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From 湘南茅ヶ崎。 イコピコのひとりごと
とんぼお姉さま。頑張れ頑張れ!私はいつも祈っていますよ!(笑)

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思い出(6)

小学校3年生は、私の人生の大きな転換期になった一年だと、今にして思えば、そう云えるかも知れない。

ある日音楽教諭のY先生が授業の後、徳島少年少女合唱団の入団試験を受けてみるかと話してくれた。
好奇心旺盛な私は素直に二言返事で応答し、ある日試験が行なわれる城東中学校の音楽室に参集した。
試験の内容がどんなだったか忘れてしまったが、その年私は研究生になることが出来た。

合唱団の練習は週2回、NHK徳島放送局、四国放送のどちらかのスタジオで行なわれた。
時々徳島城の近くにある、合唱団の理事長さんの会社の3階を借りて行うこともあった。

定期演奏会で、研究生だった私は、「新しい家」と云う楽曲を独唱することになった。人生最初の初舞台である。

そんなことがあって、私はどうにか研究生から本科生になることが出来たのだ。
本科生になると、制服が貸与され、合唱団のピンバッチが与えられた。

思い起こせばその頃が、音楽好きな少年の、基礎固めの時代の到来だった。

思い出(5)

徳島市にある大坪地区、現在の文化の森の横を流れる園瀬川にある堰の辺りの堤防上に、「いっぽん松」があった。
松の大木の根っこには、小さな祠にお地蔵さんが祀られていた。

なんでもその松には、旅をする狸が一夜の宿にすると伝え聞いた。
嘘か本当かは定かではないが、伝説自体狸の話だから、それはそれで良い。

夕暮れ近くまで園瀬川で遊んで帰る時、ふと「いっぽん松」に目をやると、何ともいいようのない寂しさが木の辺りに宿っていて、まんざら嘘でも無さそうだった。

あの頃から半世紀の時が過ぎ、かつてのヤンチャな少年も、初老の人となる。

かつてUターンして帰省して暮らしていた頃、たまに同級生を見かけることがあったが、何故かみんな一様に自分より老けていたことを思い出す。

都会で暮らしていると、電車などの公共交通機関を使って、通勤に明け暮れるからなのか、少しは身繕いしたりしてオシャレにも気遣うのだか、地方ではほとんどマイカー通勤になるためか、そこそこと云うより全く気遣う必要がない。

人の目を気にするかどうかが、見た目の若さの差になるのかもしれない。

思い出(4)

その頃の思い出となると、山の頂上に大きなテント(優に50平米以上ある)に住んでいた、O君のことを思い出す。
確か住所は「無番地」と云うのを覚えている。
年賀状を出すのに尋ねたことがあったからだ。
家には猿と犬、おまけにキジまで飼っていた。
今から思えば、彼らこそ「漂白の民」だったように思う。
彼は勉強は嫌いだったが、自然に関する知識は恐るべきものがあった。
まず、山に自生している植物やその実や種が食べられるかどうか、美味いかどうか、薬理的にどうなのか等、小学校2年生とは思えないほど博識だった。

ある日、学校を休んだO君を訪ねて、給食の揚げパンとバナナ半切れを持って、山の頂上まで喘ぎながら登ったのだが、果たしてテントごと居なくなってしまっていた。

風のように忽然と居なくなったO君。
今頃どこでどうしているのだろう。

思い出(3)

徳島に引っ越して初めての冬。
私は初めて、用水路の表面に氷が張っている光景を見た。

大阪弁でしゃべる私を、すぐにクラスの仲間たちは温かく迎え入れてくれた。
私の家は八万町の下福万と云う、徳島市の南西部に位置する地域で、徳島が地元である母にとっては、きっと居心地のいい場所だったに違いない。

道路に面した一階は店舗、二階が住居と云う物件が私たちの新しい住居になった。
母はその店をお好み焼き屋として開業し、父は建築の仕事をしていた。

当時、まだお好み焼き屋は徳島に少なく、母の商売は順調に推移していくのだった。
父も負けじと、最新の工法や建築部材の使用法なども知っていたことから、口ベタながら仕事に窮することはなかった。

都会の新しい風を持って四国に帰った私たち一家を、少し排他的で身がまえる特質のある徳島の人たちは、すぐに受け入れてくれた。

家に風呂はあったのだが、銭湯にも一週間に一二度、入りに行った。
東京ロマンチカの「ラブユー東京」やフォーククルセダーズの「オラは死んじまっただ」がトランジスタラジオから流れていた。

ラジオから聞こえてくる標準語と阿波弁。
どちらでもない大阪弁をしゃべる自分。
幼い頃から多言語のある環境のなかで、
子供電話相談室と云う番組を好んで聴いた。多くは標準語を話す子供の声が聴けたからだった。
「思い出(3)」

思い出(2)

小学校に無事に入った私だったが、一年生の夏休みは引っ越しの準備で忙しく、あまりよく覚えていない。
唯、何往復か大阪と徳島を関西汽船でいききしたのを覚えている。

親の都合で、私は小学校一年生の秋、四国の徳島に引っ越すことになった。
引っ越しの日、隣りに住んでいたO君のおばちゃんが、涙でボロボロになりながら、トラックに乗って引っ越す私たちを見送ってくれたのを覚えている。

O君のおばちゃんについては、いろんな思い出があるのだが、今で云うキムチ(当時は朝鮮漬けと云っていた)を、ブリキのタライで漬けていたが、それを物珍しそうに物見していた私に「ピコちゃん。甘いイチゴのシロップだよ。なめるか?」と云うものだから、おばちゃんの指からその漬け汁を舐めたところ、目から火が出るほどの辛さに泣いて帰ったことがあった。

母もおばちゃんから、お手製の漬け物をもらったはいいが、あまりに真っ赤っかだったので、洗って食べたらしい。
後日、全然美味しくなかったとおばちゃんに云ったところ、洗って食べるものじゃないことを初めて教わったそうだ。

徳島に引っ越して、初めてのカルチャーショックは、テレビがNHKと地元の四国放送しか映らないことだった。
そんなこともあって、私の遊び方はいきおいアウトドア一辺倒になっていく。

隣りに住んでいたコー君は、いろんな生き物を捕まえるのが上手だった。
とりわけ田んぼの用水路の岩穴の中に隠れている食用ガエルを捕まえるのが天才的だった。
私は最初、手づかみで大きなカエルを捕まえるのが恐くて、びびっていたのだけれど、慣れてくるとコー君より多く捕まえることが出来るようになった。

都会の港町で遊んでいた私は、徳島に越してから、完全無欠のガキ大将に変化していくのだった。

「思い出(2)」

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