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トルコ共和国
我国の友好国が次々と未曾有の災難が襲っています。
タイ王国の洪水被害、トルコ共和国を襲った大地震。
一人でも多くの方々が助かり、終息を願うばかりです。
我国と「トルコ共和国」との結びつきは多くの方々が紹介されていますので詳しくは動画をご覧ください。
トルコ共和国 デニズリ出身で日本に留学、東京大学で学ばれたソネル トプタイさんが、早稲田大学学生部が発行する『早稲田ウィークリー』のインタビューにトルコ人から見た日本について簡潔に答えられていますので以下に引用します。
トルコはとても親日的な国だと言われている。 自信と誇りを失ってしまった日本人に「日本人であることを誇りに思って、国のために何かやってください!」と結ばれています。
まさにそのとおりです。
筆者が付け加える言葉など見つかりません。
このトルコ東部地震の支援に一早く立ち上がったのは、トルコと日本の友好の原点。「和歌山県」です。
和歌山県は、9月2〜3日の台風12号に伴う被害が甚大でした。
被災地であるにも関わらず、古き友人に寄せる「こころ」は大変嬉しく、誇りに思います。
以下に和歌山県HPより引用します。
トルコ東部の地震に係る和歌山県の支援について10月23日(日)にトルコ共和国東部ワン州において発生した地震により、甚大な被害が出ているとの報に接し、犠牲となられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々に対し心よりお見舞い申し上げます。 121年前のエルトゥールル号事件以来、日本とトルコ両国は困難が生じた時はお互いに助け合ってきました。その友好関係は政府間にとどまらず、草の根レベルへ広がり、固い絆となって今日に至っており、先般の台風12号災害では、トルコに縁のある方々から支援物資の送付や義援金の募集を行っていただきました。
日本トルコ両国友好の原点である和歌山県として、被災された方々のお力になりたいと考え、和歌山県では下記の支援を行います。
なお、10月25日、和歌山県職員が駐日トルコ共和国大使館を訪問し、お見舞金として100万円を贈呈いたしました。
トルコ共和国の皆様が一刻も早くこの惨事から立ち直られることを心よりお祈り申し上げます。 トルコ地震に係る義援金募集平成23年10月23日にトルコ共和国東部ワン周辺において大規模な地震が発生し、甚大な被害が発生しました。121年前のエルトゥールル号事件以来、日本とトルコ両国友好の原点である和歌山県として、友好国トルコの皆様に県民の皆様の支援の気持ちが伝わるよう下記のとおり義援金を募集します。
<トルコ地震に係る義援金の受付状況について>
多くの皆様から、義援金が寄せられています。 寄託者の皆様に心からお礼申し上げます。 ・義援金の受付状況は次のとおりです。
義援金額計 2,647,705円 (311件) 【平成23年10月26日 15時現在】 ブログ友のナオミ様の友人の桃実さんが、在日トルコ大使館の義捐金受付の口座番号を調べてアップされていました。桃実さんの記事によると、通貨はトルコリラ、米ドル、ユーロの3種で、日本の銀行口座の開設もなければ日本円での送金もできないと紹介くださっていますので、ご希望の方々は、上記のトルコと日本の友好の原点、「和歌山県」を通じられるのが一番早いと思います。
政府系の義援金募集は、東日本大震災で対応の遅さが露呈しています。
上記のアドレスで随時更新されていますので、ご参考までに・・・
災害に遭われた、トルコ共和国、タイ王国の国民の皆様にお見舞い申しあげます。
そして、一刻も早い終息を願い、一人でも多くの人命が救われることを願ってやみません。
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日本の心
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詳細
コメント(12)
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学習院初等科入学当時の迪宮殿下(右) 中央が光宮(高松宮) 左が淳宮(秩父宮) ・・・・・
昭和天皇は幼少の頃は迪宮(みちのみや)殿下といわれておりました。
迪宮殿下は祖父である明治天皇にはことのほか可愛がられていました。
明治天皇は無口でありましたが、迪宮殿下に会われるといつもニコニコされて喜ばれていました。
明治天皇は鮎を好まれており、「これを皇孫へ」と言われて、
