八ヶ岳にある薬草・樹木 と 男の腕まくり

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思い出の木

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ソメイヨシノ Prunus yedoensis              バラ科
五稜郭公園の桜

日本の象徴、サクラ。奈良時代の日本は、中国の影響を受け、花といえば「梅」であった。それが平安時代になると「桜」に変わっている。この桜という語源も、いろいろな説がある。「さくや・咲耶」、「さきうら・咲麗」、「さきはや・咲映」などがあるが、すべて花が咲くということに由来し、桜の花が咲くことを愛でることが重要だったことがうかがえる。
子供の頃のアルバムに、家族と、両親の親しくしていたご夫婦とで、お花見にいった時の思い出の写真がある。鍔のある学生帽をかぶって、正装をし、おすましをしている。サクラの木の下にゴザをしき、ジュースを飲んだり、手作りの海苔巻き、稲荷すし、卵焼きなどのご馳走を食べた。父は酒もタバコも駄目だったが、周りでは、カラオケこそなかったけれど、飲めや歌えの大騒ぎの宴が繰り広げられ、酔っ払いも多かった。花見は当時、数少ない娯楽のひとつだった。その場所は、函館の五稜郭公園である。函館には、この五稜郭と、石川啄木の歌「函館の青柳町こそ悲しけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」の碑のある函館公園が、桜の名所だった。
話しを戻すが、五稜郭公園は、城郭が五角の星形をなし、江戸末期に造られた我が国初の洋式城郭。明治維新の際、榎本武揚(たけあき)が官軍に抵抗した舞台として広く知られている。堀の内外には、桜が約二六〇〇本咲く。約八割はソメイヨシノで、二割は八重咲きの関山(かんざん)や普賢象(ふげんぞう)、鬱金(うこん)などのサトザクラである。ここの桜は、大正二年(一九一三年)に函館毎日新聞社が一万号発行記念として約五〇〇〇本を植樹したのが始まりだという。確かに太い堂々としたサクラだったと思うので大正時代に植えられたとすれば当時四〇年は経っていたのかもしれない。花見はゴールデンウイークの五月に入ってからだった。したがって、甲府のソメイヨシノの開花と比較すれば一ヶ月はずれている。
山梨にきて初めての花見をしたのは、山中湖にある東京大学の演習林の庭であった。東大の山中湖演習林とは共同で仕事をしていたので、演習林を管理していた方々も加わって行われた。
ここでのサクラは、自生しているフジザクラ( Prunus insisa)が多いが、富士山麓一帯にこのフジザクラが分布している。別名マメザクラといい、樹高もせいぜい五・六m前後で花も小さい。直径二cm前後の花が散形状に横向き下向きに咲く。ここ山中湖での花見は、五月に入ってからだと思う。そんな意味で、函館生まれの私には、山中湖に同じ季節観を感じ、うれしかった。
開花の仕組みはどうなっているのであろう。桜は前年の夏に花の元になる花芽をつくる。そのまま休眠し、秋から冬の低温に一定期間さらされると休眠から目覚めるいわゆる休眠打破が起こる。休眠打破は一度以下では起きず、二度〜一二度の気温が打破を促進する。目覚めた花芽は春の気温の上昇に伴い。生長し開花することになる。
したがってソメイヨシノの開花は気象温度でも予測することができる。一般に一日の平均気温が一二―一三℃になると開花し始めると言われている。しかし雪国と言われる地方では一〇℃、開花から満開になるのにかかる日数はおよそ七―八日間、東北地方では五日間で寒冷地になるほど開花から満開までの日数が短くなるといわれている。これもあくまでも目安で、木の個体差も大きい。咲いた花は一週間で散る。 
サクラの開花は、八分咲きのまだ若いときもよし、満開の一瞬もよし、さらに花びらが舞散ってゆく姿もまたよい。日本に生まれ育った我々は、そうした移り変わりを愛でる情緒風流があることに優越感を覚える。
