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『理は利よりも強し』

  *当該箇所を『理は利よりも強し』より引用する。

 言わずもがなのことかもしれないが、この本の出版は1999年1月。
 元記事が『ニューリーダー』誌に掲載されたのは1997年だということは確認しておきたい。

 批評というのは語の真の意味で「予断」なのだということを銘記したいものです。


 ***************
 
 第5章 アメリカの対日強硬派の虚実(p124-129)

 ●低レベルの日本問題専門家

 コーヒー・ブレイクの時にスピーカーたち(*註は下に記す)に接近して、日本語の力をチェックして驚いたのは、新聞記事や週刊誌を読める程度だったことであり、それで専門家ぶるのでは嘆かわしいではないか。二日目の会議の内容も似たり寄ったりであり、ジャーナリストや学者の発表に共通していたのは、語学能力の至らなさによる欠陥のために、言葉は激しくても内容の据り下げが浅く、こんな程度かと呆れてしまうほどだった。
 この報告ではイメージが湧かないというなら、日本にも似た雰囲気の場が存在しているので、それと対比して考えてみたらいいだろう。
 それは主観的な思い込みと偏見に支配され、紋切り型で押し出す主張を満載している『諸君』、『正論』、『this is読売』、『潮』、『ボイス』などの月刊誌で見かける、懐疑の姿勢や批判精神の裏づけに欠け、冷静さとバランス感覚のない言論活動がそれだ。系統としては『フェルキッシャー・ベオバハーター』や『日本及び日本人』の流れを汲み、自分の発言だけは正論だと確信しているが、その背後には権力と結ぶパトロンが控えている。 


 これらの雑誌は銃を使った街宣車であり、小遣い提供を通じた懐柔に目のない、売文評論家や御用学者たちで賑わう、赤電球が光る言論版の低俗サロンだ。これらの雑誌が活字化している発言の多くが、日本側の歴史修正派の見解であるのに対し、米国のリビジョニストは鏡像の役割を演じ、相互が自国中心の偏狭な発想に基づいて、相手のほうが悪いと攻撃の声を張り上げている。
 
最近における従軍慰安婦問題や教科書問題で、ネオ国家主義に立つ日本の御用知識人たちが、恥も外聞も忘れて不都合な過去の事実を否定し、歴史感覚のお粗末さを露呈して絶叫している姿に、リビジョニストが行なう会議はそっくりである。

 幕末の攘夷思想の信奉者たちと同じで、相手に対しての浅薄な理解に基づき、思い込みと偏見で過激な言論を展開し、当事者たちが興奮して情熱的になるに従い、狂気に支配された時代精神が高まっていく。
 それが一九八〇年代のアメリカを刺激して、ジャパノロジストの中でよじれが最も顕著なリビジョニストたちに活躍の機会を提供し、日本叩きのエネルギーを盛り上げた。そして、太平洋の対岸において被害者意識を高め、ネオ国家主義の声が日本列島を包み、反米や嫌米の気分の高揚と結びついた。

 その背景に相手を真に知るという意味における、日米の間のコミュニケーションが不足して、相互理解の面で抱え込んだ問題があった。ことに情報化時代でニュースの洪水があるために表面的な知識を理解と取り違えてしまい、相手を熟知しているという錯覚に支配され、それが裏目に出てしまったのである。
 このようなリビジョニストの台頭の背景には、若いジャパノロジストが即物的傾向を強め、経済的利害を優先に考えていたことがあるわけだが、同時に浅い日本語の能力でも事足りると考え、言語能力の面での徹底した訓練に欠け、相手の文化の深層への理解の欠如があった。

 新聞や雑誌が読める程度の能力しかなくても、日本研究者として通用するような時代性は、書けなくても読めるだけで胸を張ったヴォーゲルやカーティスの日本語能力でも、ジャパノロジストたり得た甘い日米関係の持続があった。だから、チャルマーズの読解力でも日本問題の権威者になり、それに続いて中途半端な専門家が輩出し、仲間の英語論文のキャッチボールが得意な、リビジョニストで賑わうことになったのである。 

  ●知日派の系譜と変化の歴史

 その点を明確に理解するためには、ジャパノロジストの歴史を知る必要がある。アメリカ日本学の父であるセルゲイ・エリセーフ以来、どのようにジャパノロジーの基礎が確立し、それが育ってきたかを知ることが大切だ。
 日本文学を専攻したロシア人のエリセーフは、優秀な成績で東大を卒業してから、革命後にソルボンヌの教授になったが、ハーバードの客員教授として招かれた時に、エドウィン・ライシャワー(元駐日大使)がその弟子になっている。
 われわれが知る戦後のジャパノロジストは、戦前の日本に育った宣教師たちの子供で、その中には根っからのバイリンガル世代に属していた、あのハーバード・ノーマンやエドウィン・ライシャワーのような第一世代を特徴づけたマルチ人間がいる。

  とくにノーマンのような特級に属する逸材は、日本が誇る最高の人材と交遊関係を築き、シナジー効果でお互いを高め合い、俳句に精通した学習院のプライス教授に肉薄していた。ノーマンは維新史を羽仁五郎から直接に手ほどきされ、都留重人、渡辺一夫、中野好夫、丸山真男といった日本の最良の人間と友人づきあいをしてヽ日本文化のエッセンスの最高級品を吸収した。 彼のおかげて木戸幸一内府は戦犯にならなかったし、天皇の戦争責任もウヤムヤで終わった。もし、彼がマッカーサーの右腕でなかったら、戦後史の内容は大きく変わっていただろう。だから、ノーマンの前ではライシャワーも形無しであるが、さすがはケンブリッジの空気の中で青春を過ごし、顧維欽の後輩としてコロンビア大に学び、最後にハーバードに行って学位を得た点では、同じカナダ系でもブレジンスキーとは月とスッポンである。
 第二世代は戦時体制の中で言語教育を施され、軍事要員として日本語を学んだ人たちである。ハーバード・パッシンやロバート・クリストファーをはじめ、碩学の誉れの高い多くの人材を誇るが、現在この世代は第一線から引退している。

