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(二十九)
馴染みのネットカフェは、私が入るなり様子が変わった。い
つもの店員は、私の顔を見るなり親しげな笑顔を作って、
「先生、ようこそお久しぶりです。」
と言った。
今までの無表情な接客の態度しか見せなかった店員が一変し
たことに戸惑っていると、壁の張り紙を指した。そこには、「
〇〇先生ご利用の店」と書かれた言葉と、以前テレビに出た時
のアップの写真が貼られていた。店員はコピー用紙の様なもの
を出して、
「サインしていただけますか?」と言った。
私は驚いて、
「そんなことはしていませんから、」と、慌てて店を出た。
もうあそこへは行けないと思いながら、今度は当てもなく歩い
た。もちろん以前の様に帰る家が無い訳ではなかったが、家と言
ったところで地上十数メートルに浮かぶマンションの一室で、単
身赴任者が家族の元へ帰れる日を指折り数えてやり過ごす為の仮
住まいの様なものだった。地方出身者の多くは、その仮住まいか
ら抜け出せずに電池切れになって終わる。東京のマンションの一
室で、テレビをつけないでネットや新聞や雑誌にも目を通さずに
、つまり情報がもたらされずにいると、多くの者がストレスの為
に三日もせずに地上数十メートルの浮かぶ部屋から階段を使わず
に地上に飛び降りようと思うに違いない。ニュースが伝える殺人
事件や犯罪やスキャンダルによって、つまり他人の身に起こる不
幸や災いがもたらすカタルシス(浄化)によって、我々はストレ
スの暴発を鎮めているのだ。
ホームレスの頃、家並みばかり続く道をすこしでも休める公園
でもあればと思って当ても無く歩いたが、行けども行けども家並
みが途切れることなくて、都心の住宅街で遭難するかと思った。
デカルトが「森で迷ったら真直ぐに進め、永遠に続く森は無い」
と言ったが、私は「東京で迷ったら地図を見ろ」と言う、東京の
家並みは永遠に続く。
東京が首都になって以来、他所から運んだ物は右肩上がりで増
え続け、今や世界から集めた建築資材で高層ビルが乱立して、さ
らに地方の土地で育った人間も人口の一割強が関東平野に集中し
て、車を持って家を建て、さらにさらに世界から集めた食料を人
々が消化して排泄する訳だから、東京の地面の上には江戸の頃か
らは考えられない程の重量が掛けられているはずで、耐えられな
くなった地殻が、マンションから飛び降りた人の衝撃が最期の一
石となって大地震に為るとも限らないので、マンションから飛び
降りるのは止めた方がいいと思う。
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