八ヶ岳にある薬草・樹木 と 男の腕まくり

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思い出の木

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イチョウ

イチョウ    Ginkgo biloba            イチョウ科
身近な町の生きている化石                    

日本人ならイチョウを知らない人はまずいないであろう。スギ・ヒノキが山に植えられた代表であれば、イチョウは学校の校庭、公園、神社・お寺、街路樹など町や村に植栽された代表である。北海道から九州まで植えられていない所はない。
イチョウ並木では明治神宮外苑の並木、大阪御堂筋の並木が特に有名だが、東京大学のイチョウ並木も有名、正面から安田講堂に向かって東西に走っている駒場のメインストリートの並木は自然仕立てでシンボル的存在、人通りが多い。銀杏は東大のシンボル、東京大学の校章も銀杏をあしらっている。 甲州街道国道二〇号線八王子市追分町から高尾の間のイチョウ並木は東京都の街路樹一〇〇選にも選ばれるだけあって七〇年を経過した風格は圧倒するものがある。また、国会議事堂周辺永田町のイチョウもよい。春には新緑、秋の黄葉、そして木枯しの鳴る冬の裸のたたずまいなど、昔から四季折々の風物詩として我々の生活になじみ深い木・イチョウである。身近な樹木でイチョウについて調べたら、さまざまな話題があることがわかった。
イチョウは、世にも稀な植物といわれ、「生きている化石」ともいわれている。原始のイチョウの仲間は、およそ四億年前に現われ、かの巨大な恐竜が全盛だった一億五千万年前頃、世界的に大いに繁茂していたことが、化石から明らかになっている。中生代のジュラ紀から白亜紀にかけて最も繁栄した植物で、世界中どこでも自生していたようだ。日本でも中生代の三畳紀に現れた事が、化石から分かっている。
しかし、氷河期に入り比較的暖かかった中国中部地域の物だけが絶滅を免れ、現代に生き残ったと考えられている。このため、中国が原産地であることが定説となっており、現在イチョウは、一科一属一種である。
イチョウが日本に渡来した時期は、はっきりしないが、中国から、鎌倉時代か室町時代に仏教の伝来とともに導入されたという事が定説となっている。では、中国から日本に持ち込まれたのであれば、どこにどの程度もちこまれ、どういう経路で広まったのか興味のあるところである。
これに関して森林総合研究所の津村義彦博士が酵素を支配する遺伝子・アイソザイムマーカーで調べた報告がある。その結果は、日本のイチョウは、高い遺伝変異を保持していた。このことは伝来の種子がある程度まとまって入ったか、中国の異なる産地から渡来してきたことを示唆している。調査した九八母樹の内、八五母樹それぞれが特徴的な遺伝子型を示した。一般にイチョウは挿し木で増やす。しかしこの多くの遺伝子型を示したことは銀杏(種子)で持ち込まれていることをも示唆している。地域間の遺伝子型を数量化し分けると四つに分かれ、まず北九州から南九州と関西の方で広がっていった。そして関西の方は、四国とさらに北上して関東へと広がって行ったことが明らかになった。また、イチョウの遺伝的変異性はスギやヒノキよりも高いことが明らかになった。
長崎の出島が我が国で唯一西欧に開かれた窓口で日本の近代化に大きく貢献したことは、どなたでもご存じであろう。オランダ商館長付きで有名なのは、医師で学者のシーボルト、医学のみならず植物でも日本に貢献している。他に医師で学者として植物に貢献したのはツンベリー、ケンペルである。
植物の学名はラテン名で書かれており、属名+種名+命名者で成り立っているが、命名者にSieb. et Zucc. とか Thunb.とあるのは、これがシーボルト、ツンベリーの命名した植物である。ケンペルの名前は出てこないが、一六八〇年三九歳の時、ドイツ生まれのケンペルはオランダ東インド会社に医師として雇われ来日した。日本の植物について調査し、後のツェンベリーやシーボルトに影響を与えるが、リンネにより植物命名法が確立される以前の研究であるため、彼の業績は他の二人に比べ目立たない。ヨーロッパに渡った植物のうち、イチョウほど好まれたものはないといわれている。イチョウを初めてヨーロッパに紹介した人は、このケンペルであった。彼は日本のイチョウの種子を持ち帰って、オランダのユトレヒトの植物園に植えた。ここからヨーロッパに広くイチョウの木が広まった。ヨーロッパにあるイチョウの木が、日本のイチョウの種子から生まれたとは、知らない人も多いであろう。