 第三世代は戦後の復興期の日本を訪れて、経済繁栄の中で独自の仕事で基礎を築き、今をときめいてはいるが、実力は三代目的なグループだ。この世代はアンファン・テリブル(恐るべき子供たち)の戦後派で、チャルマーズもその一員に属しているが、ハーバードに隠居所を見つけたエズラ・ヴォーゲルや、フィクサー的な日本屋稼業で暮らすジェラード・カーチスなどがいる。
 一応は日本語の読解力を身につけているので、円高の日本を舞台にこの世の春を謳歌して、東京に頻繁に出没する姿を見かける。しかし、彼らは現在のパフォーマンスを誇るより、かつて築いたコネをうまく使っている。だが、人脈の広がりが官僚や財界の老害族に属すために、日本側の世代交代に足もとをすくわれるし、コネの人材の質が大したことがないせいで、影響力が急激に風化するのを阻止できない。
 
それに続く第四世代はヤツピーに代表され、日本語はしやべれるし、新聞程度なら簡単に読むが、飽食の時代に育って苦労の経験が乏しく、もっぱら現象と機能の面で日本の問題を考える。だから、第二世代が誇った内面的な強靭さがなく、クリントン的なパフォーマンスに終始するし、その中からリビジョニストが輩出している。 
  

 この世代に切磋琢磨の機会を提供することは、日本だけでなく世界の将来を破綻させないために、必ず有効であると確信できるし、不信の嵐を太平洋に発生させないためにも、適切な人材育成の道を開拓する必要がある。
 


  *註: その会議は以下のような事情で参加したものだという。
 「・・ だが、バブル経済の破綻で日本が低迷してしまい、一九九〇年代になると懸案は経済ではなく、米軍基地の関係で沖縄問題に移行し、極東の安全保障が優先課題になった。そして、食糧危機で政治破たんに直面した北朝鮮や、金融破たんの時限爆弾を抱え込んだまま、抜本対策のない無能な日本政府のせいで、北東アジアに新低気圧が誕生しかけている。
 こんな状況に日本が立ち至っている時に、リビジョニストは何を考えているだろうか。そう思っていた折も折、サンディエゴで「技術に関しての日本の経営、その政策と実践」という研修会が開かれ、最初の晩に会員たちのパーティがあるので、それに参加したらいかがという招待状が、人類学者のシーラ(Sheila K. Johnson)から届いた。
 彼女はカリフォルニア大学サンディエゴ校の名誉教授として、リビジョニストの総大将(グル)になって行動しているチャルマーズ・ジョンソンの夫人であり、アメリカ人の対日感情を分析した『アメリカ人の日本観』(サイマル出版会)の著者である。そこで彼女に電話をかけて聞くと、約六十人ほどの会員が参加する予定だという。・・・中略・・・
 (ニューメキシコの日米センターから送られてきた100P近い文献資料)発言者達の基礎資料を一読しただけで、たいした成果は期待できないと予想したが、「百聞は一見にしかず」ということもある。名誉会員として招かれた都合上、私はサンディエゴに向けて出発した。・・以下略・・

 

「・・・ 
 ぼくは岩波新書の『現象学』(一九七〇年)を書いたとき、シェーラーにはまったく触れていません。そのころ、
現象学の展開に果たしたシェーラーの役割がよくわからなかったのです。しかし、そこでシェーラーはかなり重要な位置を占めているのです。

 シェーラーは、当時進行中であった生命諸科学の領域での方法論的改革−たとえば、生物学の領域でのヤコプ・フォン・ユクスキュルの〈環境世界理論〉、心理学の領域での〈ゲシュタルト心理学〉、神経生理学の領域でのゲルプやゴルトシュタインの〈全体論〉−に注目し、それらの改革に共通する哲学的意味を読みとり、それを統一的な知的革新の運動として推進するところに〈現象学〉の使命を見いだしたのです。そして、たとえば生物学界でほとんど無視されていたユクスキュルの環境世界理論を広い知的世界に紹介するだけではなく、それに示唆を得て、自分でも〈哲学的人類学〉の構想を立てました。これは、ユクスキュルが動物のいわば〈環境内存在〉を問題にしたのにならって、人間をも、それが一個の生命体として自己特有の環境のなかで、その環境ととり結んでいる機能的円環関係に即して捉えようとするものでした。彼の考えでは、動物はそれぞれがその種に特有な環境にとりこまれ、それに適応しながら生きているー彼はこれを〈環境繋縛性〉と呼びます−のに対して、人間は、〈世界〉という自己特有の環境をある意味でみずから形成し、それに適応することによって人間として生きているー彼はこれを〈世界開在性〉と呼びます−というのです。

 メルロ‥ポンティは明らかにこのシェーラーに教えられて、動物の〈環境内存在〉、チンパンジーの〈世界内存在〉という言葉を使っているのです。ぼくも、ハイデガーの〈世界内存在〉という概念にどこか生物学的な意味合いがあるのではないかと予想はしていたのですが、『存在と時間』ではそうしたことをまったく匂わせないので、自信がもてないでいたのです。農専にいたときお世話になった阿部襄先失が動物生熊学をやっておられ、ユクスキュルの環境世界理論の話を時どきなさっておられましたので、多少の知識はあったのです。それを、メルロ・ポンティがあからさまにこういうかたちで論じてみせているので、やっぱりと自信がもてたわけです。そして、ぼくの予想は当たっていました。

 その後、ハイデガーの講義録、が続々と出はじめたのですが、ある講義(『論理学―真理への問い』(一九二五−二六年冬学期)で、こんなことを言っています。「<世界内存在>というと、すぐ最近の生物学の応用ではないかと思うだろうが、そうではない。」むしろ生物学者が動物の〈環境内存在〉といった概念を提出するとき、彼は自分自身の〈世界内存在〉を参照しているのであり、いわば哲学者として思考しているのだ、と言うのです。これでは、ハイデガー、が同時代の生物学から影響を受けたことの否定にはなっておらず、むしろ、それを積極的に認めていることになると思います。つまり、自分が影響を受けたのは生物学者ユクスキュルからではなく、哲学者ユクスキュルからだと言っているだけなのです。
 また、別の講義録(『形而上学の根本概念−世界・有限性・孤独』(一九二九−三〇年冬学期)では、「石は世界を持たない」「動物は貧しい世界しか特っていない」「人間は世界を形成する」といった三つのテーゼを掲げて、一種の階層理論を展開しています。そして、第二のテーゼをめぐっては、生物学の新しい知見をどんどん活用しているのです。


