皆さんには自分で決めた日課というものがあるでしょうか。
私は朝に行う日課があります。
先ず誰よりも早く会社に行って社長室に入り、
掲げられている日の丸に拝礼し、教育勅語と五箇条の御誓文をそらんじます。
それから新聞を読み、仕事に入ります。これは常に変わらぬ日課です。
これをせねば気持ちが悪いものです。
さて、明治の軍人で陸軍大将にまで上り詰めた柴五郎の毎日の日課となると、
さすがにレベルは違います。
陸軍大将であった柴五郎は退役後も毎朝、自分で布団をたたんで押し入れに片付け、
そして、どんなに寒い真冬でも屋外に出て、柔軟体操をしてから、浴室で身を清めて、
それから自宅の裏手の崖の小道を登って行き、その途中に作った「忠魂碑」の前に立ちます。
この忠魂碑はかつて日露戦争で戦死した自分の部下たちである野戦砲兵第十五連隊の
士官九名、下士官三十一名の霊を祀ったものです。
支那大陸から復員した時、十五サンチ砲弾をひとつ払い下げてもらい、
それが忠魂碑になったといいます。
五郎は雨の日も風の日もこの碑の前に額づいて、
戦死した部下の霊を慰めることが一日の始めの日課でした。
そして、その左側には小さな祠(ほこら)が二つあり、
そのひとつは皇太神宮祠、もうひとつは柴家先祖代々を祀る祠だったそうです。
そこでそれぞれに手をうち、拝礼した後、今度はさらに急な崖を登って行くと「遙拝所」があり、
そこで姿勢を正して、遥か伊勢神宮、そして宮城(皇居)を拝し、
皇室の弥栄(いやさか)と祖国の隆昌を祈念していたといいます。
昭和二十年八月十五日の正午、
八十七歳の柴五郎はラジオの前で姿勢を正して天皇陛下の放送を聞いていました。
放送の後、よく聞き取れなかったらしく、娘に
「陛下は何と仰せられた」
と聞くと
「日本は敗けたらしゅうございます」
と言いました。
五郎は二度ほど深くうなずき、そのまま瞑目し、
そして家の裏手に出て、朝の日課と同じように忠魂碑の前にすすみ、
頭を垂れて何事かを報告していたといいます。
皇太神宮祠、祖先祠、そして遙拝所の前に行きました。
国は敗れ、山河はもとのまま。・・・・・
五郎は深々と拝しました。
そしてこの老人の眼からは、涙が滴り落ちていたといいます・・・。
柴五郎は会津藩の武士の子として生まれ、戊辰の役で逆賊の子として家族とも共、
辛い明治の時代を過ごしますが、運よく出来たばかりの陸軍幼年学校にすすむことができました。
彼を世界的に有名にしたのが義和団事変の時の北京籠城での働きでした。
当時世界の第一国であったイギリスをはじめ、フランス、アメリカ、ロシア、ドイツ、オランダ、
そして日本などの公使館区域に義和団が攻め込み、さらにこの区域を警護していた支那兵までが
宣戦してきて、まさに絶体絶命の混乱が起こりました。
各国の並みいる武官の中でも時間とともに一番信頼されたのが、柴五郎であり日本兵の奮闘でした。
当時、籠城していたイギリス公使はこう書いています。
「日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最も優秀とみなされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。我がイギリス兵がこれに続く。
しかし日本兵はずば抜けて一番だと思う」
籠城戦という中で半月、1カ月、2か月と経つと各人の性格や優秀さや勇敢さが
自然とわかってくるものなのでしょう。
このイギリス人の日本の高い評価が後の日英同盟につながり、
その日英同盟が日露戦争の勝利に大きく貢献したことを考えると、
柴五郎の果たした役割はかなり大きな貢献です。
この義和団事変の後、日本に戻った柴五郎中佐は「金鵄勲章功三級」を賜ることになりました。
五郎は参内し、天皇陛下の御手づから勲章を拝受されました。
五郎はのちに、この勲章を胸に飾って日露戦争を戦地で戦い抜きます。
そのため、勲章のメッキは剥れ落ち、古びたような勲章になり変わりましたが、
柴五郎は終生、この勲章に手を加えることはなかったといいます。・・・・・・