ドイツを代表する文豪ゲーテにまつわるこんな話もある。彼はハイデルベルクの町を愛し、生涯で八度ハイデルベルクを訪れている。恋多きゲーテの最後から二番目の恋人が、ハイデルベルクで知り合ったマリアンネ・当時一六歳で、踊り子だった。その後ゲーテ六六歳の時、彼女に再会し、燃える思いを「イチョウの歌」という詩にしている。だから、ここには「イチョウ」の木が植わっているのだ。二枚の葉が割れて一枚につながっているイチョウの葉を男女の愛の象徴とみて詩っている。彼は、ハイデルベルグの古城の庭にあった一枚のイチョウの葉を添えて、愛する女性に詩を贈ったのである。                        イチョウの木の学名は Ginkgo biloba である。初めの Ginkgo は、ケンペルが Ginkyo を Ginkgo と書き間違えたようである。二つ目の biloba は二つに浅く裂けた葉という意味で(bi-は二つ、lobaは葉)イチョウの葉の形を表わす。
 イチョウはあの強烈な匂いを放つ種子(ぎんなん)がつく。このことは、花がついて受粉・受精・結実の過程を経た結果である。しかし受精にはめずらし現象が見られる。花は特に目立つほどのものでもないので、一般にはいつ、どんな花が、どこに咲くのか気がつかない。雄花も雌花も新葉と共に伸びて、四月下旬から五月上旬に咲く。雄花は、多数の黄色い雄(ゆう)蕊が集り、二〜三cmの穂状の花序(かじょ)となる。雌花は、長い花柄に一〜数個、裸出(らしゅつ)した胚珠(はいしゅ)がついている。開花後、雄花の花粉は風で雌花に運ばれ、花粉が若いギンナンの内部に取り込まれるとそこで約四ヶ月花粉管室でゆっくりと成熟し、二個の精子が作られる。九月頃になると花粉管から放出され、卵細胞まで泳いでいって受精に至る。
 ところで、東大の教授陣がお雇い外国人が多かった明治時代、すべての分野で西洋文化の移植がなされていた。明治二十九年(一八九六)、東大の平瀬作五郎氏は、世界で初めてイチョウに精子がつくられることを発見した人である。彼は三十二歳のとき、岐阜中学の図面・博物館学の教師から、東大教授用描画の技官として採用され、業務のかたわら、顕微鏡の操作法や顕微鏡観察用の標本(プレパラート)作製法を身につけた。彼は四年後、東大小石川植物園に植えられていたイチョウの研究を開始し、三年後に「精子発見」の日本語論文を発表した。 翌一八九七年にドイツ語で紹介されたこの大発見は、世界の植物学者を驚かせた。その後、教授だった池野成一郎も、ソテツの精子を発見した。この両発見は、まさしく世界的大発見で、明治日本をも勇気づけたという。その世界的業績をはたした平瀬氏は、一年後、大学内のやっかみから大学を辞して彦根中学へ就職した。平瀬・池野両氏は、その後学士院恩賜賞を受けた。この発見のもとになったイチョウの木は、東京大学附属小石川植物園に現存している。 
寺院や神社にはイチョウの古木が多く、特に巨大なものや奇形のものは、崇められたり天然記念物に指定されたりもしている。山梨県には、乳と呼ばれる突起が多く垂れ下がった気根の木を、「逆さイチョウ」と呼んでいる。これは実生の子葉の付け根によく似た構造が発見されることから、栄養繁殖と関連した器官ではではないかとみられている。
その奇形の代表として上沢寺のオハツキイチョウ(雌木)ほか、本国寺(雌木)、常福寺(雌木)、長谷寺(雌木)、八木沢(雄木)にオハツキイチョウが分布し、日蓮上人伝説にからんで信仰対象とされている。イチョウは火災にもよく耐え、切った枝を挿すと容易に発根するほどの生命力の強い植物である。地域的にまとまって奇形樹があることは、同一個体・同一系統からの挿し木個体で増殖されたのではないかと思う。これもDNAで調べればすぐ明らかになることだが。
種子(銀杏)の胚乳を食べるほか、木材としては家具、まな板、将棋盤などに用いられている。中国では白果という漢方薬として、鎮咳、去疸に用いられてきた。また近年ヨーロッパを中心に、葉のエキスは、痴呆予防薬、生活習慣病予防薬として、イチョウからの生薬製造が盛んであり、日本から西ドイツの製薬メーカーにイチョウの葉が輸出されているという。       
 花言葉は「長寿」、アルツハイマーの予防薬になるからその花言葉もなるほどと思う。

カキ

カキ  Diospyros kaki               カキノキ科
   インドネシアに柿があった?

