という手法が定着したのもコーヒーハウスのカウンターに各種のチラシが並べられたのが最初です。小説がノヴェル(新奇なもの)とよばれるようになったのも、コーヒーハウスが舞台になった。
 こういうぐあいに見ると、コーヒーハウスは来たるべき近代市民社会のいくつもの社会フォーマットを生み出す装置になっていたといえるほどです。現在の喫茶店とはそこがまったくちがっている。

 ちなみに、いま日本中を席巻しているコーヒー店チェーンの「スターバックス」は、ハーマン・メルヴイルの『白鯨』に出てくる一等航海士のスターバック君からとった名前です。もっともあそこは全店禁煙なので、私はスタバには絶対に行きません(拍手)。

 ★『世界と日本のまちがい』 松岡正剛 春秋社 2007.12.20

 *************

 最後に、こうあった。 


 「週末は、よそうよそうとおもっているヨソウに忙しいので、また、来週じっくりと討論

 しましょう。」 

 言い忘れましたが、12日は、幸 英明騎手のバースデーです。

 薩摩隼人の根性をみせていただきましょう。

 STILL in LOVE !

 <更生之素>。↑の写真 も応援しています。  

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   胎児 よ

  胎児 よ

  何故 踊る

  母親の心 が わかって

  おそろしい の か

  ・・・ブウウーーーーンンンーーーンンンーーー


 。
   

  ★夢野久作(杉山泰道) 『ドグラ・マグラ』(1935年 刊)より、「巻頭歌」

 **********
 **********

 SAYONARA

 がたん!

 −−という一つの運命的な衝動を私たちの神経につたえて、

 午後九時十五分東京駅発下関行急行は、欧亜連絡の国際列車だけに、

 ちょいと気取った威厳と荘重のうちにその車輪の回転を開始した。
 

 多くの出発と別離がそうであるように、じつに劇的な瞬間が私たちのうえに落ちる。
 まず、車窓のそとに折り重なる人の顔が一つひとつ大きな口に変って、それら無数の巨大な口腔が、
 おどろくべき集団的訓練のもとにここに一大音響を発した。あああーあい!というのだ。

 ばんざああい!

 では、大きな声で『さよなら!』
 
 さよなら!

 そしてまた『ばんざあい!』
             ゛
 この爆発する音波の怒濤。燃焼する感激。立ちのぼる昂奮と人の顔・顔・顔。
 そして夜のプラ″トフォームに漂う光線の屈折−それらの総合による場面的効果は、
 ながい長い行程を まえに控えている私達の心臓をいささか民族的な感傷に甘えさせずにはおかない。 が、そんな機会はなかった。交通機関はつねに無慈悲にまで個人の感情に没交渉である。
 彼女が贈られた花束を振り、私が、この刹那の印象をながく記憶しようと努力しているうちに、
 汽車はじぶんの任務にだけ忠実に、well−急行だから早い。さっさと出てしまった。
 私たちは車室へ帰る。
 
 皿のうえの魚のように、彼女はいつまでも花束とともに黙りこくって動かない。何か彼女の脳髄を侵蝕 しているのか、私にはよくわかる。東京と東京の持つすべて、日本と日本のもつすべてから時間的にも 地理的にも完全に離れようとするいま、私達は急に白っぽい不安に捉われ出したのだ。
 それはふたりのすこしも予期しなかった、そして、それだけまた自然すぎる、漠然たる憂鬱だった。
 しかし、この「去るに臨みて」の万感こもごもは、ぼうっと赤い東京の夜ぞらとともにすぐ消えて、
 かわりに私は、そこに世界地図の上を這い廻る二足の靴を想像する。
 それは、倫敦チャアリング・クロスの敷石もアルジェリアの砂漠も、シャンゼリゼエの歩道も同じ軽さ で叩くだろうしベルゲンの土も附けばアラビヤの砂も浴びるだろう。私達の旅のすがただ。
 詩人の墓も撫でてみたいし、帝王の裾にも接吻したい。西班牙の駅夫と喧嘩することもあろうし、
 ルウマニアの巡査に小突かれる目もあろう。モンテ・カアロでは夜どおし張るつもりだ。ムッソリニと 握手する。一夕独逸廃帝と快諾して思い出ばなしを聞く。ナポレオンの死の床も見たいし、ツタカメン 王の使用した安全剃刀もぜひ拝観しよう。それから、それから、ETC・ETCー出来るだけ多くの
 大それた欲望を持つことが、旅行者にあたえられた権利であり、義務なのだ。