  よく考えてみると、ハイデガーの「世界内存在」という着想は、シェーレーが『宇宙における人間の地位』という講演のなかでつかっている「世界開在性」という概念にヒントをえたものに違いないのです。この講演は一九二七年におこなわれ、没後の二八年に公刊されたものですから、ちょっと時間が合わないように思われますが、それ以前にハイデガーがシェーラーとひんぱんに会って話しあっていたことを、ハイデガー白身がほかの講義(1929年夏学期)のなかで認めています。おそらく談話を通じて、ハイデガーはシェーラーの影響を強く受けたにちがいありません。

 二人とも結局はフッサールから破門された異端の弟子です。この時点でシェーラーはすでに破門されていたのですが、まだ破門されていないハイデガーとケルンでよく会っておしゃべりしたと、シェーラーの死の直後におこなった追悼講義(前記一九ニ八年夏学期の講義録所収)でハイデガーが話しているのです。ちなみに、シェーラーという人はすごいおしゃべりだったらしくて、スペインの哲学者のオルテガなどにもおしゃべりをとおして強い影響をあたえています。ハイデガーがシェーラーから新しい生物学の動きについて情報を仕入れていたということは十分にありうることです。

 ハイデガーは同時代の思潮にとても敏感な人です。たとえば、ルカーチの『歴史と階級意識』一九二三年)などもいちぱやく読んで、<物象化>という概念を学びとり、『存在と時間』のなかで数回使っています。ハイデガーとルカーチは年齢も近いし、若い頃から、新カント派のエミール・ラスクの周辺でおたがい相当意識しあっていたにちがいありません。

 一九二〇年代は生物学をはじめとする生命科学の大きな転換期でした。ハイデガーは、おそらくシェーラーに示唆されて、その動きに関心をもち、自分でも物質と生命と人間をつなぐ理論を構想したりしています。ですから、シェーラーをとおしてユクスキュルの環境世界理論に興味をもってもおかしくないのです。事実、講義録ではユクスキュルに言及しています。ですから、ハイデガーを理解するのに、アロン・ギュルヴィッチを介してシェーラーを勉強したメルロ・ポンティの考えがヒントになるというのは筋の通った話なのです。

 ハイデガーの講義録を読むと、具体的な材料に即してじつに平易に書かれています。ただ、ハイデガーも性格の悪い男ですから、本にするときは本当のネタは隠してしまいます。講義録では、「世界内存在」の概念はユクスキュルの環境世界理論とつなげて、じつによくわかるように説き明かしているのに、『存在と時間』では、ユクスキュルのユの字も出しません。その先駆者のフォン・ベーアという生物学者の名はちらっと出しているのですが。それを、講義録ではユクスキュルの名前をちゃんと出して、その環境世界理論に言及しているので、かなり小意地の悪いところはあります。
 日本のこれまでのハイデガー研究者たちは、そんなことは予想もしないので、ハイデガーが『存在と時間』で言っていることを繰りかえすことしかしていません。


 創文社の「ハイデッガー全集」の邦訳で読むと何か何だかさっぱりわからないけれど、ハイデガーの講義録は、普通の日本語に訳せば、平明で実によくわかります。著作と講義とは全然違います。講義には、書いたものには目立つレトリカルなところがまったくありません。ぼくも『シェリング講義』という講義録を翻訳して新書館から出しました(一九九九年)。その本の後半部はハイデガーは投げてしまって、引用でつなげているような感じですが、前半部のシェリングの『人間的自由の本質』の序論にあたる部分はじつにくわしく逐条的に解説していて明快です。どの講義録もそうです。
 講義には、学部の学生相手の一般教養科目のようなレベルのものもあれば、上級者相手のものもあります。中には適当にやっている講義もないではありません。でも、必ず一か所か二か所、泣かせるところがあります。飽きると途中で投げてしまうようなこともありますが、必ず「うーん」とうなされるところがあって、読みごたえがあります。

 だから、いま創文社でやっている全集の邦訳は文化的犯罪だと思います。あんなにわかりやすくて面白いものを、あんなに誰も読む気のしないような翻訳にするなんて。
 ハイデガー自身も講義のときは、たとえば、ナチスにコミットして動揺しているようなときは、ああ、動揺しているなとわかるような話し方をしています。また、しゃべっていて、しゃべりすぎて自分で何を言っているのかわからなくなってくるようなこともありますし、その時どきの心理状態がよく伝わってきます。書くときは、どうして、ああ勿体ぶるのでしょうか。やはり講義録では、正規の業績と認められたいからでしょうね。認められるには『存在と時間』のような書き方をしなくてはならないのかもしれません。

 ぼくはメルロ・ポンティを読んでいて、ハイデガー理解の端緒をつかめたのですが、それはぼくが農林専門学校出身だったおかげでもあったと思っています。旧制高校には文乙とか文丙だとかあって、第二外国語をドイツ語とかフランス語とか決めてしまいます。それで変な専門家意識をもってしまうのです。だから、ドイツ哲学をやっている人でフランス哲学を読む人が少ないのです。ぼくは何もかも独学で自己流ですから、妙な自己規定はしないですみました。ドイツ哲学を勉強していても、メルロ・ポンティが面白そうだとそっちも読んでみます。でも、普通はそんなやり方はしないようです。もっと専門家意識が強いということなんでしょうね。
 

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木田元の二冊から

  1の11 ハイデガーがわかる

 ハイデガーについてはナチス党員であった事実、山荘に於ける「出来事」(後ほど記す)など対決すべき課題も多く残るが、これは純粋にかれの「思考の秘密」に迫った興味深い一文。 


