お薦め本

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  *「忘れられない言葉」にも紹介した白川静氏。
  近刊(2007.4.9平凡社)の『桂東雑記』の津崎史による「あとがき」には、こうある。

 「・・・たしかに、何故か<父>と<死>とは結びつかないような錯覚に陥っていた。取材にみえた編集子らは、大抵が帰り際に、妖怪か仙人をみるごとく父を眺めていたものだ。そして、誰もが、小さな桂の家の、天井まで本に埋もれた空間で、いつまでも仕事をするものだと決めていた。・・・」

 「<生きの験>(いき の あかし、この「験=あかし」も当然変換できないところが一興だが)としてまとめておきたいと考え」て始まった『桂東雑記』(『回思九十年』の続編としてとも)の最終刊である。

 白川静・「お薦め本」となると答えは「すべて」以外にありようがないのだが、先ず私の「出会い」から書いておくと、始まりは松岡正剛・『遊』誌でのこと、「遊字論」「道字論」(1978〜)の連載記事であった。
 以後、既に刊行されていた『漢字の話ー中国文化の原点』1・2(1976年東洋文庫)以来その「思想的一撃」を「引きずって」只今に至っている。
 

 印象的な(思想的なパンチを喰らった)文章を紹介する前に、めずらしく氏の「激情」を吐露した文章を『文字逍遥』(1987.4平凡社、1994.4.15平凡社ライブラリー)から、「第四章ー漢字の諸問題」のなかの一文、「文字学の方法」を紹介する。

 この「文字学の方法」は、

 * 文字学への道
 * 資料の問題
 * 音義説について
 * 文字学の方法
 * 文字学の目的
 という構成になっているが、これが書かれた「動機」は氏の「憤怒」である。
 


 以下要約して記してゆく。・・・ 

 2.マルクスが見落としたこと

 ハイエクは、進歩するたに自由が必要てあるといいますが、同特に、自由のためには進歩が必要なのです。なぜなら、プラス・サム・ゲームが実現されないなら、貧富の差は耐えがたいものになるからです。
 ここに、いくつかの疑問があります。それは、第一に、自由放任が予定調和に至るか否かであり、第二に、無限に「進歩」が可能なのか、ということです。たとえば、市場経済の自動調整機構(アダム・スミスのいう「見えざる神の手」)には、岩井克人が「不均衡累積理論」で明らかにしたような内在的な欠陥があります。それは、原理的な欠陥です。事実、その結果として、「共産主義」のみならず、国家が介入するケインズ主義もファシズムもでてきたのですから。

 フランスの未熟な産業資本主義から出発したプルードンの考えは、19世紀後半においてもすでに牧歌的なものです。マルクスの『資本−国民経済学批判』は、そうした資本主義の(カント的な意味での)「批判」であって、たんなる否定ではありません。プルードンは、「財産は盗みである」といったけれども、こんな単純なことでは資本主義はわからないのです。しかし、マルクスはどんなにイギリスの資本制経済を批判しても、ドイツに帰国しようとは(帰国できたのに)しませんでした。なぜなら、そこには「自由主義」がなかったからです。・・(中略)・・資本主義を解明するためには、イギリスにいるほかありません。

 しかし、マルクスの認識上の欠陥は、むしろそこにあったのです。彼は、ブルジョアジーはますます豊かに、プロレタリアートはますます窮乏化し、両極分解するという見通しをもっていました。純粋に「自由主義」であるならば、たしかにそうなるでしょう。ところが、彼は、資本主義経済が、純粋に経済的ではなく、政治的な、いいかえれば国家的な介入によってあるということを見ようとしなかったし、見なかったのです。
 
 たとえば、イギリスは、アダム・スミスが反対したにもかかわらず、膨大な植民地を領有していました。そうすると、イギリス入は、労働者といえども、そうした植民地からの利益を享受できるわけです。いわば、「窮乏化」は植民地の人間が引き受けているわけです。したがって、マルクスのいうことはグローバルには当たっているのですが、イギリスのなかでは当てはまりません。

