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●『本の狩人』・続

 ★〈書評〉沼波万里子著『五十銭銀貨』 

  沼波瓊音(ぬなみ・けいおん)の娘で歌人の沼波万里子が北一輝を書いた。

 北一輝は二・二六事件でクーデターの黒幕として処刑された。軍人でなく直接立案にかかわっていないのにもかかわらず死刑を科せられた論客で、現代史上で最も強い印象を与えている人物である。

 沼波瓊音は、昭和の初めに亡くなった、森銑三が最も評価した国文学者である。当時、時代の雰囲気を最も感じて生き方に表現した結果、国士という、今から言えばやや不思議であるが、純粋な生き方で、北と通じていた人物であった。

 同時代の歴史上の人物を描くのにこれほど瑞々しい筆致で描いた作品を見るのは稀である。著者は五歳のころ、北一輝と、父が沼波瓊音であるとの理由で接触したという、現在の人間としては得難い経験をし、それを後に美しい文章に認めた。我々は、筆者を通じて伝説的人物・北一輝のたたずまい、息づかいまで身近にいるように感じとることが出来る。
[(2001年)『朝日新聞』(朝刊)九月三十日]

 **************

 一読、『五十銭銀貨』を読みたいと思い、検索してみたが、案の定絶版で、

 古書検索にも引っかかって来ない。

 図書館に行くしかないかとも思いながら眺めていると、次↓の文章に出会えた。

  **************

 
 <参考>

 http://d.hatena.ne.jp/foujita/20081018
 
 先月末、山口昌男著『本の狩人 読書年代記』右文書院)を読んで初めて、沼波万里子著『五十銭銀貨』という本のことを知った。沼波瓊音の娘である筆者が少女時代の折の北一輝とのつかのまの交流を「瑞々しい筆致」で綴っているという。と、このくだりを目にしたとたん、週末の国会図書館が待ち遠しい!・・・略・・・
 そんなこんなで、今月最初の週末となり、開館時刻とほぼ同時に国会図書館に入りまっさきに、沼波万里子著『五十銭銀貨』を繰った。・・・略・・・以下はブログでどうぞ。

 ■「日用帳」の書き手と内容について として次のように自己紹介があります。

 藤田さんという方、3年ほど前に当仙台の萬葉堂(太白区他の古書店)にも来られた
 とのことで、・・・。******

 
 藤田加奈子が書いています。
 ホームページ (http://www.ne.jp/asahi/foujita/kanako/)と合わせて
 「戸板康二ダイジェスト」(http://www.ne.jp/asahi/toita/yasuji/)をチマチマと作っています。

 月給生活のかたわら本を読んだり寄り道したりで日々が過ぎています。平日は早起きして喫茶店で本を読んでいます。休日はなるべく調べものを進めることにしていますが、結局さぼって、喫茶店で本を読んでしまうことが多い気がします。と、気晴らしは毎日の町中でのコーヒーと週に一度の赤ワイン。

 目下最大の関心事は、戦前の明治製菓宣伝部とその周辺、名づけて「"スヰート"の時代」(「スヰート」というのは、大正12年から昭和18年まで明治製菓が出していた PR 誌のタイトル)。震災後から戦時下までの、書物や映画、1930年代東京の都市風俗あれこれを緩慢に追いかけています。合わせて、戦前の野口冨士男とその周辺に夢中の昨今です。

 「日用帳」は日記形式の、諸々の瑣事に関する走り書的覚え書、のつもりですが、しばしば「スヰート」おぼえ帳と化しております。「戸板康二ダイジェスト」およびホームページの更新メモとしても使用しています。 

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 ●隆慶一郎については、(特に戦中体験、小林秀雄との関係など)後ほど。

 ここでは、【隆慶一郎わーるど】をお薦めしておきます。
 http://www.ikedakai.com/home/index.html

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 本との出合いも女性との「それ」と同様、縁であり、

 その進展如何は相性である、・・と手遅れだろうが、痛感する今日このごろである。

 思いがけない出会いは「本」との場合年齢に関係なく起こるようで、ありがたい。


 ●『本の狩人 読書年代記』 山口昌男 右文書院 2008・10・20刊 
  (単行本未収録の書評等を年代順に集成した、というもの。) 