「11。 ハイデガーがわかる

 話をもとにもどします。
 大学院ではヘーゲルを読んでいましたが、へーゲルをやる気にはなれません。
 ルカーチの『若きへーゲル』やイポリットの仏訳や『精神現象学の生成と構造』という大きな研究書や、それから、ハイデガーの『森の道』のなかの「へーゲルの経験の概念」などが出て、それらがほぼ同時に日本に入ってきたので、その時点ではすごくおもしろかったので、読んではいましたが、かといって、へーゲルで論文を書く気にはなれません。というより、書けなかったというべきでしょうね。それで、フッサールを読んでいました。ハイデガーをやるにはどうしてもその師であるフッサールを読まなければならないからです。
 それから、アメリカ帰りの助教授の松本彦良さんを中心にサルトルの輪読会をやったりしていました。その頃、フランスの本がすごく安かったのです。(*ただし造本もそれなりのもの)ハイデガーの『生誕六十年記念論文集』が二千五百円もするのに、フランスの本は相当分厚いものでも六百円くらいでした。これは経済的だというので、サルトルの『存在と無』や『想像力の問題』を読みました。
ただ、サルトルでも論文を書く気にはなれません。おもしろいのだけど、ハイテガーやフッサールを読んだあとでは、どこかインチキくさいのです。 本当はハイデガーで書きたいのですが、なにしろ「世界内存在」とか「存在了解」とか「時間性」といった中心的な概念が、依然としてうまく捉えられないので、書くことができないのです。その後、次々に出てくるハイデガーの本はかたっぱしから読み、本当におもしろいのですが、それで論文を書くというわけにはいきませんでした。
 『森の道』という論文集には、ヘーゲル論、ニーチェ論、リルケ論まで入っています。新カント派の哲学史には、どれもこれもうまく収められない思想家たちを、ひとつの形而上学の歴史に組みこんでみせようというのですから、本当に興奮させられました。
おもしろくてしようがないのですが、でも、ハイデガーの文章はレトリックが強く、同じことを自分の言葉で言いかえるということができません。言おうとすると、まったく別のことになってしまいます。要約も不可能です。ハイデガー自身がギリギリまで凝縮して言っていますから、それ以上、要約することなどできません。ハイデガーを書こうとすれば、ハイデガーの文章をそのまま書き写すしかない。そんなみっともないことはできません。ハイデガーは読むもので書くものではないと、ほとんどあきらめた時期もありました。 
 それから、ハイデガーというのはかなりいかがわしい、これはだまされているのかもしれないと思った時期もあります。たとえば、前に紹介した、ニーチェの『ツァラトゥストラ』と、ライプニッツの『単子論』と、へーゲルの『精神現象学』と、シェリソグの『人間的自由の本質』を読み合わせなければヨーロッパの近代はわからないという話です。どう考えてもこの四冊がつながるとは思えないのです。これはハッタリではないかと思ったこともありました。あとになって、それがハッタリでもなんでもなく、よく考えれば、ちゃんとつながることがわかってきましたが。

 仙台時代の最後の頃は、どういうきっかけからだったか、メルロ・ポンティの『知覚の現象学』を読んでいました。これもおもしろかったです。中大にきて、二年に一回くらいは論文を書かなければなりません。それで、しばらくはメルロ・ポンティで論文を書いて、やがて翻訳もはじめました。
 でも、頭のなかにはいつもハイデガーがありました。
 哲学というのは、どこか雲をつかむようなところがあって、時々自分が何をやろうとしていたのかわからなくなることがあります。仙台にいるときも、東京に出てきてからも幾度かそういうことがありました。そういうとき、ぼくは、ドストエフスキーの主な作品と『存在と時間』を読みなおすことにしていました。そうすると、自分、が何をやろうとしていたのか思い出せるからです。東京にきてからは五年に一度この読みなおしをすることを義務にして、五十歳近くまでそれをやっていました。初心忘るべからずというわけです。その頃はそれほど仕事もなく、時間もありましたし。 

 しかし、『存在と時間』も何度か読むうちにだんだん読み方が変わってきました。最初読んだときは、実存哲学だと思って読んでいました。二回目に読んだころから、これはどうも実存哲学とはちがうぞと思いはじめました。 

  実存哲学らしいことは言っています。「各自の現存在」だとか「誰にも代わってもらうことのできない自分自身の死への先駆け」だとか。それらしいことは出てくるけれど、その処理が形式的なのです。自分自身の生き方を賭けるという意味での実存哲学なら、キルケゴールのほうがはるかに切実です。
 ハイデガーは『存在と時間』で「エクシステンツィエル」と「エクシステンツィアル」という言葉を使い分けています。邦訳ではたいてい、前者は「実存的」、後者は「実存論的」と訳し分けています。そして「実存的」の方はキルケゴールに任せておけばよいと言い出します。自分、がやりたいのは後者の方、そんなふうに実存的に生きている人間の存在構造を取り出す実存論的な分析の方なのだと言っています。だから、ハイデガーにはいわゆる「実存哲学」をやる気はなかったのです。それに、人間存在を分析するといっても、人間存在を包括的に分析する気はなく、採り上げている現象もかたよっています。
 だいたい、前にもふれましたが、『現象学の根本問題』という講義録が『存在と時間』の書き直しというわりには、その二つがどう結びつくのか、はじめのうちはよくわかりませんでした。書かれたところだけ読むかぎりでは、まるで違う話しだとしか思えません。しかし、よく考えてみると、『存在と時間』という本は、ハイデガー、が本来構想した全体の三分の一しかふくんでいません。『現象学の根本問題』も、構想の三分の一くらいで終わっているわけです。両方の書かれなかった部分を考慮に入れないと、両者の結びつきはわからないのです


 『存在と時間』という本は二十世紀を代表する哲学書として大きな影響をもった本ですから、これは完璧な作品だときめこみ、それだけで完結したものとして読む読み方がドイツでも日本でもされてきました。でも、実際には、全体の三分の一しか書かれていない未完の書です。だから、書かれなかった残りの三分の二を『現象学の根本問題』を手がかりに再構築しなければなりません。そういう読み方をする必要があるということがうすぼんやりと見えてきました。
 それでも、ハイデガーがたとえば「世界内存在」「時間性」「存在了解」ということでなにを考えているのか、ぼくにはさっぱりわからないのです。三宅先生にもわからなかったようです。先生に質問すると「うーん、何やろうねえ」という答えが返ってきました。ドイツ人の研究者の書いたものを読んでも、わかっているとは思えません。

