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天の浮橋
あと三日で東日本大震災より一年を迎えようとしています。 震災直後は、被災地の皆さんの規律ある行動、謙譲の精神が世界から賞賛されました。 震災直後、畏くも天皇陛下におかせられましては、玉音放送にて全国民に被災地に心を寄せ、復興に向けて同胞が心を一(いつ)にして欲しいと呼びかけられました。 しかし、心無い一部の方々の言動が、民族の結束を乱しているように思えます。 かっての日本人は「和」を大切にしました。 日本人が日本人を知らなすぎるのではと思う次第です。 祖先の思想、文化、伝統を知り、継承することが日本に住む日本人の勤めでもあります。 古来、日本人は、森羅万象すべてに神々が宿ると信じ、崇敬してきました。また他者に対しても、同じ運命を背負う人間仲間として捉え、深く共感できたのです。そこから、「思いやり」「いたわり」という優れた感性が芽生え育んできたのです。
無常とは、元来仏教用語ですが、他の仏教国では捉え方が異なります。
いかに権勢を振るって栄耀栄華を極めようとも、多くの権勢なき人々と同じように、やがて死を迎えます。
未来永劫、盛者であり続けることなどできず、無常を知ればこそ、敗者や弱者の姿に、明日のわが身を見る思いがして、敗者への思いやりとか弱者へのいたわりといった感情が湧き上がるが、日本人だけが持ち得る感性なのです。
武士は侍とも書きます。もののふともいいます。
またその語源は天孫降臨された皇祖ニニギノミコトより前に天孫降臨されたとされるニギハヤヒミコトを祖とし、大和朝廷では国の軍事氏族として活躍した、物部氏(もののべうじ)とされてます。
侍=その文字が示すとおり、もともと高貴な人に侍り、その身辺警護が仕事でした。役目柄、要人より華美な振る舞いは許されず、常に死を覚悟していなければなりませんでした。このことが質実剛健な精神構造を生み出し、支配階級となったあとも、「武士道」として武家社会の規範になっていきます。明治維新で武士階級はなくなりましたが、代わって徴兵制が採用されたため、武家だけの「武士道」からむしろ国民全体にも拡がり、大東亜戦争終戦まで、日本人の精神的支柱であり続けました。
武士道における価値観は、西洋とでは対極をなします。 ・新しいものよりも古いもの ・華美よりも質素 ・物質的な豊かさよりも精神的な豊かさ ・私よりも公( 滅私奉公) ・動よりも静 ・剛よりも柔 自分の命より名誉のほうを重んじ、それに増してすばらしいのは、「惻隠の情」(そくいんのじょう)(かわいそうに思うこと。あわれみ)に高い価値を見出していたことです。弱い者いじめや敗者に鞭打つなどの卑怯を最大の恥とし、弱者敗者をいたわり、護ってやるのが武士の情でした。
戦後、アメリカ的価値観を妄信する人が増え、武士道精神は急速に忘れ去られようとしています。軍国主義と結びつけて、頭ごなしに非難する人たちもいますが、しかし、卑怯者がはびこる現代社会にあって、かつての凛とした日本を取り戻すためには、「武士道」を蘇らせるしかないとおもうのです。 人間は、神代の昔から変わることなく、自然の恵みを受けて生活しています。森羅万象、見えないものまで、自然は子々孫々に受け継がなければならない人類共有の財産です。太陽・空気・水、どれが欠けても人間は生きていけません。これらすべてのものを、当然あるものと考えていないでしょうか。自然は人間が創り出したものではなく、一度無くしてしまったら取り返しがつきません。古代の日本人は、自然を崇敬し護るべきものと知っていました。失ってしまったらら元に戻せないと知っていたからです。古代人に習い、自然への感謝と畏怖の気持ちを忘れてはなりません。これらが、 『斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)の神勅』と繋がっているのです。
一人の人間は、小さな能力しかなく弱い存在なのに、なぜこの地球上に人類が君臨しているのでしょうか。太古の昔から、助け合うことが力になる、という知恵をもっていたからです。原始時代の人々は、火を熾せるようになり、道具を使うことも覚えました。皇室のご祭祀は、火を熾すことから始まります。古代さながらの鑽火(きりび)(堅い板に棒を揉み込み自然に起す清浄な忌火)で行われます。
そして神聖なものと崇められています。また、全国各地の神社の新嘗祭でも、新穀を得たことを神様に感謝し、境内で火を焚き上げ、火の災いを鎮める祭りが行われています。
人には必ず両親がいます。父母各一人の合計二人です。その両親にも両親がいます。自分からみれば、祖父母にあたる人です。父方と母方の祖父母各一組合計四人です。祖父母、つまり三世代前程度でしたら多くがご存命でしょうからすぐ思い浮かびますが、何世代前になるともうわかりません。
では、20世代前に遡ると何人になるでしょうか?