 しかし、それ以上に重要なことがあります。それは、マルクスが見下していたドイツにおいて、宰相ビスマルクのもとに、国家による介入と統御によって資本制生産が発展したことです。・・(中略)・・
 このようにドイツ国家資本主義の優位は、普仏戦争(1870年)における、ブロシャのフランスに対する勝利によって象徴されます。そして、その裏面において、フランスの敗戦によって生じたパリ・コンミューン(1871年)の敗北があるのです。この敗北は1848年以来の、いいかえれば、『共産党宣言』以来の運動の終焉を意味しています。以後、「社会民主主義」が革命運動の主流となりました。たとえば、プロシャのフランスに対する勝利に関して、ニーチェは、勝利したのは文化ではなく、国家にすぎないといっています。(『反時代的考察』)。別の観点から見れば、パリ・コンミューンの敗北も同様なことを意味するでしょう。それは、諸個人の「連合」に対して、「組織」「党」「システム」が勝利したこと、いいかえれば、革命運動のなかで、「国家」が勝利したことを意味するのです。
 

 その結果、「社会民主主義」が社会主義運動の最も支配的な形態となった。そこでは、一国のなかでの議会主義的変革、国家による計画的な経済政策が提唱されます。(晩年のエンゲルスもそれに近づいています。)レーニンはカウツキーをマルクス主義の「背教者」と呼んだけれども、カウツキ−はエングルスの考えに従っていただけてす。「第ニインターナショナル」は、そうした社会民主主義によって形成されたものですが、ここでのインターナショナリズムの矛盾が露呈したのは、第二次大戦においてです。各国の社会民主党は参戦を支持した。それは、社会民主主義が「国家」に依拠する以上、不可避的でした。

 社会民主主義にとって代わったのは、自然成長的な大衆運動とは別次元にある「前衛党」を主張したレーニン主義です。
レーニンは、マルクス・エングルスの片言隻句を掻き集めて「暴力革命」と「プロレタリア独裁」の理論を固めました。ここにおいて、「国家」の支配が全面的となります。レーニンは、社会民主主義が参戦したのに対して、「帝国主義戦争から革命へ」という戦略を掲げ、ロシアの敗戦に乗じて革命を成功させました。この成功が「マルクス=レーニン主義」の優位を確立したわけです。ここに、「共産党」による「第三インターナショナル」(コミンテルン)が形成されました。この時点では、それはなお「インターナショナル」ではありましたが、ヨーロッパにかける革命の挫折とともに、「一国社会主義」的となり、スターリンのもとでは、コミンテルンは、ロシアがそれを通して世界の運動を支配する機関となってしまいました。
 
 
   いうまでもなく、それは今日破産しています。今日各国の共産党は名を変えていますが、名を変えようと変えまいと、それは基本的に「社会民主党」に類するものです。しかし、「共産党」はまちがったから「社会民主党」にもどればよいという考えは、前者が後者からはじまっていること、それが第一次大戦で破産したことを忘れている。すなわちそれは、「国家」を自明の前提とするものであり、本質的に国家主義・保護主義であるほかありません。その点で、自由主義者のハイエクがいったことを想起すべきです。

 ハイエクは、「共産主義」はいうまでもなく、社会民主主義、福祉国家、あるいはケインズ主義を否定していました。つまり、彼はそうした思想に存する「分配的正義」(平等)という考えが自由をおびやかすと考えたのです。《分配的正義の原理は、一度導入されてしまうならば、社会全体がそれにしたがって組織されるときに初めて満たされることになるであろう》。《これはあらゆる基本的な点において自由社会とは反対の社会である。すなわち、個人が何をなすべきか、またいかにそれをなすべきかを権威者は決定する社会をつくり出すであろう》(『自由の条件』)

 それに対して、ハイエクは、市場経済の自動調整機構に任せるべきだというのです。そうしないかぎり、必ず「国家」が強くなるというわけです。しかし、自由主義は、少なくとも第一次大戦において破綻していました。1980年代の「自由主義」も破綻しかけています。特にアメリカにおいて、レーガン主義はまさに富の「不平等」を露骨にもたらしました。しかも、世界経済は構造的な不況に陥り、各国は保護主義的な動きを見せています。
ここで、現状分析をするつもりはありませんが。ただ、私がいいたいのは、「自由」と「平等」は原理的に背反することであり、それは今後においても解消されることはないということです。

  

