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 「・・におい、あるいは臭覚の抑圧を人間本能の抑圧と同一のものとみなし、そうした本能を抑圧することを、人間が文明化する上で絶対必要な条件だと考えた」のがフロイトである。よく知られているように、フロイトは人間の臭覚が他の動物に比べて退化している原因は、人間の直立二足歩行 にあると考えていた。四足歩行の姿勢でいる限り、鼻の位置は低いところにあって、糞尿臭や異性の性器が発するにおいを常に嗅ぐことになるが、直立歩行に伴い鼻がはるか上方に移動した後は、かつては魅力として働いていたかもしれないそういうにおいを忌まわしく感じるようになったと言うのである。
 ・・(この種の)抑圧が働くとしたら、においに対するわれわれの意識や関心が小さなものになる当然の成り行きであろう。・・・
 (結果)糞尿やそのにおいにいつまでも執着する者は倒錯とみなされる。つまり、においにこだわる人間は文明以下の段階にある存在とされた。・・・」

 以後、そのにおいへの抑圧は性そのものの抑圧へとつながり、19世紀ヴィクトリア朝の、極端な性抑圧的道徳観で頂点にいたり、それへの反抗・反作用としてさまざまな倒錯的な性のありかたが噴出し、それへの関心がフロイトの「精神分析」を生み出した。

 「性とにおいをめぐるこうした土壌の上に再び <ブルセラ> を置いてみると、近代以降のわれわれが放置して顧みなかった問題が見えてこないだろうか。
 われわれに決定的に欠けていたものこそ、人間のからだのにおいが果たす役割を探究し理解しようとする姿勢であった。」
 ・・・<ブルセラ>を周回する男女は、こうした精神風土が生んだものだというわけだ。)
 

   「ひとのからだが必然的に発してしまうにおいが時として極めてエロティックなものになり得るということの意義の大きさを、われわれは今一度しっかりと認識すべきではではないだろうか。
 本書では、性やエロスと匂いが重なり合って火花を散らすいくつかの事象を見ながら、その隠された深い意味を再認識していきたいと思う。・・・」
 
 
      *以下、各章で印象に残った記述を紹介していく。 
 
   
  

  一方の、そのパンティを売った女子高生の方はどうだろうか。
 

 友達からお金になると聞いて、それならと思ってはいていたパンティを売りに来たのだろうか。何も考えてないと言ってしまえばそれきりだが、何の価値もないものが高く売れると思っているわけではないだろう。
 つまり、そのパンティを高い金払って買う背後に、男たちの欲望が潜んでいることぐらいわかっている。
(そうだろう、いまや女子中学生と早熟な小学生でさえ「わかっている」はずだ。)
 

  想像力の欠如というより、もともと「買う男たち」を別世界の住人と思っているのかもしれない。もちろん、それは単なる錯覚に過ぎないことは、やがてわかるはずだ。

 あるいは、もう一つ別の見方をすれば、彼女にとっては自分のはいた下着やそきに残るにおいを「自分のもの」と感じる意識が希薄で、売ることに何の抵抗も感じないのかもしれない。
 自分のにおいは自分ではないというのかもしれない。
 そんな感性が生まれる背景には女子高生たちの異様なまでの潔癖症や消臭癖という、また別の現象がある。
  (と、著者はいうが、私はそういってしまえば全てそうなのであるが、この「潔癖症」「清潔病」は特に、「作られたもの」という感じが強くする。)
 

  口臭やトイレのにおい消しスプレー、汗のデオドラント、果ては消臭食品にいたるまで、女子高生の間で(女子高生だけでは勿論ないが)流行している、らしい。
 もちろん、どこまで、実情を伝えているかは大いに疑問だが、社会の流れとしての「清潔志向」や「無臭志向」は確かにある。
 オヤジ・オバサンくささを毛嫌いする彼女たちは、自分たちはある程度手入れしていればにおわないと思っているのだろう。本当の自分は無臭か芳香に包まれているという錯覚の中にいるのかもしれない。
 

  「もちろん、そんなことはなくて、思春期特有のにおいは絶対にあるのである。」(p17) 
  著者・鈴木は「昼はコーヒーショップで夕方からアルコール類を出す店」での体験を語る。
 ・・友人達と夕方早くから飲んでいると、「突然若い女のにおいがして一同皆びっくりしたことがある。振り返ってみると、入り口近くに女子高生が4,5人立っている。」コーヒーの時間だと間違えたらしい。店内にも若い女性がいたにもかかわらず、「生々しいまでの若い女のにおい」だったという。
 