 以下、少しだけ紹介します。

 ★書店で面白い本を探すための私の方法

 昔、麻布高校の教師をしていた頃、女たらしの生徒が一人いた。地方から出て来た生徒で、私(山口昌男)が身元引き受け人のような立場にあった。下宿から女性を連れ込んで困るという苦情が何時も持ち込まれていた。この生徒と話していた。

「君は、どのようにして、それほど多くの女性と知り合えるのかね」

「こういうものは、自分から探し求めるというのではなく、向こうから自分の気配を察して自然に寄って来るものなんですよ」

「でも何か指標のようなものですね。そんなものがあるのではないの」

「歩き方、爪の切り方、靴、服装のちょっとしたポイント、目だたない中に、お互いが一目でわかるものがあるのですよ」。

 いわゆる大人と子供の会話であった。もちろん子供は私の方であった。

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 どうして、そのように的確に必要な古本が手に入るのかとよく訊ねられる。そのときには大体、昔の生徒の女性についての答えを換骨奪胎して答えることにしている。「こちらの気配を察して本が呼ぶのです。本も、書店の建物、気配、書棚の状況などを一目見て、この本屋には何かあるな、とこちらも気配を察する。そのうえで前に身を乗り出して来る本があるのです」と、さしずめ女性であればドン・ファンの口調であるが、相手が本であるからホン(本)・ファンと言うのだろう。

 昔からの話を並べ立てればきりがないが、近くは、現在『へるめす』に連載中の「挫折の昭和史」の執筆の過程で何回か起こっている。そのうちの一つは岡部平太について書いていたときのことである。この連載は満州国にかかわった人達の挫折のありように、時代としての昭和の最も良き部分の挫折を重ねて見る試みである。

 岡部平太は大正から昭和にかけてのスポーツの指導者で、満州のスポーツの中心人物であった。締切りも迫ったある日、伝記的資料が今一不足しているなと感じつつ、高円寺の駅の近くの古書店に入った。最初に目にとまった本が岡部の『スポーツ行脚』(日本評論社、昭和六年)であった。この本は岡部が大正年間にアメリカにスポーツの勉強をしに行ったときの見聞録であるが、フットボール、バスケットボール、ボートレース、陸上競技、大学スポーツ、名コーチ・スタッフのこと、ボクシング、野球などを見聞して記述したもので、岡部のアメリカ滞在が克明に記録されていた。渡りに船とばかりに購入して、その日のうちに引用した。専門を越えたところで仕事をすると、こういうやばい橋を渡らなければならないが、
スリルもないわけではない。この昭和6(1931)年は私の生まれた年でもあるが(8月)、9月(*18日)には満州事変が勃発している。岡部は慿傭という反日知識人の逃亡を援助した「かど」で、関東軍に召喚され、危く死刑になるところを、かろうじて免れ、満鉄を馘になり帰国した。この本は11月に出ているから、岡部個人にとっても、国家的規模においても大動乱の兆がこの本に反映している。

 それにしても何という偶然であろうか。同じ連載中、満州事変勃発前夜を論じる、次号の分を執筆中、池袋西武の古書展に足を運んだ。もちろん、目録で当りをつけていて、関心のある本は注文を入れておいた。会場へ行くと、初日のこととて、溢れる人出でごった返していた。目録に出ていないが面白い本が出ているかもしれないと思って会場を一廻りした。置いてある他の本から、何かありそうだなという気配を感じた次の瞬間、郡司次郎正著『ハルピン女』(雄文閣・昭和8年)という本が目の中に飛び込んで来た。郡司次郎正は『侍ニツポン』というニヒルなチャンバラ・モダニスム小説を書いて一世を風靡した人である。この人が、事変勃発のときハルピンにいて、脱出するいきさつを書いたものの他、ハルピンを舞台にした国際スパイ小説から成っているのがこの本である。昭和6年に起こった事件に関係した人物達が数奇な糸で結ばれており、この関係を追う私も同じ年に生まれている。どうも、本がこちらに飛び込んで来るという背景に、こういう知縁も働いているのではないかと思われるのである。