  2 マルクスが見落したこと
  

 
  しかし、フランス革命では、まるでそれらが簡単に両立するかのように、「自由・平等・友愛」が唱えられました。もちろん、実は「自由と平等」の矛盾がすぐに露呈したのです。「自由」は、いうまでもなく、封建的な諸制限の撤廃であり、突きつめていくと、私的所有権の確保です。ブルジョア階級にとってはこれで十分でした。しかし、問題は「法の前での平等」が達成されたとしても、具体的に富の平等が達成されていないことにある。フランス革命において、第四身分と呼ばれる職人・労働者などの市民が参加しています。というより、実質的に彼らの闘いなしには革命はなかったわけです。ところが、この革命は、彼らの要求を黙殺することで終っています。19世紀の革命思想(社会主義)は、ここに胚胎していると、よくいわれます。つまり、この革命で実現されなかった「平等」を実現しようとするものとして、「社会主義」があらわれたというわけです。
 

 しかし、フランス革命が「自由」を実現したというときに注意しなければならないのは、それがイギリスの「自由主義」とは無縁だということです。イギリスにおいては、そこに至るまで17世紀以来さまざまな紆余曲折があり、具体的な制度とともに形成されたものです。ところが、イギリスの経験を模倣したフランスの啓蒙主義者においては、「自由」はアプリオリな観念になっています。フランス革命は、封建的諸制限を一挙に廃止したのですが、ロベスピェールらにおいて、自由の観念は逆に絶対的な専制政冶に転化してしまいます。少数の人間が「真理」を握り、彼らが万人を代表することになるからです。ここでは、権力の制限としての自由という視点はありません。

 むしろ、フランス革命が生み出したのは、いわゆるジャコバン主義であり、少数の真理を握る者の国家主義的独裁形態です。同時代に「平等」を主張したバブーフの「共産主義」も同様であり、後に「平等」を「自由」の上においたルイ・ブランの主張もそうです。それは、のちにレーニンのボルシェヴィズムに受け継がれます。フランスに「自由」の伝統があるという考えは疑うに値します。というのは、フランスは今日に至るまで、つねに官僚(国家)が支配する国家だからです。自由主義はそこではつねに否定されてきている。私の考えでは、ミシェル・フーコーのような人がいったのは、フランスに欠けていた「自由主義」にほかならないのです。

 したがって、フランス革命以後の「社会主義」に関しては、二つに分けなければなりません。つまり、国家によって分配的平等を実現しようとするものと、自由主義によってそうしようとするものとに。後者を代表するのがプルードンであり、一般にアナーキズムと呼ばれています。アナーキズムとは、「無政府」状態を志向するのではなく、いわば国家がない政府を目指すものです。もう気がつかれたと思いますが、プルードンはイギリスの古典経済学の影響を受けているのです。たとえば、ハイエクのような現代の自由主義者がアナルコ・キャビタリストと呼ばれているのは、それらが同根であることを示しています。

 よく知られているように、マルクスは、プルードンの主著『貧困の哲学』を批判して『哲学の貧困』を書きました。しかし、彼らが政治的に敵対したことはなかったというべきです。パリ・コンミューン(1871年)をやったのはプルードン派ですが、マルクスは熱烈に支援しています。また、マルクス・エングルスが書いた『共産党宣言』はアナーキストたちにも共有されていました。その証拠に、日本で最初に『共産党宣言』を訳したのは、幸徳秋水と堺利彦です(1906年)。そのなかでいわれているのは、国家の廃絶と私的所有の廃止という二つの原理です。これらはアナーキストに共有されていた、というより、アナーキストのものです。そして、マルクスも、この点においてアナーキストであり、国家主義者ではありません。実際、マルクスは「国有化」などいったことはありません。それをいったのは20世紀のレーニンです。たとえば、『共産党宣言』(1848年)というと、共産党の起源のように見えますが、実は、共産党など19世紀になかったし、それが目指されたこともなかった。われわれが知っている「共産党」は、ロシア革命で権力を握った「ロシア社会民主労働党」の左派が名乗り、以後各国にコミンテルン(第三インターナショナル)の支部として作られたものです。「第一インターナショナル」においてはマルクス、プルードン、バクーニンらはたんに個人として参加していただけで、ネーションを代表していたのではありません。

  マルクスがプルードンの経済学を批判したのは、彼がアダム・スミスの経済学を批判したのと同じことです。たとえば、スミスは恐慌を知りません。まだ、それが存在しなかったからです。ここで、先に述べた事柄に戻りますが、自由を確保すれば不平等が生じ、平等を追求すれば自由が失われるという矛盾に対して、自由主義者ハイエクは、自由と平等の矛盾が時間的に解消される(*註:貧乏人は少し待っていろということ。ただし、貧乏人が生きているうちにどうこうなるというという保証はない)わけです。しかし、それには、経済が成長していることが前提になります。
  