サクラは日本の国花であり、山梨県ではフジザクラが県花となっているのがうれしい。ソメイヨシノはオオシマザクラ(関東地方や伊豆七島に多い)とエドヒガン(他のサクラより早く開花する)との雑種である。木の生長が早く、春、葉に先立って開花する。花は淡い紅色の五弁の花びらを持ち、萼(ガク)や花柄、葉などには軟らかい毛が多く生えている。江戸時代末期に、江戸染井の植木屋さんから売り出されたのでソメイヨシノの名前がついたといわれている。
フジザクラは、 花の直径は二センチほどで,小さいことからマメザクラという名前になった。木の高さも 三 〜 八メートルとあまり大きくならず,桜の中では最も葉が小さく、枝も細い。日当たりの良い山地の、比較的若い林や、風当たりの強い土地にも生える。
 分布範囲は狭いが、富士火山帯地域、箱根山地では、比較的多く見られ、花時は可憐で目立つ。
インドネシアで仕事をしていた時、ジャカルタから車で一時間半ほど南へ走ったところのプンチャック峠に、ボゴール植物園の分園、チボダス植物園があり、そこを訪ねたことがある。この地域は標高も結構高くなっており、雨の日などは肌寒いほどである。気温の急激な変化を利用してか、お茶畑が山の斜面に広がっており、そうした気象条件であるので避暑地・別荘地ともなっている。この植物園は別名「花の植物園」ともいわれ、亜熱帯植物を集めている。インドネシアにきて、はじめてサクラを見たのはここである。ヒマラヤザクラ(Prunus cerasoides )の表示板があった。日本のサクラよりも色が濃く花びらは重ならず一枚一枚でソメイヨシノとは、すこし異なるが、やはりサクラをみると日本人であることを意識する。日本のサクラの故郷はネパールのヒマラヤ地帯という説もある。ヒマラヤザクラは、ヒマラヤ山脈の標高一一〇〇〜二三〇〇mの暖温帯に分布している。日本には、ネパールのビレンドラ国王が日本留学中に熱海市に寄贈された種子から育てられた三本が知られている。毎年一一月下旬から一二月にかけてピンク色の見事な花を咲かせ、正月には若葉が青々として人々の目を楽しませていると聞いた。最近、二酸化窒素の吸収同化能力が優れていることがわかり(ソメイヨシノの五倍)、地球温暖化に一役かうサクラとして注目されてきた。
サクラの開花時期でないのにサクラが咲いているとのマスコミの問い合わせが、秋以降に毎年ある。
本来開花する時期に咲かないで、季節外れにサクラなどの花が咲くことを「狂い咲き」と言うが、この現象はどうして起きるのであろうか。
開花について「成長抑制ホルモン」の視点からみると、サクラなど落葉樹の場合、花芽分化から開花するまでのメカニズムは、花芽ができた後で、各葉に「成長抑制ホルモン」が作られ、これが花芽に移動する。そして葉は役目を終えて落葉する(休眠)。花芽は例え季節外れの暖かさがやってきても、「成長抑制ホルモン」の効果から、そのまま冬を越す。そしてこの「成長抑制ホルモン」は冬の寒さによって壊される(休眠打破)。この「成長抑制ホルモン」が壊されてから、春を迎えて暖かくなると、グングン成長し、ちょうど良い時期に開花するのが通常の姿である。ところが、各葉で作られた「成長抑制ホルモン」が花芽に移動する前に、大型台風、異常乾燥などによって、大事な葉が早く切り取られると、「成長抑制ホルモン」が花芽に届かないでしまう。それでも異常な暖かさがやって来なければ、花芽はそのまま冬を越すので、「狂い咲き」は起きない。問題は、台風などで「成長抑制ホルモン」が花芽に届かない場合で、かつ異常な暖かさがやってきた時に、もう春が来たのかと勘違いさせられ開花してしまう。つまり、「成長抑制ホルモン」が花芽に届かない場合で、異常な暖かさがやってきたという二つの条件が重なった時に、「狂い咲き」と言われる現象が起きる。「狂い咲き」というとなにやらロマンチックな響きがあるが、なんのことはない、桜は素で間違えているのである。
職場の近くの大法師公園で毎年桜祭りが盛大におこなわれている。その開催期間をいつにするか本当にその予測が大変のようだ。二〇〇二年の春は、桜が平年よりも二週間あまり早く咲いた、このため種々の影響がでた。
生物季節は、桜の開花や満開など、温暖化の影響を直接受ける感度の高い指標とみることもできる。甲府では一週間ほど早まっている。今後、こうした生物季節現象や植物の生長を注意深くみていくことにより、温暖化の影響の発現をいち早く検出できるので、影響を緩和するべく適応策の検討も容易になると考えられる。花言葉は「優れた美人」。

