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(四)
風が川面を叩いて春を告げ、川面は目覚めて軽く波立つ、そん
な長閑な朝の始まりが、役立たない自分の面にも少しは、生き物
の歓びを目覚めさせ、鳥の囀りさえ笑っているかのように聴こえ
る。水面へ到る斜面の土手の草むらにバックを下ろして横になっ
た。街の喧騒も少し外れると、まだこんなところにもあるのだ。
「何が?」
「永遠が!」
遠くに掛かる陸橋の、後も切らさず続く車の流れと、今の自分
の居場所との距離が、まるで先頭集団から離されていく後続のマ
ラソン選手の焦りに似た不安を感じさせたが、どうすることも出
来ないあきらめが逆に気を楽にさせて、寝転びながら両手を伸ば
して大きく欠伸をした。それからバックの中から一冊の本を出し
た。それは、資源ゴミの集積場に無造作に捨てられていた八冊の
中の一冊で、そのタイトルを見た時、それまで私の脳血管を閉塞
していた血栓が消滅したかの如く、積年の苦悩が一瞬にして消滅
した。それは「実存は本質に先行する」。サルトルの本だった。
そのあとの本文は、私にとってどうでもよかった。実際「嘔吐」
も読んだが、全く理解出来なかった。なんでアロエだかマロニエ
だかの木の根っこを見て「吐き気」を催したのか依然判らない。
「実存は本質に先行する」、これだけで充分だった。
私は、実存主義の本を読んだことはない。使われる哲学用語
が全然、頭に入ってこない。日常の言葉で語れない思想が、日常
に広まる訳が無い。突き詰めると「ものごと」は狭義に拘らざる
を得ないのは判るが、突き詰められた真理が、深海の海底では光
輝いていても、引き上げて見るとただの茶瓶だった、では見向き
もされないだろう。
サルは、何故、自分が生きているのか問うことはない。自らの
存在を虚しく思い、自殺したサルはいない、と思う。「死」の直前
であっても死のうとはしない。すべての生き物は生きる為に生き
ている。つまり、「生まれてきた」ことが「死」を否定している
。生まれてきたことが存在する理由になる。
「生まれてきたから生きている。」これが、私の「実存」だ。
ところが、人間は何故自分が存在するのかを問う。自らの存在
を虚しく思い、自殺する者もいる。存在の「本質」を問おうと思
考する。「思考」とは主体による主体以外へ働きかけ(ベクトル)
だ。主体の「思考」が、思考している主体に向けられることは同
時には起こらない。玉を撃った銃身がその玉に当ることは無い。
もちろん、過去の自分、未来の自分には可能だが。つまり、唯一
人間に認められた「思考」も、実存する現在の自分の本質を問え
ない。人が自分自身について思考するのは、概ね、過去の記憶の
中の自分についてだ。つまり、
「思考は、自らの本質を問えない。」これが、私の「本質」だ。
そして、
実存は本質に先行する。
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