 気がついてみると私は、汽車の進行に合わしてこころ一ぱい叫んでいた。
 がたん・がたん!
 がたん・がたん!
 歓呼のこーえに送られて
 歓呼のこーえに送られて
 何とそれが調子よくピストンのひびきに乗ったことよ! ことによると私は早くも無意識のうちに、
 自然現象のように自由で無頼な放浪者を気取っていたのかも知れない。
 寝台へ這い上る。
 同時に、さまざまな断片が私のこころへ這いあがる。
 ホテルから東京駅へのタキシのなかから一瞥した最後の東京。雨が降っていた。
 窓を打ってななめに走る水。丸ビルを撫で上げる自動車の頭灯。
 「東京ーモスコウ」と朱線のはいった黄色い切符を示したとき、ちよっと儀式張って、
 善きほほえみとともに鋏を入れてくれた改札係の顔。若きかれのうえに祝福あれ!
 とにかくこれが当分のお別れであろう日本の春の夜を、汽車はいま狂女のように驀進している。

 下関へ、ハルビンヘ、莫斯科(モスコー)へ、伯林へ、やがてロンドンヘ。
 朝は、私たち同行二人の巡礼をすっかり国際的な漂泊人のこころもちのなかに発見するであろう。
 汽車という汽車のなかで、その夜の九時十五分東京駅発下関行急行−私がそれに何らの必要もなしに
 ほとんど先天的な約束をさえ見出しかけていると、彼女も眠れないとみえて、下の寝台で寝返りを打つ のが聞えた。
 『どうしたい、まだ降ってるかい?』
 『え?』
 『雨さ。』
 『いいえ。』
 『どのへんだろう此処ー。』
 『さあーーーー静岡あたりでししょう、きっと。』
 
 黒と白だけの風景画

 「下関」
 むらさき色の闇黒。警戒線。星くず。
 無表情な顔をならべて関釜連絡丸の船鎗へ流れこむ朝鮮人の白衣の列。
 「釜山」
 あさ露に濡れる波止場の板。
 赤い円い禿山。
 飴と煙草ーe.g.朝鮮専売局の発売にかかるカイダ・マコウ・ピジョンなど・など・など。
 停車場への雑沓。
 バナナを頬張りながら口論している色の黒い八字ひげと、金ぶちの色眼鏡。
 内他人の薬売り−新植民地情景。
 「京城まで」
 土塀と白壁。赤土。黒豚。
 小川。犬。へんぽんたる洗濯物。
 教神ーー水晶洞所見。
 滝頭山神社のお祭り。
 勿禁院洞と読める。
 皇恩浩蕩とも書いてある。
 長いきせると荷馬車。
 褐色の連続を点綴する立看板の林ーー 大学眼薬、福助足袋、稲こき親玉号、なになに石鹸、仁丹、
 自転車ソクリョク号、つちやたび、風邪には新薬ノムトナオル散、ふたたび稲こきおやだま号、ナイス 印万年筆、スメル香油、何とか歯みがき、&whatnot。
 「京城」
 降りて行った亜米利加の女伝導師と、彼女の靴下のやぶれ。
 午後七時四十分。・・・中略・・・

 午前十二時十分発。
 「恰爾賓まで」
 万国寝台車の一夜。巴里に本社のあるワゴンリイのくるまだ。まるで宮殿のよう−と彼女が讃嘆した
 とおりに、飴いろに金ぴかの装飾が光っている。
 中華民国のかたではありませんか、と呼びかけられて、下関で高等係の人からかなり長い質疑応答を
 やらせられた私達ー断っておくが、私はながい外套にへんなぐあいに帽子を潰してかぶり、彼女は断髪 にしかと花束を抱えていたーも、長春では、旅券をしらべに車室へ来た支那の官憲が、一眼で日本人と 白眼んだためにそのままに済んだ。
 ーーのはいいが、故国の役人には支那人に聞違われ、支那人にはすぐに日本人と看破される。
 やはり、旅だ。
 「ハルビン」
 灰色にくすぶる新市街の停車場。
 殺到する支那の赤帽。手荷物略奪戦。
 りゃん・りゃん・りゃん!
 まあやあ・ほいほい!
 てんが・れんが・れん!
 For god sake wait!ーーこの一種物語的なひびきを持つ都会の名は、私たち日本人にただちに
 公爵伊藤の死を聯想させる。・・・中略・・・
 