 「世界内存在」について、ハイデガーはこう言っていますということしか、誰も言っていないのです。「世界内存在」というのは変な言葉です。それなのに「現存在の存在構造は世界内存在である」といきなり言い出します。なぜ、そんな言葉をつかわなければならないのか、まったく説明していません。「世界内存在」という概念をハイデガーがどう定義しているのか、そんなことは十年もやっていればわかってきます。でも、それだけではわかったことになりません。そんな奇妙な概念をなぜハイデガーはつくりだしたのか、その心理的な動機までわからなければ、わかったことになりません。。

  ところが、それがわかったのです。わかるときは、ある瞬間、ぱっと霧が晴れるようにわかるものです。わかったのは、メルロ・ポンティの『行動の構造』を読んでいたときです。翻訳していたときではなくて、何度目かの読みかえしをしているときでした。メルロ・ボンティはケーラーのやった『類人猿の知恵試験』を検討しながら、「チンパンジーの世界内存在」という言い方をしています。それを読んだとき、ひらめくものがあったのです。

 ハイデガーは『現象学の根本問題』で「世界内存在」と「存在了解」と「超越」はすべて「時間性」を基盤として成り立つ同じニつの事態なのだということを言っています。そのことが頭にあったので、「世界内存在」がわかると、「存在了解」もわかったし、「時間性」もわかりました。「自分を時間化する」といった表現で何を言おうとしているかもわかってきました。そのような中心的な概念がわかるようになると、あれほどわからなかった『存在と時間』がじつによくわかるようになったのです。
 でも、そういうぼくの理解が正しいのかどうか、その時点ではそうはっきりとした裏付けがあったわけではありません。というのも、メルロ・ポンティは一九三八年に『行動の構造』の最初の原稿を書き上げたとき、『存在と時間』は読んでいなかったからです。参考文献表に『存在と時間』は出てきません。ハイデガーを読んでいない人の本を読んで、ハイデガーがわかるようになるなんてことは、ふつうならありそうに思えません。もっとも、メルロ・ポンティは原稿を書き上げて出版するまでの間にはどうやら『存在と時間』を読んだらしいのです。『行動の構造』の出版は、第二次世界大戦がはじまってしまったので一九四二年になります。その間に『存在と時間』を読んだらしいことは、その段階で付けたらしい注からうかがわれます。
 メルロ・ポンティは一九三〇年代に現象学の勉強をはじめます。ドイツ哲学を吸収しはじめるのです。ところが、『行動の構造』の最初の版の文献表をみると、フッサールは申し訳程度にしか出てきません。ハイデガーはひとつも出てきません。出てくるのはシェーラーです。現象学をシェーラー系統で勉強したのだということがわかります。
 そこで調べてみると、アロン・ギュルヴィッチというロシアからの亡命者が、ドイツで現象学を仕込んで、それをパリでメルロ・ポンティに手ほどきしていることがわかりました。このギュルヴィッチは、フッサールのもとで勉強した人ですが、シェーラーの仕事を積極的に評価し、その線で現象学を理解しているのです。・・(続)

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木田元・二冊

*「忘れられない言葉」で紹介した哲学者木田元氏のなんとも開放=解放的な「人生論」とも「自分史」

 ともいえる二冊 1。『闇屋になりそこねた哲学者』(晶文社、2003.1.30刊)
           2。『猿飛佐助からハイデガーへ』(岩波、2003.9.26刊)

 から、印象に残る一節をランダムに紹介していく。

 1の10.先生たちより。
 

   「・・・                                    
 (斉藤)信治さんも東北大学の出身で、「勉強するなら仙台が一番いい。だから、いられるだけ仙台にいて勉強しろ。就職口はわしが見つけてやるから」と言ってくれました。本当にその通り、中央大学に採ってくれました。これまた、本当にありがたかったです。矢島先生と信治さんのおかげで、のびのびと勉強することができました。ぼくは農専でも、大学にいってからも、嫌われる先生からは徹底的に嫌われますが、いつも何人か親身になって面倒をみてくれる先生がいて、救われてきました。自分も人の好き嫌いが烈しいからでしょうかね。
 ぼくは旧制の最後で、大学院でも上に五年分の上級生がいました。そのなかには、特別研究生も助手もいます。ぼくが入ったときは研究室に全部で八人いました。ぼくが矢島先生の助手をしていた時代をふくめて七年間で、そのうち誰一人就職しませんでした。のちにメルロ・ポンティの邦訳をいっしょにやることになる滝浦静雄さんが盛岡の女子高校の教師になったのが椎一の例外です。あとはみんな非常勤講師のアルバイトをしたり、奥さんに食べさせてもらったりして、ぶらぶらしています。そのなかで大学に就職したのはぼくが最初でした。
 東北大学出身者だと東北地方にしか就職口がないのです。当時、東大の倫理に金子武蔵という教授がいて、自分かまず非常勤講師としていって、そのあとに弟子を送り込むというふうにしてポストを押さえていましたから、東北大学から東京に出て就職するなんて、まず考えられませんでした。東北地方にある大学の数はわかっていて、哲学のポストがいくつあるかもわかっています。いつ誰が定年になるかもわかります。その後任に一人ずつ就職したとして、計算してみると、ぼくは五十四歳にならないと就職できないという状況でした。

  ですから、哲学を勉強している大学院生や助手は酒を飲んでは愚痴か、人の悪口ばかりです。結婚している人もずいぶんいました。生まれた子どもが一つになるかならないかで亡くなった人もいました。お侮やみにいくと、「いや、死んでくれてほっとした」なんて言って、みんなになぐられそうになったこともあります。日本も経済の高度成長に入る前はそんな感じでした。
 
ぼくは幸い特別研究生になれましたから、過分の奨学金を貰っていました。学費・生活費をまかなって呑み代まで出ました。下宿、が三食付きでIカ月六千円のころ、奨学金が前期は月額一万二千円。後期が一万五千円。あとで一万八千円になったと思います。ですから、呑み代も本代も潤沢でした。

