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「愛」とは、主体の、「認識」から生まれる
感情ではない。つまり、愛してはいけない「認
識」を自覚していても「愛」は生じる。他者に
よる強制とか圧力はもちろん、主体の義務とか
責任からも生まれない。それは本能的感情で、
「認識」以前のものである。もちろん現代は複
雑化しているので認識によって「愛」が生れる
様に見えることもあるだろう。所謂、情が移る
こともある。が、逆に、「憎しみ」が生まれる
こともある。
「愛国心」の義務化は、「偽愛国者」を増やせ
るだろうが、同時に、「憎国者」(言わないか
)も増やすだろう。私は、認識によって生まれ
た「愛」を「偽愛」と呼ぶ。
私と有希子の関係は、その「偽愛」と言って
よかった。「愛情関係」は、二人の相互関係で
ある。どちらか一方が「偽愛」であっても、バ
ランスが壊れる。始まりは「相愛」関係であっ
ても時間の経過でそうで無くなることもある。
そうで無くなるだけなら良いが、憎しみ合うこ
とだって起こる。現代人はやたら「愛」を説く
が、それは欧米文化の影響で(つまり、キリス
ト教の影響で)イエスの「博愛」の思想から来
ていると思う。しかし、神の使徒が説く教えは
、信者にとっては強制以外の何ものでもなく、
古くからヨーロッパの文学者はその「偽善」
性を指摘している。ニーチェは、「愛」は、
「憎しみ」とおなじところから生じる感情だ
、と言ている。何の感情も持たない者に、「
憎みなさい」も「愛しなさい」も、 「えっ
何で?」となる。もちろんキリストの説く「
博愛」と、私の周りで飛び交う「愛」は全く
別のものであることは、断るまでもない。
私は、有希子が、私のことを何も気にしてい
ない時から、好きだった。それは、ほとんど、
会った瞬間からと言ってもいい。しかし、彼女
は、全くと言って良い程、私の感情を、それこ
そ、床に落ちたクリップ程にも、気付かなかっ
た。いや、今にして思うと、薄々は気付いては
いたが、拾う気も無いクリップだったと思う。
私は、何度も、彼女の前で、込み上げてくる感
情の所為で、口ごもった。彼女が仕事場に、突
然現れた時などは、それまでの仕事の話ですら
、別人と思われる程、トチッタ。「どうしたん
ですか。」と言われたことを思い出した。
彼女には、公然の彼氏がいた。
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