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美しい日本を取り戻そう!
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皆さま。いかがお過ごしでしょうか?伊古彦のひとりごとです。どんどん自分の考えをさらけだすと、来場者は減って行き、そのうち「いくおとイコピコの!本気で危ないでショウ!」みたいな気〇〇〇ブログになりそうな勢いですね。後悔・・・・してますよ。
さて、私が「武士道」に目覚めたのも、実はこの頃(高校生時代)になります。と、同時に三島由紀夫文学に著された「日本の美学」を尊ぶようになったのです。
「もののふ」。・・・素敵な響きです。「もののふ」とは一体、何処から来た「言葉」なのでしょうか?ヤフー辞典で調べてみましょう。
もの‐の‐ふ【武=士/物▽部】1 武勇をもって主君に仕え、戦場で戦う人。武人。武 者。兵(つわもの)。もののべ。
2 (「物部」と書く)古代、朝廷に仕えた文武の官人。 なるほど。やっぱりそうだったんですね!「もののふ」は「武士/物部」からきているのです。
それでは、「武士」と「物部」を同様に調べてみます。
武士出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武士(ぶし、もののふ)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在し、戦闘を本分とするとされた宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員。古代末に発生した武士はその武力で古代を終焉させ、中世社会で主導的役割を果たし、近世で完成された社会体制を築き上げた。同義語として兵者(つわもの)、侍、武者などがある。「もののふ」の読みは物部氏が語源とされる。
武士起源論 [編集]武士の起源に関しては諸説があり、まだ決定的な学説があるわけではない。主要な学説としては以下の3つを挙げることができる。
在地領主論 [編集]武士の起源に関する研究は中世の“発見”と密接に関わっている。明治時代の歴史学者・三浦周行らによって日本にも「中世」があったことが見出された。当時の欧米史学では、中世は欧米に特有のもので、近代へ発展するために必須な時代とされていた。アジア・アフリカはいまだ(当時)古代社会であり、欧米のような近代社会に発展することは不可能とされていた。三浦らは、ヨーロッパの中世が、ゲルマン民族の大移動によって辺境で発生した「武装した封建領主」である騎士によって支えられていたことに着目し、日本で平安時代中期から東国を中心とした辺境社会で活躍した武士を騎士と同じ「武装した封建領主」と位置づけ、アジアで唯一「日本にも中世が存在した」ことを見出し、日本は近代化できると主張した。武士は私営田の開発領主であり、その起源は、抵抗する配下の農奴と介入する受領に対抗するために「武装した大農園主」が起源とする。
職能論 [編集]しかし、「開発領主」論では全ての武士の発生を説明できたわけではなかった。特に、武士団の主要メンバーである源氏、平氏、藤原氏などを起源とする上級武士や朝廷、院など権門と密接に結びついた武士の起源を説明できない。
武官と武士の違い [編集]武士は、一般に「武芸に通じ、戦闘を職業とする軍人、あるいは兵法家のこと」とされるが、これだけでは平安時代以前の律令体制下の「武官」との違いがはっきりしない。例えば、武人として名高い征夷大将軍の坂上田村麻呂は、すぐれた武官であるが、武士であるとはいえない。また、中国や朝鮮の「武人」との違いも明確でない。中国や朝鮮には「武人」は存在したが、日本の「武士」に似た者は存在しなかった。時代的に言えば、「武士」と呼べる存在は国風文化の成立期にあたる平安中期(10世紀)に登場する。つまり、それ以前の武に従事した者は、武官ではあっても武士ではない。
では、武官と武士の違いとは何か。
簡単に言えば、武官は「官人として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の公務員的存在」であるのに対して、武士は「10世紀に成立した新式の武芸を家芸とし、武装を朝廷や国衙から公認された『下級貴族』、『下級官人』、『有力者の家人』からなる人々」であって、律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった。ただし、官人として武に携わることを本分とした武装集団ではあった。
