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〔6〕異界への扉・・・(3)
保温力の高いマグカップに注がれたスープをすすりながら、冬枯れした林の枝の高さより、ほんの少しだけ高いところまで昇った月を郁雄はぼんやり眺めていた。満月なのかどうかが定かではないのは、郁雄は強度の近視と乱視の視力だったからだ。それから矯正に使用しているコンタクトレンズは近視だけしか矯正していないからだった。唯いずれにしても、満月と云ってしまえば満月と云えるほど、美しいその表情に、幼い頃四国で見た月を思い出していた。小学2年生の頃、郁雄は隣町にあるそろばん塾に通っていたのだったが、或る夜の帰り道、堤防上の道を、タイヤのリムの回転から動力を得て発電するダイナモ式の電灯を頼りに、自転車を漕いでかえっていたところ、夜空の月の美しさと、ペダルを漕いでも漕いでもついてくるような月の神秘に気をとられ、真冬の川に落ちたのだった。美しい月を見ると冷たい川の水を思い出してしまう郁雄には、その夜の不思議な出来事を忘れることができないでいたのだ。
ああっ〜と云う間に暗闇の川に落ちた時、川の中に誰かがいて郁雄の手をひいて陸に上げてくれた人がいたのだ。姿かたちは見えなかったが、確かに誰かの手につかまって陸に上がったのは事実だった。そのことを家に帰ってから母親に打ち明けたが、ご先祖さんか誰かだろうと、別段驚きもしないことに、逆に驚いてしまった。そんな奇跡的なことは今までにも数回あり、命拾いしてきたのも事実だが、奇跡的に何者かによって選ばれ、救世主のような女を助けて死んでいくなら、それはごく自然なことのようにも思えるのだった。それにしても人生は、手探りで苦悩しながらも歩んでいくものに違いなかったが、あっけなく自分の使命を知らされてしまうと、なんとなく納得できない自分がもうひとりいて、どうにか死なずに済まないものかと考えてしまう・・・。
正雄の瞳にも、今夜の月が映し出されていた。正雄は飛行機事故で父を失った夜の空に、やはり今夜の月のような美しい月を覚えさせられていた。母にきつく抱きしめられながら、基地の病院からの帰り道、お父さんはあの月に行ったんだと云い聞かされながら帰ったことを覚えていたからだった。月に父がいる・・・・。父は月になったのだ。正雄は人生のいろんな場面で、誰かに相談したいような時に、月を見つめながら大きくなった。それはまるで父親に尋ねるように、こころで話しかけてきたのだ。だから幼くして両親を失いながらも、月に語りかけることで寂しさを乗り越えてきた・・・・。というよりも、寂しさと一緒に生活してきたのだ。今ではもうひとり月の住人が増えることになった。最愛の妻、まなみもきっと月にいるに違いないと考えていたからだ。自分も役目が済めば、あの月に行けるだろう。家族との再会ももう少しの辛抱だろうか・・・。そんなふうに考えている自分と、もうひとりの自分が死なずに済む方法はないのだろうかと考えていた。
そんな時だった。ふたりが見上げる月の輪郭から、何かが生まれ、それは眩しい光となって尾を引きながら飛んで来る。もの凄い速さで着実にどんどんこちらに近づいてくる。ふたりはおおっと声を出し、互いの手を手探りで握り合っていた。やがてその光は彼らのわずか50メートル程先の空中で静止した。
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