子供の頃、一二月三一日の大晦日は正装して年取りのお膳につく慣わしが我が家にあった。そこに必ず干し柿がついた。また、正月の三ヶ日の貴重なおやつでもあった。残念ながら北海道には柿は無く、したがって高級な果物だったかもしれない。今のように物の流通が発達していなかったから、生の柿はそんなに口には入らなかったと思う。したがって干し柿が日持ちもよいので出回っていたのであろう。高校時代、友達の家は岡山に親戚があって新鮮な柿が毎年送られてきていた、よく晩秋にはご馳走になったものである。
山梨で生活するようになって、トウモロコシ、サクランボ、桃、スモモ、キュウイ、ブドウなど果物は買うものでなく、いただくものとなった。柿は干し柿もよくいただく。それも私の好物である。また自分でも干し柿も作ったりもした。
山梨は。その気候と排水の良い土壌で栽培される柿は、栽培の先進地として高い評価を得ている。独特の香りとまろやかな甘味で歯切れの良い「富有柿」、ころ柿や、あんぽ柿にする「甲州百目」などの品種があり、有名である。
柿は日本原産の果物といわれている。一六世紀頃にポルトガル人によってヨーロッパに渡り、そのアメリカ大陸に広まっている。
今では、「KAKI」は世界中の人に愛され、学名も「Diospyros Kaki」、「KAKI」の名で世界に通用する。しかし日本原産ではなく、一説には、氷河期が終わった後に中国から渡来したと考えられている。縄文、弥生時代の遺跡から種が出土し、時代が新しくなるほどその量は増えているそうである。今のように大きな柿は奈良時代に、やはり中国から渡来したと考えられている。我が国では約三〇〇〇年前から柿があったそうで、紀元前二世紀頃の王家の墓から多数の柿の種が出土している。その頃は干柿で保存していたようで、人間の知恵はすばらしいと感心する。
 柿の成分で特筆できるのは、何といってもビタミンC! 酸っぱいイメージのビタミンCとはちょっと意外かもしれないが、甘柿に含まれているビタミンCは、レモンやイチゴに決して負けてはいない。 ほかにも、ビタミンK、B1、B2、カロチン、タンニン、ミネラルなどを多く含んでいるため、「柿が赤くなれば、医者が青くなる」という言葉があるほど、柿の栄養価は高い。また、「二日酔いには柿」といわれている訳は、ビタミンCとタンニンが血液中のアルコール分を外へ排出してくれるからで、豊富なカリウムの利尿作用のおかげともいわれている。
柿の葉にも、ビタミンC、K、B類が多く含まれていて、血管を強化する作用や止血作用があるといわれていて高血圧には、カキの葉茶がよさそうである。 柿の渋の元はタンニンで、このタンニンは防水性に優れているから、古くから紙の文化であった日本では、柿の渋を使って、紙などを防水していた。 正確には、タンニンの中には水溶性のものがあって、水溶性のタンニンが不溶性になると、なぜか渋くなくなる。俗にいう「渋抜き(脱渋)」とは、この水溶性のタンニンを不溶性に変えることである。

さて話は変わるが、インドネシアで勤務した林木育種研究所の正面前庭左に「サウォ」という木が植えられてある。この研究所は日本政府の無償で建てられたもので、その記念としてこの木を植えた。誰が植えたか?一九九一年一〇月五日、建設現場をご視察された天皇皇后両陛下である。そのことを石碑にきざんである。何故この「サウォ」を植えたのかというと、ジョクジャカルタに王宮があり、その昔、サルタン(王様)がその木を見つけられ「幸せを運ぶ木」としてその宮殿の周りにこの木が植えられたと言われている。この木が住民の幸せを支えたというところから、それにちなんで植えたようだ。
私の最初のカウンターパート(研究共同・指導対象者)トニーが、実は天皇の介助役を仰せつかり、クワを天皇にお渡しした。その写真がプロジェクトのリーダー室に飾ってあった。日本からお客が来ると、まず、そこから話が始まり、「・・・・したがって我々のプロジェクトは、ロイヤルプロジェクトなのです」、と冗談交じりリーダーが、よく言ったものである。
トニーが日本へ研究に行くことになり、「天皇と一緒に写っている写真を持って行けば、どこでもフリーパスだ」とからかったものだ。実際には持って行かなかったのだが。
さてこの「サワオ」の木の果実であるが、大きめの卵を茶色に塗ったような、キーウィフルーツの毛を取ったような、ジャガイモのような、どちらかといえば目立たない存在のフルーツである。この中身、味覚はまさしく「柿だ!」と思った。香りと味は干し柿に似るが、黒砂糖的な強い甘みがある。種子柿の種子に似てやや肥大し、黒色である。果実は熟しても果皮は変わらないので、果皮を少しつめではいでみて、内面が緑色なら未熟、茶色になっていれば成熟したものとして判断する。もし果実が未熟であると、タンニンやゴム物質が多く残っていて不美であるから追熟させたほうが良い。樹皮はマレーシアのペラ州で住民が下痢止めに、カンボジアでは解熱剤として。またインドネシアのジャワでは、産後の母体回復の塗り薬として用いるそうだ。種子には、サポニン、ケルセチンのほか、青酸カリを含み有毒であるといわれ、樹皮のタンニンは、フィリピンで網や帆の塗料に、樹液は接着剤として利用されていると記されている。この木は樹高三〇m、直径四〇〜一〇〇cmに達する。 材は、彫刻、家具に用いられている。
インドネシア人は、肌の色が茶色いことを、kulit sawo matang(熟したサウォの皮膚)といたりもする。インドネシア人を知っている方ニンマリはうなずくであろう。
日本には、まだ入って来ていない果物だと思う インドネシアへ行ったら是非一度サウォを食べて見ていただきたい。また、果物以外にどのような使い道があるかたずねて見てほしい。おもしろい発見があるかもしれない。
柿の学名DIOSPYROSは、ギリシャ語で「神の食物」という意。柿の花言葉は「自然美」。