  *「自由 平等 友愛」、何度も目にし耳にもした、このスローガンに疑問を感じなかった人は

 少ないだろう。

 とりわけ、「自由と平等」はけっして両立することのない理念なのではないか等々と。
 

  曖昧な思い込みとそれによって(そのままの状態で)行動を起こすことは社会的な「犯罪」に

 限りなく近いだろうし、できることなら(努力で叶うものなら)避けるべき「犯罪」だ。

 ここでは、「自由・平等・友愛」について、<先哲>柄谷行人の講演に学びながら考えていく。

 (1992年11月 上智大学学園祭での講演)

 タイトルは <自由・平等・友愛> 

 1.自由と平等は背反する から始める。
 
 
   1.自由と平等は背反する

 「自由・平等・友愛」は、フランス革命のときに唱えられた有名なスローガンです。しかし、これらの理念が歴史を動かしたかのように思うのはまちがいです。何気なく並列されたように見えるこの三つの概念は、根本的に異質なものであり、それぞれ違った源泉をもっています。とりあえず、これらの概念を定義するところからはじめることにします。というのは、それが明確でないと、議論が混同されてしまうからです。

 まず、「自由」に関していうと、たとえば
英語では、freedomとlibertyが区別されているのですが、日本語ではその区別がありません。そのために、内面的自由というようなものと混同されます。したがって、特に、われわれはその違いに注意する必要があります。「リバティー」というのは、他人の恣意的な意志に拘束されないという意味です。もっと具体的にいえば、それは権力、特に国家権力の制限を意味します。ここでいう「自由」とは、たんにそういう意味です。しかし、「たんに」といっても、それを軽視する ことはできません。たとえば、宗教的・哲学的な人たちは、自由の問題をもっと深く考えようとする傾向があります。

 サルトルは(ナチ・ドイツの)占領下においてわれわれは自由だった、と書いています。それは、占領下において、抵抗するにせよしないにせよ、たえず個人が実存的に選択せざるをえない状況にあったという意味です。しかし、そのようにいえば、普通の意味でまったく自由がない状況においてこそ、人間は自由であるということになります。日本では、第二次大戦において戦争で死ぬ運命にあった人々が、そのような運命に能動的に従うことこそ自由があるというような論理も説かれたのです。

 しかし、私がここでいう自由は、そういうものではありません。もっと世俗的で凡庸なものですが、それがないところでこそ、自由は非常に観念的、文学的、あるいは深淵なものになっていくのです。たとえば、戸坂潤は、戦争前の日本の思想状況にかんして、こういっています。

 「元来、自由の必要は哲学者や文学者が感じるよりも先に、企業家や政治家が、感じて来たものなのだ。哲学的又文学的な自由の観念は経済的又政治的自由の観念の出しがらだったからである。(中略)自由主義はだから経済的な又政治的な範躊であって、元来哲学者的又文学者的範疇でなかったのであるが、それが現在の日本などでは、自由主義と言えば、政治上の自由の問題などとは無関係に、哲学者的に又文学者的に常識界で通用している。今日では自由主義という常識的用語は、もはや政治的範疇ではなくて文学的範疇になっているのである。    『日本イデオロギー論』岩波文庫

 ここで少し極端にいうと、「自由」とは私的所有権ということになります。自由という問題を所有の問題に還元していいのか、という疑問が出てくるかもしれませんが、逆に言うと、「私的所有」は、たんに私有財産の問題ではありえないのです。たとえば、「職業の自由」は、各人が自分の労働力を私有するということですし、「表現の自由」は同時に、表現を私有すること(著作権)と切り離せない。個人が共同体に属する存在であるならば、こうした自由はありえません。というわけで、私的所有権は、あらゆる近代的な「自由」を凝縮するものです。そして、これを制度的に保証することが近代の革命だとすれば、それは本質的に「ブルジョア革命」ということができるのです。

 この私的所有をけっして馬鹿にすることはできません。私的所有権と切り離して「自由」を考えることは可能ですが、それは、先にもいったように、決まって、深淵で抽象的なものになってしまいます。また、私的所有権を制限すると、必ず「自由」は制限されます。私的所有を疑問視する前に、それが「自由」と不可分離だということを知っておく必要があります。平田清明氏がかつて強調したように、マルクスはこの意味での私有を否定したことはありません。