シラベ

シラベ Abies Veitchii                マツ科
オオシラビソ Abies mariesii
社会に出て最初の研究

私には苦い経験がある。大学四年生になり就職を考えなければならない年となった。卒業研究の面白さから、研究の延長上で仕事をしたい、出来れば試験研究機関で働きたいと思った。大学院も考えたが、当時は大学院に入るには、東大など旧帝大の博士過程に入ることであり、遠い世界に思えた。森林林業の研究というと、手っ取り早いのは、地方公務員になり試験場に入ることだった。某県の上級職を受けた。一次試験が受かり、私の恩師・船引浩三先生は、わざわざその県に行き、県庁と試験場にいって頭を下げてくれた。しかし、にもかかわらず最終結果は、「不採用」との通知を受け取った。船引先生から大目玉をくらった。「君は何を面接で話したのだ。普段から口数の少ない君だが、きちんと受け答えが出来なかったのか!・・・」と。すっかりまいってしまった。落ちたことより、先生の怒りにあったのがショックであった。落ち込んだ私を見かねた研究室の山田昌一教授は部屋に呼んでくれ、小さなデミタスカップで本物のコーヒーをご馳走してくれた。先生は言葉少なく「人生は思い通りにならない。・・・・しかし人生には無駄がないのだよ!」そういって慰めてくれた。その言葉はずっと忘れられず、その場面が脳裏に焼き付いている。「人生には無駄がない!」、その言葉の意味がこの頃ようやく納得できる様になった。私はそのことを、子供たちに講演する機会があると、いつも、「人生には無駄がない。」、「すべて時宜にかなうように・・すべて時にかなって美しい。」と、体験をもとに話している。
さて当時、そのことから大学に研究生として残りたいとお願いしたが、「早く社会に出なさい。」ということで、富士吉田にあった山梨県林業試験場(現在の森林総合研究所富士吉田試験園)を紹介され、二二条職員として採用された。このことは私の望んでいた仕事が可能になった一歩であった。
本当に良き先輩に恵まれ、良く訓練された。途中から国の研究機関に転出し、育種研究、育種事業、海外協力で活躍された古越隆信博士(インドネシアでも一緒に仕事をさせていただいた)、古越さんには育種の実践研究の手ほどきを受けたと思っている。 アイディアいっぱいで仕事熱心の故長田十九三氏、長田さんからは、「良く学び、良く遊べ」と、よく言われた。仕事を精一杯する、そのかわり、ストレス解消も忘れるなということだったと思う。そして苗畑で育苗、交配、さし木、接ぎ木など実践を指導受してくれた故広瀬弘江氏、この三人が私の試験研究の礎だったと感謝している。床造り、タネまき、交配、増殖、種子採取、富士山の植生調査などよく外を飛び回った。
この三人からは仕事だけでなく、お酒も教わった。全くアルコールが駄目だった私が日本酒を飲めるようになったのは、この三人に鍛えられたからである。毎日夕方になると、「おい、清藤君、刺身のブツを買ってこい」、近くの魚屋へ行くのが私の夕方の仕事で、酒屋から研究室に一升ビンが届けられて、一升を空けるまで飲むのが日課であった。