イチイ

イチイ  Taxus cuspidate                 イチイ科 
北海道はオンコ、山梨はヘダ                             

家の生け垣や庭木として植えられていることも多く、子供の頃は「オンコ、オンコの実」と言って、近所の家のイチイの実を食したものである。北海道では、今は阿寒湖畔周辺、美幌峠、屈斜路湖周辺など観光地だけに天然分布が限定されてといると聞いたが、元々は道内のイチイの天然分布は多かった。種子を包んだ赤い肉質の仮種皮はゼリー状で甘く、よく競って食した。 しかし、中のタネが有毒だと知ったのは大人になってからである。調べてみると、主要物質はタキシンであり、これは英語の毒素=toxinの語源といっしょで、つまりは『イチイ=毒』なのである。鳥はこのイチイの実を食べるが種子は糞とともに体外に排出する。しかし、人間が食べられるのだろうと、種子ごと飲み込んでしまうと、四、五粒で呼吸・心臓麻痺、一瞬のうちに心臓停止で死に至るらしい。 子供の頃によくも事故に会わなかったと思うと恐ろしい。  
 なぜ、種子に毒があるのだろうか、おそらく種子の分散繁殖に関係すると思われる。樹木の繁殖は、樹木出現の最初は、風散布であったろう。針葉樹がたいていそうである。種子に羽根がついていて風散布するのである。広葉樹の中でも比較的古いカバノキ科、ヤナギ科などは風散布、カエデ科も羽根で舞うのである。そして針葉樹で風散布の例外がイチイ科、イチョウ科、マキ科、イヌガヤ科である。これは進化の後期に属すのであろうか、とにかく液果のイチイ、イチョウは後の広葉樹に受け継ぐべく針葉樹群から進化していったと思われる。イチイ種子の鳥散布であるが果肉は食べられてもよいが、タネは食べられてはこまるので、毒を含ませた種子をはき出すための戦略を生み出したのではなかろうか?この毒を混ぜるのは広葉樹のナラやトチノキに受け継がれている。ナラはタンニンを、トチノキはサポニンを混ぜている。一般の広葉樹には毒を混ぜなかった。なぜなら、鳥や動物の胃腸を通過しても消化酵素によって溶けることのないよう、種子の外皮を堅固な構造にする戦略をとっているからだとおもう。  
オンコの呼び名は、北海道、東北地方で呼ばれ、アイヌ語からきたらしく、アイヌの人々は「神の木」と呼んでいた。
山梨県では富士山北麓に多く、忍野では「ヘダの木」と呼んでおり、民家の垣根に好んで植えられている。それは、イチイが干ばつにも強く、庭木には適当な生育で手入れが容易なのが特徴で、夏でも涼しい忍野のような高冷地の気候が適しているからである。忍野村には珍しいイチイの群集や樹齢三〇〇年以上もの巨木がたくさんある。特に忍草浅間神社の境内にあるイチイの群集は樹齢四五〇年と推定され、神社を守ってきた巨木群には目を引くものがある。また巨木としては山梨県指定になっている七面山の大イチイがある。この大木は周囲六.一m、樹高二三mもありもあり、みごとである。
イチイは、アララギの別名がある。歌人・斎藤茂吉らの「アララギ派」はこの木をシンボルとしている。
 イチイの名前は、仁徳天皇が即位の儀式に、飛騨川の水源である位山(くらいやま)の「いちいのき」で作り、この木でつくった最初の笏と衣桁(いこう)を献上した一一五九年(平治元年)の記録が山麓の水無神社に残っている。このとき優れた用材と認められ、木に「正一位」の位を賜り、「一位の木」と呼ばれるようになったと伝えられる。