 つぎに、「平等」という概念についていうと、これは経済的平等あるいは分配的正義という意味です。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という有名な福沢諭吉の言葉がありますが、これは「法の前での平等」という意味です。しかし、法の前での平等はむしろ「自由」ということに含まれるから、わざわざ「平等」という必要がありません。また、平等は、生まれつきの能力や容姿といったものの平等の問題ではありません。あくまで、平等は、富の平等(分配的正義)ということを意味していなければならない。むしろ、この意味での平等がないところでこそ、深遠な平等が考えられてしまう。たとえば、どんなに貧しくても、神の前では平等であり、あの世に行けば平等であるというふうに。

 このように自由と平等を理解することは、実は、それらが近代の資本主義のなかで見いだされるものだということです。あとで述べますが、友愛も同様です。封建制度とちがって、資本主義においては、人間が直接に他の人間を支配するわけではない。それはつねに、自発的な合意(契約)による交換を通して、媒介的になされます。マルクスの言葉でいえば、人間と人間の関係は物と物との関係としてあらわれます。したがって、各個人は、直接的には、他者の強制から自由なのです。しかし、ここでは、封建的な共同体に従属しているかぎりで生産手段をもっていた農民は、それをもつ者ともたない者に分かれてしまいます。そこに、従来とは異質な「不平等」があらわれるわけです。

 自由と平等の問題は、フランス革命などより前に、すでに産業資本主義を高度に発展させていたイギリスにおいて問われています。たとえば、自由と平等は両立するでしょうか。人が自由勝手にやれば、かならず貧富の差が生じるのではないか。自由主義者のアダム・スミスはそう考えませんでした。よく知られているように、スミスは、私的利益の自由な追求を肯定しました。それは、各人が己の利益を追求することが全体の利益になり、したがって結果的に各人の利益にもなるというものです。この考え方を見るには、ゼロ・サム・ゲームとプラス・サム・ゲームを例にとるのがふさわしいでしょう。たとえば、マージャンでは、誰かが得をすれば、ほかはみんな損をするということになります。同様に、封建制社会では、領主の富は農民からの収奪にもとづいている。これに対して、プラス・サム・ゲームでは、誰かが得をすることがほかの人の損にはなりません。

 しかし、スミスの考えは産業資本主義の発展を前提しています。、産業資本主義以前の段階では、ユートピア思想は、花田清輝がいったように、「単純再生産」の社会をモデルにします。それは社会的生産の総体がほとんど変わらないところで構想されるからです。そして、それは「貧困の平等」ということになる。19世紀前半のフランスやドイツで考えられた「社会主義」は、だいたいそういうものです。それに対して、産業資本主義社会は、プラス・サム・ゲームです。アダム・スミスが、各人がエゴイズムを追求することを肯定したのも、こうした経済においてです。

 自由主義がもたらす富の不平等は、自由主義者にとって重要ではありませんでした。たとえば、スミス的自由主義を受け継ぐハイエクは、自由と平等の矛盾は、いねば時間的に解消されるといっています。豊かな人たちは高価なものを買うことができるのに、貧しい者はそうできない。しかし、産業資本主義以後の社会では、それ以前と違って、貧しい者も昔の金持以上のものを所有することができる。《われわれの知る限りの進歩的な社会では比較的に進歩するのである。比較的豊かな人々は、他の人々よりほんのわずか先に物質的利益を享受しているにすぎない。富める者の支出の大部分は、結果的には後に貧しい者に利用されるようになる新しいものの実験費用の支払いに当てられている。新しく高価な生活様式は最初は一部の人によって実践される以外には、一般に手の届くようにさせる方法はない》(『自由の条件』)。
 これを身近な例でいいますと、自動車にしてもワープロにしても、最初は非常に高価なものでした。ほんの一部の人しか買えない。しかし、誰かが買わなければ、それは生産されず改良もされないわけです。そして、今や多くの人が自動車もワープロも持っている。貧富の差は、現在を固定して見た場合明らかに存在しますが、進歩する、経済的に発展する社会においては、時間差はともなうけれども解消されるということです。これが、自由主義者による「自由と平等」の矛盾の解決です。彼らにとって、それ以外の方法で「平等」を実現しようとすれば、必ず、国家主義(理性)主義に帰結し、「自由」が損なわれるだけでなく、結果的に「貧困の平等」に帰結することになります。