先輩からテーマが与えられた。「亜高山樹種としてモミ属は重要である。特にシラベ(AbiesVeitchii)は亜高山地帯の重要な造林樹種なので、シラベに関する遺伝育種研究をやってはどうか?」。
 そこで始めての研究テーマとして、シラベをとりあげた。シラベの的確な種子採取時期を把握するため、富士山に調査木を定めて雌花から球果に発達する過程で、形態の成長、色、比重、含水率、胚の成長、発芽率を時系的に調べていった。その結果、九月中旬が採取適期という結論をえた。これがはじめて学会で発表した仕事であった。その後の研究では、人工交配するため、雄花、雌花の開花時期を、シラベ、ウラジロモミ(Abies homolepis)で調べ、花粉の採取時期、花粉の採取方法等をも調べたのは懐かしい思い出である。
また、一九六八年の夏、国の試験研究機関の前田禎三先生(後宇都宮大学教授)と土壌研究室の宮川 清氏のお手伝いで、シラベ、オオシラビソ(Abies mariesii) 林の植生を調べるため野呂川に入山した。お二人とも本当に熱心で、連日地面に這いつくばって夜暗くなるまで芽生えや稚樹の数を数えたことは忘れがたい。その時は野呂川の事業所に寝泊まりしていたのだが、前田先生の同級生が県庁の総務部長であったせいか、お酒の差し入れが毎日あった。大酒飲みの前田先生と、一口で赤くなる宮川さんの組み合わせで夕食をとるのが、おかしかった。先生は朝早く目を覚まし、戸を開けはなち外を眺めながら、昨晩の飲み残しの冷めた徳利のお酒を飲んでいた姿が、なつかしい。
その時の仕事は、亜高山林の植生タイプ、カニコウモリ型、コケ型で種組成、後継樹の数がどうちがうのかを調査した。コケ型では、稚樹の本数は、ヘクタール一〇〇,〇〇〇本から一二〇,〇〇〇本という数で、一方、カニコウモリ型では少なくなり、二,〇〇〇本前後、倒木更新はコケ型で多いことがわかった。
我々林学屋は、シラベと呼ぶが、生物屋さんは、シラビソと呼ぶ方が多い。どちらも和名としては間違いではない。シラビソは、「白桧」で、白いヒノキの意味、シラベが本来ヒノキの代用とされたといい、しかもその樹肌がヒノキに比べていちじるしく白いので、これをシラビソと称した。このシラビソが、シラビと略され、それがなまってシラベになったようである。オオシラビソは球果が大きいシラベが由来である。
さてシラベとはどんな木であろう。クリスマスシーズンに園芸店で売り出されるモミの木を想像していただければよい。北海道ではトドマツかもしれないが、本州・少なくても山梨ではシラベがモミの木として売られている。シラベの分布は本州・福島県から和歌山県、四国の亜高山地帯に分布し、県内では富士山、南アルプス、八ヶ岳、関東山地の標高一六〇〇m〜二五〇〇mの亜高山帯に生育している。、亜高山帯を代表する樹木の一つである。一般的に樹高は二〇〜三〇m、幹の直径は三〇〜五〇cmになる。純林を形成するときには林の下はとても暗くなり、下草はコケの仲間で覆われていることが多くなる。コケ地帯では倒木更新が実にうまく行なわれている。 亜高山帯には本樹に似たオオシラビソ(アオモリトドマツ)が自生しているが、シラベは小枝につく細長い葉は枝に対して左右対象的につくが、オオシラビソはシラベのような左右対象の葉の間から馬のたてがみのような葉がでるのが特徴である。球果は青紫色であり、長さ五〜六cm、直径二cmで樹冠上部の枝に直立してつく。
山梨のシラベの人工林は一一六〇五ヘクタール、蓄積二〇一三立方メートルにおよぶ。富士山麓では天然林の伐採の後、カラマツとシラベの列状混植林も多く見られ、時間の経過とともに、シラベがカラマツの樹高を追い越した林分も多い。
 筑波の学園都市にある国立森林総合研究所に、遺伝分析手法を学ぶため、三ヶ月間の短期研修に行った。研修には二〇代・三〇代の研究員が行くのが通例であるが、私が行ったのは四〇後半になって行った。受け入れてくれた生態遺伝研究室の当時のメンバーは山本千秋室長、北村系子氏、関 剛氏。歳をとって行ったため、自分で好きにやるように言われ、本当に充実した三ヶ月であった。多くの研究者に出会い、また、さまざまな新しい情報の収集が出来るなど触発されることが多かった。この間インドネシアの研修生とも同室でインドネシア語を教えてもらったり、また時折仕事のあと部屋で飲み会があったり、また北村さんや仲間で結成した「テルフォレスター」というテレマークスキーのメンバーになり、休みにスキーへ行ったり、レースに出たりで、それは変化に富んだ楽しい研修期間であった。
その時にやった仕事がシラベの遺伝子分析である。当時はまだシラベの遺伝子分析はみあたらず、シラベの遺伝変異、繁殖構造の解析を行うには先ず遺伝子マーカーの探索が必要だった。ここで確認できたシラベのアイソザイム標識遺伝子は七酵素種七遺伝子座一四対立遺伝子であった。
このときのテクニックが、翌年派遣されたインドネシア林木育種研究所のプロジェクトでの技術移転に役立つことになった。
話をもどす。オオシラビソは青森県八甲田山から南アルプスの加賀白山までの亜高山帯に生育する常緑針葉樹である。緩やかな傾斜地では樹高は三〇m、直径五〇〜八〇cm近くになる。葉は長さ一〜二cmで先端に向かって幅は広くなり、先端は円い。オオシラビソはシラベのような左右対象の葉の間から馬のたてがみのような葉が出、葉の裏は白色であり、葉が立ち気味なので、横から見ると白さがめだつ。球果は黒紫色であり、シラベ同様に樹冠上部の枝に直立してつき、長さ六〜一〇cm、直径四〜五cmでシラベより大きい。
オオシラビソは湿潤多雪地帯によく純林を形成するが、積雪量の少ない太平洋側にシラベ林が形成され分布する。脊梁地帯では両種が混生している。山梨県の亜高山帯でも混在しているところもみられるが、微地形的にみると、凹地形ではオオシラビソが凸地ではシラベが発達している。
歴史的過程で説明すると、氷河期に温度が低下することにより、より低い標高に分布は移動する。最終氷河期以降・約六〇〇〇年前に、現在よりも高い気候の時期があり、逆に高標高域に分布は移動し、低い山では絶滅がおこった。これを「追い出し効果」といい、温度が再度下がった現在でも針葉樹林が回復しない場合が多い。また、一方では日本海側が多雪気候になったのは最終氷河期以降で、多雪に弱いシラベは絶滅し、比較的雪に強いオオシラビソのみがいくつかの山で残った、とする説もある。
集団遺伝学的にはシラベは北海道のトドマツと近縁関係にありアジア分布域にはいるが、オオシラビソとは近縁ではなく、オオシラビソは北米太平洋岸分布種と近縁であることが明らかにされた。それはモミ属の中でもオオシラビソは古く分化したものが日本列島に遺存した種と考えられている。
シラベは富士山北麓にずいぶん造林されているが、困ったことが起きている。それはニホンジカの樹皮食い被害が増えていることである。一九九三年頃から被害が発生し一九九九年には急増している。被害に遭うのはシラベがほとんどで、ウラジロモミ、ヒノキにも被害はでているが、多くはない。八ヶ岳地域ではカラマツに被害がみられ、しかし富士山麓ではカラマツの樹皮食い被害がほとんど無いのも特徴である。なぜシラベを食べ,カラマツを食べないのか、恐らくニホンジカの母親の集団の違いによるものと思われる。それは個体群の遺伝的違いを明らかにすればよい。現在DNAのマイクロサテライト分析により遺伝的多様性を明らかにし地域個体群の違い、個体交流の範囲・頻度が明らかにされつつある。
また病虫害では富士山麓のシラベ人工林においてトウヒツズヒハマキによる被害が一〇〇ヘクタールにもおよび、多くの枯死が生じていて、これも今後の更新がどうなるか問題でもある。皮肉にも単一樹種一斉造林の弊害を示す展示場となった。
花言葉は「高尚」。