 樹皮はスギと似ているが、スギよりもっと赤みが強い赤褐色で、スギよりもっと細かい縦の割れ目があり、葉はモミの木に似ているが、もっと細くて軟らかく、とがってはいるが葉先にさわっても痛くない。
 イチイは秋になって、本当に真っ赤なルビーのようにきれいな実をつける。 全部の木につけるのではなくて、雌の木だけにつける雌雄異株である。 イチイは実も赤いが、木材にした時の心材も赤っぽい。スギやネズコなどより赤みが強く、また成長が遅いので年輪が緻密で、材としてもスギやネズコより比重が大きい。 針葉樹の中ではかなり堅い材に属し、材の強度も充分ある。 また年輪が細かく、木理は通直で、木の肌もなめらかで光沢があり、優美な感じがする。さらに板の反りや割れも少なく、材が重厚な割に切削などの加工も容易である。 つまり、大きな大木が少ないということを除けば、材としては非常に優れた材と言える。また、これほど木工に好適な材はまず見当たらないとさえ言える優良材である。
  建築材や家具につかえるほどの量は確保できなくなったので、現在使われるものは、彫刻など小さくて高価なものの原材料である。赤くて艶がある材質が珍重がられるので、寄木細工や象眼細工の材料となることも多い。 飛騨の高山では、「一位一刀彫」という伝統の工芸があり、現在でも沢山の彫刻師たちがいる。
樺太では、果実を脚気の薬、及び利尿剤とした。また内皮を煎じて下痢止めにした。一般には、葉を利尿、通経、糖尿の薬とし、果実を咳止めや下痢止めに用いている。
欧州ではもっとも貴重な造園木であり、トピアリーといって造形的な刈り込みにしたりし、史的名木、巨樹、老樹は保護されている。伝説や詩歌に多く現れる。一般的に墓の木Church-yard tree、 Church-yard Yew、あるいは葬送の樹Funeral treeと呼んでいる。英国で最も古い木のひとつとされ、少なくとも9000年前からの生息が認められている。長生きする木として知られることから、墓地に植える習慣ができたという。イチイと教会、イチイと牧師にまつわる話も多い。英文学に現れる巨木は多くはイチイとオーク(カシ)である。たとえば、リチャード王に忠誠を誓ったロビンフッドだが、王の死後、討ち取られることになった。新しい王の部下と戦い傷ついた彼は矢の落ちたところに埋葬してくれと、リトルジョンに頼むと、その矢はイチイの木の根元にささったという。
 かつてウェールズでは各種の樹木に課税する法律がしかれたことがあり、なぜ牧師なのかわからないが、牧師の使うヨーロッパイチイに一ポンド(一七〇円)、ヤドリギの枝に六〇ペンス、サンザシに七ペンス半、その他の樹木に一ペンスを課したという。欧州各国では三大老樹種と呼んで、オーク、シダーと共に愛護している。英国の老木には周囲八m、樹齢二〇〇〇年といわれるものがあるそうだ。この牧師への課税は、御神木的に教会のシンボルツリーとして植えられているが故、保護する意味であったのであろう。、
近年イチイの皮に含まれる物質から 乳癌の特効薬が発見され治療に成功している。治療に成木二本が必要といわれアメリカのイチイが激減しているという。
 花言葉は「高尚」。 

