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「そりゃあ、私もかつては、普通の生活に憧れて
いましたよ...」と、酩酊した句調で、男は言った。
飲み会の後、一人でタクシーを待っている私は、
席をカウンターに移して、間をもて余していた。暫
くすると、初老の男が入って来て、隣りの席へ来た
。始めは、独り言だと思ったが、なんとなく、生返
事をしていると、その話に聞き入ってしまった。
「ちゃんと会社に入って、クレジットカードを使
える様になって、結婚して、子供が出来てってヤツ
ですよ。」と、途切れがちに言った。「それで、好
きな女が出来て、一緒に暮らす様になって、いよい
よ、結婚という時に、あいつが来きやっがたんだ。」
私は、てっきり別の女だと思ったら、かいつまんで
言うと、男が入社する前から、会社では馴染みの、保
険会社の女外交員が、どこで調べたのか、彼の生涯賃
金と定年後の年金までもが載った、名前のロゴが入っ
たグラフを見せて、「今から積み立てれば、定年時に、
満期が来て、これだけ受け取れます。」と自慢気に話
された時に、男は、「これが、俺の一生か!」と愕然と
した。要するに「先が見えた。」と言った。
「自分の一生が、あんな世話焼きババアに、簡単に
決められた事と、単調な一本線の折れ線グラフを、見た
時、頭の中で、自分の一生が早送りで、終わった。」
「結局、俺の人生は、レールの上を走る貨物列車に積ま
れた家畜と同じだ。決められた時間に、決められた所
を通って、ゲームオーバーさ。それなら、その人生を
終えたことにして、全く違う人生を、やり直したい。」
男は、仕事を辞めて、女と別れ、嫌なことを受け入れ
て必死で働き、あの「高等奴隷」(と、そう言った)よ
り、ましな人生を送ろうとしたが、結局うまくいかなか
った。
「我々は、決められた道を貨物列車で運ばれるか、そ
っから飛び降りて、荒野で、野垂れ死にするかのどちらか
なんだ。」と、酔いも醒めたのか、熱弁を奮った。
タクシーが、余りにも遅いので、店の人に聞いていると
、その熱弁士が、「あっ、お客さん、杉並方面ですね?」
と帽子を被りながら、私に言った。
おわり
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