 従って古本の探索に関する限り、誰にでも使えるノウハウはないのではないかと思われる。これはふつうの言い方で言えば不便なことである。しかし、その不便さは、偶然性の遊戯を持ち込むきっかけになる。強いて言えば本屋廻り、中に立ち籠める気配を感じる力を身につける他に方法はないと思われる。すでに述べたように、気配のかなりの部分は店のたたずまい、置かれている本の配置、本の外装、表紙のレタリングという形で記号化されている。それを総合的に読みとる一瞬の勝負のスリルに本屋探究の真髄が宿っているように私は思われる。【『クロワッサン』1990年6月10日号】

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 「縁」ということなら、

 ★異形性の文学−隆慶一郎の世界 と題した1991年の『群像』1月号に掲載された一文と

 ★〈書評〉沼波万里子『五十銭銀貨』 というごく短い書評を挙げたいが、

 文字数の制限もあり、後ほど。

 続く。                       
 

●塞翁が馬

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                          ★献身という純愛

 ●加齢と共に記憶力が衰えるのは事実だが、

 それも悪いことばかりではない。

 巻末にペンシル書きで「2005年9月20日22:10〜21日1:00」とあるので、読後ちょうど3年になる。

 印象的なシーンは記憶にあるが、細部は飛んでいたり、違う記憶になっていたりする。

 だから、再読時も新鮮さは失われない。

 映画公開・鑑賞の前に読むか?観てからにするか?

 ・・迷っていたが、タイミングよく夕刻入浴のあとに少し熱が出てきた。

 風邪なんだろうが、こんな時にはぼんやりと一度読んだ「小説」を読み直すのもいい。

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 ↑「一子タリトイフトモ・・・」について、藤原新也氏はこう述べています。

 → http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php

 故・宮崎市定が「テンコウとは読むが・・」といった一族も例外ではありえません。

 

 ●泡沫だろうが、人気番組である、レッドカーペットに大型ー中年女性【新人】登場か!

 ・・と思ってよく見ると徳島・土地改良区の6億円オバサンだった。

 このケースは、もちろんアッサリ系の【母−息子関係】ですね。

 従って、【理論】どおり、母親には屈折した感情や苦悩の表情などは

 これぽっちも見られません。

 悪しからず。

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 ●第一章 母と娘は戦っている

 1 悲鳴をあげる娘たち−報道の事例から  


★タリウム少女事件

 本節では、事件報道や雑誌の手記、投稿記事などにもとづき、母娘関係の難しさを具体例からながめておきたいと思います。

 事件という極端な例から一般論を導くのは難しい場合もあります。しかしある種の事件は、極端であるぶんだけ、しばしば象徴的な意味を帯びるものです。

 あるいは新聞・雑誌に寄せられた手記や投書も、虚構や誇張を含んでいることが多いので、正確さは必ずしも期待できません。しかし、誇張されたストーリーには、さまざまな願望や葛藤が反映されやすいともいえます。以下、あなたが男性であれ女性であれ、自分の中にどんな感情が湧き起こってくるか、この点に注意しながら読んでみることをお勧めします。

「母−娘関係」から生じた「問題」で、私たちの記憶に新しいのは、なんといっても「タリウム少女」事件でしょう。

 2005年10月に報じられたこの事件では、静岡県に住む高校1年、16歳の女子高校生が、48歳の母親に劇物のタリウムを飲ませて殺害をはかったとされています。彼女は学校では化学部に所属して薬理学の知識があり、『グレアム・ヤング 毒殺日記』を愛読していました。しかし少女は、学校ではごく普通の生徒だったといいます。「普通の少女」は何ゆえに、母親を殺害の対象に選んだのでしょうか。

 彼女はネット上に「グルグムンシュ」というタイトルのブログ(日記)を公開しており、そこで母親が衰弱していく様子を詳細に記していたそうです。猫などに毒物を与えて殺したという記録もありました。家族との深刻なトラブルや確執があった様子はありません。その意味では、センセーショナルではありますが、なんとも不可解な事件です。ちなみにこの母親はタリウム中毒から植物状態となっています。少女はその後、医療少年院送致の保護処分が決定しています。