 それよりも同車の満鉄のG氏が、私の肘を掴まえて大声に話している。
 『列氏零下五度、こまかい雪が降っていましてね、猛烈に寒い朝でしたよ。ピストルの音ですか。
 いいえ、日本人の一般出迎者はずっと左の端のはうにいたので、何も聞えませんでした。
 いえ、聞いた人もありましたが、支那人が歓迎の意味で爆竹を打ちあげたのだと思ったそうです。
 すると伊藤公が撃られたというんでしょう、さあ大変、みんな滅茶苦茶に飛び出して行って、
 わいわいごった返しです。露肋の兵隊なんか大きな刀を振り廻してやたらに、ヤポウネツ・ヤポンツアって呶鳴る。』
 「ち、ちよっと待って下さい。」私はあわてる。『その、それは何ですヤポ・ヤポってのは?」
 『日本人が日本人を!というんですねで、わあっと押し出したのはいいが、線路ヘ落ちるやら兵隊に
 蹴られるやらー そのうちにぎゃっ!というもの凄い声が聞こえましたが、それは人混みのなかで
 露肋の兵隊が安重根を捕まえたときに、先生夢中で頚部を締めつけたもんだから、安のやつ苦しがって 悲鳴をあげたんです。私も一生懸命でしたよ。爪立ちして伊藤公の担がれて行くのを見ていました。」 
 汽車を降りた私たちは、二十年前に公の狙撃された現場に立った。その地点は、一・二等待合室食堂へ 向って、左から二番目と三番目の窓の中間、ちょうど鉄の支柱前方線路寄りの個処だ。
 が、いくら見廻しても、どこの停車場のプラットフォウムにもある、煤姻と風雨によごれたこんくりい と平面の一部に過ぎない。いや、平面と呼ぶべくそれはあまりにでこぼこして、汽車を迎えるために
 撒かれた小さな水たまりが、藁屑と露西亜女の唾と、蒼穹を去来する白雲の一片とをうかべているだけ だった。
 G氏の案内で構内食堂の隅に腰を下ろす。ここはその朝、外套に運動帽子といういでたちでレスナヤ街 二十八号の友人金成白−レスナヤ28は、いま、見たところ何の変哲もない荒れ果てた一住宅だー
 の家を出た安重根が、近づく汽車の音に胸を押さえながら、ぽけっとのブロウニング式七連発を握りし めたという椅子である。殺した人も殺された人も、もうすっかり話しがついて、どこかしずかなところ でこうして私達のようにお茶を呑んでいるような気がしてならない。

 ハルビン−不思議が不思議でない町。

 OH・YES! HARBIN。いろんな別称で呼ばれるわけだ。
 あらゆる人種と美しい罪の市場。
 海のない「上海」。
 そうして、極東の小巴里。
 
 さればこそ、どんな冒険にでも勇敢であるべく、彼女の口紅は思いきり濃くなり、やけに意気っぽく
 帽子を曲げる。AHA!・・・ **************
 

  ●谷 譲次(本名:長谷川海太郎、ペンネームは谷のほかに 牧逸馬・林不忘とも)
  『踊る地平線』1929年 刊〜 冒頭部分 (字数制限のため中略あります。)


 ●年末から年始にかけて、『日本でいちばん醜い日』(鬼塚英昭 成甲書房 2007.8.5)を読み、

 「ご一新」から140年にしていよいよ「日本近・現代史」が書き換えられる感を強くした。

 二人の稀有な才能を紹介しながら、先ずは歩き始めます。

 2008年の旅。

 (続く) 

   

 

『吾輩は天皇なり』

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 ★『吾輩は天皇なり』 藤巻一保 学研新書 2007.9.14


 「読書日記」 http://2006530.blog69.fc2.com/ にアップしました。

 


 ****************

 第七章から。

 ・・・加藤教授がいっているように、天皇制民主主義は占領軍が押しつけたものではない。それはたしかに、国体護持を求める日本国民から「歓迎され、受容され、定着した」ものにはちがいなかった。

 しかしそれと同時に、天皇制民主主義は「太平洋戦争開戦直後から、米国によってイマジンされ練り上げられた『設計された共同体』であり、アメリカの国益と世界戦略に沿ってデザインされた共同体にほかならなかった。

