八ヶ岳にある薬草・樹木 と 男の腕まくり

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思い出の木

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シラベ

シラベ Abies Veitchii                マツ科
オオシラビソ Abies mariesii
社会に出て最初の研究

私には苦い経験がある。大学四年生になり就職を考えなければならない年となった。卒業研究の面白さから、研究の延長上で仕事をしたい、出来れば試験研究機関で働きたいと思った。大学院も考えたが、当時は大学院に入るには、東大など旧帝大の博士過程に入ることであり、遠い世界に思えた。森林林業の研究というと、手っ取り早いのは、地方公務員になり試験場に入ることだった。某県の上級職を受けた。一次試験が受かり、私の恩師・船引浩三先生は、わざわざその県に行き、県庁と試験場にいって頭を下げてくれた。しかし、にもかかわらず最終結果は、「不採用」との通知を受け取った。船引先生から大目玉をくらった。「君は何を面接で話したのだ。普段から口数の少ない君だが、きちんと受け答えが出来なかったのか!・・・」と。すっかりまいってしまった。落ちたことより、先生の怒りにあったのがショックであった。落ち込んだ私を見かねた研究室の山田昌一教授は部屋に呼んでくれ、小さなデミタスカップで本物のコーヒーをご馳走してくれた。先生は言葉少なく「人生は思い通りにならない。・・・・しかし人生には無駄がないのだよ!」そういって慰めてくれた。その言葉はずっと忘れられず、その場面が脳裏に焼き付いている。「人生には無駄がない!」、その言葉の意味がこの頃ようやく納得できる様になった。私はそのことを、子供たちに講演する機会があると、いつも、「人生には無駄がない。」、「すべて時宜にかなうように・・すべて時にかなって美しい。」と、体験をもとに話している。
さて当時、そのことから大学に研究生として残りたいとお願いしたが、「早く社会に出なさい。」ということで、富士吉田にあった山梨県林業試験場(現在の森林総合研究所富士吉田試験園)を紹介され、二二条職員として採用された。このことは私の望んでいた仕事が可能になった一歩であった。
本当に良き先輩に恵まれ、良く訓練された。途中から国の研究機関に転出し、育種研究、育種事業、海外協力で活躍された古越隆信博士(インドネシアでも一緒に仕事をさせていただいた)、古越さんには育種の実践研究の手ほどきを受けたと思っている。 アイディアいっぱいで仕事熱心の故長田十九三氏、長田さんからは、「良く学び、良く遊べ」と、よく言われた。仕事を精一杯する、そのかわり、ストレス解消も忘れるなということだったと思う。そして苗畑で育苗、交配、さし木、接ぎ木など実践を指導受してくれた故広瀬弘江氏、この三人が私の試験研究の礎だったと感謝している。床造り、タネまき、交配、増殖、種子採取、富士山の植生調査などよく外を飛び回った。
この三人からは仕事だけでなく、お酒も教わった。先輩からテーマが与えられた。「亜高山樹種としてモミ属は重要である。特にシラベ(AbiesVeitchii)は亜高山地帯の重要な造林樹種なので、シラベに関する遺伝育種研究をやってはどうか?」。
 そこで始めての研究テーマとして、シラベをとりあげた。シラベの的確な種子採取時期を把握するため、富士山に調査木を定めて雌花から球果に発達する過程で、形態の成長、色、比重、含水率、胚の成長、発芽率を時系的に調べていった。その結果、九月中旬が採取適期という結論をえた。これがはじめて学会で発表した仕事であった。その後の研究では、人工交配するため、雄花、雌花の開花時期を、シラベ、ウラジロモミ(Abies homolepis)で調べ、花粉の採取時期、花粉の採取方法等をも調べたのは懐かしい思い出である。
また、一九六八年の夏、国の試験研究機関の前田禎三先生(後宇都宮大学教授)と土壌研究室の宮川 清氏のお手伝いで、シラベ、オオシラビソ(Abies mariesii) 林の植生を調べるため野呂川に入山した。お二人とも本当に熱心で、連日地面に這いつくばって夜暗くなるまで芽生えや稚樹の数を数えたことは忘れがたい。その時は野呂川の事業所に寝泊まりしていたのだが、前田先生の同級生が県庁の総務部長であったせいか、お酒の差し入れが毎日あった。大酒飲みの前田先生と、一口で赤くなる宮川さんの組み合わせで夕食をとるのが、おかしかった。先生は朝早く目を覚まし、戸を開けはなち外を眺めながら、昨晩の飲み残しの冷めた徳利のお酒を飲んでいた姿が、なつかしい。
その時の仕事は、亜高山林の植生タイプ、カニコウモリ型、コケ型で種組成、後継樹の数がどうちがうのかを調査した。コケ型では、稚樹の本数は、ヘクタール一〇〇,〇〇〇本から一二〇,〇〇〇本という数で、一方、カニコウモリ型では少なくなり、二,〇〇〇本前後、倒木更新はコケ型で多いことがわかった。