 アダム・スミスの自由主義は、自由放任(レッセ・フェール)ということですが、これは具体的には、国家の介入を制限することです。彼はcheap governmentということをいいました。ここで注意じたいのは、国家stateと政府governmentは別のものだということです。スミスはたんにcheapな政府をいったのではなく、国家が不要だといったのです。つまり、自由主義の考えは、議会=政府が国家であり、政府の上に国家があるのではないというものです。自由主義経済がイギリスにしかなかったように、こういう考えもイギリスにしかなかったのです。

 大陸では、ルソーの場合がひとつの典型ですが、国家は一般意志として、あるいは国家理性としてあります。ルソーは「自由の思想家」と呼ばれていますが、彼は「国家の思想家」でもあるのです。たとえば、国家と自由を対立させるのはまちがいであり、各人は国家において真に自由であるといったヘーゲルも、ルソーをうけついでいるわけです。

 スミスの考えは、経済においては、各人の私的利益の追求が結果的に予定調和的に全体の利益になるというものです。しかし、それは経済の問題だけではありません。たとえば、それ以前では、真理は、だれか少数の者が把握するものと見なされます。哲学者・僧侶が真理を握り、あるいは国家・言僚が理性的てあると考えられる。ところが、自由主義の観点から見れば、真理は各人の違った意見が相対的に合意点に達したものにすぎません。自由主義は、けっして古来からある思想ではありません。それは、私的所有と競争がある種の自動的な秩序をも

続・『寛容の文化』

  < まえがき> ハロルド・ブルーム
 

 マリア・ロサ・メノカルは、この胸をえぐるような物語を七五〇年のダマスクスで始め、一四九二年、ムスリムとユダヤ人がスペインから追放されたまさにその年のグラナダで終えている。メノカルの「アンダルスの破片」と題されたエピローグでは、ちょうど五〇〇年後のセルビア砲兵隊によるサライェヴォ国立図書館の破壊の光景が、一見不自然なほど詳しく描写されている。スペイン・カトリシズムの所業である一四九二年の冷酷な惨劇とセルビア正教会の計画的な勢力拡大をともなった一九九二年の文化的な残虐行為とのあいだに、メノカルは一六〇五年のセルバンデスの『ドン・キホーテ』第一部の出版にまつわる逸話を配している。これは、わたしがこの書物でとくに気に入っている箇所である。
それは、ちょうどシェイクスピアがロンドンのグローブ座で『リア王』を初演した年でもあった。西洋文学にはそれ以来四世紀にもわたって、最大の喜劇にして唯一無比の小説『ドン・キホーテ』あるいはまた最大の悲劇であり、文芸の極致である『リア王』に匹敵する傑出した文学作品は登場しなかったのである。 


 追放から一世紀にわたるいわゆるセルバンデスのスペインは、そうした破壊的な出来事の文化的・経済的トラウマにずっと苦悩していた。それは、ユダヤ人やムスレムにとっては「第一級の土地」からの永遠の追放であり、旧キリスト教徒にとっては勝利と黄金時代に相当するはずだった。だが、セルバンテスにとってそれが何を意味したかと問われたら、解きようのない謎と答えるほかない。サンチョ・パンサは、くどいほど頻繁に自分が旧キリスト教徒の家系の出であると言い、ユダヤ人嫌いであることを何の根拠もなしに付け加えたりする。どのユダヤ人のことだろうか。たぶん彼は改宗キリスト教徒(コンベルソ)のことを言っているのだろうが、読者はすばらしくお人よしなサンチョが誰かを嫌うなどと信じられるはずもない。ドン・キホーテはといえば、最後には打ちひしがれ、騎士身分を棄て去り、信心深く死の床に就くことを望んで帰路に着く。スペインもまた、一七世紀末葉からフランシスコ・フランコの死にいたるまで、信心深く死の床に身を横たえたまま、それ以後もいまなお完全に規定されようのない何か別なものに成り果ててしまった。アメリカ合衆国やアイルランドと比べてみても、スペインはもはや宗教に悩まされることもない。たとえ死の礼賛がいまなお文化の内奥に生き続けているとしても

