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(三十四)
それからすぐに、新聞や週刊誌からの電話が引っ切り無しに掛
かってきたので、バロックの彼女に頼んで、私は部屋を出て行っ
た。
「あっ!それから、怪しい電話には出なくていいからね!」
私はどこへ行くという当てなど無かったが、駅まで歩いて電車
に乗った。車内は昼前といっても空いている座席が見つからない
ほど慌しく人が乗り降りした。私はドアが閉まる間際の最後の乗
客になってドアにへばり付いて立ち、流れ去る街並を眺めていた
。世間は何も変わる事の無い退屈な日常を映していた。そしてそ
の退屈な日常が何故かとても有難く思えた。人は置かれた境遇が
変われば、世間ですら異なって見えてくる。かつて私はその退屈
な日常の中で、ひたすら日常からの逃避を夢見ていた。私に与え
られた仕事が私でなければならない理由は無かったし、もしもそ
のままで一生を終える位なら、通勤電車が爆破でもされて死んだ
方が無駄な人生を送らずに済むと思ったりもした。自分は何がし
たいのか、何が出来るのか、虫かごに捕らえられた昆虫のように
、思ってもみなかった社会の現実に苦悩した。しかし、答えは簡
単だった、辞めてしまえば虫かごからは抜け出せた、ただエサも
貰えなくなった。
東京での暮らしは、他人に無関心な世間が有難かった。と云う
より、一千万人を超える人が一つの都市に折り重なり合いながら
、それぞれが野心を持っての仮住まいの暮らしに他人への関心な
ど生まれる筈がない。それは、ちょうどこの電車に乗り合わせて
、たまたま隣同士になった者に何の関心も生じないのと同じだ。
電車の走行は心地よかった。それは決められたレールの上を迷
うことなく進んでいく心地よさだ。身を預けるだけで何も考えな
いでも走っていく。この快適さこそが我々が望んでいたものだ。
「楽して生きたい!」
システム化された「安楽死」為らぬ「安楽生」の先には何が待
っているのだろう。もはや「怒り」や「喜び」の感情は退化して
つまらぬ「夢」を追うことは無くなるだろう。何故なら「夢」は
、感情の炎によって生まれるからだ。我々を激情させる思想や芸
術や文化は、「安楽」を脅かす忌むべきものとして蔑まれ、ひた
すら神経を癒すものが持てはやされ、片隅に追い遣られ、ついに
はその役目を終えるに違いない。確かに、この街で感情を表に出
して生きることは絶望を手にするのと同じことだ。しかし、感情
を押さえ込む余り、何か大切な人間性も押し殺しているのじゃな
いだろうか?
電車のドアのガラスに水滴が着いた。青空だった空は気付かな
い間に、灰色の雲が侵略して空を占領していた。窓越しの景色の
木々は予期せぬ突風に吹き叩かれて、老いた葉からその手を離し
風の中に消えた。すると、かなたの暗雲から一条の雷光が屈折し
ながら大地に突き刺さり、暫くして、鬼太鼓座も驚く程の雷鳴の
後、バチで太鼓の皮を叩き破った様な異様な音がして、大粒の雨
が降りだした。その後も雷鳴は鳴り止まず、遠くの方で、またす
ぐ傍らで、そしてついには電車が爆破されたかと思うほど近くで
凄まじい爆音を響かせた。
すると、近くに居た二人の女子高生の一人が、
「死にたくないよー」
と、笑いながらもう一人に言った。
彼女のありふれたその言葉は、何故か、私には新鮮に聴こえた
。
「そうだ、死にたくないんだ!」
一般的には「何故、死にたくないのか」に「理由」など無い。
「死にたくない」は「生きたい」で、つまり「生きたい」に理由
など無いのだ。ところが、人は生きているのが辛いとき、「死に
たい」と思うことがある。だが、「死にたい」には「理由」があ
る。
人はただ一人で生きているのではない、我々は社会の中で生き
ている。夢も、成功も、幸福も、全て社会に依存している。幾ら
人より優れた能力を持っていても、社会がその能力を認めない限
り優れた能力ではない。野球の松坂投手がいくら速い球を投げれ
るとしても、野球というゲームに人気が無ければ、今ほどの成功
は収めていないだろう。実際、ヨーロッパでは、誰も野球などに
関心を示さないし、北京五輪の後はオリンピック競技からも無く
なるかもしれない、アメリカと一部の親米国だけでかろうじて人
気の競技である。たとえば、川面に石を投げて弾かれた石が何度
も川面を弾きながらその回数を競う競技が人気になったとして、
その石投げの天才と松坂投手とどちらが優れているかは、その時
にどちらの競技が人気になっているかによって変わる。
そんな移ろい易い社会の中で、自分のやりたいことで認められ
ることは、余程の幸運に出会わないと叶わないだろう。それどこ
ろか世間一般は、身に煩瑣の種は尽きまじで、思い通りに為らな
い事の方が多い。そんな社会に嫌気が挿して、遂には「死にたい」
と洩らすこともむべなるかなと思う。つまり「死にたい」の理由
は、社会の中で「楽して生きたい」が、思い通りに為らないこと
に由る。
しかし、そもそも我々は「理」に由って生きて居る訳じゃ無い
のだから、「楽して生きたい」を棄てた時に、つまり都会の生活
を棄てた時に、「死にたい」は理由を失って、一己の生き物とし
て唯「生きたい」と思うのでは無いのだろうか?
私は、予測の出来ない未来に向かって、成功とか失敗とかを考え
ずに、つまりは社会に拘らないで、生きたいと思った。
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2008/7/1(火) 午後 6:19 [ 織田義正 ]