モミ  ウラジロモミのお話し      

 クリスマスの歌にもなっているモミの木だが、子供の頃見ていたクリスマスツリーは、トドマツだったかもしれない。また大学時代に過ごした新潟にはモミはなかった。モミの天然分布を調べてみると、やはり北海道、北裏日本にはほとんど無い。
山本周五郎の時代小説に有名な「樅の木は残った」がある。伊達騒動の中心人物である原田甲斐が、江戸の寺に仙台からモミの木を移植した。その木に伊達家の命脈を託して象徴的に表現したものである。小説の中で、原田甲斐に「樅の木は北国の風雪に強い木で,江戸では暖かすぎて良く育たない」と言わせている。でもこれはおかしいと思う。周五郎の思い違いで、もしかしたらアオモリトドマツ(Abies mariesii)であろう。もしモミの木というなら、北国の木という表現は当たらない。仙台が北限でそれより以南、四国、九州、屋久島に達する日本固有種である。温帯下部によくツガと混交している。モミは常緑の針葉樹。成長は早く、大木になる。神社の境内や社叢などに生育していることが多いが、近年は各地の二次林にも稚樹が生育しているのが認められるようになった。マツ枯れの後に侵入したものと思われる。本来の生育地は夏緑広葉樹林と照葉樹林の境界域を中心とした地域であり、それを指して中間針葉樹林帯と呼ばれることもある。地形としては尾根筋や斜面上部などの急傾斜地であることが多い。アカマツと同様に、発芽・定着には腐植質が地表を覆っていないことが必要であり、斜面崩壊や表面侵食などによって鉱物質土壌が表面に裸出しやすい立地に生育する。
 神社では、神様がおりてくる際に目印となるような樹木が好まれる。先端の尖ったスギやモミなどの針葉樹が最適のようであり、このような役割を持った樹木を「当て木」(あてぎ)という。神社に生育しているものには、当て木として植栽されたり、積極的に残されたものも多いものと思われる。
 山梨県では、集団でまとまっているモミ林といえば韮崎の旭・甘利山へ向かう道を途中左におりて林道旭山線に入った苗敷山にあるモミ林で、樹齢九〇年を越す見事な林である。ここは穂見神社の入り口で、まさしく当て木として神の降りてくる目印の意味をなしていたと思われる。モミがあったから神社をそこに建てたのか、それとも自然に生えてきたのか不明であるが。ここからモミの葉のサンプルを採取し、九州大学の白石 進教授に送ったことがある。 九大ではモミ属の遺伝的変異をDNAマーカーで調べているが、結果はどうなったか聞いてない。 モミは材木としては良材ではなく、棺桶ぐらいにしかならないとの話も聞く。あまり利用されなかったために残った側面もあるのかもしれない。

モミに似た樹種にウラジロモミ(Abies homolepis・一名ダケモミ・ニッコウモミ)がある。山梨にきて初めて担当した仕事は苗畑担当であった。当時は富士吉田の現山梨県森林総合研究所富士吉田試験園の苗畑でこのウラジロモミも育苗した。モミ属の中でも比較的生育がよい樹種である。天然分布は福島・栃木以南の本州中部山岳地方を中心に、紀伊山地と四国山地の山地地帯から亜高山帯に分布するこちらも日本固有種である。
名前から葉の裏が白いことでウラジロモミと言われるが、モミの葉裏面にも白色の縦線があり、葉先の色では区別がつかない場合も多い。どこで見分けるか、一番は一年生枝を見て有毛で葉の先が二尖形を呈するので痛いのがモミ、一年生枝は太く、浅い溝が著しく無毛で光沢があるのがウラジロモミである。モミに比べウラジロモミの樹皮は赤みが強い。 モミの球果は円筒状で灰緑色であり、ウラジロモミは円筒状で農紫色である。
吉田の試験場勤務時代、ウラジロモミの球果採取で富士吉田市の浅間神社のウラジロモミの木に登って球果を採取したら緑色であった。これは新しい品種か、と国の試験場に送って調べてもらった。それはミツミネモミ(Abies×umbellata)ということであった。ミツミネモミとは本州中部のモミとウラジロモミが接する地帯で見られる交雑種で、両種は自然交雑種が生じやすいということをその時知った。
山梨県ではウラジロモミの人工林が富士山麓を中心に1912ha、蓄積262立方メートルである。天然林では大菩薩にある長兵衛山荘南側標高1600mにある学術参考林が立派である。

