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今日、愛犬と散歩に行くと、その公園には胸に薔薇を付けた中学生と着飾った父兄たちの集団が。
そっか、今日は公立中学校の卒業式だったんだ。
うちの近所にあるその中学校は、卒業式が終わって卒業生たちが花道から学校外に出ると、みんなその公園に集まるんですよ。
結構広い公園なので、親子合わせて400人くらい集まっても、全然大丈夫。
で、少し待ってると3年生の担任の先生たちが学校から抜け出して公園に来てくれるんです。
で、内緒で用意していた花束を、みんなで担任の先生たちに渡すんです。
もう、卒業式が終わったあとなのに、泣かされちゃいますね。
うちの娘もその中学校の出身なんですが、5年前にもこうでした。
それどころか、ここに住んでいたころの私の友人やうちのヨメがこの中学校を卒業した時にもそうでした。
もう30年も前のことです。
つまり、その間、非公式ながら先輩から後輩へとずっと受け継がれている非公式行事なんです。
とっても素敵でしょ?
先生たちも子供たちも笑顔。
そこかしこで取られている写真。
しかし、やがてはやってくる終わりの時間。
ひとり、ふたりと帰ってゆき、残るのは担任の先生たちのさびしそうだけど誇らしげな笑顔。
ああ、その気持ち、よくわかります。
3月に卒業するみなさん。
そしてその家族の皆さん。
ご卒業おめでとうございます。
なにかあったら、いつでもこの場所に帰ってきてください。
きっと、勇気や笑顔をもらえることと思いますよ。
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経験・思い出
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まだ私が20歳台だったときの話です。
今ほど無駄のない指導ができるほどには教師とゆうものに精通していなくて、自分の能力のないところは体力と熱意でカバーしていました。 当時の私の塾には他の塾では成績が伸びずにあきらめていた子や、塾には絶対行きたくないと親に言っていた子、クラブで帰宅するのが7時を過ぎる子など、普通の塾ではなかなか入塾さえ認めてもらえない子ばかりでした。 もちろん今と同じで個別指導を行っていたので、毎日授業中は腰を下ろす暇さえなかったほどでした。 (今もそんなに変わってはいませんが:苦笑) しかし一生懸命に教えれば教えるほど生徒もやる気になってくれるのは今と同じで、終電の時間を過ぎても毎日2・3人は残って勉強していたのを覚えています。 そんな生徒の一人に、Tさんがいました。 Tさんは住吉合唱団とゆうコーラスクラブにはいっていて、その歌声で北朝鮮に文化交流大使として行っていたほど美しい声をしていたのです。 しかし行ったが最後なかなか帰れないのは今と変わりなく、1週間の予定が1ヵ月後になってしまったのです。 困ったのは彼女の親御さんで、中間テストはあと2日と迫っていた上に彼女は中学3年生。 あと半年もしないうちに入試が始まる大事な時期だったのです。 あきらめて泣いていた彼女に「何を泣いてる!時間はまだ40時間もあるじゃないか!寝ないで勉強すればきっと間に合う!ぼくも家には帰らないから、君も家に許可を取って学校に行く以外は塾で勉強しろ!」と思わず言ってしまいました。 塾の先生への信頼が薄くなっている昨今では無理だったのでしょうが、そのときは私も不思議と御父兄に信頼されていたようで、2つ返事でOKしてもらえました。 それでも朝の4時ごろにお母さんが差し入れを持ってくるあたり、やはり心配だったんでしょうね(笑)。 でも、Tさんも一生懸命寝ないでがんばってくれたので、たった2日の勉強でも成績を上げることができ、希望通りの高校に進学できました。 そのときの2晩目には4人の生徒が一緒に徹夜で勉強していて、そのせいで毎回テストの時には希望者だけの泊まりがけの勉強会が恒例化してしまい、30歳を超えるまで続けることになったのですから困ったものです。 今では私にも家族ができたので、そう毎回徹夜勉強には付き合ってあげられなくなりましたが(たまにはあります:苦笑)、なぜか自分では教え方がうまくなったとゆうよりは楽をしているような気ばかりがしてしまいます。 過去を振り返って「昔はよかったなぁ」などとくだらないことをゆう趣味はないので、今は今の自分の精一杯でがんばるしかないのでしょうね。 それでも、あのころの自分のなんとまぶしいことでしょう。 |