ヤマナラシ

ヤマナラシ  Populus sieboldii             ヤナギ科
   国際会議のレセプション

 旧山梨県林業試験場の裏山に、山梨県の樹木を集めた樹木園があった。山梨県には約五〇〇種の樹木があるが、そこにかなりの樹種が集められ、山に行かずしても、結構そこで覚えた樹木も多い。
 ヤマナラシがあった。名前こそ知っていたが実物をそこではじめてみた。葉はポプラの様だと思った。葉柄が縦に扁平になって、ヤマナラシの名前は、風に葉が揺れて音をたて、風が通ると山が鳴っているように感じることからついた名前だということだった。
 それから数十年経てのことであるが、甲府の奥の山にいった。林道沿いに斜面の緩やかな荒廃地の明るい場所があった。そこに侵入した灌木の中に目立って真っ直ぐ伸びている木があった。「なんの木だろう?」その時はそれで終わった。その後、ウダイカンバの山梨における分布を調べたことがあるが、道志村にある横浜市水源林の事務所から、ウダイカンバがあるとの連絡を受けて調査にいった。山腹に目立った林があった、案内ではウダイカンバだという。みると葉は似ているが、基部がくさび型で狭いし、葉脈がすくない。幹の樹皮もカンバの横に剥がれる紙状でなく、また皮目は横長でなく、ダイヤ・そろばん玉状で肌もごつい。帰ってしらべたら、かって裏山でみたヤマナラシだったのだ。株分かれではないかと思うほど、密生している。どうも、根がのびてそこから再生しているようだ。
 調べると、ヤマナラシは、やはり、「分けつ更新」といって、土壌中を横走する根系から増殖することがわかった。さし木は困難な樹種である。この木がこれだけの生長旺盛であれば、バイオマスにはもってこい、すなわち二酸化炭素の固定能力が高い。増殖が可能であればそれが実用化に向くのであるが、なんとか増殖して、利用したらどうだろう。そこで、西川研究員と組織培養で増殖をおこない、成功した。残念ながらヤマナラシ林が普及してはいない。
 「こんな大きな木になるのか、」というのをみたのは、旧白州町の大平のヒメバラモミの調査地である。緩斜面の凸斜面に巨大なヤマナラシ数本をみた。肌はちがうが、かって子供の頃家の前の高校の周りに植わっていた箒状のポプラを思い出した。
我が国の樹木分類では、Populus属はハコヤナギ属と呼ばれる。これは我が国在来のPopulus属樹木のヤマナラシ・ドロノキ(Populus maximowiczii)に対する古来の呼び名がハコヤナギ(Polpus sieboldii)であったことによる。
ハコヤナギはヤマナラシの別名としても用いられる。 ポプラという呼び名は、しかしながら一般に広く知られ、特に「ポプラ」北海道の景観を語る時必ず登場する。これは、北欧原産で樹形が美しいセイヨウハコヤナギを指し、更に北米産のアメリカヤマナラシ等同属の数種の総称である。
子供の頃、近所の仲間があつまって、木の上に隠れ家を造ろうということになった。家から廃材をあつめ、家の前の高校のポプラの木の茂みの中に床を張った。その最中に高校の恐らく教頭、主任クラスの先生だと思ったが、そこに飛んできて、えらく怒られた記憶がある。当時は公私の区別もついてなかったのだ。
 ヨーロッパと西アジアに分布するヨーロッパクロポプラ(P.nigra)は、セイヨウハコヤナギ(イタリヤヤマナラシ)と呼ぶとの記載もある。原産地はよく分かっていないが、イタリヤからヨーロッパ全域に広まったようである。
 
三〇年以上前になるが世界林業研究会議が日本であり、その現地視察地に、山梨県があてられた。外国から来る方々に富士山を味わってもらうねらいからだった。河口湖レークホテルでレセプションが行われた。県の林務部あげて応対しろ、とのことで、本庁の各課長、補佐クラス、試験場は全員参加とのこと。会場では、悲しいかな、県庁の方々は隅に固まってお客様とは会話はない。当時国の林野庁から来ていた部長が「この場は山梨側の主催だから。清藤君、挨拶するから通訳しろ、通訳できるか?」といわれ、「少しならできますが、歓迎の挨拶の通訳は無理です」と。結局、同行してきていた本職の通訳にまかせた。その代わり、部長の奥さんを連れて、あいさつしてまわる役をおおせつかった。お酌なんて習慣は外国にないのに、良いのかな?とおもいながら、「こちらは、部長のおくさんです。よろしく」。そして奥さんはビールを注いで回る。女性の参加者もいたので、子供の育児のことなどで盛り上がった出会いもあった。今でも十分でないが、当時の英語は、もっとひどかったのに、今思えば冷や汗ものの通訳だったとおもう。 
私自身、アメリカの若い研究者とは両国の研究体制の話で会話もはずみ、「給料はいくら?」で「アーム、・・・・」とっさに数字が言えず紙に書いて納得してもらったことなど、なつかしい。
その時、有名な、ビッターリッヒ博士にあった。林業関係者なら、その名をきいたことがあるだろう。ヘクタール当たりの林分胸高断面積を測定する方法・ビッターリッヒ法の開発者である。
この時、こんなこともあった。ベルギーの大学の先生で、その方とポプラの育種の話をした。イタリァヤマナラシとか日本では北海道にたくさん植えられている話をし、相手は、Populusの品種改良をやっているとのことで同じ育種研究者であることで意気投合。是非、大学に遊びに来いとの話だった。実は最初に「はじめまして、どちらからおいでですか?」「ベルジャムです」。「え、どちら?」「ベルジャム」。恥ずかしい話だが、当時はベルギーを英語でBelgiumというとは知らなかった。何度も聞くのは恥と思い、わかったようなそぶりで、会話を続け、ポプラの話をし、「遊びに来てください。」(社交辞令だろうが)までいって、はてどこの国なのか、家に帰って辞書を引き初めて「あー、ベルギーの人だったか」、ということも、このPopulus・ヤマナラシで思い出されることである。
花言葉は、「時間」。