さて、クリスマスツリーはモミの木となっている。歌では「オー、タネンバウム、オー、タネンバウム〜、」ドイツ語でタンネンバウムはモミの木、本当にモミなのか?本場ドイツでは元々はヨーロッパモミ(Abies alba)だったと思うが、現在はほとんどなく、クリスマスツリーとして使われているのは大抵ドイツトウヒ(ヨーロッパトウヒ)(Picea abies)である。
では日本ではどうか?私がクリスマスシーズンに売られているのを見た限りでは、モミ属(Abies)とトウヒ属(Picea)で、シラベ(Abies veitchii)、ウラジロモミ、ヨーロッパトウ(Picea Abies)である。北海道ではトドマツ(Abies sachalinencis)、エゾマツ(Picea jezoensis)が一般的に使われる。モミは痛くて扱いにくく、上記のモミ属、トウヒ属の樹種は栽培しやすことから、普及するようになったのであろう。山梨の花屋さんの店先では、したがってクリスマスの「モミの木」というのも、正確にはシラベ、ウラジロモミ、ドイツトウヒで違うということになる。アメリカ産の組み立て式のクリスマスツリーを見たことがあるが、これはホワイトパイン(Pinus storobus)を模っていた。
このクリスマスシーズンになれば、あちこちで見かけるクリスマスツリー、その由来はなんであろうか。イエスキリスト誕生の地イスラエルの地には、モミは無い。もしその地の常緑樹ではじまったとするならば、レバノンシーダー(スギ)(Cedrus libani)、イトスギ(Cupressus senpervirens)とかでなければならない。そうなると、さしずめ日本ではヒマラヤスギ(Cedrus deodro)とかにるはずである。
そんな疑問からなぜモミになったのか調べたことがある。
この由来は八世紀のやはりドイツにさかのぼると言われている。当時のドイツには、ドルイド教団(キリスト教に改宗する以前の古代ケルト族の僧・妖術師・詩人・裁判官など)と呼ばれる人たちがいた。彼らはオーク(木)を崇拝し、幼児犠牲を捧げていた。伝説によると、イングランドからの伝道者であるボニファティウスが、それを止めさせようとしてオークを切り倒した時、一本のモミの若木に変わる奇跡が起こった。それを記念するためドイツではモミの木をクリスマスに植えるようになったということである。また、一六世紀のこと、有名な宗教改革者マルチン・ルターがクリスマスイブ礼拝の帰り道、森の中で常緑樹の枝の合間にまばゆく輝く無数の星を見、その美しさに打たれたルターは、それを子供たちのために再現しようと、家の中に木を持ち込み、火を灯したろうそくを枝にくくりつけたそうである。それから、ドイツではクリスマスツリーが一般的になり、次第に色々なオーナメントが飾り付けられるようになってきということである。クリスマスツリーの習慣は、ドイツからの移民たちによって一九世紀初頭にはアメリカへと伝えられた言い伝えがある。
 また、イギリスでは1841年、ビクトリア女王の夫君であるアルバート公がウィンザー宮殿でクリスマスツリーを飾り付けたのが始まりとされている。ツリーには必ず常緑樹を使う。この「常緑」、つまり強い生命力をもって一年中葉を茂らせる緑の姿は永遠をあらわし、さらに神の永遠の愛や、イエス・キリストが与える永遠の命を象徴している。
永遠の命の木の生命力にあやかろう、祝おうという習俗は、実に無数にある。古代ローマの時代から、ローマ人達は季節ごとに月桂樹の枝を戸口に飾っていた。また、クリスマスが近付くと、時代が経つにつれ、クリスマスの間にモミの若枝を天井からぶら下げて飾るようになってきた。今でいう「クリスマスのリース」であろう。これが今から300年程前頃には、現代のような、木の枝に林檎やお菓子を下げ、蝋燭を点けたものになっていたようである。木に吊るされる玉は本来リンゴ、つまり生命の果実である。吊るされる人形は、古い異教の信仰の「木に吊るされた生け贄」の代用からはじまったという説もある。
 世界的に見れば、木を運び込んで飾り付け、祀るのは、しばしば見られる。西欧の「五月柱(メイ・ポール)」、日本にも同様のものはある。例えば七夕の笹。地方によっては、小正月(旧暦の正月)には木の枝(ミズキ)に、紅白の小餅を花のようにくっつけて飾り付ける。
ツリーの先端に飾られる星は、三人の博士を幼子キリストの元へ導いた”ベツレヘムの星”を表している。
ちなみにクリスマスにはヒイラギ(Osmanthus heterophyllus)のリースも持ちいられる。この意味は、やはりイエスキリストに関わることで、イエスキリストが十字架につけられる前にいばらの冠をかぶらされた。刺(とげ)のようなヒイラギの葉は、そのいばらの冠を象徴している。また、赤い実をつけるが、その赤い実は私たちの救いのためにイエスキリストが流した血を、そして緑の葉はやはり永遠の命をあらわしている。クリスマスはイエスキリストの誕生を祝うお祭りと考えるが、信仰的にはキリストの十字架の死と復活まで意識したお祭りなのである。
花言葉は「高尚、時、昇進」
  