 「おそらく」彼女たちはそうした自分たち固有のにおいが存在すことに気づいていない。」

  「他人のにおいには敏感で、それを嫌悪し、自分の口臭や汗臭を消しにかかる彼女たちは、自分たちの生のからだを限りなく無臭に近いものとしてイメージしているに違いない。」(p17〜18)
 ・・自分のにおいが持つ性的な力への自覚のなさ、本来は極めて羞恥のの対象になったものへの無感覚さがそこにはある。
 ・・こういう「ブルセラの構図」は、言わば現代・日本の性をめぐる混迷の縮図ということにもなろう。
 それはつまり、身体やセクシュアリティにおけるにおいというものの位置づけの曖昧さ、不明さである。・・・われわれはにおいがエロスに果たす役割をきちんと理解したり、意味づけてやることをしてこなかった。・・・いわゆる「性教育」の中にもにおいという要素は完全に欠落しているのである。

 「いや、ことは性的なにおいにとどまらない。私は、近代社会の中ではにおいそのものが抑圧されてきたと考えている。」
 「香水や花の香りがもてはやされることはあっても、それは結果的ににおいの世界の拡がりを半分に切り下げることにしかならない。」(p20)


   (芳香の特権化と「悪臭」への<思い込み=思い込まされ>による差別・排除の構図は確かに見苦しいほどに現存すると思う。芳香の賛美者の無自覚=能天気な感覚は、自身は「動物」ではないとでも言いたいのが、本音だろう。)
 

   ・・・それは、教育システムの中に「視聴覚教室」はあっても「臭覚教室」がないことに端的に表われている。・・・われわれはにおいを分類し、知覚するための手立てを教えられることも、そうした指標が事実上ないということさえ、きちんと知らされることはない。その結果、ほとんどの人は、この世には芳香と悪臭しかなく、悪臭は説明するまでもなく悪臭であり、芳香に対する好みは人それぞれであるという程度の意識しか持ち得ないのである。 
     (続)

 ・・・・・
 *ブルセラ・ショップ(市場である)というものがある。ショップ=市場は売り手と買い手によって成り立つ。売り手は女子高生、買うのは男である。
 セーラー服には郷愁に似たものがあり、それに魅かれる気持ちはわからないこともない。(私はわからないが)しかし下着やブルマーとなると、ちょっと首を傾げざるをえない。むろん私(鈴木)とて、女性の下着やそのにおいに何も感じないというのではない。ただ、それはふさわしい状況でそういったものに遭遇した場合の話であって、誰のものともわからない下着を買おうとは思わない。(私は下着のほうにセーラー服よりは魅力を感じる。ここでいう「ふさわしい状況」とは性行為に至る可能性が充分考えられる場面ということだろうか?)・・

 「もちろん、私は、フェティシズムであれ、ホモセクシャルであれ、SMでもロリコンでも、他人に迷惑をかけない限り、その人なりのセクシュアリティや性に抱くファンタスム(幻想)は自由だと思うし、非難するつもりは毛頭ない。ただ理解できない嗜好というものはある。
 カミングアウトではないが、私はハイヒールやレザーの衣類には魅力を感じるし、ある意味でにおいや香りはすでにフェティッシュになっているのかもしれない。
 妙なところでは、陶磁器にも私はある種のエロテイシズムを感じてしまうのだが、・・」
 (このあたり、少し著者とは感覚のズレを感じるが、率直さは充分つたわってくる。<ブルセラ論>に戻って続ける。)

 「・・この場合、自分のはいた下着を売ってお金にする女子高生とそれを買いに来る男たちとの間に、共有されることなく広がったあまりにも大きな意識のズレを感じてしまうと言った方がいいのかもしれない。このズレこそ、まさにエロスとにおいをめぐる意識のズレなのである。」
 売り手と買い手の意識のズレとはどういうものか? 


