全返信表示
-
入港目標灯はもとより、この絵葉書そのものが貴重ですね。羊蹄丸と初代十和田丸が並んでいる構図はおそらく他にないでしょう。羊蹄丸就航が昭和40年8月5日で十和田丸終航は昭和41年10月1日です。補助汽船はえさん丸がまだ配属されていません。第三鉄栄丸が主力の時代で羊蹄丸の船尾にそれらしき船影が見えます。
[ mak*to*13*53 ]
2019/2/17(日) 午後 4:43
-
-
絵葉書は最終運行時に配布されたことには間違いありません。当時小学生だった私には、300型は梁川車庫に数珠つなぎに放置、もしくは柏木町の車庫の最奥にパンタグラフが倒れて保管されていたのが印象にあります。
[ mak*to*13*53 ]
2019/2/17(日) 午後 4:19
-
-
初めて投稿します。この300型、最終運行した昭和46年4月10日は私の祖父が亡くなった日でした。祖父の家のある谷地頭へモールをつけて装飾した300型に乗って行きました。車内のシートは普段使われていないせいかあちらこちら破けていたのが印象的でした。記念乗車として絵葉書が配られていました。
[ mak*to*13*53 ]
2019/2/17(日) 午後 4:10
-
-
完全版が530号車に・・・。
[ 司 ]
2018/11/5(月) 午前 1:55
-
-
昭和51年4月から57年3月まで、八幡小学校に通ってましたが、専売公社のホームと2本の複線線路?の方から行ってたので、目とはなの先にある貯炭場にはあまり興味はありませんでした。57年3月の卒業式の次の日からは、北海道新聞佐々木販売店で新聞少年としてはいり、最初の配達区域が、函館本線踏切近い亀田交番亀田町17番付近から始まり、最後は、八幡小学校の向かい貯炭場跡地で、その時はすでに新築の一軒家が建ってました。1979年の生徒が並んで八幡という文字を造った自作の上空写真では、ぎりぎりで貯炭場がまだそのままになって映ってるので、貯炭場がなくなって一戸建て新築群に変わったのは昭和54年から昭和57年の間ということになりますね。この頃は国道5号線上から亀田交番の横の引っ込み線の踏切があった付近までレールが残ってました。あと、五稜郭公園側の図書館で見てきましたが、国道5号線と交差する引っ込み線からSL9600形?が映ってた写真を2枚発見しました。とても感動しました。あと死ぬまでに一つ見たいのは、専売公社引っ込み線からの車両の出入りを見たいですね。
[ ニャジラ ]
2018/8/12(日) 午前 2:45
-
-
今更ながら失礼いたします。ホリタって建物茶色だったんですね。奥の看板もデカいし。閉店した時は行啓通側のシャッターがずっとホリタでした。トロコンあるけど50年前後ってもう自動になってたんですか?
あとなんで車の信号機の矢印って撤去したんですか?[ dar***** ]
2018/7/12(木) 午後 0:24
-
-
市電とDD機関車との交差は、一度だけ見た事があります。黄昏時でしたが鮮明に覚えてます。貯炭場は、私が通学していた小学校の隣にあり、トロッコなどでよく遊んでました。勿論禁止行為でした。近所に専売公社の廃墟にも引き込み線があり、こちらにも勝手に入り込んで遊んでいました。船舶輸送が全盛期だった当時は引き込み線が沢山有りました。
[ hid*p11**xyz ]
2017/8/6(日) 午前 11:20
-









最近、小林旭や裕次郎の函館ロケがある映画のDVDを見ています。おそらく木造の路面電車や旧羊蹄丸や旧十和田丸が登場します。浅丘ルリ子がボーニの店員役として屋上の裕次郎と会話するシーンは観覧車があり、桟橋には就航したばかりの津軽丸が見えます。日通の函館支社もパブリカ等と一緒に出ていました。
[ mak*to*13*53 ]
2019/2/17(日) 午後 5:23