 話があちこちとびますが、先生と言えば、細谷貞雄さんと最初に合ったのは、ぼくが大
学院に入った年でした。細谷さんは当時、北大の先生で、一高、東大を出た人です。松本
彦良さんの一高での一年か二年先輩になります。仙台で日本哲学会があったとき、細谷さ んが北大の大学院の連中をひきつれてやってきました。
 それがきっかけで、細谷さんと松本さんをリーダーに、北大と東北大の哲学科の近現代をやっている助手と大学院生で同人雑誌を出そうという話しがもちあがりました。「北東学派」ともいうべきものを結成して、日本哲学界に大いに気を吐こうという勇ましい企てです。これまでの目本の哲学論文とはまるで違う、清新な論文を発表する機会をつくろうという触れ込みでした。たしかにこのころ、今道友信さんが『哲学雑誌』に「古書七行考」なんて凄い論文を書いたり、細谷さんや斎藤忍随さん、が『北大文学部紀要』の創刊号に目をみはるような論文を書いて、日本の哲学界にも新しい動きが感じられるようになっていました。細谷さんが絢爛たる趣意書を書き、毎月岡入費の積み立てもはじまりました。そうやって、お金は集まりましたが、さて、論文が集まりません。

 一年後にそれぞれ三本ずつくらい出そうということでしたが、あまり勇壮な能書きをぶったものだから、みんなびびってしまって書けないのです。それでも、北大からは徳永洵と奥山次良ともう一人だれかの論文が送られてきました。ところが、東北大では誰も書けないものだから、苦しまぎれに北大の論文にケチをつけ、それを松本さんが手紙にして細谷さんに送りました。それを読んで、細谷さんが烈火のごとく怒って、手きびしい抗議文を送ってきました。それで決裂です。同人費はどうしたでしょうか。呑んでしまったのではないかと思います。

 ぼくは一九五八(昭和三十三)年、大学院前期後期五年を修了し、二年間、矢島先生の
ところで助手をつとめたあと、一九六〇年、中央大学文学部の専任講師として採用されました。
 ぼくの就職した当時の中大の哲学科は北大の東京出張所の観がありました。教授の斎藤信治さん、ぼくの一年後に北大を定年退職してきた武田信一先生、助手の宮内陽子さんも北大出身でした。ぼくが東京に出たあとに北大から東北大に移った細谷貞雄さんも上京すると中大に立ち寄ります。昔やはり北大にいた東大の斎藤忍随さんも本郷からやってきて、みんなでよく呑みにいきました。

 
  細谷さんは小児麻痺で足が少し不自由な方でしたが、頭はカミソリのようにシャープな人でした。細谷さんが北大の紀要に書いた「ハイデガーの思索とニヒリズムの転回」という論文などは本当に絢爛たるものでした。おまけに、皮肉を言わせると、相手が泣きたくなるような辛辣なものでした。まわりの人はたまりません。
 ぼくの友人でその頃東北大にいたのが、夜中に酔っぱらってぼくのところに電話をかけてきます。大学でだいぶ細谷さんにいためつけられるらしく、「明日の朝、あいつを殺してやる」と、一時間くらいわめいていました。
 ぼくも一度やられかけたことがあります。小出しに皮肉をいって、相手が恐れ入ると、これでもかこれでもかとカサにかかって攻めたててくるのです。北大で日本哲学会があったとき、仙台から夜行の汽車で一緒になりました。向かい合わせに座っていたら、皮肉を
小出しにしてきましたので、「細谷さん、それ、皮肉ですか?」と言ったら、それから、ぼくにはいっさい皮肉を言わなくなりました。返事次第ではぶん殴ってやろうと思っていましたから、これはいかんと思ったのでしょう。ぼくはそういうのには強いのです。

 あんなに頭のいい人が、どうしてあたりにいる者をあんなにいためつけなければならないのか、やはり身体に障害をかかえていることから生まれたコンプレックスのせいでしょうかね。誰でもが、あの頭のよさには恐れ入っているのだから、そこまでしなくてもいいと思うのですが。徳永恂を除けば、北大でも東北大でも、まわりにいる者がみな深い傷を負わされたようです。
 でも、北海道人や東北人は居直れば強いですから、カミソリで切られたくらいでそうそう負けてはいません。細谷さんは北大にいづらくなって東北大学にきたらしいのですが、東北大にもいづらくなって岡山大学に移ったようです。
 といっても、ぼくにとっては、細谷さんの、ハイデガーの『存在と時間』(ちくま学芸文庫)や『ニーチェ』(平凡社ライブラリー)の翻訳はほんとうにありがたいものでした。この人の翻訳は実にみごとで、ラントグレーベの『現代の哲学』の翻訳(理想社)など、ぼくたちにとってお手本でした。


 斎藤忍隋さんもありかたい先輩でした。忍随さんは、二高時代に三宅先生に『存在と時間』を読んでもらったりして、東大にいったけれども三宅先生を師と仰いでいました。ですから、ぼくにとっては三宅門下の兄弟子というわけです。ぼくがお会いしたのは東京に出てきてからですが、ぼくの名前はどこかで聞いていらしたらしく、はじめから弟分扱いで、東京での同業者への紹介から呑み屋の案内まで、全部面倒をみてもらいました。忍随さんに紹介された本郷赤門前の「万里」(まり)という酒家でいつも顔を合わせて、いいようにからかわれていましたが、底に愛情があるので、少しもいやな気がしませんでした。こっちも兄貴につっかかるようにつっかかっていって、酒席を共にして本当に楽しい人でした。
 忍随さんも、同僚や弟子だちと呑むより、ぼくたちと呑む方が無責任でよかったのか、本を出した打ち上げのときなど、ぼくと生松敬三を呼んでくれて、「お前たちのようなバカと呑んでると気楽でいいや」なんて言っていました。生松もぼくも自分の本を出した打ち上げには必ず忍随さんにきてもらっていました。

 三宅先生が京大を定年退職されて学習院大学にこられてからは、目白の千登世橋の近くの学習院の舎宅によく忍随さんと一緒にうかがいましたし、三宅先生が大磯に隠棲されてからは、毎年正月の二日に、東京駅で待ち合わせて一緒にお年賀にうかがいました。三宅先生も忍随さん相手に話をするのは楽しそうで、お疲れになるのじゃないかとこちらが早目においとましようとすると、怒り出されるくらいでした。そして、東京駅まで帰ってくると、駅の食堂に入って、また忍随さんと二人で終電近くまで呑むという、楽しい年中行事でした。
・・以下略・・・
 