また、単に私的に武装する者は武士と認識されなかった。この点が歴史学において十分解明されていなかった時期には武士を国家の統制外で私的に武装する暴力団的なものと捉える見解もあった。ただし、武装集団である武士社会の行動原理に、現代社会ではヤクザなどの暴力団組織に特徴的に認められる行動原理が無視できないほど共通しているのも確かである。
軍事(武芸)や経理(算)、法務(明法)といった朝廷の行政機構を、律令制機構内で養成された官人から様々な家芸を継承する実務官人の「家」にアウトソーシングしていったのが平安時代の王朝国家体制であった。そして、軍事を担当した国家公認の「家」の者が武士であった。
王朝国家体制では四位、五位どまりの受領に任命されるクラスの実務官人である下級貴族を諸大夫(しょだいぶ)と、上級貴族や諸大夫に仕える六位どまりの技能官人や家人を侍(さむらい)と呼び、彼らが行政実務を担っていた。武芸の実務、技能官人たる武士もこの両身分にまたがっており、在京の清和源氏や桓武平氏などの軍事貴族が諸大夫身分、大多数の在地武士が侍身分であった。地域社会においては国衙に君臨する受領が諸大夫身分であり、それに仕えて支配者層を形成したのが侍身分であった。こうした事情は武士の発生時期から数世紀下る17世紀初頭の日葡辞書に、「さむらい」は貴人を意味し、「ぶし」は軍人を意味すると区別して記載されていることにもその一端が現れている。
よく言われるように貴族に仕える存在として認識された武士を侍と呼んだと言うよりも、むしろ、上層武士を除く大多数の武士が侍身分の一角を形成したと言った方が正確であろう。
また、武士などの諸大夫、侍クラスの家の家芸は親から子へ幼少時からの英才教育で伝えられるとともに、能力を見込んだ者を弟子や郎党にして伝授し、優秀であれば養子に迎えた。武士と公認される家もこのようにして増加していったと考えられる。
言わば、国家から免許を受けた軍事下請企業家こそが武士の実像であった。そして、朝廷や国衙は必要に応じて武士の家に属する者を召集して紛争の収拾などに当たったのである。
なお、これとは別に中世の前期の頃までは、他者に対して実力による制裁権を行使できる者を公卿クラスを含めて「武士」と言い表す呼称も存在した。このことは、院政下で活躍した北面の武士などもその名簿を参照すると、侍身分以外の僧侶・神官などが多数含まれていることでも分かる。
武士道と近代の意識 [編集]
明治になり、武士をはじめとする身分制度はなくなった。その後新渡戸稲造がアメリカ人に紹介するために書いた『武士道』が、日清戦争以降、逆輸入され広く受け入れられ、大日本帝国の軍人が持つべき倫理と接合して、軍人の倫理の骨格をかたちづくり、また一方では、美学として文学や芸能の世界でさまざまなかたちとなってあらわれた。
武士・武者に関する言葉 [編集]武士に関する言葉 [編集]
武者に関する言葉など [編集]
「もののふ」。呪われたような自分のルーツ。まさに「物心(ものごころ)つくようになった高校時代。親族の家には、何処の家にも「日本刀」や「鎧かぶと」が飾られ、父方の親戚は全て「警察官」。私の方向性が自然に決まったのは、ほかでもなく「DNA」の成せる技だったのです。実父だけが「ヤクザ」な道を選び、といっても仕方ないことです。「物心」つくころには両親は既に他界してしまっていて、祖父母に育てられた、寂しい父親でした。言葉かず少なく、笑顔の素敵なひとでした。他の親族はことごとく「武の達人」であり、すぐ上の叔父は、永年、大阪府警で剣道とフェンシングを教えるだけの警察官でした。・・・・・・私が「警察官」を志すようになったのは、ごく「自然」なことだったのです。 |

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戦後の日本を語る上で、
避けて通れない
占領・GHQ
多くの民族派は、
GHQがーーー
といって、思考停止してしまう。
いまの日本がこうなったのも、
家族がばらばらなのも、
民主党が謝罪するのも、
全部、GHQ、マッカーサーが悪いんです
という。
でも、それはウソ。
半分は、そうだけれど、半分はそうではない。
そして、実は、占領より前から、ずっと日本はおかしかったのでした。
民族派が賞賛する「明治維新」の際に、
そのタネは大量にまかれてしまったのです。
今日の記事は、「占領・GHQを「悪用」したのは「日本人」 」の続編。
テーマの後半部分。
明治維新の負の遺産
について。
みんな、 占領政策の何が気に食わないのでしょうか?
民主党政権の何が気に食わないのでしょうか?