 メノカルにとってのアンダルスは、「ムスリム、ユダヤ人、キリスト教徒が寛容の文化を育んだ場所」であり、たしかに健全かつ有益なある種の理想郷を一定の水準まで実現したといえるかもしれない。もっとも彼女自身、一〇六六年にグラナダで起きたユダヤ人の大量虐殺をベルベル人原理主義者に全面的に帰しているように、それとても完全に納得のいくものとはいえまい。とはいえ、『世界の宝飾』〔本書の原題〕を貫く中心的なヴィジョンにはまことに説得力がある。アンダルスのユダヤ人とキリスト教徒は、大胆不敵なアブド・アッラフマーンー世に率いられ、ダマスクスからコルドバに移った後ウマイヤ朝の統治下で経済的にも文化的にも繁栄をきわめた。ユダヤ人の文化は、バビロニアからアメリカ合衆国へといたる流浪の文化にちがいないが、その三度にわたる絶頂期は、アレクサンドリア(紀元前二世紀から紀元後二世紀まで)、アンダルス、そしてオーストリア=ドイツ(一八九〇年代から一九三三年を通じて)において現出したのである。『バビロニア・タルムード』や、『創世記』から『列王妃』におよぶ旧約聖書のほうが、アレクサンドリア、コルドバ=グラナダ=トレード、そしてウィーン=プラハ=ベルリンのユダヤ人文化よりも強い光彩を放ちつづけているのはたしかであるが、それでもこれらの絶頂期と比べれば、アメリカのユダヤ人にいたっては文化的に痛々しく見えてしまう。

 メノカルのこの書物は、かつて中世初期と呼ばれた時代のユダヤ詩人、ムスリム詩人、キリスト教徒詩人(たいていはトゥルバドゥール)に手向けられた恋愛詩である。この書物をただひとりのヒーローに捧げるのはいささか躊躇するが(メノカル本人の心情はヘブライ語詩を再興した戦士にして詩人、シュムエル・ハ=ナギドに向けられている)、もしわたしならば、やはり戦士にして詩人、ただしアラビア語の詩人であるイブン・ハズムを指名したい。彼の手になるロマンティックな恋愛の手引書『鳩の頸飾り』もまた、全盛期が永遠に過ぎ去り、朽ち果てるばかりのコルドバヘの記念碑にほかならない。メノカルは、再生不可能であるが、だからこそ忘れがたい美学的、官能的、文化的伝統を保持しようとした点て、イブン・ハズムをドン・キホーテになぞらえている。

 この書物は痛切であると同時に、そうしたノスタルジーに全面的に埋没することなく、むしろそれがもっている今日的な問題との関連性を念頭におきながら、それ自体の出処をも考察の対象としようとしている点で賢明である。今日の世界のいかなる場所にも往時のアンダルスに相当するようなものを目にすることはできない。アーヤトッラーのイランやターリバーンのアフガニスタンは極端な例であるが、エジプトにしてみても、もはや寛容の文化を満たしているとはとても言いがたい。イスラエル人とパレスティナ人は、たとえ和平を実現できたとしても、アブド・アッラフマーンとその子孫達のアンダルスからいまや遠く隔たったイスラーム世界にずっと包囲されたままであろう。かつてコルドバとグラナダが打ち立てたものを思い起こすことはその意味でも有益であるし、それはまたわたしたちの心を揺さぶるに十分なのである。

喪失感を味わいながらメノカルの書物を読むのはこれくらいにして、想像力をかきたてる彼女の力に賛辞を送りたい。今日のマルチカルチュラリズム(わたしたちの大学やメディアにとって有害以外の何ものでもない)は、本質を欠いたコルドバやグラナダのパロディにすぎない。アルハンブラ宮殿からユダ・ハーレヴィーにいたるまで、メノカルによってまことに情熱的に描き出されたあらゆる文化的偉業は、まさしく「美学的な」栄光の所産であり、着想は強靭、つくられたものはまったく優雅このうえない。掛け値なしに文化的記憶に資するという意味で、『世界の宝飾』はまさに本物の、高揚感に満ちた魂の意思表示そのものなのである。


 *原題は  The Ornament of the World   「世界の宝飾」。

  「・・われわれが旅行する時、面白い人に会ったとき、また冒険に出会っても、それらの経験を十分に
 味わうだけ年齢が進んでいない時には、経験をしないのと同じにしか感じないものだ。・・
 経験はわれわれが経験していることがどんなものかを教えない。物事はただ起こるだけである。
 もしわれわれが経験の中に
何を見出すべきかを知らなければ、経験はわれわれに何の意味も持たな
 い。」


 S.I.ハヤカワは読書について旅=経験からこう語る。(『思考と行動における言語』P.306〜307)


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