 <追記><

 木田元氏は自らを「故郷喪失者(ハイマート・ローゼ)」と規定する。
『猿飛佐助からハイデガーへ』の冒頭章 1.『神州天馬峡』 にはこうある。・・・(要記)

 「・・生まれたのは昭和3年、新潟(当時の父=師範学校教師の任地)だが、三歳までしかいなかったので、何も覚えていない。・・父が高等文官試験に合格し、「満州国」に渡った後を追い家族も長春(新京)に移り住む。・・そこで幼少年期を過ごした。・・「読書」には姉二人や読書家・蔵書家の父の影響か幼い頃から親しみ、早熟でもあった。(*当時の本や雑誌、新聞はたいてい総ルビで子供でも、意味が解からないなりに読み進めることはできた。「音」としては一応続読できるわけでこれはいっときも早く実行する出版社、新聞社の出てくることを待つ。)・・幼稚園のころにはケンカで二度も退園処分をうける。・・敗戦で家族は山形県に引き揚げてくる。(木田元本人だけは海軍兵学校入学のために敗戦直前に<渡日>している。)・・」

 細谷貞雄さん(上記の皮肉屋学究)には「手ごわすぎる相手」だったわけで、それを見分ける細谷氏も
 さすがだったと書くと「皮肉」の二乗になるか。
 

白川静・文字学の方法

  *「・・私(白川)にとって、いかなる場合にも、語源は興味ある課題ではない。おそらく数十万年にも及ぶであろうことばの歴史を、わずか三千年前の限られた資料で追跡しうると考えるのは、一の妄想である。・・中国には多くの文献が残されているが、これら選ばれた文献は特定の目的に奉仕するために、本来の姿を留めていない。・・
 民族的資料も変転の激しいこの中国社会にはほとんど遺存するものがない。
 このような事情のうちに、私はこの三十余年を、その同時資料である卜辞や金文とともに過ごしてきた。
 
 私の漢字に対する理解のしかたは、必ずしも一般の研究者と同じでないかもしれない。一般に文字学は、いまでも許慎の「説文解字」を出発点としている。また文字学の方法も人によってことなるであろう。
 

  本誌(『文学』1970年岩波書店)七月号に『漢字』(白川、岩波新書)の書評を寄せた藤堂明保氏のように、私と考えかたのちがう人があるのは当然である。しかし、方法は異なるとしても、私も文字とともにくらしてきたものである。・・・
 私の研究も、清朝の学者が殆んど知ることのできなかった卜辞や金文を資料として、中国の文化と精神の原点である古代への探究を進めてきたのである。

 文字学への道は、長くけわしいものであった。・・・
 清朝の文字学研究は許慎の「説文解字」を超えることはできなかったが、その許慎の当時既に文字の原初の形態をとらえることは、甚だ困難なことであった。(戦国の分裂期には地方的な変化が激しく、字形が崩れていき、秦の統一時には統治の必要からの字体の統一ー簡略化などがあった。)
 
 藤堂氏の「字形に対する無頓着さ」や「漫画的理解」の例を具体的に列挙してゆき、続く「音義説」では「文字は音を示すために作られたものでなく、言葉の意味を示すために生まれたのである」と確認しながら、こう記す。
 「・・私の『説文新義』には、古代の賢人たちを必ず身体障害者にしなければ満足できないふしぎな学説の所有者である前東大教授(*故人)の説や、章太炎の亜流(太鼓持ち)にして古代文字=漫画としか理解できない貧困な思索力の持ち主は、」すべて相手にしていない、と。
 

  以後も具体例を挙げての痛烈極まりない藤堂への反批判が続くが、略して、この一文の文末に進もう。

   *************** 

「・・さいごに、私がこのような文章を書くに至った事情について一言し、読者の寛容を求めたいと思う。私ははじめ、このような品格をもたない書評を視する考えであった。それは氏の書評が、社(岩波)からの依頼原稿であるということであったし、またこのような節度のない非難には、もちろん笞える必要がないと考えたからであった。この書評は、あらゆる点で書評としての節度を無視している。特に私の従来の研究に対して、殆ど知識をもたれていないようであり、驚くほど理解が不十分である。それは私としては一向にさしつかえないことであるが、私がこの書の執筆者として不適当であるというような発言は、私の研究に不案内な人ならば、なお慎むべきであろう。しかしそれも、私にとっては何の痛痒もないことである。ついには本書の編集部に対しても、執筆者の選択を誤ったという攻撃が加えられた。これについては私も著者として共同の責任を負うものであるから、不本意であるが一言する必要があると思うに至ったのである。本書の企画が決定したのは、すでに七、八年も前のことである。われわれは相当の準備の上、種々の制約のために多くの図版や凸版を整理し、初稿を検討して全面的な改訂を加え、ついに成稿に達したのである。

 多くの友人たちが、私にこの書評についての感想を述べてくれたが、それは概ね二つの点で一致していた。その一つは、評者は果たして『漢字』を理解しえているのであろうかということであった。また少なくとも書評の執筆者という責任の上に立って、理解しようと努めたのであろうかという疑問が述べられた。研究上の論争ということならば、このような形式でいうべきではないからである。第二には、この書評には一種の権威主義的妄想があるのではないか、ということであった。私もこれらの感想には同感である。なお私としてもうひとつつけ加えておきたいことがある。それはこの『漢字』がやがて反動者に利用されるであろうとし、「どういう連中がそれを言い出すかは、もう目に見えている」という、思わせぶりな結末の一語である。おそらく評者は、自らが全共闘の闘士であるという自負のもとに、この発言をしているのであろうが、全く余計なことである。

 私はその書の末尾に「古代文字の世界は終わった」としるしておいた。古代文字の研究は、学問としてそれ自身のの目的をもっている。その後の漢字の歴史、国字問題としてしての漢字については、またちがった次元の問題として考える意味を、私はこに含めておいたつもりである。権威主義と学閥の愚かさをにくむがゆえに、私は今日まで孤独に近い研究生活をつづけてきた。学問の世界はきびしく、研究弧詣独往を尊ぶ。
 それぞれの研究者が、それぞれの世界をもつべきである。しかし真摯な探究者が他に一人でもいることは、大きな力であり喜びである。たとえばいま、有坂秀世のような人がいてくれたならば、私も音韻学の上から適切な批判を受け、自己の研究を進める上に、有益であったのではないかと思う。学問の世界は、あくまでも純粋なものでなければならないと考えるのである。」