52万4288人、さらに30世代前になると5億3687万0912人、40世代前では2748億7790万6944人になるのです。
世代間年数を二十年とすると、20世代前で400年、30世代前で600年、40世代前では、800年前になります。
800年前は、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて19年後にあたります。人一人のご先祖様が800年前まで遡ると2748億7790万6944人もいるのです。
勿論、我国の人口が鎌倉時代初期に2748億も存在するわけがありませんから、同一人を重複して数えることになります。
同じ父母から生まれた兄弟姉妹。または、同じ国土に生まれた人々、同じ国民、また、同じ民族のことを同胞(どうほう)といいます。
上記の数字からも、日本人が殆ど、血の繋がりのあることの証左でもあります。
系図のなかった庶民では辿りようもありませんが、間違いなく同じ父母から生まれているのです。数多くのご先祖様のうちたった一人でも欠けていたら、今の自分は生まれてこれなかったはずです。これは生命の奇跡としか言いようがありません。一人一人の生命はやがてつきます。しかし、生命そのものは親の代から受け継ぎ、子の代へと引き渡されていきます。
かっての日本人とは、そのような民族だったのです。
そして、その時代のほうが、皆幸せであったように筆者は思います。
今一度、大らかで、高貴な、こころ優しい日本人の戻ってみませんか・・・
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日本の心
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コメント(2)
皇太子さまは23日、52歳の誕生日を迎えた。これに先立ち21日に記者会見し、1年で最も印象に残ったことについて東日本大震災を挙げ、「常に頭から離れませんでした」と振り返った。心臓の手術を受けた天皇陛下については、術後の見舞いで「いつもと変わらない声を聞き、安堵(あんど)しました」と語り、政府が検討を始めた「女性宮家」に関しては「親としていろいろと考えることもありますが、発言は控えたい」とした。
皇太子さまは、陛下の手術翌日の19日、秋篠宮さまと一緒に見舞った。会見で皇太子さまは、陛下が「お見舞いありがとう」と、はっきりとした口調で話したと説明した。 課題となっている「公務の負担軽減」については「配慮がますます重要」とする一方、「陛下のお気持ちに沿って考えるべきだ」とした。秋篠宮さまが昨年11月の会見で述べた「公務の定年制」については直接の言及は避け「いろいろな選択があるのでは」と語った。 皇太子さまは昨年11月に陛下が気管支肺炎で入院した際に約1カ月間、国事行為の臨時代行を務め、今回の手術でも17日から臨時代行を委任された。会見では、国賓の接遇など初めての体験もあったとして「研さんを積まなければならないとの思いを強くいたしました」と述べた。 雅子さまの回復状況や、長女愛子さまの登校が順調な様子も説明。皇室制度に関して秋篠宮さまが昨年、「私もしくは皇太子殿下の意見を聞いてもらうことがあっても良い」と語ったことに関しては、「今まさに政府が検討を始めたばかり」として発言を控える姿勢を示した。【真鍋光之、川崎桂吾】 ◇皇太子さま記者会見要旨 −−1年を振り返っての印象を。 震災のことは常に頭から離れませんでした。今なお震災や原発事故などで故郷を離れたり、不自由な暮らしをされたりしておられる方々のことを考えると心が痛みます。 −−天皇陛下の公務の負担軽減に関し、「定年制」が話題になりました。 過度の負担がかからないよう、配慮がますます重要になってくると思います。同時に、お仕事の一つ一つを心から大切にお考えになっておられる陛下のお気持ちに沿って考えるべきであると思います。周りで一生懸命に検討することが大切で、いろいろな選択があるのではないかと思います。 −−皇室制度に関し秋篠宮さまは昨年、「私もしくは皇太子殿下の意見を聞いてもらうことがあっても良い」と発言されました。 両陛下や秋篠宮とはさまざまな事柄につき話をする機会がありますし、発言についても承知しております。内親王(愛子さま)の親としていろいろと考えることもありますが、この問題は、今まさに政府が検討を始めたばかりであり、今後、国会をはじめいろいろな場で議論が行われることと思いますので、それ以上の発言は控えたいと思います。 −−雅子さまや愛子さまのご様子は。 雅子は自分自身の体調のこともある中で、本当に頑張って愛子を支えたと思います。焦ることなく徐々に活動の幅を広げていってほしいと思っております。愛子は今年に入ってからは、従来通りの形で通学し元気に過ごしています。管弦楽部に入部したことが大きな励みになったように思います。 最終更新:2月23日(木)5時0分
皇太子殿下にあらせられましては、52歳のお誕生日
おめでとうございます。
ご幼少の頃から、山岳にご関心を持たれ
百名山にも多く登山されるなど、山好きの私としても
とても親近感の持てる殿下でおられます。
実は何より私の両親が、私の名前を、
皇太子殿下のお誕生に由来して名付けしてくれたので
本当に親しみ深いものがあります。