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私がこの塾の世界に入ったのは、自分が卒業した塾の塾長さんから先生として招かれたからです。
そしてそこで、いろいろなことを学び、さまざまなことを仕込まれ、なみなみならぬ決意を抱いた場所でもあります。 以前にも少し書いたのですが、もう少しそのときのことを詳しく書いてみようと思います。 自分の教師としての原点でもあり、初めて教師として敗北した場所でもあるからです。 私がそのK塾で働き出したときにはまだ18歳の若造で、それでも全学年の数学科の教科主任として何人かの先生を指導する立場におかれていました。 それだけ塾長の信任が厚かったともいえるのですが、当時の塾長は自分の教育論を広げるあまり、かなり厳しい環境を生徒たちに課していました。 週に3日はほぼ徹夜で勉強させたり(もちろん塾に泊り込みで、です。相手をしたのは塾長ではなく私でしたが。)、1日に200個ずつ英単語を覚えさせられたり。 教室にはすべて監視カメラとマイクがついていて、生徒がよそ見をしようものなら塾長室から塾長が走ってきて鉄拳制裁です。 当時から私は生徒が自分で勉強する気になるまで待つタイプだったので、塾長の専制君主的な教育には疑問を持っていて、ことあるごとに反対意見を言っていました。 よく、言い合いしたものです。 本来ならバイト風情がそんなことをゆう必要も義務もなかったのですが、私も塾長も熱く青かったのでしょうね(笑)。 秋になって私の大学でも大学祭が催されることになり、塾生たちがせがむので私の大学へと招待しました。 私の通っていた大学は一応関西四大学と称されるもののひとつで、まあ、生徒たちに少し早いけど有名大学がどうゆうところか見せてあげるのもいいだろう、とゆう気持ちでみんなを呼んだところ、次の日に塾長室へと呼び出されました。 そして、開口一番次の言葉を投げつけられました。 「なんでお前がいってるような2流私学に大切な生徒たちを招待したんだ!俺の生徒たちは国立大学に行って、将来は総理大臣になるかもしれないんだぞ!バカをうつすな!」 おとなしかった(?)私もさすがにキレてしまい、 「なにをいってるんですか!?塾長がやっているのは教育じゃなくて、強制ですよ!知識を無理やり脳に刷り込まれた子供たちが、総理大臣になんかなれるもんか!」 あとは取っ組み合いのケンカです。 私は人生で何度かキレてしまったことがあり、たいていは記憶が飛んでしまうのですが、このときもそうだったようで、気がついたら2人とも鼻血まみれで顔もボコボコでした。 キレたあとに激しく後悔するのもいつものことで、正気を取り戻した私はすぐに教室を出て行き、次の日に辞表を提出するまで塾には戻りませんでした。 バイトが辞表を提出するなんて大笑いですが、そのときはいたってまじめで、「こうなったら、自分が目指す教育を実現するため、自分自身の塾を作るまでやめないぞ!」と決心したのでした。 その塾長も私に言われたセリフが心に突き刺さったそうで、ほどなく塾を閉鎖して自分の修行に明け暮れるようになり、高野山に入ったりインドに行ってサティア・サイババに弟子入りしたりと20年以上も自分を鍛えたそうです。 今では連絡を取り合って、お互いの近況を聞きあう仲ですし(結局2人とも熱かった、とゆうことなのでしょう)、それぞれに考え方がちがったことがお互いにとってプラスだったともゆっています。 もう一度2人で組んで塾をやったら、すごい塾になるかもしれないなぁ。 |

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私が大学に入学したての頃、中学校のときにお世話になった塾の恩師の方から電話があり、「とにかくすぐに来てくれ。」とのこと。
