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イチョウ Ginkgo biloba イチョウ科
身近な町の生きている化石
日本人ならイチョウを知らない人はまずいないであろう。スギ・ヒノキが山に植えられた代表であれば、イチョウは学校の校庭、公園、神社・お寺、街路樹など町や村に植栽された代表である。北海道から九州まで植えられていない所はない。
イチョウ並木では明治神宮外苑の並木、大阪御堂筋の並木が特に有名だが、東京大学のイチョウ並木も有名、正面から安田講堂に向かって東西に走っている駒場のメインストリートの並木は自然仕立てでシンボル的存在、人通りが多い。銀杏は東大のシンボル、東京大学の校章も銀杏をあしらっている。 甲州街道国道二〇号線八王子市追分町から高尾の間のイチョウ並木は東京都の街路樹一〇〇選にも選ばれるだけあって七〇年を経過した風格は圧倒するものがある。また、国会議事堂周辺永田町のイチョウもよい。春には新緑、秋の黄葉、そして木枯しの鳴る冬の裸のたたずまいなど、昔から四季折々の風物詩として我々の生活になじみ深い木・イチョウである。身近な樹木でイチョウについて調べたら、さまざまな話題があることがわかった。
イチョウは、世にも稀な植物といわれ、「生きている化石」ともいわれている。原始のイチョウの仲間は、およそ四億年前に現われ、かの巨大な恐竜が全盛だった一億五千万年前頃、世界的に大いに繁茂していたことが、化石から明らかになっている。中生代のジュラ紀から白亜紀にかけて最も繁栄した植物で、世界中どこでも自生していたようだ。日本でも中生代の三畳紀に現れた事が、化石から分かっている。
しかし、氷河期に入り比較的暖かかった中国中部地域の物だけが絶滅を免れ、現代に生き残ったと考えられている。このため、中国が原産地であることが定説となっており、現在イチョウは、一科一属一種である。
イチョウが日本に渡来した時期は、はっきりしないが、中国から、鎌倉時代か室町時代に仏教の伝来とともに導入されたという事が定説となっている。では、中国から日本に持ち込まれたのであれば、どこにどの程度もちこまれ、どういう経路で広まったのか興味のあるところである。
これに関して森林総合研究所の津村義彦博士が酵素を支配する遺伝子・アイソザイムマーカーで調べた報告がある。その結果は、日本のイチョウは、高い遺伝変異を保持していた。このことは伝来の種子がある程度まとまって入ったか、中国の異なる産地から渡来してきたことを示唆している。調査した九八母樹の内、八五母樹それぞれが特徴的な遺伝子型を示した。一般にイチョウは挿し木で増やす。しかしこの多くの遺伝子型を示したことは銀杏(種子)で持ち込まれていることをも示唆している。地域間の遺伝子型を数量化し分けると四つに分かれ、まず北九州から南九州と関西の方で広がっていった。そして関西の方は、四国とさらに北上して関東へと広がって行ったことが明らかになった。また、イチョウの遺伝的変異性はスギやヒノキよりも高いことが明らかになった。
長崎の出島が我が国で唯一西欧に開かれた窓口で日本の近代化に大きく貢献したことは、どなたでもご存じであろう。オランダ商館長付きで有名なのは、医師で学者のシーボルト、医学のみならず植物でも日本に貢献している。他に医師で学者として植物に貢献したのはツンベリー、ケンペルである。
植物の学名はラテン名で書かれており、属名+種名+命名者で成り立っているが、命名者にSieb. et Zucc. とか Thunb.とあるのは、これがシーボルト、ツンベリーの命名した植物である。ケンペルの名前は出てこないが、一六八〇年三九歳の時、ドイツ生まれのケンペルはオランダ東インド会社に医師として雇われ来日した。日本の植物について調査し、後のツェンベリーやシーボルトに影響を与えるが、リンネにより植物命名法が確立される以前の研究であるため、彼の業績は他の二人に比べ目立たない。ヨーロッパに渡った植物のうち、イチョウほど好まれたものはないといわれている。イチョウを初めてヨーロッパに紹介した人は、このケンペルであった。彼は日本のイチョウの種子を持ち帰って、オランダのユトレヒトの植物園に植えた。ここからヨーロッパに広くイチョウの木が広まった。ヨーロッパにあるイチョウの木が、日本のイチョウの種子から生まれたとは、知らない人も多いであろう。