 ****************
 

 『文学』1970年9月号では文末は、少し異なる。その異同を確認しておく。

   1.『文学』にはなく、本で追加された文は上記文末の「・・それぞれの研究者が、それぞれの世界をもつべきである。」と「・・学問の世界は、あくまでも純粋なものでなければならないと考えるのである。」の二箇所である。

 2.『文学』から削除されたのは文末の次の一文である。(他にも細かい訂正があるのか否かは今は不明である。)

 「・・私はこの文章を、一種の寂寥の感を以てかきつづけた。私は再びこのような文章に時間を費やし、この伝統ある雑誌の誌面をけがすことは避けたいと考えている。読者の方々も、読みづらい気持ちで読んでいただいたことと思う。ただこのような文章をかく必要に迫られた私の気持ちに対して、読者の理解と寛容とを願うほかない。」


<註> いま、「有坂秀世のような人がいてくれたなら・・」と白川静氏に言わしめる夭折の学者については、『日本書紀の謎を解く』の森博達氏もその著で一文を呈している。
 
  「・・有坂秀世
 上代日本語の音価推定の研究は少なくありません。その中で最も本格的かつ重要なものは、有坂秀世氏(一九〇八〜五二)の遺稿『上代音韻攷』(一九五五年、三省堂)です。二百字詰原稿用紙三千枚という大冊です。主要な部分は、二十四歳の有坂氏が結核療養中の一九三三年に著したものです。慶谷壽信氏によれば、雛型は東京帝国大学に提出した卒業論文であったようです(「有坂秀世博士の卒業論文について」(一八八九年)。
 有坂氏は日本語音韻史のみならず、中国語音韻史でも画期的な発見をしています。名前を聞くだけで粛然とします。アイヌ語の研究者として有名な金田一京助氏は弟子を追憶して、『上代音韻攷』の序文にこう記しています。
 「有坂秀世博士が、昭和の言語学界に、彗星のごとく現れて、彗星のごとく去られた、そのあまりにも輝かに、そのあまりにもあえなさ、ぼう然としてわれらはただ驚嘆するばかりである。
 玉のような人柄に、不世出の偉才、われら生まれ合わせて咫尺(しせき)し、親しくその温容を仰ぎ 咳唾、珠を成す謦咳に接することを得たのは、何という幸せであったろう。
  有坂氏は早熟の秀才でした。没後出版された『語勢沿革研究』は、旧制一高の三年生、十九歳のときの研究ノートです。特にその第三編「古代母音の研究」は、古代日本語の母音交替の法則を発見した画期的な研究です。「かざかみ、かぜ(風)」・「たかし、たけ(丈)」・「荒らす、荒れる」はa−eの交替、「つくよ、つき(月)」・「くつわ(轡)、くち(口)」・「おく(奥)、おき(沖)」はu−iの交替というように、四種の整然たる法則性を発見し、その意義を考察しています。
 有坂氏は東大の言語学科へ進学して、橋本進吉氏の上代特殊仮名遣の研究を知ります。その知見によって研究ノートの第三編を改稿したのが、「国語にあらはれる一種の母音交替について」です。慶谷氏はこの経緯を丹念に辿って、研究ノート第三編の学史上の意義を顕彰しています(「有坂秀世『語勢沿革研究』にみえる『vowelgradationノ法則』一九六年)。

 奇シクメデタキワザナリ

 この研究ノートには、あとがきに相当する「感想」が付記されています。若き有坂氏の突き詰めた心情がひしひしと伝わってきます。十八歳の有坂氏は強度の神経衰弱にかかり、まだ立ち直れないでいるとき、ふと思いついたことがありました。
ソレハ「ふね、ふなびと」「あめ、あまがさ」ノヤウナ対ニアラハレル母音ノ変化ト、あくせんとトノ間二何力関係ガアリハシナイカ、トイフコトデアツタ。(中略)人生モ事業モ、何等ノ価値ノナイヤウニ感ゼラレテ、一切ノ頼ムニ足ラザルヲ思ヒ、(中略)藁デモ棒デモツカマウトアセツテヰタ私ハ、モハヤタダコノ一ツニ望ヲカケテ生活ヲツヅケルョリ外二仕方ガナカツタ。一度研究ヲ生活ノ中心ト定メルト、私ノ興味ハ急激二加速度ヲ生ジ、ツヒニハ熱心ノ度ヲ超エテ狂熱的二全生命ヲソレニ叩牛込ムヤウニナツタ。
 有坂氏は、研究に生の証しをかけていたのです。一高・東大を通じての同学、服部四郎氏(東犬・言語学科教授)はこの遺著に読後感を寄稿しています。
 私がまのあたりに見た大学生時代の勉強ぶりや、仄聞した高等学校時代の勉強ぶりは、全く人間業とは言えないもので、30分とぼんやりしていた時間はないと言ってよいほどだった。(中略)しかしとにかく、研ぎ澄まされた刃のようにこぼれ易い神経の持主であったことを 知っておくことは、同君の学問を理解する上に必要ではないかと思う。私も、迂闊なことに、数年間はそのことに気付かないでいたが、同君はそれほどすべての表現において控え目で、心情の表出を抑制する人だったのである。
有坂氏の人柄を知り、研究ノートの「はしがき」を読むと、名状し難い感覚に襲われます。時ハ来タ。時ハ来タ。半年ノ間待チニ待ッタ時ハ来タ。過去五年間ノアラユル研究、、アラユル努カハ報イラレタ。誰か科学研究ヲ個人主義トイフ。コノ感激、コノ歓喜、ソレ自ラガ証明スル。奈万之奈三巻ノ中二幾度トナク繰返サレタ義門上人ノ言葉「カヘスガヘスモ奇シクメデタキワザナリ。」ノ真義ハ誰カ之ヲ解スル。」
 
 白川氏は「生きの験(あかし)」、有坂氏は「生の証(あかし)」として「狂」を遊学する姿を
 見事に示してくれた。

        以上。 


 参考までに http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-25.html 「追悼・白川静博士」
        


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ひろもと
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