当時の私は、高校生のときからずっと家庭教師の仕事を(頼まれて)していたものの、塾の仕事はまだまったく知らなくて、「何の用なんだろ?同窓会かな?」くらいにしか考えずに、とにかくも先生の塾を訪ねたのでした。 塾に到着すると、私の同級で秀才の呼び声が高かったK君(阪大の法学部生)もいて、2人で「何なんだろな?」と、頭に3つくらい?マークをつけて待つこと5分。 先生が部屋に入ってこられて開口一番、「いやー、久しぶりだな!じゃあ、明日から頼むぞ!!」 へ?あれ?どうゆうこと? 昔から詳しく説明することの少ない方でしたが、これでは何のことやら。 で、副塾長さんに詳しく説明された内容が、「実は塾の拡張を図っていることもあり、先生が足りない。君たちには、卒業生兼先生となって、生徒たちを指導してもらいたい。」とゆうことでした。 中学生の頃から教師になろうかな?と、思っていた私は、「やります!」と、即答。 秀才Kくんは、「大学の妨げにならない程度で。」との模範的な返事。 その日から2人して教師になることに。 当時の私は目つきがきつい青二才で、生徒に怖がられずに親しまれ、なおかつ尊敬される教師になるためにと、できるだけ笑顔で教え、さらに服装も背広で毎日通うことにしたのです(苦笑)。 当時の私の通っていた大学では、授業にスリーピースで出てくる新入生の話で持ちきりだったそうです(爆笑)。 私の同級生に、越前屋俵太さんがいらしたそうですが、たぶん彼よりも有名だったのではないかと。 塾での仕事はとゆうと、これがまた鬼のようにキツい仕事で、毎日授業を教えるだけでなく、週に3日は泊りがけで生徒たちの自習に付き合いました。 それで、1ヶ月の給料が3万円!(交通費もコミです:笑。) 当時の私はそれでも「教師としての給料だ!」と、喜んでいたのを覚えています。 結局、その塾長とは教育の主義があわず、1年とたたずにやめてしまいましたが、今の塾職の基本を叩き込んでいただいたことには今でも感謝していて、連絡を取り合っています。 でも、3万円はキツいよな・・・。 |

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18歳の時にはこの仕事(塾の教師)を始めていましたので、青二才だった頃の恥ずかしい思い出は山のようにあります。その中の1つ、「暴走族撃退事件」とゆう話を書いてみます。
ある日、授業を終えて帰った女の子が泣きながら教室に逃げ込んできました。「どうしたの?」と聞くと、バイクに乗った少年たちにからかわれ、あとを追いかけられたとのこと。授業を少し抜けて、家まで送ろうかと思ったら、教室の前でバイクの排気音が多数鳴り響き、ついでに「でてこんかい!」と笑い声まじりの大声が。 告白しておきますと、私は決して正義の人ではありません。ひろった100円玉は、すぐに自動販売機でお茶にかえてしまうような小市民です。しかし、生徒や家族、友人に対しては非常に正義の人になってしまう一面もあり、その時は怒りでわれを忘れてしまったようです。(キレた、とも言いますね:笑) 玄関から外に出て、にこやかに微笑みながら(と、後に同僚に教えられました)「何か御用ですか?」と聞くと、「ゴヨーだってよう!」「おっさん、さっきの女出せや!」と口々に話し始める始末。気がつくと、私は1番えらそうな(あとでリーダーだと聞きました)アンちゃんをヘルメットの上から思いっきりぶん殴っており、アンちゃんが吹っ飛んでいくより先に、残りの者たちはさっさと逃げ出したそうです。 自分では覚えてないのですが(苦笑)。 結局、大きくへこんだヘルメットをかぶったまま気を失ったアンちゃんと私はパトカーに乗せられ、警察署まで。指紋をとられたのはあとにも先にもそのときだけです。こってりしぼられてなんとか解放していただいたのですが、引き取りに来てくれた当時の塾長に「よくやった!!」といわれても全然うれしくなかったです。実は、殴りつけた右こぶしが骨折していましたから(笑)。気がついたのは次の日でしたけどね。 骨折がなおるまでの1ヶ月間、「もう2度と暴力は使わないぞ!」と心に誓った19歳の私でした。 |

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