 「たとえば、下着を買った一人の男のことを想像してみよう。」
 

 店で、なるべく店員と目を合わさないようにして、買った一枚の白いパンティー。女子高生の「生写真」も付いている。一人暮らしのサラリーマン。さて、彼は部屋に戻ってまず何をするだろうか。
 おそらく、そっとそのにおいを嗅いでみるのではないか。(そんな、ものかな?)・・・
 新品のパンティーでないこと、誰かによってはかれたものに違いないことを確信する手立ては、それより他にないと思う。実際、マニアの中には本物と贋物を嗅ぎ分けることのできる者もいるらしい。
 自宅に持ち帰ってにおいを嗅いだ後、贋物と判定すると、これは本物の女子高生のはいたものではないと怒って突っ返しにくるという。」
 (しかし、この「突っ返し」男性の嗅覚たるや、すさまじいものだ。若い女性と中年女性の<におい>の違いがわかる=分別できるというのでさえ、「才能だな」と私などは思ってしまうが、<本物の女子高生>となると、凡人の想像の域を超えていて、羨ましささえ感じてしまう。)

 「問題はにおいを嗅いで確かめたその後である。」

 「・・・パンティーというあからさまに性的なもののにおいから、それをはいた女性を想像し、その美化された姿に恋をするというのなら、大雑把な構造としては17歳の私と弥生さんの部屋のにおいとの関係に近い。もしそうなら、私にも理解できることかもしれない。・・・
 ・・しかし、むしろそのにおいを嗅ぐのが、本物であるかどうか確かめるためだけであることの方が多いのではないかという気がしている。
 確信があるわけではないが、下着という隠されたもの、恥ずかしいものを所有し、それを拠りどころとして空想の中で女性を思うがままに弄ぶことのできる快楽というのが実態に近いのではないか。」
 (特に、「空想の中で・・」はそうだろうと、私も思う)
  
     (続)

今日の一冊・4・29

  *『匂いのエロティシズム』 鈴木隆 集英社新書 2002.2.20刊 \680+税  
 

  <著者紹介>
 
 1961年東京生まれ 85年早大仏文卒 高砂香料工業株入社、 86−90年高砂香料ヨーロッパ研究所
 勤務 パフューマー(調香師)としてのトレーニングと実務経験を経て、
 2000年からTAKASAGO・USA勤務

 著書に『匂いの身体論』(八坂書房)『悪臭学人体論』(イーストプレス)がある。
   
 <目次>を観ただけでも魅かれるものを感じる本たちがいるものだ。

 この本もそういう一冊。先ず、目次の案内から、内容のランダムな紹介へ進む。

  ************

 目次
 序 章     異性の匂い
 第一章     媚薬と香り
 第二章     エロスの進化論
 第三章     フェロモンからエロスへ
 第四章     鼻とセックス
 第五章     匂いに感じる人々
 終章      匂いのエロティシズム
 あとがき

 **************

 以下は、興味深い内容をランダムに紹介していこう。(文末の数字はページ)

 巻頭から告白的回顧調の文章が、なぜか心地よい。

 ***************
 「忘れられない匂いがある。
 はるか昔、私が高校生の頃の話である。男子校の生徒だった私は、ふだん同じ年ごろの異性というものに接する機会もなく、ただ学校と家を往復する日々を送っていた。
 あるとき、クラスの友人の家に遊びに行くことがあった。(多摩川沿いのかなり大きな家)

 友人の部屋で画集を見たり、ドビュッシーのレコードをかけたり、・・」
 (しばらくして、トイレを借りてまた部屋に戻ろうとした途中に友人のお姉さんの部屋があり、その部屋のドアが少し開いていた。)
 「・・(お姉さんは)部屋にいるのだろうか。胸の鼓動が高まるのを感じながら、その前を通り過ぎるとき部屋の中を覗いてみた。すぐに人の気配のないのがわかり、大胆にも、私は立ち止まって扉をもう少し広く開けようとしていた。・・

 カーテンが半分ほど開きかかった室内は薄暗く、それだけに一層何か悪いことをしているような気にさせたが、好奇心で一杯になった私は半身を扉の開いた部分から中に入れようとしていた。ベッドの上の乱れた布団や何気なく置かれたパジャマが目に飛び込んでくるのと、その匂いを感じたのはほとんど同時だった。いや、においを感じたというより、そのときの印象はにおいに包まれたという感じだった。

