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(三十八)
十人の人を花屋に連れて行って、「あなたが一番『美しい』と
思う花を一つ選んでください。」と、それぞれに選んでもらうと、
一番『美しい』花は人によって違っているだろう。それは、「美
しい」と感じる人の「その時」の感覚が様々だからだ。
ある時、富士山をいつでも仰げ見れる街に少しの間居たことが
あった。始めて新幹線を降りて駅に降り立った時に、何か異様な
腐臭が漂っていて、嫌悪感からそのまま引き返そうと思ったほど
幻滅した。後で聞いた話しだと、富士山の裾野は水が豊かで製紙
工場が多く、その工場の排煙の臭いだとのことだった。
私が、そこの人に、
「折角の美しい富士山が台無しだ。」
と言うと、
その人は、
「あんたら他所から来た者にはそうかもしれんが、ずーっとこ
こに居る者には別に美しいとは思わん様に為る。」
と言った。
「日本一の美しい山」は暇を持て余した他所者が言う事で、い
くら霊峰と言われても拝んでいるだけでは暮らしていけない。生
活をする為には工場も無ければならない。日々の暮らしに追われ
て見上げる富士山は、代わり映えの無い日常の一部なのだ。もち
ろん富士山にも登ったが、身体を預けた山肌は溶岩の瓦礫に覆わ
れていてお世辞にも「美しい」とは言えず、遠くから眺める富士
山との違いに愕然としたが、ふと、孔子の言葉を思い出して一句、
寄らしむべし知らしむべからず富士の山 他所者
何か富士山がこの国の権力者のヒエラルキーを象徴する山に見え
てきた。
ある人にとって「美しさ」は、力強さであり、華やかさかもし
れないが、別の人にとっては、優しさや、可憐さこそがそうかも
しれない。つまり、「美しさ」というのは花に在るのではなく、
それを見る者の意識の中にあるのではないだろうか。
(つづく)
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