ファルカータ

ファルカータ  Paraserianthes falcataria         マメ科
インドネシアでの思いでの樹木

  一九八九年、国の林木育種センターの育種部長から連絡があり、相談があるので、直接山梨に行き、話したいと連絡があった。何かと思ったら、「今、日本が無償でインドネシアのジョクジャカルタに林木育種開発センター(現:林木育種研究所)を建てている。そこで林木育種計画プロジェクトを立ち上げるのだが、長期専門家として育種遺伝評価の仕事で行っていただけないか?」ということであった。私も一度は海外で仕事をしてみたい夢も持っていたので、願ってもない話と思った。林業関係の国際技術協力というと、だいたいが山の中か、人里離れた僻地が多いいのであるが、ジョクジャカルタ市は、インドネシアの京都といわれる場所で、そこはジャワ島の地理的中心でもあり、また文化の中心。職場も中心からそう遠くではないということであり、日本で学んだ医者もいるので医療面でも心配ない、他にNHK関係、建設省関係のプロジェクトもあって日本人同士助けあえるし、生活上の大きな問題もないとうことであった。当時長男は大学生、長女は高校生、二男はまだ小学生一年生、家内も仕事をもっているので同伴してもらえるかの問題も山積み。しかし家族に話したら、意外にもあっさり難なく全員賛成してくれた。家内は「あなたのロマンに付き合う」と。
我が家では、ホームステイを引き受けたり、また娘が高校一年の時アメリカ留学していたし、またAFS高校生交換留学制度で留学生してきた子供たちの駆け込み寺的お世話をしたり、また韓国の孤児の里親もしていたので、子供たちは、外国に対するアレルギーはあまりなく、人間みな同じという思いを持っていたことによるのであろう。
 一九九二年六月、大学二年の息子と高校三年生の娘を残し、家内と当時小学校二年生の息子を連れてインドネシアでの生活を開始した。
 私が派遣されたJICAプロジェクトは、ジャワ島の中心部ジョクジャカルタ市から約一四kmはなれた郊外にあり、インドネシア林木育種開発センターを根拠地とし、日本人五人が配置された。林野庁出身の田畑卓爾氏をリーダーに、林木育種センターOBで増殖担当の立仙雄彦氏、林木育種センター北海道林木育種場から派遣された遺伝資源担当の森俊人氏、遺伝評価担当で私、そして青年海外協力隊出身でJICAの嘱託員・インドネシア語と英語が自由にこなすインドネシア通の橋本恭二氏が調整員であった。 
ここではインドネシアの産業造林に貢献するため、インドネシアの研究者と成長が速い早生樹種・アカシア類、ユーカリ類、ファルカータを対象樹種とし、選抜、増殖、遺伝評価等の研究をおこない優良種子源・種苗供給体制の基盤を作ること、また、育種専門家を育てることが目的であった。
派遣され一ヶ月もすると生活環境も整い、仕事に専念できる状況になった。職場もどんどん若い研究職員が配置され、活気のある毎日であった。
 私の職務は二つのセクションを担当することであった。一つは遺伝評価セクション、遺伝子の一次産物である酵素の多型・アイソザイム手法により、主な対象樹種の遺伝評価を行うこと、またもう一つは組織培養による対象樹種の増殖技術を確立する仕事であった。その遺伝評価で最初に評価をしたのが、このファルカータ(Paraserianthes falcataria パラセリアンテス ファルカタリア、別名アルビジア ファルカタリア)である。ファルカータは素晴らしく成長が速く、一〇年で三〇mを越し、直径は六〇cmにもなる。日本ではキリの代用として市場ではナンヨウギリと呼ばれることもある。
 どんな木か、ネムノキかニセアカシアの葉を想像していただけばよいかもしれない。ただし樹皮はアカシアのような網肌ではなくは灰色で平滑である。
 最初は、遺伝分析の技術移転のため、これからおこなうアイソザイム分析手法を起動に乗せることであった。まず大変だったのは試薬の調達。ジャカルタの代理店をとおしてずいぶん揃えるまでに時間もかかった。このことから東南アジアで生化学的実験は並大抵ではないことを痛感したものである。