 少女は拘留中から父親に手紙を出していたそうです(「静岡『タリウム毒殺』少女から届いた七通の手紙」『週刊現代』06年6月3日号)。しかしそこには、謝罪の言葉も反省の言葉も一切書かれておらず、「服を買ってきてほしい」「家は売らないでほしい」といった要求ばかりが書かれていたといいます。また、一見反省めいた内容の手紙があっても、その内容はブログに書かれていた内容とは矛盾しており、心からのものとは思えないという印象を父親に与えたそうです。その後、少女は精神鑑定の結果、「アスペルガー症候群」という診断を受け、また、中学時代に壮絶ないじめを受けていたことが判明しました。

★少女はなぜ母を選んだのか

 この事件でひっかかる点があるとすれば、それはやはり、少女と母親との間に、表向きめだった確執がなかった、という点でしょう。父親をひどく嫌悪する少女は多いのですが、娘による父親殺しという事件は意外に少ないのです。なぜこの少女は、殺害実験の対象に「母親」を選ぶ必要があったのでしょうか。表面的にわかりやすい動機がないだけに、私はこの点にひっかかります。そこには母と娘をつなぐ、深い闇があるように思われてならないからです。

 精神科医の香山リカ氏は、この事件にふれて、母親と娘の関係性の独特さを述べています(「『タリウム』少女はなぜ母親を殺そうとしたのか」『創』2006年1月号)。娘にとって母親とは、最も身近な女性でありながら、その女性性や世俗性という点において、強い反発や嫌悪の対象でもありうるということです。香山氏はそこまでは指摘しつつも、彼女が自殺という形で自己否定に向かわずに、なぜ母親殺しという犯罪を手がけたのかについては疑問を投げかけています。

 もし彼女のアスペルガー症候群という診断が適切であるとすれば、この疾患は脳神経系の器質的な障害ということになります。その場合、われわれの日常経験にもとづいて、共感したり同情したりということはいささか困難なものになるかもしれません。香山氏は少女の診断についてはふれていませんが、そのように考える精神科医は少なくないはずです。しかし私にはこのような場合でも、共感による推測がまったく無意味だとは思われません。

 おそらく父殺しには、つねにはっきりした動機が必要となるでしょう。しかし、母殺しはどうでしょうか。ひょっとすると母−娘関係は、時に動機なき殺人が起きたとしても不思議ではないような闇を抱えているのではないでしょうか。もちろん私は、「心の闇」といった常套句は好みではありません。しかし、不可解としかいいようのない関係性の謎を指し示すために、さしあたりこの言葉を用いておかざるをえないのです。しばしご容赦ください。

 冒頭にこの事件の話を持ってきたのは、何も母娘関係がつねに憎しみを潜在的に抱えている、ということをいいたいがためではありません。この関係がはらんでいる「理解しがたさ」の象徴として、という意味は多少あります。多くの子供にとって、母親はもちろん最初の他者です。しかし子供は、とりわけ娘たちは、この他者を鏡として自我を発達させることになります。だとすれば、母親がしばしば自分自身と区別がつかなくなったとしても不思議ではありません。自己否定が母親否定につながりやすいのは、このためもあるでしょう。しかし、母娘関係の難しさは、それが単純な鏡像関係というだけでは尽くされないところにもあるようなのです。

★『朝日新聞』の投書

 このあたりの事情は、どの程度一般化できるものなのでしょうか。事件報道に続いて、今度は一般の「娘」たちからの投書をみてみましょう。

 その投書が紹介されたのは、1998年9月2日付の『朝日新聞』朝刊でした。読者に意見を求める問題提起型の連載で、タイトルは「どうする あなたなら 母と娘」。連載の最初では、まず2通の読者からの投書が紹介されました。

 よもやこの投書が、この連載企画がはじまって以来の大きな反響を呼ぶことになろうとは、この時点では誰も予想していなかったことでしょう。

 1通目は、母親の過干渉に悩む東大生の投書でした。

 彼女の母親は、大学入学後も彼女のプライヴァシーに干渉し、束縛し続けました。カバンも机の中も私信すらもつねに検閲され、電話していても聞き耳を立てられ、交友関係にも口を挟む母親。彼女の服装も髪形も、すべて母に決められたといいます。「私は結婚して主婦になって早く自由になりたい。そして絶対、私の母みたいな母親にはなりたくないです」と彼女は記しています。

