|
徳島に引っ越して初めての冬。
私は初めて、用水路の表面に氷が張っている光景を見た。 大阪弁でしゃべる私を、すぐにクラスの仲間たちは温かく迎え入れてくれた。 私の家は八万町の下福万と云う、徳島市の南西部に位置する地域で、徳島が地元である母にとっては、きっと居心地のいい場所だったに違いない。 道路に面した一階は店舗、二階が住居と云う物件が私たちの新しい住居になった。 母はその店をお好み焼き屋として開業し、父は建築の仕事をしていた。 当時、まだお好み焼き屋は徳島に少なく、母の商売は順調に推移していくのだった。 父も負けじと、最新の工法や建築部材の使用法なども知っていたことから、口ベタながら仕事に窮することはなかった。 都会の新しい風を持って四国に帰った私たち一家を、少し排他的で身がまえる特質のある徳島の人たちは、すぐに受け入れてくれた。 家に風呂はあったのだが、銭湯にも一週間に一二度、入りに行った。 東京ロマンチカの「ラブユー東京」やフォーククルセダーズの「オラは死んじまっただ」がトランジスタラジオから流れていた。 ラジオから聞こえてくる標準語と阿波弁。 どちらでもない大阪弁をしゃべる自分。 幼い頃から多言語のある環境のなかで、 子供電話相談室と云う番組を好んで聴いた。多くは標準語を話す子供の声が聴けたからだった。 「思い出(3)」 |

>
- Yahoo!サービス
>
- Yahoo!ブログ
>
- 練習用





