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「私の聖徳太子に関する研究を指して、信仰心が足りないと言った人がいた。
一応、歴史の専門家らしい。
・・・
学問の世界で、軽々しく信仰などという言葉を使うべきではあるまい。」
信じられない歴史学者の発言だが、本当のことらしい。
「教え」(講義)を受ける学生に同情する他はない。
『聖徳太子と日本人』 大山誠一 (風媒社2001・角川ソフィア文庫2005)
現天皇の、「桓武天皇の母親・高野新笠の出自」についての発言を思い浮かべながら
一気に読んだものだ。
<参考までに> 上記の発言とは以下の通り。
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると
『続日本紀』に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」(2001年12月)
**続日本紀(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書で、『日本書紀』に続く六国史(りっこくし)の第二に当たる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで九十五年間の歴史を扱い、全四十巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。
<編 纂>
編纂は、前半部と後半部で異なる事情を持つ。
前半ははじめ、文武天皇元年(697年)から天平宝字元年(757年)、孝謙天皇の治世までを扱う30巻の曹案として作られた。光仁天皇が、修正を石川名足、淡海三船、当麻永嗣に命じたが、彼らは天平宝字元年紀を紛失した上、未遂に終わった(この年の前後には政争絡みの事件も多かったため、執筆者間で意見が纏めることが出来ずに紛失という事にしたとする説もある)。桓武天皇の命により編纂を菅野真道、秋篠安人、中科巨都雄が引継ぎ、全20巻とした。
後半は当初、天平宝字2年(758年)からおそらく宝亀8年(777年)、淳仁天皇から光仁天皇までを扱うものとして、桓武天皇の命で編纂された。石川名足、上毛野大川が詔によって編集した20巻を、藤原継縄、菅野真道、秋篠安人が14巻に縮め、延暦13年(794年)にいったん完成した。菅野真道、秋篠安人、中科巨都雄は、さらに6巻、すなわち桓武天皇の治世のうち延暦10年(791年)までを加え、全20巻とした。
以上あわせて40巻の編纂が成ったのは、延暦16年(797年)であった。
全般に記述が簡潔で、事件の要点のみを記して詳細に及ばない。簡潔が過ぎて養老律令のような重要事件が脱落した例が見られる。一部の人物の死亡記事に簡単な略伝を付し、これは後続の史書に踏襲された。このような略伝を特に薨伝(こうでん)という。
政治的配慮は、桓武天皇の治世の記述において顕著である。天皇の心痛となった早良親王廃太子の記事は、事件の発端となった藤原種継暗殺事件とともに、いったん記載されたものが後に削除された。削除部は平城天皇の代に復活したが、嵯峨天皇によって再び消されて今に至る。消された部分は『日本紀略』に採録されている。また、藤原広嗣の乱における謀反人・藤原広嗣に対する好意的な記事や宇佐八幡宮神託事件及び道鏡に関する記述に政治的意図が含まれているという説もある。
ただし、『日本書紀』と比べれば、続紀の信頼性はずっと高いと考えられている。「天平文化」をとりまく諸側面を解明し、本格的な実録として最初に整備された史書である。
続日本紀には、『官曹事類』と『外官事類』が付属した。前者は本文に掲載しなかった文書類を原文そのままに項目別に配列したもの、後者は内容不明でおそらく前者に似たものであろう。どちらも失われた。
(以上、「ウィキペディア」より。)
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