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本との出合いも女性との「それ」と同様、縁であり、
その進展如何は相性である、・・と手遅れだろうが、痛感する今日このごろである。
思いがけない出会いは「本」との場合年齢に関係なく起こるようで、ありがたい。
●『本の狩人 読書年代記』 山口昌男 右文書院 2008・10・20刊
(単行本未収録の書評等を年代順に集成した、というもの。)
以下、少しだけ紹介します。
★書店で面白い本を探すための私の方法
昔、麻布高校の教師をしていた頃、女たらしの生徒が一人いた。地方から出て来た生徒で、私(山口昌男)が身元引き受け人のような立場にあった。下宿から女性を連れ込んで困るという苦情が何時も持ち込まれていた。この生徒と話していた。
「君は、どのようにして、それほど多くの女性と知り合えるのかね」
「こういうものは、自分から探し求めるというのではなく、向こうから自分の気配を察して自然に寄って来るものなんですよ」
「でも何か指標のようなものですね。そんなものがあるのではないの」
「歩き方、爪の切り方、靴、服装のちょっとしたポイント、目だたない中に、お互いが一目でわかるものがあるのですよ」。
いわゆる大人と子供の会話であった。もちろん子供は私の方であった。
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どうして、そのように的確に必要な古本が手に入るのかとよく訊ねられる。そのときには大体、昔の生徒の女性についての答えを換骨奪胎して答えることにしている。「こちらの気配を察して本が呼ぶのです。本も、書店の建物、気配、書棚の状況などを一目見て、この本屋には何かあるな、とこちらも気配を察する。そのうえで前に身を乗り出して来る本があるのです」と、さしずめ女性であればドン・ファンの口調であるが、相手が本であるからホン(本)・ファンと言うのだろう。
昔からの話を並べ立てればきりがないが、近くは、現在『へるめす』に連載中の「挫折の昭和史」の執筆の過程で何回か起こっている。そのうちの一つは岡部平太について書いていたときのことである。この連載は満州国にかかわった人達の挫折のありように、時代としての昭和の最も良き部分の挫折を重ねて見る試みである。
岡部平太は大正から昭和にかけてのスポーツの指導者で、満州のスポーツの中心人物であった。締切りも迫ったある日、伝記的資料が今一不足しているなと感じつつ、高円寺の駅の近くの古書店に入った。最初に目にとまった本が岡部の『スポーツ行脚』(日本評論社、昭和六年)であった。この本は岡部が大正年間にアメリカにスポーツの勉強をしに行ったときの見聞録であるが、フットボール、バスケットボール、ボートレース、陸上競技、大学スポーツ、名コーチ・スタッフのこと、ボクシング、野球などを見聞して記述したもので、岡部のアメリカ滞在が克明に記録されていた。渡りに船とばかりに購入して、その日のうちに引用した。専門を越えたところで仕事をすると、こういうやばい橋を渡らなければならないが、
スリルもないわけではない。この昭和6(1931)年は私の生まれた年でもあるが(8月)、9月(*18日)には満州事変が勃発している。岡部は慿傭という反日知識人の逃亡を援助した「かど」で、関東軍に召喚され、危く死刑になるところを、かろうじて免れ、満鉄を馘になり帰国した。この本は11月に出ているから、岡部個人にとっても、国家的規模においても大動乱の兆がこの本に反映している。
それにしても何という偶然であろうか。同じ連載中、満州事変勃発前夜を論じる、次号の分を執筆中、池袋西武の古書展に足を運んだ。もちろん、目録で当りをつけていて、関心のある本は注文を入れておいた。会場へ行くと、初日のこととて、溢れる人出でごった返していた。目録に出ていないが面白い本が出ているかもしれないと思って会場を一廻りした。置いてある他の本から、何かありそうだなという気配を感じた次の瞬間、郡司次郎正著『ハルピン女』(雄文閣・昭和8年)という本が目の中に飛び込んで来た。郡司次郎正は『侍ニツポン』というニヒルなチャンバラ・モダニスム小説を書いて一世を風靡した人である。この人が、事変勃発のときハルピンにいて、脱出するいきさつを書いたものの他、ハルピンを舞台にした国際スパイ小説から成っているのがこの本である。昭和6年に起こった事件に関係した人物達が数奇な糸で結ばれており、この関係を追う私も同じ年に生まれている。どうも、本がこちらに飛び込んで来るという背景に、こういう知縁も働いているのではないかと思われるのである。
従って古本の探索に関する限り、誰にでも使えるノウハウはないのではないかと思われる。これはふつうの言い方で言えば不便なことである。しかし、その不便さは、偶然性の遊戯を持ち込むきっかけになる。強いて言えば本屋廻り、中に立ち籠める気配を感じる力を身につける他に方法はないと思われる。すでに述べたように、気配のかなりの部分は店のたたずまい、置かれている本の配置、本の外装、表紙のレタリングという形で記号化されている。それを総合的に読みとる一瞬の勝負のスリルに本屋探究の真髄が宿っているように私は思われる。【『クロワッサン』1990年6月10日号】
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「縁」ということなら、
★異形性の文学−隆慶一郎の世界 と題した1991年の『群像』1月号に掲載された一文と
★〈書評〉沼波万里子『五十銭銀貨』 というごく短い書評を挙げたいが、
文字数の制限もあり、後ほど。
続く。
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