 この天皇制民主主義のうちに戦後生まれの顕密体制の亜種が組みこまれ、密教の管理者のなかに、米国政府が加わった。この国の政権与党−彼らは強固な天皇制護持者でもあるーが、戦後一貫してアメリカの方向”のみ”を見て政治をおこなってきた本質的な理由は、ここにある。
 この状況は、いまも変わっていない。変わっていないどころか、反テロの名目のもと、ますます危険な領域に足を踏み入れようとしている。

 筆者は、熊沢寛道をドンキホーテと笑うことはできない。
 読者は、さきごろの『皇室典範』改正議論、女帝をめぐる議論の際、一部の学者や戦後民間に降下した旧皇族らから、「男系」という言葉とともに、「万世一系」という言葉が執拗に飛びだしていたことをご記憶だろう。
 
 敗戦と、その後につづく日教組主体の教育によって解体された天皇神話を再構築しようという動きが、近年、はっきりとめだってきている。
 もちろん、文化の営みとしてそれがおこなわれることには、筆者はなんら異論はない。ただ、そこに政治的な思惑がからむとなると(たとえば森喜朗元首相による幼稚な「神の国」発言など)、黙って見ているわけにはいかなくなる。天皇神話の政治的な意味での再構築は、そのまま国民の統制・管理へと結びついていくからである。
 
 顕密体制は、聞かれた皇室を欲しない。

 だからこそ、皇室の情報は「密教の管理人」によっていまも完全にコントロールされており、国民は検閲済みの皇室情報以外には接することができない。
    

 熊沢寛道による戯画的な行動と、現皇太子による驚天動地の宮内庁批判は、筆者にはそう隔たったものとは見えない。彼らの異議申し立ての先には、戦前からつづく顕密体制の分厚い壁が、でんと立ちはだかっているからである。

 

「あとがき」ふたつ。

 
★最後に、『東西食卓異聞』の「あとがき」(*2007.1.21付)から。

●・・・この本は大阪商業大学の比較地域研究所のニューズレター(milePost誌)に、1997 年の創刊以来「味官品騭」(みかんひんしつ)のタイトルで連載してきた食をめぐるエッセイをまとめたものである。そのさい一部の章は大幅に手を入れ、またあらたに五篇を書き加えた。

・・・私は阪神間の甲南大学という私立学校に長年職を奉じてきたのであるが、ヽ阪神大震災の翌年、六十四歳のとき大学院をつくってくれないかというお誘いがあって、大阪を挟んで反対側の東大阪市にある前記の大学に移った。

 東大阪市というのは、町工場の数で東京の大田区と日本一を争い、外国人比率(多くは韓国系)も日本一という町だから、たいていの人は騒音と塵埃にまみれた、文化果つるところと思い込んでいて、友人たちも、阪神間のグルメ・ゾーン育ちの食いしん坊の私には受難のときが訪れたと同情してくれたものだ。
 私は、しかし、そうだろうかと疑問をもっていた。中小零細企業が当時この町に約一万社あったのだが、それは社長が一万人いるということであり、彼らのすべてが東大阪に住んでいるわけではないが、少なくとも昼飯は社の近くで食べるだろう。簡単な接待の必要もあろう。社長の全部が食道楽であるとは、もちろん思わないけれど、彼らを味音痴ときめてかかるのもおかしい。少なくとも安サラリーマンや学生よりは小遣いに困っていないだろう。また外国人が多いことは食の選択肢の多様さを担保してくれるかもしれない。といったふうに考えると、食い物屋の水準は、前任校のある神戸の岡本界隈よりはかなりましであっておかしくない。岡本はファッショナブルな高級住宅地のイメージがつよいが、学生や若い人が多いので、意外にこれはという店にめぐまれていないのだ。そこへいくと東大阪は、お洒落な店はともかく、実質的な旨い店がそこここにあって当然ではないか、というのが私の予想だった。

 というわけで、私は着任とともに地図と自転車を買い、昼食時の行動半径を広げて、美味探究に乗り出した。「発見マップ」なるものをつくって新設の大学院オフィスの壁に貼り、毎週の「成果」を公にし、人の顔を見ると書き込みを依頼して有志の寄せる情報にも期待した。もちろん、まっさきに市役所で店のリストをもらい、商工会議所でも話を間いた。
 探索は予想以上にうまく行き、かなりの教のいい店を発掘することができた。私のランチタイムは甲南時代よりずっと充実したものになった。ただ、そのほとんどは足で稼いだもの、つまりは店構えやメニューを実際に見ての飛び込みの成果である。教職員や住民からの情報は、少数の例外を除き、役立たなかった。人の思い込みは恐ろしいもので、この町に旨い食べ物証があるはずはないと信じている人が実に多いのである。そのうえ、人には定まった行動ルートがあって、おどろくほどそこからはみだすことをしない。・・・

