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ひとは、死んだらどうなるのか?
私は学生の頃、大学病院の仕事をしたことが
ある。もちろん、正規の雇用手続きを経てで
、解剖室にも入ったことがある。そこには硬
直した遺体が多数並んでいた。それまで身近
に「死」に直面したことが無かったので面食
らった。十歳の少年が手術の甲斐なく、望ま
ぬ死の宣告を受け、その遺体と対面したこと
があった。彼は、動かなかった。その時、人
は何故動くのかと思った。不思議なことに、
そこに居ると動かないことが、当たり前に思
えて仕方なかった。死ぬというのは「動かな
くなる」ことだと思った。逆さに云うと、
「生きるとは、動くことだ。」
目を閉じて、一切の思いから解放された彼
の顔は、すずし気だった。ただ彼の悔しい思
いを私は、一生忘れずに生きていこうと思っ
た。病院を出ると変わらぬ日常が、欠伸して
た。私は、そんな日常が何故か腹立たしかっ
た。彼の悔しさが益々迫ってきて、帰りの電
車の中で周りを気にせず、泣いた。
私と有希子の「愛」は死んだ。
死んだ「愛」は生き返らない。「命」も
「愛」も不可逆的である。一度死ねばもう
動かない。私は、かつて「愛」が生きてた
頃の思い出に浸る毎日だ。ただ、二人の間
に「愛」と言えるものが本当にあったのだ
ろうか?二人の関係は、いつも二人以外の
もので成り立っていた。友人だったり、知
り合いだったり、会社だったり、ニュース
、スポーツ、芸能、天気、噂話、悪口、新
製品、世間、昨日の店、明日行く店、デズ
ニーランド 東京の事、日本の事、世界の事
、宇宙の事。二人を繋ぐものだけで繋がって
いた。決して直接に繋がっていなかった。
もしも山奥の一軒家で、周りに渋谷や六本木
がない処なら、きっと三日はもたなかっただろ
う。それほど、お互いのことを深く知ること
も深く関わることもしなかった。私たちは、
二人で映画を観る様に、社会の豊かさを楽し
むだけで、実は隣にいるお互いのことは、何
も知ろうとしなかったんだ。映画が終われば
次の映画、それが終わればまた次、観る物が
無くなればテーマパーク、東京は止むことな
く提供してくれる。しかし、有希子は、本当
に私が苦しんでいる事は何か知らないし、私
も彼女の心の中を知ろうともしなかった。二
人で向き合って、互いの心の中へ入ろうとは
しなかった。入場料がいらないのに。
差し障りなく生き、差し障りなく一緒に居て、
差し障りなく暮らし、
挿し触りあって抱き合った、だけだ。
彼女の私に寄せる愛は、「偽愛」だった。
女は,打算で「愛」することができる。
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