 2通目の投書は34歳の女性からのものです。彼女も1通目の投書と同じような過干渉にあい、それでも10年間、母親の店を手伝ってきました。しかし姉が結婚したときに母が漏らした「あなたは私を捨てないわよね」という一言がきっかけで、彼女はうつ病になってしまいます。「私は1度も母の愛情を感じたことはありません。それは束縛。ゆがんでいたと思います」と彼女は語っています。

 この手紙がきっかけとなって、最終的には1196通の手紙が朝日新聞社に寄せられました。共感もあれば批判もアドバイスもあったそうですが、このテーマの持つ普遍性は、この事実からみてもあきらかでしょう。

 続く。

 

●『遠い崖』

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                   アーネスト・サトウ 1843年6月30日ー 1929年8月26日

 ●萩原延壽氏(のぶとし 1926〜2001年)の労作、結果的に遺作となった『遠い崖』が文庫化(朝日文庫、全14巻 4月完結)されたので、読み続けているところですが、その13巻「西南戦争」にこうあります。
 ランダムに引用していくと、

 ・・・それぞれの「明治維新」があったように、「(アーネスト)サトウの明治維新」と呼びうるものがあったといってよいが、それは後年、(英国)公使パークスの伝記を執筆中の(サトウの)友人ディキンズに宛てた手紙の中の、つぎのようなくだりに対応する性質のものであった。
 このくだりは、かつて1度紹介したことがあるが、煩をいとわず、もう1度引用してみよう(第八巻「帰国」の章3参照)。 

 「あなたのパークスの伝記は、回春剤のようなはたらきをしてくれるのではないでしょうか。あの1862年(文久2)から1869年(明治2)にかけての7年間は、わたしの人生でもっとも充実した時期でした。あのころわたしは、本当に生きていましたが、いまはただ無為に日を送っているにすぎないような気がします。」(1893年11月2日付) 

 この「7年間」はサトウにとって、19歳から26歳にかけての青春の日々と重なり、そして、サトウは、友人ワーグマンがいみじくも名付けてくれたように、この時期を「日本におけるわれわれ(イギリス)の政策の中心人物」として過ごしたという自負を持ちつづけた。

 右(上)の手紙をサトウがディキンズに送ったのは、西南戦争から16年が経過したころであり、「無為に日を送っている」というのは誇張であろうが、やはり維新後のサトウには、「無為」に類似した感慨がつきまとうのを禁じえなかったのであろう。

 「1862年(文久2)からで69年(明治2)にかけての7年間」を、「わたしの人生でもっとも充実した時期」と呼ぶサトウは、いわば西郷や勝海舟と心理的に「同時代人」であった。
 サトウは西郷よりも16歳年少、勝よりも20歳年少であるが、前述の「7年間」を「日本におけるイギリスの政策の中心人物」として過ごしたと自他ともに認めるサトウは、このおなじ時期に対抗する勢力をそれぞれ代表する存在であった西郷および勝と、「同時代人」としての記憶を共有していたといってよい。
 この3者の軌跡がいわば交差するのは、いうまでもなく、明治元年(1868)4月の、江戸無血開城の前後である。
 勝が西郷を記念して編んだ『亡友帖』は、西郷の遺墨を3点収録しているが、そのうちのひとつは、江戸総攻撃の予定日の前日、勝との2回目の会談の直前に、勝から会談の場所(「田町」)に先着したことを告げられた西郷が、すぐに行くから侍っていてもらいたいと答えたものである。
・・・中略・・・

 さて、はなしは依然明治11年(1878)の夏である。

 サトウが越中と飛騨をめぐる旅行からもどって10日後に、日本で最初の兵士の叛乱といわれる竹橋騒動がおこった。蜂起の主力となった近衛砲兵大隊の営舎のある竹橋は、イギリス公使館から目と鼻の距離にある。サトウの飯田町の家からも近く、ここはサトウの日記をくってみないわけにはゆかない。