集団遺伝学では、今はDNA分析が主流であるが、インドネシアでは当時研究機関でもアイソザイム分析もまだ普及していなかった。そこで先ずやったことは、だれでも使えるように英語の分析マニュアルを作ることから始まった。
 遺伝分析専門のカウンターパート(指導対象共同研究者:CP)として、若くて才能豊かなアントニウス・ウィドヤモトコ、通称:アントンと組むことになった。私はインドネシアに来て時間外まで仕事をしている人にはお目にかかれなかった。地元の大学を見ても夜電気がついている部屋をみたことがなかった。日本にいた時は遺伝分析を始めると、どうしても時間に終わるのは難しく、本当にインドネシアで一緒に仕事が出来るのか、と思って彼にたずねた。「遺伝分析の実験は時間に帰れないことが、多いがそれでもよいか?」。彼の答えは。「卒業論文のための実験で、大学に泊まりがけでやってきた。」とのこと。半信半疑だったが、彼と仕事を開始した。マニュアルを使って具体的実験方法をみせながら彼に教えた。大学時代成績がよく、先生の手伝いで講座を受け持たせられ、小遣いをもらっていたとだけあって呑み込みが速く、あっと言う間にマスターした。まずファルカータの四遺伝子座を確定した。これを用いインドネシアの遺伝変異を解析しはじめた。このためにはいろいろの集団から材料をあつめてこなければならず、ジャワ島内で四人工林集団、イリアンジャヤの天然集団計五カ所から集めてきた。
インドネシアの大学ではインターンシップ制度があり、社会にでて体験学習をすることが義務づけられている。職場には、インドネシアで有名なボゴール農科大学の学生さん三人が、私の遺伝分析を学びにきた。女子二人と男一人で、材料を取りに泊まりがけで出張にも一緒に行ったり、誕生日にお祝いをいただいたり、気さくな屈託のない彼らとの日々も忘れられない思い出である。
材料はファルカータの林に行き、ランダムに木を選んで幹にノミで四角く樹皮を剥ぎ、木部から切り離し、それをアイスボックスにストックして持ち帰り、内部の薄い形成層をはぎ取り、それを分析するのである。CPのアントンも本当に熱心に分析してくれた。結果はジャワ島内の遺伝変異は低く、イリアンジャヤの天然集団は変異が大きいことを明らかにした。この結果は地元ガジャマダ大学で行われた国際ワークショップ・BIO―REFORで発表した。私が初めて公式の場において英語で発表した機会であった。
 インドネシアでは、ジャワ島以外で盛んに産業造林樹種として植えられたが、成功してない。その原因として、低肥沃地での造林不向きがあげられる。ファルカータはジャワ島では、結構育ちがよい。農家の周りにはずいぶん植えられている。遺伝分析の結果からは、同一の場所を起源とするファルカータ林から種子を採取してジャワ島では植えられたものと推定できる。その後、遺伝子座を増やして調べた結果では、ソロモン諸島、イリアンジャヤでの変異性が高く、育種素材としてはこれらの天然林からの選抜が必要であることがわかった。
 ジョクジャカルタにある名門ガジャマダ大学近くには、このファルカータ材で学生さん向けの机、テーブル、本箱などを販売する店がずらりと並んでいた。軽いことと、値段がやすいので学生さんには普及しているらしい。
 バリ島にキンタマーニという高原がある。向かう途中の棚田も美しく、田舎の文化にも触れることが出来る。また、高原にでるとバトュー山、バトュー湖の美しい景色を楽しむことができるのだが、お上りさんの観光客とみると、物売りに囲まれるのには閉口する。大きな彫刻を売りつけるため「木彫りの工芸品を買え!」といってくる。安いのである。しかしこれも見た目には黒檀か紫檀の工芸品のように立派であるのであるが実は、ファルカータ材を彫刻し、黒っぽく色をつけた安もの(偽物?)の工芸品も多いのがこのあたりである、持って軽かったらこの樹種であると思ってよい。
 この材は日本にも輸入されており、色が白くキリのようであるので家具の引き出しの部分に使われたりしている。分布はインドネシア、パウアニューギニア、ソロモン諸島。
インドネシア名は「センゴン・ラウット」。

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