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CISMOR・五号より。
ミシェル・モール氏(1992年ジュネーブ大で文学博士号を取得後京都に移住し、
宗教学の研究に専念する。既成概念の再検討に挑戦することが趣味。)の
<「聖地」としての京都>を紹介します。
今や日本全国共通の駅前・繁華街の異様な光景と変わらぬ「古都の風景」描写からはじまる。
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<はじめに>
現在の京都には残念ながら理想の旧都と違う要素が多い。懐古趣味でなくとも、度々古都にふさわしくない風景を目の当たりにする。各交差点にはパチンコやコンビニが立ち並び、車優先の社会が作り出した主要道路は絶え問無く騒音と共に排気ガスを放出しつづけている。町の外見にこだわると、とても「聖地」とは思えない姿の方が目に付きやすい。
それなら「聖地」の呼称を京都に当てはめることは無理だろうか。この疑問に答えるために、そもそも「聖地」とは何を指しているかを考えねばならない。ただし「聖なる場所」の特徴は、当然ながら信仰形態によって異なってくる。この欄の読者のうち、エルサレムを最たる「聖地」として思い起こす人が多かろう。つまり一神教の一般的な理解では、神から与えられた恩寵が第一の条件となる。では、一神教に属しない仏教や神道の場合、どのような捉え方をするのだろうか。
環境や都市計画の問題から離れ、住民に日本のどこに「聖地」があるかを尋ねると、まず高野山、富士山、あるいは吉野や立山の山名を挙げる人がいる。山には自然の不思議な力が宿るから、または行者がその閑静な所を選ぶからこそ、「聖地」や「霊地」として認識されている。この「自然の不思議な力]の意味するところは、「気]という発想にほかならない。「気」という漢語は日本に道教的な響きと共に導入されたが、それ以前にも類似の感触が存在した可能性が高い。しかし文字が日本列島に上陸する前から「気」を重視する神道の原形があったと推定しても、それを立証することは難しい。
行者が選んだ場所に焦点を当てると、京都の周りの山々には僧侶が籠もった形跡が目立つ。たとえば平安時代に高雄山と比叡山には修行道場が聞かれてくる。そして比叡山から派生した鎌倉時代の新仏敦が現れると、浄土系や禅系の多くの僧侶も新しい教えを広めるため、まず京都に本拠地を置いた。そこから自分が所属する宗派の開祖が活勤しはじめた場所を崇める仏教徒は、本山へお参りする目的で京都を訪れている。多くの仏教徒にとって、「聖地]が一方でインドにおけるブッダゆかりの名所、他方では高僧が活躍した場所を連想するからである。実践に深入りした人なら、むしろ「聖なるもの」が外的な状況とは無関係の自由自在な精神状態を指すと解釈するだろう。例えば、「維摩経」に「直心是道場」とあっって、「悟りの場」を意味する「道場」と心境との関連が強調されている。 つまり仏教は本来、心理的な次元を優先するが、民間宗教として発展したことも否定できない。特定の場所に「利益」(りやく)を求める信仰から巡礼などが実際に行われている。
以上の概要から「自然中心」の神道系の形態と「人物中心」の仏教系の形態を大別できるが、この分類をより厳密にすることは欠かせない。そして神仏習合という形で両系統が重なることも珍しくないことは事実だ。しかし、少なくとも宗教史の観点から、奈良時代以降、仏教諸宗の開祖をはじめ京都は宗教の実践、そして、思想交流の場として常に中心的な役割を果たしてきたと言えよう。
<権力の集中する場所>
さらに天皇の存在から都を「聖なる場所]として位置づける時代もあった。例えば禅宗系諸宗の僧堂では元旦、今上天皇の誕生日のとき、そして毎月の1日と15日に、「祝聖」という行事が現在なお行われている。行事の目的は皇帝の長寿と国家の安定を祈ることだというが、その起源は 中国の古い信仰の転用から来ている。古代中国では「天皇大帝」は最初に北斗の神だったが、次第に全宇宙を司る神と見なされるようになり、現在は「泰山府君」として祀られている。中国において国王としての皇帝と神としての天皇大帝は区別されていたにも関わらず、日本では同じ語が使われてきた。「祝聖」(しゃくしん)は宋代の『禅苑清規』に初めて登場する行事で、意外に道教的な背景を持っている。
したがって、「聖地」としての京都には3つの主なニュアンスが見つけられる。
1)自然が提供する地理上の恵みとその神道的な解釈。
2)仏教の宗祖等が開いた本山が集中し、「日本仏教のメッカ」と見なされる側面。
3)天皇が明治時代まで住居を構えた都としての性格。