確かにムカつきますよね。
現民主党政権でいうと、今度は、
アメリカナイズの代わりに、韓国ナイズ、中国ナイズですかね。
じゃないですか。
でもね、
この絵を見てください。
これは江戸時代のお盆の様子です
このような社会はどこへ行ってしまったのだろうか。
GHQがーー、だろうか、 ミンスがーー、なのだろうか。
間違いなく、明治維新がーー、ではないのか?
いや、それはペリーがーー、といいたいかもしれない。
しかし、ペリーはマッカーサーのように占領などしなかった。
それでも、我々は今、
明治維新は、偉大な改革、世界の奇跡だとも言われている。
支配階層であった武士は、「自ら」権力を放棄した。
我々は、「自ら」習俗をすて西洋に適応した。
植民地になった国では、「強制的に」権力を放棄させられ、
「強制的に」習俗を捨てさせられた。
植民地とは全く異なる様相であった。
もうひとつ明治維新が、偉大な改革、世界の奇跡と呼ばれる理由がある。
明治維新は江戸時代・古き日本と断絶したのではなかった。
皇室は大宝律令のころをモデルに神代をふまえて復古された。
徳川将軍は諸侯に落とされたものの公爵となり天寿をまっとうした。
幕府の幕臣は新政府の役人になった。
憲法も民法も過去との接続を意識されて制定された。
日本人は、「明治維新以来、過去を捨てるのが当たり前になって」しまっている。
マッカーサーが、過去を捨てよと言ったとき、
と思った人は存外に多いことだろう。
マッカーサーが、戦前の日本を断罪したとき、
と思った人も存外に多かったのではないか。
日本は、2度死んでいる。
明治維新で半分。
そして、敗戦占領で残り半分。
明治維新の結果、
無論それは幻想に過ぎないのだが、
明治人はそのように考えた。
「改革」していい「社会」は、
どんどん広がり、いまや、家の中、町の中、山の中まで広がっている。
まだまだ足りないからと、やれ人権、やれジェンダー、やれ外参権と、
暴走はとどまるところを知らない。
そんな「社会主義・共産主義」の種を、国中にばら撒いたのも、また、
明治維新なのである。
その毒芽は、
と結実した。
それが「毒だ」というラベルもつけられず、
「真っ赤ー、サー」という見立てになっていることにも気づかず、
と、痴呆症は脳全体に広がった。
しかし、もう、近代化は「卒業」しなければならない。
もう、その役目は終わっている。
それがこの国の歴史のダイナミズムである。
行き過ぎた近代化という唐風を去り
再び、国風へ戻ること、
近代化を卒業、「卒近代化」して、
明治のベルエポック、江戸、万葉、そして、ヤマトの時代へ戻ること。
GHQがー、民主がー、というのなら、
「やりすぎた明治維新」にもまた、
光を当てる時なのだ。
そのことは、薩長の負の遺産を、
南朝が困った存在だということもまた、
我々に教えてくれることだろう。
日本は、日本らしく
我々は、我々らしく
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天皇、皇后両陛下
【 両 陛 下 ご 動 静 】 (16日・火)(宮内庁発表分)
【午後】
両陛下 勤労奉仕団ご会釈(皇居・蓮池参集所)
両陛下 平成22年度宮内庁永年勤続表彰者拝謁(皇居・宮殿)
陛下 ご執務(宮殿)
両陛下 城所卓雄・駐モンゴル大使から説明お受けに《同国大統領
夫妻(公式実務訪問)来日につき》(皇居・御所)
[皇居清掃]GHQを驚かせた占領下の「皇居勤労奉仕」誕生秘話両陛下 勤労奉仕団ご会釈(皇居・蓮池参集所)
【皇居勤労奉仕はいつ、どのような経緯で始まったか?