鮎の時期になると迪宮殿下のもとにも届けさせておりました。
明治天皇の前に出ると誰もが緊張して何も申し上げられなくなりますが、
迪宮殿下は平気で「おじじさま」といわれて物怖じされませんでした。・・・
昭和天皇が明治天皇を尊敬されておられたのは何と言っても明治天皇が近代国家として日本の礎を築かれたからでした。
昭和天皇は晩年にいたるまで明治天皇の話題となると居住まいを正されていたといいます。
迪宮殿下が学習院初等科に入学するにあたって明治天皇は乃木大将を学習院長に就任させました。
乃木大将は明治の日本人がそうだったように謹厳実直の人でした。
迪宮殿下は乃木大将のことを“院長閣下”、“院長閣下”と言って乃木大将を尊敬されておりました。
ある日、乃木院長が
「どういうふうにして初等科に通っているのですか」とたずねました。
「天気のよい時は歩いて通っているけれども、雨の時は馬車で通う」とお答えされました。
すると乃木院長は、
「雨の時でも、コートを着て、歩いて通うようにしなくちゃいけない」と強く言いました。
また、迪宮殿下はよく相撲をとられるのを好まれたので、
ズボンの膝や靴下によく穴があき、そのつど新しい物とお取り換えされていました。
すると乃木大将はこのように言われました。
「着物に穴のあいているのを着ちゃいけないが、つぎのあたったのを着るのはちっとも恥じゃない」
すると迪宮殿下は学校から帰られると
「穴のあいているのにつぎをたててもらいた」とおっしゃりました。
早速つぎをあてると、「これでいいんだ」と満足して頷かれました。
迪宮殿下が熱海に避寒されていた時のことです。
ある雪の降る日に乃木大将がやって来ました。
迪宮殿下はちょうど火鉢にあたっておられました。
すると乃木大将は
「殿下、お寒いんでございますか。このようにお寒いときは火鉢にあたっているより、
あの御運動場に行って駆け出していらっしゃったらいかがですか。
御運動場を二、三回走ってお周りになったら暖かくなります」と申し上げました。
迪宮殿下はその通りにしました。
月日が流れ、昭和28年、
昭和天皇の外套の襟が破れていたのを、女官長がそう申し上げると陛下は、
「外に出るときは別だが、普段うちで行き来するときは、つぎをあてておけばよい」
とおっしゃりました。
昭和50年、
昭和天皇は訪米前にアメリカのニュース週刊誌『タイム』記者と会見されこのように語られました。
「私は多くの人々、とりわけ乃木将軍に深い影響を受けました。
将軍は私が学習院にはじめて進学した時の院長でした」と前置きされて、
雨の日に登校する時は馬車に寄らず、コートを着て歩くように教えられたことをお話されました。
・・・
乃木大将は明治天皇が崩御されたのを受けて自決されました。
乃木大将はそれに先立ち迪宮殿下を訪れました。
その時、大正天皇が皇位につかれ、迪宮殿下は皇太子となられていました。
乃木大将は、
「きょうはまず迪宮殿下に申し上げます。今更申し上げるまでもないことでありますが、皇太子となられました以上は、いっそうのお勉強をお願い致します」と話しはじめ殿下に諄々と注意すべき事項を申し上げました。
その上で「中朝事実」に朱を入れたものを差上げて、
「私がふだん愛読しております書物を殿下に差上げたいと思いましてここに持って参りました。
いまに御成長になったら、これをよくお読みになって頂きたい」とお願いしました。
「中朝事実」とは江戸時代初期の儒学者、山鹿素行による万世一系の天皇を頂く日本こそ中朝であり、
皇室を中心とした日本の政治的伝統を解き明かしたものでありました。
乃木大将の態度がいつもと違っているのに気付かれて
「院長閣下はどっかへ行かれるのか」とお聞きなされた。
この時、皇太子(昭和天皇)へお渡しした「中朝事実」は乃木大将が写本したものでした。
乃木大将が幼少の頃、父・希次から筆写して贈られたのが「中朝事実」でした。
乃木大将はこの「中朝事実」を生涯の座右の銘とし、戦場に赴くときは必ず肌身離さず携行していたといいます。
(乃木希典大将)
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公休日だった今日、出勤すれば、やる仕事は沢山あり、朝少しだけ片づけておこうと出勤したものなら、結局一日仕事になってしまうと考えて、思い切って休ませていただきました。
で、昨日、今日と具合が悪くて高校を休んでいる息子を連れて、私が毎月通っている総合病院に行って来ました。
整形外科と内科の診察予約をして、まず整形外科へ。
X線撮影を済ませ、診察室へ(ここにいたるまで3時間の待ち時間です。はぁ〜)。