「8月23日 田安門内に駐屯する近衛砲兵大隊が叛乱をおこし、これに近衛歩兵連隊の1部が加わった。不平の理由はさまざまであるが、給与の削減、薩摩の叛乱を鎮圧するために戦ったことにたいする不公平な行賞、それも兵士の場合は何の行賞もあたえられなかったこと、などである。」
 「この計画は偶然の事情で、この日の午後に発覚したが、最初政府は叛乱がどの程度の規模のものであるのか、つかめなかった。政府は砲兵大隊への参加を拒否した歩兵連隊の主力をふくめて、全軍に戦闘準備を命じ、つづいて戦闘がおこり、砲兵大隊は12対1の劣勢だったので、惨敗した。」
 「近衛砲兵大隊は、江戸(東京)鎮台砲兵大隊の中にも何人かの共謀者がいたことだし、偶然この計画が午後に発覚していなければ、かれらは不意打ちに成功し、たぶん近衛歩兵連隊を説得して味方につけ、合わせて4千の兵力になり、皇居を占拠し、町に火を放ち、捕まえられる大臣を皆殺しにしたであろう。ちょうどかれらの営舎の反対側の堀の外側にある大隈(重信)の家にも、砲弾が打ち込まれたのである。」
 「わたしは叫び声と小銃の射撃音を聞いたとき、花火だと思い、何の不安も感じなかった。火の手があがったときも、見物に出かけた。城の内部は静まり返っており、見物に来た他の者たちも、ごくありふれた火事だと思っている風であった。」
 「それから午前1時15分に家にもどり、1時間ほど本を読んでいると、火災を告げる号砲が鳴り、まもなく小銃の射撃音がつづいたが、別に何事もおきていないと思い、落ち着いていた。」
 「じっさいに何か起きたかを知ったのは、翌日になってからである。われわれは焼き打ちに遭うばかりでなく、一斉射撃の対象になる危険を辛うじてまぬがれたわけである。」
 
 23日の深夜から翌24日の未明にかけての事件で、蜂起の主力となった近衛砲兵大隊の兵士のうち、約90名は竹橋の営舎を脱出し、砲車をひいて政府のあった仮皇居(現在の赤坂迎賓館)まで迫ったが、そこで鎮圧された。

 サトウもふれているように、西南戦争の行賞の不公平、とくに中尉以下、下士、兵卒には何の行賞もあたえられなかったこと、財政困難を理由にしての給与の削減などが叛乱の理由であり、この事件が大きなきっかけになって、この直後に「軍入訓誡」(明治11年)が出され、つづいて「軍人勅諭」(明治15年)が制定されることになる。

 サトウの日記の拾い読みをつづけよう。(明治11年 1878年)

 「9月6日 チヤップマン博士から手紙が届き、わたしの神道を扱った論文(「古代日本人の神話と宗数的儀式」)は、『ウエストミンスター評論』の7月号に掲載されること、日本の社会のどんな主題を扱った論文でも、わたしの書くものなら受け入れる用意があることをつたえてきた。論文をかれに送ってから、ずいぶん時間が経っているので、何か事故がおこったのであろうか、採用されないのであろうかと、不安にとりつかれはじめているところであった。わたしの論文は目次の2番目のところに出ている。これで神道全般を扱った本を書いても、それが刊行される見通しがつき、大いに勇気づけられた。」(本章2参照)

 サトウほどの自信家でも、このしらせは、よほどうれしかったものとみえる。これでサトウは『エディンバラ評論』、『季刊評論』とならぶ当時の代表的な季刊誌『ウエストミンスター評論』を通して、本国の知的社会にデビューしたわけである。ここでサトウが語っている神道研究が未完成に終った事情については、前にふれた(本章2参照)。

 つぎはサトウの好きな音楽であるが、今回は洋楽ではなく、邦楽である。

 「9月8日 旧知の備前出身の音楽家岸本(芳秀)が午後いっぱい、わたしのところにいた。『今様』を歌ってくれたが、なんとかその節回しを書き取ることができた。」
 岸本は吉備楽の創始者として知られる。
 「グローブに手紙を書き、1週間前に手に入れた伴奏部の譜面と、ごくありふれた琴の曲『六段の調べの第二段の譜面』を、琴についての解説を添えて、かれに送った。」

