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(三十)
いつしか、国が所有する河に着いた、彼岸はもう東京ではない
。それでも街の灯は、東京に負けまいと天空を紅く染め、対岸の
喫水線を境にして対称に川面に映えて、静かな流れの河を騒がせ
ている。しばらく、その景色を見ていたら、此岸の方はどうなっ
ているのか気になった。夜の川面から見える東京の夜景とそれを
映す河の流れ・・・、私は東京の主たる情景を描き尽くしてしま
ったので、作品のモチーフに困っていた。水辺から見た夜の高層
ビル群とそれをフットライトで照らす街のネオン、街全体の明る
さが暗闇の空を紅く染め、どす黒い川面に転写される。その川面
から闇の中で光輝く東京ワンダーランドの絵が見たくなった。も
はや東京の大地に残された自然は河の流れくらいで、長い歴史の
間に岸を固められて、昔人が驚くほど河の水の流れも人の思い通
りになってしまった。水の流れは故郷の川を思い出させる。
貧しかった子供の頃、夏休みになればお金を使わずに一人で遊
べるので、毎日のように素潜りで魚を獲ったりして川で遊んだ。
東京へ来てからも川が流れていると覗き込んで生き物の姿を捜し
たが、生き物の棲まない川が信じられなかった。生命の根源は生
命体の方から色々語られるが、液体の流動性とりわけ水こそが生
命の源である。全ての生き物は中に液体の流動性を保っている、
地球は稀有の水の惑星である。もしも人間が地上と同じように水
中でも生きることが出来るならば、私は迷わずに水中で暮らすだ
ろう。私は泳ぎは得意だった。ホームレスの時、夏の暑さで汗ま
みれになって、Tシャツの襟口から汗の臭いが鼻先にまとわり付
いてしかたなかったので、人目の無い深夜に何度か河に入って身
体を洗ったことがあった。だから何の戸惑いもなく、辺りに人影
が無いのを確かめて河川敷を横切って、服を脱いでパンツ一枚に
なった。川岸のゴミかごに服とカバンを入れ上から新聞紙で隠し
、対岸の街の明かりを頼りに水際で靴を脱ぎ河に入って身体を濡
らしてから一気に飛び込んだ。飛び込むなり深く潜って息の続く
限り蛙泳ぎで岸から離れた。河の真ん中は思ったよりも流れが速
く、何度か息継ぎをして頭を上げた時はだいぶ河口へ流されてい
た。私はどうしてもそのアングルからの絵が見たかった。
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