木下道雄侍従次長(当時)の証言によれば、昭和20年12月に宮城県内栗原郡の60人の青年グループが皇居の坂下門にやってきて、「二重橋の前の広場に雑草が生い茂って、たいへん荒れていると聞き、草刈りやお掃除のお手伝いのために上京しました。どうかお手伝いをさせて下さい」と申し出たのが最初。 実際は60人が突然やってきたのではなく、これ以前にグループのリーダー二人が上京、応対した筧素彦総務課長(当時)との間で勤労奉仕の受け入れをめぐるやりとりがあった。当時は占領下にあったため、筧氏は上の方に迷惑が及ぶことがあっては一大事であると考え、一切の責任を負って自分の独断で受け入れを決意した】 宮城県栗原郡の若者たちは「みくに奉仕団」と名乗った。正確には男性五十五名、女性七名の計六十二名で、団長の鈴木徳一氏と副団長の長谷川峻氏(東久邇宮内閣の緒方竹虎国務大臣の秘書官だった。のちに衆議院議員)を除き、ほとんどが二十二、三歳の若さだった。過酷な占領下のことゆえ、彼らの行動に対しGHQがどのような対応をとるか予測がつかず、「娘っ子のうちには、両親兄弟と永い別れの水盃をかわしてきたものもいる」という(木下道雄侍従次長(当時)証言)。 むろん、占領当局によって拘束されることはなかった。ばかりか、奉仕の初日に一同にとって思いもよらぬ感激的な場面が待っていた。みなの前に昭和天皇が姿を現されたのだ。 鈴木氏の証言を紹介する。 「奉仕はだんだん進んで正午近くなった頃です。静かだった奥御殿の石垣の上に、かすかに人の群の気配がするので、ひょっと見上げると、陛下がお立ちになってこちらをご覧になっておられます。(中略)お付きの方が見えて、陛下がお呼びだという。私は作業衣のまま石段を上って御前にまいりますと、木下次長さんがお取り次ぎで、いろいろ御下問を賜りました。(中略)やがてご政務所へお帰りになりましたが、その御後姿を拝し一同期せずして君が代を合唱しました。誰の眼にも涙がいっぱい光っていました」(木下道雄氏「皇室と国民」) <中略>「みくに奉仕団」のことが各地に伝わると、我れも我れもと次々に奉仕団が結成され、勤労奉仕の申し出が宮内省に殺到した。何しろ翌二十一年には早くも百八十八の奉仕団が名乗りをあげ、一万人余の人々が勤労奉仕に参加しているのだ。ピークは昭和二十六年で、何と四万人近くの国民が参加した(奉仕団は八百三十一団体)。 こうした動きに対し、GHQもさすがに疑念を抱き、背後に強力な組織があって、巨額の資金を投じ、彼らにとって良からぬ策謀をめぐらしているのではないかと、独自の調査を行なったらしい。その情報をキャッチした海外のメディアが奉仕団に取材をかけるようなこともあった。総力戦に敗れた国の君主制は第一次大戦時のドイツや第二次大戦時のイタリアのように滅びるのが通例だ。なのに日本の皇室の場合、滅びるどころか多くの国民がボランティアで皇居の清掃活動を行なっている。彼らが不審に思うのも当然だ。だがもちろん、そこには何の背後関係もなかった。人々のひたむきな皇室への思いだけがあったのだ。 高森明勅氏のGHQを驚かせた占領下の「皇居勤労奉仕」誕生秘話より引用 毎年、春と秋に陛下が御招待になる園遊会が開催されることは報道され、多くの国民が知っています。
しかし、この園遊会が催される御苑の清掃整備作業の大部分は、皇居清掃勤労奉仕に参加した人々によってなされたことを人々は知っているであろうか。
このことは一度も報道されたことはない、が、陛下はこのことをよく御承知なのである。誰に知られなくてもいい。ただ、名誉を思わず、利益を思わず、勤労奉仕の人びとと陛下は心の絆で結ばれているのです。
陛下は『終戦の詔』の中で「常に爾臣民ト共ニ在リ」と仰せられました。国民と共にあらせられた陛下に対し、我国民も陛下と共のありたいと念じたのです。
皇居清掃奉仕という尊い姿を通じて天皇と国民が思い合い、国の再建を確認しあう姿は何と美しく尊いことでしょうか。
これこそ我がやまと民族の生命なのです。
天皇、皇后両陛下
ご公務ご多忙の天皇・皇后両陛下・ご皇族の皆様のご健康と、皇后陛下のご回復を祈願します。ご皇室の彌榮を臣民のひとりとして祈念します。
両陛下のおおきなご慈愛に感謝します。
天皇・皇后両陛下 万歳! 万歳! 万歳!
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