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天皇陛下、皇后陛下 御尊影(平成24年一般参賀)
君が代 奉 祝
皇紀2672年
浦安国 紀元節 皇尊 彌榮 彌榮 彌榮
皇祖 伊勢神宮御正宮(ごしょうぐう)
建国の地橿原の宮 橿原神宮 外拝殿
橿原宮跡とは? 橿原宮畝傍山の東南にある。葛上郡と高市の境で、神武天皇が始めて本朝の国土を治めて宮都をここに造られた場所で建国の地です。 神武天皇畝傍山東北御陵 我國は世界最長、最古万世一系、畏くも天皇陛下を戴き、仰ぐ世界最古の國です。
明日は、紀元節です。
建国の理念を今一度胸に刻み、お祝い、畏くも今上陛下のご不例のご平癒を祈りましょう。
【神武天皇・皇都經營の詔・紀・紀元前二年三月】橿原奠都・八紘一宇の詔。
我れ東に征きしより、茲に六年になりぬ。皇天(あまつかみ)の威を頼(かゝぶ)りて、凶徒(あだども)就戮(ころ)されぬ。邊りの土、未だ清まらず。餘(のこ)りの妖ひ、尚ほ梗(あれ)たりと雖も、中洲之地(なかつくに)、復た風塵(さわぎ)無し。誠に宜しく皇都を恢(ひろ)め廓(ひら)き、大壯(みあらか)を規り摸(つく)るべし。而るに今、運(とき)、此の屯(わか)く蒙きに屬ひ、民(おほみたから)の心朴素(すなほ)なり。巣に棲み穴に住む習俗(しわざ)、惟れ常となれり。
夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)、必ず時に隨ふ。苟くも民に利(さち)有らば、何にぞ、聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且た當に山林を披き拂ひ、宮室を經營(をさめつく)りて、恭みて寶位(たかみくら)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎭め、上は則ち乾靈(あまつかみ)の國を授けたまひし徳(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫の正(たゞしきみち)を養ひたまひし心を弘むべし。然て後に六合(くにのうち)を兼ねてを開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いへ)と爲むこと、亦た可からずや。夫の畝傍山の東南(たつみのすみ)橿原の地を觀れば、蓋し國の墺區(もなか)か。治之(みやこつく)るべし。
※現代語訳
『東征についてから6年になった。天津神の威勢のお蔭で凶徒は退治された。しかし周辺の地はまだ治まらない。残りの災いはなお根強いが、内州の地は騒ぐものもない。皇都(みやこ)を開き広めて御殿を造営しよう。今世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開の慣わしが変わらずにある。そもそも大人(聖人)が制(のり)を立てて、道理が正しく行われる。人々の利益となるならば、どんな事でも聖(ひじり)の行う業(わざ)として間違いはない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人々を安ずべきである。上は天津神の国をお授け下さった御徳に応え、下は皇孫の正義を育てられた心を広めよう。その後国中を一つにして都を開き、天の下を覆いて一つの家とする事は、また良い事ではないか。見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真中である。ここに都を造るべきである。』
「日本書紀」のの神武天皇の条に「安国」の文字が見えます。「昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、此の国を目(なづ)けて曰(いわ)く、日本は浦安国(うらやすくに)、細(くはし)戈千足国(ほこちたるくに)、磯輪上秀真国(しわかみのほつまくに)」とあります。「浦安国」の「うら」は心を意味し、「安国」は安らかに治まる国、泰平の国の意味であり、『延喜式祝詞』の「祈念祭」には、「四方(よも)の国を安国と平らけく」とある。国の内外の平和を祈る言葉として、「安国」が使われています。
「浦安国」とは、古の日本を意味します。神祇の安寧慰撫と国の平穏無事 が「浦安の舞」に込められています。
2月11日は宮城(皇居)・橿原神宮・神宮を遥拝し、国旗を掲げてお祝いをしましょう。
橿原神宮 奈良県橿原市久米町。 旧官幣大社(現、別表神社)。祭神は神武天皇。同皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の二柱。明治八年(一八七五)奈良県は教部省に対し、神武天皇即位の地である畝火山東南の橿原宮の旧地に神宮創建の請願に及び、同二一年橿原宮の旧跡の考証成り、同二二年仰せ出された。明治天皇は、社殿として京都御所の内侍所及び神嘉殿を奉献され、同二三年橿原神宮の宮号を宣下し御鎮座。時あたかも神武天皇即位紀元二五五〇年に当たる。その後、昭和一五年紀元二六〇〇年記念事業として境内地、社殿及び付属建物が整備拡充され、雄大かつ荘厳な現在の規模に改められた。例祭は二月一一日の紀元祭で、勅使の参向がある。
神楽 浦安の舞
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