 それは、若い女のにおいと言ってしまえばそれまでだが、シーツの上に投げだされたしなやかな肢体のような賭け布団の姿と肌触りのよさそうなパジャマから漂う肌のようなにおいと、シャンプーの香りなのか化粧品なのか、髪の毛のにおいのようでもある何とも女っぽい香りがまざりあった、心地よい、体から力の抜けていきそうなにおいであった。
 その快さに立ち尽くす格好になったが、人に見つかるのを恐れる気持ちが働き、あわてて友人の部屋に戻ったのだった。

 もう一度あのにおいを嗅ぎたいと心の底から願ってはいたが、あの部屋に入る理由が見つからない。次第に、あのにおいが失ってしまった大切なものに感じられてくる。その後はそわそわと落ち着かず、話も上の空になってじき暇乞いをすることになった。」・・・(お姉さんは弥生さんといった)

 「・・今でもあのときのにおいを思い浮かべることができるし、そのにおいを嗅ぐことを想像するだけで、なんとも胸のうちがくすぐったくなるような切なさと同時に、今でははっきりとエロティックなものとわかるある種の心地よさを覚える。・・・
 ・・ずっと後になって、その友人の結婚式に呼ばれたときに、私は初めて弥生さんと顔を合わせることになる。(美しい人妻として)・・
 けれど、その姿にはあのときの弥生さんのにおいと結びつくものが何もないような気がした。イメージと違った、という意味ではない。私がそのにおいを嗅いで自分の中に育ててしまったものと弥生さん本人とは、そもそもつながりのありようがなかったのだ。」
 「将来自分が香りやにおいの仕事に携わるなどとは夢にも思わずにいた時期に出会った、この異性のにおいの魅力。エロスの底知れぬ深さについてもほとんど何も知らなかったはずの、17歳の私が初めて体験した、人生という闇の中でにおいとエロスがぶつかりあって閃光をきらめかせる瞬間である。結果的に、その後の私の人生がこのエロスとにおいをめぐって行き惑う営みに等しかったことに気づくと、我がことながら驚きでもあり、また不思議な気分にもなってくる。・・・」(以上p8〜11)
 ***************

 こう書いて、次に著者は「この現象の中に、においとエロスをめぐる現代のさまざまな様相や矛盾が凝縮された形で呈示されているような気がする」90年代前半の「ブルセラ現象」から本文を始めていく。
 「ブルセラ、ブルマーとセーラー服を合成した造語だそうだが、ブルセラショップというのがあって、そこでは女子高生が身につけた服や下着、靴、靴下体操着などが売られている。・・・」(p12) 

          (続)

*今日の一冊 4・27

  *コーヒーを嗜みながら世界を巡る思考を。

 中公新書・『コーヒーが廻り、世界が廻る』ー近代市民社会の黒い血液
      (臼井隆一郎著・1992.10月刊)
 


 「第一章 スーフィズムのコーヒー」から「終章 黒い洪水」まで、コーヒー好きの人には特にお薦め。

 近・現代史の、それなくしては成立不可能だったろう一面を見事に描ききる。

 「小さな大冊」の呼称がふさわしい一冊。

 毎日のコーヒーの味と香りが微妙に変化しますよ。
 

 巻頭の書き出しを少しだけ。

 「コーヒーがヨーロッパに伝えられた時、その賞品イメージには、はるかアラビアの彼方に広がるエキゾチックな幸福感が漂っていた。

 黒々とした新種の飲み物を前に、ヴェルサイユの貴婦人たちは遠いオリエントの夢に浸り、ロンドンの男たちは『紅海の色は何色か』と思いをめぐらした。・・・ローマ人は、国中に芳香の漂うアラビア南端の土地を『アラビア・フェリックス(幸福なアラビア)』と呼んだ。・・・

 古典の素養のあるヨーロッパ人にとって、コーヒーのアロマの発祥の地が神話的過去から『芳香』と結びついた土地であったことが、コーヒーの商品イメージに大きく貢献したのである。・・・」

 ****************

 <目次>から。

 第一章  スーフィズムのコ−ヒー

 第二章  コーヒー文明の発生的性格

 第三章  コーヒーハウスと市民社会

 第四章  黒い革命

 第五章  ナポレオンと大陸封鎖

 第六章  ドイツ東アフリカ植民地

 第七章  現代国家とコーヒー

 終 章  黒い洪水

  

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