40歳くらいのDr.に説明を受けて・・・。私はもう医者に連れて行く前からわかっていたのです。「過労」です。
仕事じゃないので、「過労」というのは不適切ですが、片道2時間の通学時間で、「朝練(あされん)」を一週間ぶっ続け、帰宅はごご10時ですから、帰って来て、ご飯を食べてすぐ爆睡。翌朝5時に起床し・・・・。を繰り返しやってるんですから。でも、根性あるなあ。いったい誰の子?私の息子です。(笑)
下手に休んだり、具合が悪いなどというものなら、メンバーからはずされる・・・。きっとそう思って無理してたんでしょう。
医者は触診して一言。「バスケのし過ぎだね!」
正解!思わず私は同意しちゃいました。(笑)
筋肉は、酷使し、休めて、酷使し、休めてを繰り返しながら、必要な筋肉と反射的動作を身に付けていくものなんです。 絶対的な休息が足りない。もう、何度も終点の駅まで行って帰ってをやるほど、疲れが溜まってたのです。お陰で腹は見事に割れていますが。(昔の私だ。)診察を待っている間も、若い看護師さんや、若い女性の外来患者が、チラチラ息子を見てるのが・・・・・・
羨ましいぞ!この野郎!(笑)何処の子だ。私の息子です。(笑)
で、薬を処方してもらって神社にお詣りして帰ろうということになって。
伊豆山神社に行って来ました。(笑)
息子に、「ここのご祭神はパワーがあるからちゃんと御参りしておきなさい。」というと、
二礼二拍手の後、このとおり「最敬礼」をしております。エライッ!(笑)ま、何を祈ったかは存知上げませんが。
いつの間にか現われた「神社ガール」。私は初めて見ましたが・・・。
白山神社もご神体になってる、超パワースポットなんですよ。ここは。(笑)
息子は、今年の正月元旦、靖國神社に行ったから高校に合格したと信じているので、神社に祀られし神々を
畏れる謙虚な青年に育ってくれています。
八百万の神々に感謝!
お利口さんだったので、帰りに中華料理屋さんで、日替わりランチ各700円を食べて帰りました。(笑)
めでたし、めでたし。(笑)
で、さっき伊豆山神社で何を祈ったのか尋ねたんです。ごはんを食べながら。
「大震災から3カ月経つでしょ。沢山亡くなったから、被災して亡くなった人達の冥福を祈っただけだよ・・・・・。」
皆さん!日本はまだまだ大丈夫ですよ。悪しきイデオロギーに、脳みそをヤラレテいる連中さえ居なくなれば。
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民主党幹事長・岡田の非日本人的な対応。
・・・
櫻井よし子氏は自身のブログでこのように書いておりました。
藤原正彦氏が『日本人の誇り』(文春新書)で日本文明の価値を、欧米人が至高の価値とする「自由」や「個人」の尊重と対比させて、「秩序」や「和」に求め、こう書いた。
「(日本人は)自分のためより公のために尽すことのほうが美しいと思っていました。
従って個人がいつも競い合い、激しく自己主張し、少しでも多くの金を得ようとする
欧米人や中国人のような生き方は美しくない生き方であり、そんな社会より、
人びとが徳を求めつつ穏やかな心で生きる平等な社会のほうが美しいと考えてきました」
「実はこの紐帯こそが、幕末から明治維新にかけて我が国を訪れ日本人を観察した
欧米人が『貧しいけど、幸せそう』と一様に驚いた、稀有の現象の正体だったのです。
日本人にとって、金とか地位とか名声より、家や近隣や仲間などとのつながりこそが、
精神の安定をもたらすものであり、幸福の源だったのです」
・・・
「現在、国を挙げての救援活動が進められていますが、厳しい寒さの中で、
多くの人々が、食料、飲料水、燃料などの不足により、
きわめて苦しい避難生活を余儀なくされています。
その速やかな救済のために全力を挙げることにより、
被災者の状況が少しでも好転し、
人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。
そして、何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、
これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています」
東日本大震災から6日目の3月16日、
陛下はビデオで国民にお言葉を発せられました。
櫻井よし子氏はこれについてこのように書いています。
「それは、皇室が常に国民と共にあり、国民のために祈り、励まし、
精神的支柱とならんとしていることを示している。
・・・。
大東亜戦争に敗れ、史上初めて他国の占領下に入ったとき、
昭和天皇は国民に向けてこう発信された。
1946年の歌会始でのことだ。