ドイツを代表する文豪ゲーテにまつわるこんな話もある。彼はハイデルベルクの町を愛し、生涯で八度ハイデルベルクを訪れている。恋多きゲーテの最後から二番目の恋人が、ハイデルベルクで知り合ったマリアンネ・当時一六歳で、踊り子だった。その後ゲーテ六六歳の時、彼女に再会し、燃える思いを「イチョウの歌」という詩にしている。だから、ここには「イチョウ」の木が植わっているのだ。二枚の葉が割れて一枚につながっているイチョウの葉を男女の愛の象徴とみて詩っている。彼は、ハイデルベルグの古城の庭にあった一枚のイチョウの葉を添えて、愛する女性に詩を贈ったのである。 イチョウの木の学名は Ginkgo biloba である。初めの Ginkgo は、ケンペルが Ginkyo を Ginkgo と書き間違えたようである。二つ目の biloba は二つに浅く裂けた葉という意味で(bi-は二つ、lobaは葉)イチョウの葉の形を表わす。
イチョウはあの強烈な匂いを放つ種子(ぎんなん)がつく。このことは、花がついて受粉・受精・結実の過程を経た結果である。しかし受精にはめずらし現象が見られる。花は特に目立つほどのものでもないので、一般にはいつ、どんな花が、どこに咲くのか気がつかない。雄花も雌花も新葉と共に伸びて、四月下旬から五月上旬に咲く。雄花は、多数の黄色い雄(ゆう)蕊が集り、二〜三cmの穂状の花序(かじょ)となる。雌花は、長い花柄に一〜数個、裸出(らしゅつ)した胚珠(はいしゅ)がついている。開花後、雄花の花粉は風で雌花に運ばれ、花粉が若いギンナンの内部に取り込まれるとそこで約四ヶ月花粉管室でゆっくりと成熟し、二個の精子が作られる。九月頃になると花粉管から放出され、卵細胞まで泳いでいって受精に至る。
ところで、東大の教授陣がお雇い外国人が多かった明治時代、すべての分野で西洋文化の移植がなされていた。明治二十九年(一八九六)、東大の平瀬作五郎氏は、世界で初めてイチョウに精子がつくられることを発見した人である。彼は三十二歳のとき、岐阜中学の図面・博物館学の教師から、東大教授用描画の技官として採用され、業務のかたわら、顕微鏡の操作法や顕微鏡観察用の標本(プレパラート)作製法を身につけた。彼は四年後、東大小石川植物園に植えられていたイチョウの研究を開始し、三年後に「精子発見」の日本語論文を発表した。 翌一八九七年にドイツ語で紹介されたこの大発見は、世界の植物学者を驚かせた。その後、教授だった池野成一郎も、ソテツの精子を発見した。この両発見は、まさしく世界的大発見で、明治日本をも勇気づけたという。その世界的業績をはたした平瀬氏は、一年後、大学内のやっかみから大学を辞して彦根中学へ就職した。平瀬・池野両氏は、その後学士院恩賜賞を受けた。この発見のもとになったイチョウの木は、東京大学附属小石川植物園に現存している。
寺院や神社にはイチョウの古木が多く、特に巨大なものや奇形のものは、崇められたり天然記念物に指定されたりもしている。山梨県には、乳と呼ばれる突起が多く垂れ下がった気根の木を、「逆さイチョウ」と呼んでいる。これは実生の子葉の付け根によく似た構造が発見されることから、栄養繁殖と関連した器官ではではないかとみられている。
その奇形の代表として上沢寺のオハツキイチョウ(雌木)ほか、本国寺(雌木)、常福寺(雌木)、長谷寺(雌木)、八木沢(雄木)にオハツキイチョウが分布し、日蓮上人伝説にからんで信仰対象とされている。イチョウは火災にもよく耐え、切った枝を挿すと容易に発根するほどの生命力の強い植物である。地域的にまとまって奇形樹があることは、同一個体・同一系統からの挿し木個体で増殖されたのではないかと思う。これもDNAで調べればすぐ明らかになることだが。
種子(銀杏)の胚乳を食べるほか、木材としては家具、まな板、将棋盤などに用いられている。中国では白果という漢方薬として、鎮咳、去疸に用いられてきた。また近年ヨーロッパを中心に、葉のエキスは、痴呆予防薬、生活習慣病予防薬として、イチョウからの生薬製造が盛んであり、日本から西ドイツの製薬メーカーにイチョウの葉が輸出されているという。
花言葉は「長寿」、アルツハイマーの予防薬になるからその花言葉もなるほどと思う。
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