 このグローブは、有名なイギリスの『音楽辞典』(四巻、1879−89)の編者である。
 「スタンフォードの『ニュー・ガゼット』への寄稿文を仕上げ、発送した。」
 「ハンター(W.W.Hunter)に手紙を書き、目下新版を刊行中の『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の日本の項目の執筆者をわたしにするよう、編集長に掛け合ってくれることを依頼した。ハンターが編集長を個人的に知っていることはまちがいない。」
 「ホーズと連名で、越中と飛騨を旅行したさいの2人の日記にもとづく報告を、目下『ジャパン・ヘラルド』紙に掲載中である。」

 『ウエストミンスター評論』の編集長チャップマンのことばにはげまされたのか、サトウの執筆意欲はますます旺盛のようである。
 つぎはふたたび邦楽の話題である。
 「明治11年10月5日
マウンジー夫妻、イザベラ・バード嬢、ソーマレズ、ジョードンを招いて、音楽の夕べを催した。岸本(芳秀)がいろいろなひとを連れてきてくれたが、そのうち佐野常民(日本赤十字社の前身・博愛社の創立者)の娘がハーモニカを吹き、御門の侍従の高崎正風の娘が舞を踊り、その他男女合わせて10名の演奏家が参加した。伴奏は5台の琴、3人の女性の声、2本の笙(しょう)である。大成功であった。」

 「ジョードンはマウンジー夫人のピアノ伴奏で歌った。わたしは『春の弥生の』を歌い、そのあとでこの曲の琴の部分をピアノで弾いてみたが、これは日本側の参加者を大いによろこばせた。」
 ・・中略・・
 マウンジーとソーマレズはイギリス公使館員、ジョードンは日本政府雇いの英語・仏語教師である。

 著名な女流旅行家イザベラ・バードの来日は、この年の5月下旬、そして、約3ケ月に及んだ東北と北海道の旅を終えて東京にもどったのは、9月下旬★だから、このサトウが自宅で催した小音楽会は、その直後ということになろう。
 (★6月10日東京出発〜9月17日 函館から兵庫丸に乗り、横浜着。)

 この東北と北海道の旅の模様は、2年後の1880年(明治13)に『日本奥地紀行』高梨健吉訳、平凡社東洋文庫)として刊行されるが、その中にサトウにふれた一節がある。

 「わたしの日本滞在が教ケ月をすぎたころ、日本の歴史や宗教や古代の慣習について教養のある日本人に質問すると、つぎのような返事ではぐらかされることがよくあった。『あなたはサトウ氏にきいてみるべきです。かれなら教えてくれますよ』と。」

 イザベラ・バードの旅に従者として同行した18歳の青年、伊藤(イトー)某の困ったときの口ぐせも、「サトウさんなら何でも教えててくれるでしょうが」であったという。

 日本通としてのサトウの名声は、ゆるぎないものになっていたといってよい。

 *************

 『日本奥地紀行』 イザベラ・バード 1973、平凡社東洋文庫―2000、平凡社ライブラリー に拠ると、
 
 ・・・公使館の日本書記官は、アーネスト・サトウ氏である。この人の学識に関する評判は、特に歴史部門において、日本における最高権威であると日本人自身も言っておるほどである。これは英国人にとって輝かしい栄誉であり、15年間にわたる彼の飽くなき勤勉努力の賜物である。しかし、日本に来ている英国の外交官や文官たちの学識は、サトウ氏に限られたわけではない。領事勤務の数人の紳土方は、通訳生としての種々の段階を経て、今では口語日本語を自由に操る能力にすぐれているばかりでなく、日本の歴史、神話、考古学、文学など多くの分野で傑出している。実に日本の若い世代の人々は、自分たちの古代文学の知識のみならず、今世紀前半の風俗習慣に関する知識を絶やさぬようにしてくれたことで、彼ら英国文官の人たちの努力やその他の少数の英国人やドイツ人の努力に対して、恩恵を感ずるであろう。
 
 *原注―私が日本に滞在して何カ月か後に、教育ある日本人に、彼らの歴史、宗教、古代慣習などについて質問をすると、次のような返事をして私の質問をはぐらかされることが多かった。「サトウ氏におたずねになるがよいでしょう。あの方なら、あなたに教えてくれますよ」。 
 


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