降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ
厳しい寒さの中に、凛として青々と立ち続ける松の雄々しい姿こそ、
国民の姿であれと詠われたのだ。
和と絆で支え合う日本国民は国難に直面するや最も雄々しい人々となる。
課題に正面から向き合い、闘い、励まし合い、必ず立ち直る勁(つよ)い人々である。
日本国民はそうして生きてきたのであり、常にそうあらねばならない。
立派な国民であれ、雄々しくあれと詠われた。」
・・・・・
昭和天皇の大御心を感じるエピソードを記しておきます。・・・
昭和天皇は昭和21年2月、凍るような日に皇居を出て川崎に向かわれた。
戦後の地方御巡幸のはじまりです。
神奈川県から昭和29年の北海道に至るまで、
アメリカ軍政下の沖縄を除いて全都道府県を巡られました。
御巡幸はのべ165日にわたり、距離にして33000キロ以上に及びました。
陛下が背広を着て皇居の外に出られたのはこれが初めてのことでした。
敗戦までは、沿道に出ている人々は御料車が近づくと、通過して遠ざかるまで敬礼するか、
そのあいだ土下座をして頭を下げていなければなりません。
そして、警官か憲兵が数メートル間隔で並んでいました。
もちろん誰であれ高い所から見下ろすようなことは許されませんでした。
昭和天皇は川崎で二つの工場を視察されました。
工員や女子事務員の前で立ち止まられて、
「生活状態はどうかな」
「食べ物は大丈夫か」
「家はあるのか」
と質問されました。
返答があるとその都度、
「あっ、そう。 あっ、そう。」と答えられました。
陛下はにわか造りの粗末な木造建ての共同住宅に入られて
戦火の被災者を見舞われました。
「どこで戦火にあったの」
「冬は寒くないかね」
「生活はひどくないかね」
とおたずねになりました。
小学生には「学校の道具は燃えなかったの」と聞かれました。
「はい、焼けませんでした」とお答えすると、
「それはよかったなあ」と頷かれました。
ある部屋には、表に『御下賜』と書かれた義足の箱がありました。
陛下は「ご主人はどうしたの」とたずねられました。
「フィリピンで・・・」と感動して泣きながら婦人がお答えすると、
「夫をなくして、困っていることはないか」と聞かれました。
「いえ、負傷しただけで、今日も工場へ参っております」という返答に、
「ずいぶん働いてくれたんだね。それはご苦労だったね」
とねぎらわれました。
陛下が行幸されているというニュースが広まると、
多くの近隣の住民が集まってきました。
陛下の車が近づくと、沿道に並んだ国民は帽子をとり、襟巻をはずした。
陛下が車の中から会釈されると、
合掌する者、
「もったいない、もったいない」とつぶやきながらすすり泣く者、
「申し訳ございません!」と絶叫して最敬礼する者、
土下座する者など、
そして、陛下の車が目の前から去ると、どこからともなく「君が代」の合唱が起こり、
みんなが泣いていました。
昭和22年6月、兵庫県を御巡幸された時のことです。
酒造組合や武庫川高女を廻られた日は神戸女学院で昼食をおとりになりました。
昼食後、陛下が御休所を出られると、
校庭には職員、生徒、卒業生、父兄等五千人が待機していました。
突然前方に並んでいた七百人の専門部の学生が、
「讃美歌第四百十二番(祖国)」を二部合唱で歌い始めました。
わが大和の 国をまもり あらぶる 風をしずめ
代々やすけく おさめ給え わが神 ・・・
合唱のメロディは静かに流れる。
陛下に、「次へ」とお促し申し上げても、
そこに釘づけにされたかのように動こうともされません。
歌が進むにつれて、歌う女学生みんなが泣きながら合唱を繰り返しました。
歌は、ときどき涙にとぎれる。
みると陛下もまた泣いておられる。
お目は涙に濡れて光り、何度もしばたたかれる。
侍従長をはじめお付きの人々もみんな泣き、数千の奉迎者も、また涙を流す。
嗚咽のうちにつづく歌声のあとに、
陛下は静かに玄関を離れられました。・・・
昭和22年12月、陛下は原爆の地・広島を御巡幸されました。
ここでも陛下が泣かれました。
市の境の近くで、84人の戦災孤児が並んでお迎えしていました。
陛下はお車を停めて降りられると、子供たちのそばまで行かれ、
慰めの言葉をかけられました。
そして、原爆によって髪の毛が抜けおちた男の子の頭をかかえこむようにして抱かれると、
あふれる涙を指先でぬぐわれ、しばしば目頭を押さえられました。
群衆は陛下が泣かれるのを見て、そろって嗚咽したのです。
・・・
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