イチイ

イチイ  Taxus cuspidate                 イチイ科 
北海道はオンコ、山梨はヘダ                             
 家の生け垣や庭木として植えられていることも多く、子供の頃は「オンコ、オンコの実」と言って、近所の家のイチイの実を食したものである。北海道では、今は阿寒湖畔周辺、美幌峠、屈斜路湖周辺など観光地だけに天然分布が限定されてといると聞いたが、元々は道内のイチイの天然分布は多かった。種子を包んだ赤い肉質の仮種皮はゼリー状で甘く、よく競って食した。 しかし、中のタネが有毒だと知ったのは大人になってからである。調べてみると、主要物質はタキシンであり、これは英語の毒素=toxinの語源といっしょで、つまりは『イチイ=毒』なのである。鳥はこのイチイの実を食べるが種子は糞とともに体外に排出する。しかし、人間が食べられるのだろうと、種子ごと飲み込んでしまうと、四、五粒で呼吸・心臓麻痺、一瞬のうちに心臓停止で死に至るらしい。 子供の頃によくも事故に会わなかったと思うと恐ろしい。  
 なぜ、種子に毒があるのだろうか、おそらく種子の分散繁殖に関係すると思われる。樹木の繁殖は、樹木出現の最初は、風散布であったろう。針葉樹がたいていそうである。種子に羽根がついていて風散布するのである。広葉樹の中でも比較的古いカバノキ科、ヤナギ科などは風散布、カエデ科も羽根で舞うのである。そして針葉樹で風散布の例外がイチイ科、イチョウ科、マキ科、イヌガヤ科である。これは進化の後期に属すのであろうか、とにかく液果のイチイ、イチョウは後の広葉樹に受け継ぐべく針葉樹群から進化していったと思われる。イチイ種子の鳥散布であるが果肉は食べられてもよいが、タネは食べられてはこまるので、毒を含ませた種子をはき出すための戦略を生み出したのではなかろうか?この毒を混ぜるのは広葉樹のナラやトチノキに受け継がれている。ナラはタンニンを、トチノキはサポニンを混ぜている。一般の広葉樹には毒を混ぜなかった。なぜなら、鳥や動物の胃腸を通過しても消化酵素によって溶けることのないよう、種子の外皮を堅固な構造にする戦略をとっているからだとおもう。  
オンコの呼び名は、北海道、東北地方で呼ばれ、アイヌ語からきたらしく、アイヌの人々は「神の木」と呼んでいた。
山梨県では富士山北麓に多く、忍野では「ヘダの木」と呼んでおり、民家の垣根に好んで植えられている。それは、イチイが干ばつにも強く、庭木には適当な生育で手入れが容易なのが特徴で、夏でも涼しい忍野のような高冷地の気候が適しているからである。忍野村には珍しいイチイの群集や樹齢三〇〇年以上もの巨木がたくさんある。特に忍草浅間神社の境内にあるイチイの群集は樹齢四五〇年と推定され、神社を守ってきた巨木群には目を引くものがある。また巨木としては山梨県指定になっている七面山の大イチイがある。この大木は周囲六.一m、樹高二三mもありもあり、みごとである。
イチイは、アララギの別名がある。歌人・斎藤茂吉らの「アララギ派」はこの木をシンボルとしている。
 イチイの名前は、仁徳天皇が即位の儀式に、飛騨川の水源である位山(くらいやま)の「いちいのき」で作り、この木でつくった最初の笏と衣桁(いこう)を献上した一一五九年(平治元年)の記録が山麓の水無神社に残っている。このとき優れた用材と認められ、木に「正一位」の位を賜り、「一位の木」と呼ばれるようになったと伝えられる。
 樹皮はスギと似ているが、スギよりもっと赤みが強い赤褐色で、スギよりもっと細かい縦の割れ目があり、葉はモミの木に似ているが、もっと細くて軟らかく、とがってはいるが葉先にさわっても痛くない。
 イチイは秋になって、本当に真っ赤なルビーのようにきれいな実をつける。 全部の木につけるのではなくて、雌の木だけにつける雌雄異株である。 イチイは実も赤いが、木材にした時の心材も赤っぽい。スギやネズコなどより赤みが強く、また成長が遅いので年輪が緻密で、材としてもスギやネズコより比重が大きい。 針葉樹の中ではかなり堅い材に属し、材の強度も充分ある。 また年輪が細かく、木理は通直で、木の肌もなめらかで光沢があり、優美な感じがする。さらに板の反りや割れも少なく、材が重厚な割に切削などの加工も容易である。 つまり、大きな大木が少ないということを除けば、材としては非常に優れた材と言える。また、これほど木工に好適な材はまず見当たらないとさえ言える優良材である。
  建築材や家具につかえるほどの量は確保できなくなったので、現在使われるものは、彫刻など小さくて高価なものの原材料である。赤くて艶がある材質が珍重がられるので、寄木細工や象眼細工の材料となることも多い。 飛騨の高山では、「一位一刀彫」という伝統の工芸があり、現在でも沢山の彫刻師たちがいる。
樺太では、果実を脚気の薬、及び利尿剤とした。また内皮を煎じて下痢止めにした。一般には、葉を利尿、通経、糖尿の薬とし、果実を咳止めや下痢止めに用いている。
欧州ではもっとも貴重な造園木であり、トピアリーといって造形的な刈り込みにしたりし、史的名木、巨樹、老樹は保護されている。伝説や詩歌に多く現れる。一般的に墓の木Church-yard tree、 Church-yard Yew、あるいは葬送の樹Funeral treeと呼んでいる。英国で最も古い木のひとつとされ、少なくとも9000年前からの生息が認められている。長生きする木として知られることから、墓地に植える習慣ができたという。
イチイと教会、イチイと牧師にまつわる話も多い。英文学に現れる巨木は多くはイチイとオーク(カシ)である。たとえば、リチャード王に忠誠を誓ったロビンフッドだが、王の死後、討ち取られることになった。新しい王の部下と戦い傷ついた彼は矢の落ちたところに埋葬してくれと、リトルジョンに頼むと、その矢はイチイの木の根元にささったという。
 かつてウェールズでは各種の樹木に課税する法律がしかれたことがあり、なぜ牧師なのかわからないが、牧師の使うヨーロッパイチイに一ポンド(一七〇円)、ヤドリギの枝に六〇ペンス、サンザシに七ペンス半、その他の樹木に一ペンスを課したという。欧州各国では三大老樹種と呼んで、オーク、シダーと共に愛護している。英国の老木には周囲八m、樹齢二〇〇〇年といわれるものがあるそうだ。この牧師への課税は、御神木的に教会のシンボルツリーとして植えられているが故、保護する意味であったのであろう。
近年イチイの皮に含まれる物質から 乳癌の特効薬が発見され治療に成功している。治療に成木二本が必要といわれアメリカのイチイが激減しているという。
 花言葉は「高尚」。 