 そしてここ一両年の私の関心はさらに私的な領域に収斂して、食をとおしての自己の過去の掘り返しに向かった。「比較」とか「外国」とかいっても、私の知っているのはヨーロッパにほぼ限られるけれど、そのいくつかの都市や地域とは、食についても、浅からぬ馴染みを重ねてきた。ところが、この齢になると脳裏に浮かぶのは奇妙にも、旨いものを広く漁り、好きなだけ味わうことができた壮年時代ではなく、いつもおなかを空かせていた芋やかぼちやの故里の少年時代やせいぜい貧乏助教授時代までの思い出ばかりなのである。古川柳にいう−
  ふるさとへ廻る六部は気の弱り
とでもいうことであろうか。縁を切ったはずの故里にふと足が向いてしまう老巡礼の心の弱りは私のものでもあったのか。・・・

・・・最後にこの半年、私は末尾においた「絶望のスパゲッティ」の章(*あえて略した章です)に記したような妻・史子の病気とともにいた。

 あそこに書いたつらい選択にしたがって、彼女は膵臓癌の切除手術を受けたのだが、縫合不全で合併症(膵液漏)を起こして百日余、京大病院での悲惨な体験については、あのつらささえきれいごとにみえるほどである。私たちの選択は惨惚たる失敗だった。そのことはいずれ書く機会があろう。

 そうしたなか、彼女は苦痛と望みのなさに耐えながら、以前と変わらず「第一読者」として全部の原稿を読み通してくれた。「未開人のお産じゃないのだから、あなたまでが苦しまなくていいのよ」と、逆にこちらを励ましながら。私にとって本書との格闘は、すこしでも気を紛らわせる「悲しき玩具」でもあった。ただ、生きているうちに間に合わせたいという思いに駆られたため、遅筆の私は、とくに第1部のいくつかの章について、予定していた大幅な改稿をあきらめざるをえなかった。
 ・・・
<追記>

 妻・史子は二月六日(2007年)永眠した。この小さな、私たちの最後の共同作業の成果を彼女の霊に手向けたい。

 
 ***********

 ★2004年5月の日付をもつ『スコットランド歴史を歩く』の
 「あとがき」を次に。(時計は戻るが。)

●・・・本書には思いもかけぬ長い歳月を費やすことになった。その過程で必要な枚数をはるかに超えた。アカデミック・ヴァージョンがまず出来てしまって、あとはそれを読みながらの削りこみの作業となる。「第一読者」である妻は、これでは「スコットランド史を歩く」でなく「スコットランド史を究める」ではないかとひやかし、私は「スコットランドを端から端まで歩けばこれくらいはかかるよ」と弱々しく抗議した。生まれたのが双子の過熱児で、順序もふつうとは逆とあってみれば難産もしようというものだ。
 
 この五年もの長丁場をひたすら忍耐で伴走してくださったのが編集部の早坂ノゾミさんで、彼女の絶妙の間合いの声援と、眼配りの利いた助言・提案がなければ走り抜けたかどうか。話の糸口をつけてくださった年来の畏友・熊沢誠氏と、おふたりにまず感謝したい。直接間接に助けていただいた多くの方たちのうち、貴重な史料を惜しみなく提供してくださったうえ原稿に眼を通して有益なコメントを下さったスコットランド史の常見信代さんと、同じく社会思想史の田中秀夫さんにはとくにお礼を申し上げたい。
 老来とみに仕事の面でも家族の支えが大きな意味をもつようになる。近年の私の仕事は個人の作品というより家族工房の共同制作に近づいてきた。従前からの秘書兼お抱え運転手役に加えて、近年はパソコン操作や書き手の健康管理まで引き受けることになったパートナーヘの謝辞を、今更めくからと省けば、あまりにへそ曲がりということになろう。娘たちも時に援軍に加わるようになり、ハリエットにつづいてヘレンの庇護下におかれた晩年のミルの「女性への隷従」の心境をちょっぴり想像してみるこの頃である。

  二〇〇四年五月               高橋哲雄

 ***************
   


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