しかし京都が権力の中心地だっただけに、逆に祭政の圧倒的な存在から逃れたい人も現れた。これは道元が今日の福井県=越前に永平寺を開いた動機とされている。いずれにしても人は京都に対して魅力または嫌悪を感じ、無関心ではいられなかった。ここでは敢えて京都を「聖地」として扱ってみるとき、「俗」対「聖」という二元的な価値判断以前、「聖なるもの」が「俗」を含めて万物に内在していることが前提である。この観点から過去における「聖地」としての性格をさらに追究し、最後に未来における「聖地」の可能性を考えてみたい。
<平安京の歴史的背景>
平安京への遷都が行われた794年には、その10年前の長岡京への移転の失敗を教訓に、桓武天皇はそれをきわめて慎重に実現させた。すでに前年の正月から藤原小黒麻呂などが地相調査に派遣され、予定地の葛野郡宇多村を綿密に調べていた。不可欠の条件は河川による交通の便、そして四神相応という風水に関わる地形であった。
「四神」は東の青竜、西の白虎、南の朱雀、そして北の玄武を指し、中国の古代信仰に基づいているが、調査の結果、候補地がすべての条件を満たしていることが報告された。新しい都の北の基準点として玄武を象徴する船岡山が選ばれ、西には双ケ岡、そして東には鴨川がふさわしい形で平安京を囲んでいるという結論に至った。東西の果てを「京極」と呼んでいたが、その辺りには以前から人が住んでいたことは案外知られていない。
<先住民>
考古学の進展により、古代史の一部が明らかになりつつある。遷都以前、今の京都の太秦(うずまさ)の辺りに住んでいたのは秦という渡来系の氏族であった。彼等は当時、葛野川と呼ばれている今の桂川の上に取水ダムを築いて嵯峨野を農地として利用しながら、養蚕業など多くの新技術をこの地域にもたらした。蚕ノ社はその遺産の一部を窺わせている。5世紀後半には秦氏が朝鮮半島東部から集団で日本に渡ったと見られるが、広隆寺の有名な弥勒菩薩の思惟像はその高い文化を物語っている。なお遷都の際、前述の藤原小黒麻呂と秦氏との親密な関係は役立ったようである。
当時のもう1つの重要な氏族はカモ氏で、その当て字の「賀茂」と「鴨」が河川名と上下の神社の名称に現存している。カモ氏は平安京以前から葛野の地域に住居を構えた豪族で、その「カモ」の音写が「カミ](神)を指し、神事を司る一家だったらしい。神社の禰宜(ねぎ)を務め、後に阿部氏と並んで宮廷の陰陽家に任命された。この先住民は大和にもいたことから、朝廷に仕える重要な宗教家と見られる。
<桓武天皇>
遷都が決まる過程の中で、先住民の協力を得るとともに、長岡京に執着していた反対勢力を押しのけることが不可欠だった。この難しい決断を迫られた桓武天皇は周りの有識者の意見に耳を傾けると同時に、東北への軍事作戦に意欲を示し、政治的な野心の持主として知られる。桓武の別名はやまべのみこ=山部親王あるいは、かしわばら=柏原で、白壁王(のちの光仁天皇)の第一皇子として生まれた。『続に本紀』によると母の高野新笠は、百済の武寧王(ムリョンワン、在位502-523年)を祖先とする百済王族の子孫だったので、当時として「国際的な人」と見なされていたかも知れない。桓武の在位中、空海と最澄は唐に送られ、日本仏教が新局面を迎える時代に当たる。
ちなみに804年にこの二僧の同伴をしたのは小黒麻呂の息子、遣唐使として任命された藤原葛野麻呂であった。桓武の皇后も同じ藤原氏の藤原乙牟漏で、31歳で亡くなるまで次世代の平城と嵯峨天皇の母となった。
<長安の模型>
平安京が設計された頃、中国の唐代の首都長安が模範となった。東西南北の通りの配列、皇居の位置などは長安に倣っている。朱雀大路が都の中心にあるという点も共通だが、やはり日本独特の地形や社会構造に合わせた点もあり、特に規模と人口に関して比べものにならない.盛唐時の長安の人口が約100万人だったのに対して平安京の人口は15万人以下だったとされている。
京都市の総人口は2006年1月には約147万人(正確には1,472,666人)だったので、都づくり当初に比べるとほぼ十倍に膨らんだ。しかし生活の水準よりも生活の質を考えたとき、本当に向上したのだろうか。
<未来における聖地の可能性>
これまで過去と現在の京都に目を向けてきたが、少し未来像を考えてみたい。端的に京都を「学生とお坊さんの町」と特徴づける人が少なくない。ところが本気で学問と宗教の交流の場というイメージを謳い文句に使えば、即座に世界の注目を浴びるはずだ。・・・
(以下略)
【参考文献】和書 (略)
【参考文献】洋書 (略)
長谷川(間瀬)恵美氏による「太秦(うずまさ)− カミと仏と一神の交流の場 −」も興味深いもの(*特に<三柱鳥居>の項)だったが、以下は皆さんでどうぞ。
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