ダンコウバイ

ダンコウバイ Lindera obtusiloba             クスノキ科
断固覚えろ!

大学を卒業し、仕事について県内の山を歩き回った。私の研究守備範囲は、大学での専攻を生かした育種、造林であった。しかし他のこともやった。特に山林の土壌を調べる事業・適地適木調査事業にたずさわり、樹木、森林土壌、森林立地、気象など経験的に学ぶことができた。これは、なんでもやらせられる地方の試験研究機関の強みでもある。以外と専門家はその道しかし知らないことが多いが、私は、植物の名前はある程度わかるし、森林保護的な病虫害・寒害も、庭木の診断処方肥培などある程度万能であった。ある時、国の研究所の方が調査に来て山の調査にご一緒したが、「清藤さん良く木の名前がわかるね?」といわれたことがある。その方は生理生態的な研究をされていて若手で有名な方であったが、その言葉が意外であった。私は特別でなく並程度のレベルであるのだが。地方は専門的に一流プレーヤーで活躍するには相当の覚悟と努力を要するが、ジェネラリスト、リベラルアーツ的養いが出来るところとしての長所を生かせる強みもある。
このダンコウバイも土壌調査の際、先輩から、「断固覚えろ!」といわれて知った樹種の一つである。
山好きな方ならじっとしていられず、早春のまだ木々の開葉がみられない時期でも山歩きされるであろう。そんな時、出会う目立つ木の一つが、ダンコウバイ。早春三月から四月にかけて、木立の中にひときわ明るく葉に先だって鮮やかな黄色の小花が咲いている木である。枝を折ればこうばしい香りがする。
花は雌花が五―六個ずつついて繭玉のように丸く密集する。花の質感はロウバイに似て、名のダンコウバイ(壇香梅)も、ロウバイの品種トウ(唐)ロウバイの異名が転用されたものだという。
雌雄異株であり、雄花は一つの花序に六〜七の花が群れ咲く。花被片は六、雄しべは九本であり、雌しべは退化している。雌花は雄花の数ほどは付かないので、雌株は雄株ほど鮮やかな花とはならない。日当たりのよい雑木林に多い落葉潅木。花は葉が開く前に咲き、花の色が黄色であるところからウコンバナともいう。北麓にはもう少し花が小さく,黄色の薄色のアブラチャン(Parabenzoin praecox)もある。
アブラチャンは、山仕事の方は、ズサと呼んでおり、昔果実や樹皮から油を灯用に利用したことによる。チャンは瀝青のこと。高級楊枝の材料クロモジ(Lindera umbellate)もこの仲間であり、やはり葉や種子から香油がとれる。
ダンコウバイは関東・新潟以西の本州・四国・九州、朝鮮・中国に分布する落葉低木。谷筋などの二次林に生育する。葉は広い卵形で、浅裂するものとしないものがある。葉脈は三本のめだつ脈があり(三行脈)、枝の根ものの葉はおむすび型であるが、枝の先端の葉は幅が広く、三つに浅裂する。葉の表面には黄色の毛があるが、早期に脱落して無毛になる。裏面には白色の毛があり、比較的遅くまで残るが脱落する。
花言葉は「私を見つけて」。早春の花から想像したのか?

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