山梨のシラベの人工林は一一六〇五ヘクタール、蓄積二〇一三立方メートルにおよぶ。富士山麓では天然林の伐採の後、カラマツとシラベの列状混植林も多く見られ、時間の経過とともに、シラベがカラマツの樹高を追い越した林分も多い。
シラベの枯れで有名なのは、縞に枯れている北八ヶ岳の縞枯山がある。約一〇〇mの間隔を持った立ち枯れ帯は、年当たり一〜二mのスピードで山頂へ動くことが知られている。これは波状更新(wave regeneration)と外国ではよばれている。なぜ、縞状に立ち枯れるのか、その原因とでき方は、ずっと謎のままであった。大きな原因は、諏訪側から吹き上げる南西の偏向風と台風などの強い風と、それに火山噴出物の岩石におおわれた腐植土の浅い土地が、シラビソの成長を抑えているという立地条件にある。樹木の成長と枯死が風上側に存在する樹木の高さに強く依存するといった簡単な条件を設けることで,ランダムな初期状態から縞状のパターンが自動的に生成されることが格子モデルを用いた理論的研究によって明らかにされている。格子モデルでは、まず山の切断面に添っての樹木のパターンを一次元格子空間として考える。各格子点はほぼ年齢と高さの等しい樹木個体群が占めており、その状態はそれら個体群の平均樹高とする。ある格子点の樹木がひとつ風上側の樹木よりもある閾値より高い場合には,恒常風の影響によって根の浅いシラベの蒸散が過剰になり立ち枯れる。そうでなければ枯死せずに一定速度で成長する。そうすると、ランダムな初期状態から出発して、鋸歯状のパターンに自動的に収束することが示される。いったん鋸歯状のパターンができあがると,その後は形を変えずに一定の速度で風下に向かってこのパターンが移動するわけである。
立ち枯れの縞は、上の方へと移動して行く。木の寿命はおよそ七〇年〜九〇年くらいと分っている。縞枯山の北東斜面の林では、縞枯れ現象が見られないばかりか、太いシラビソ・細いシラビソ・ダケカンバ等いろいろの植物が生えていて、亜高山帯の普通の森林を形成している。偏向風はないので立派な森林になっている。また、縞枯れ現象は奥父部でも小規模でおこっている。この奥父部のシラベ林の枯損原因を、環境悪化の影響・酸性雨説と新聞に投稿していた方がいたが、それは残念ながら当たらないと思う。
話は逸れるが、筑波の学園都市にある国立森林総合研究所に、遺伝分析手法を学ぶため、三ヶ月間の短期研修に行った。研修には二〇代・三〇代の研究員が行くのが通例であるが、私が行ったのは四〇後半になって行った。受け入れてくれた生態遺伝研究室の当時のメンバーは山本千秋室長、北村系子氏、関 剛氏。歳をとって行ったため、自分で好きにやるように言われ、本当に充実した三ヶ月であった。多くの研究者に出会い、また、さまざまな新しい情報の収集が出来るなど触発されることが多かった。この間インドネシアの研修生とも同室でインドネシア語を教えてもらったり、また時折仕事のあと部屋で飲み会があったり、また北村さんや仲間で結成した「テルフォレスター」というテレマークスキーのメンバーになり、休みにスキーへ行ったり、レースに出たりで、それは変化に富んだ楽しい研修期間であった。
その時にやった仕事がシラベの遺伝子分析である。当時はまだシラベの遺伝子分析はみあたらず、シラベの遺伝変異、繁殖構造の解析を行うには先ず遺伝子マーカーの探索が必要だった。ここで確認できたシラベのアイソザイム標識遺伝子は七酵素種七遺伝子座一四対立遺伝子であった。
このときのテクニックが、翌年派遣されたインドネシア林木育種研究所のプロジェクトでの技術移転に役立つことになった。
話をもどす。オオシラビソは青森県八甲田山から南アルプスの加賀白山までの亜高山帯に生育する常緑針葉樹である。緩やかな傾斜地では樹高は三〇m、直径五〇〜八〇cm近くになる。葉は長さ一〜二cmで先端に向かって幅は広くなり、先端は円い。オオシラビソはシラベのような左右対象の葉の間から馬のたてがみのような葉が出、葉の裏は白色であり、葉が立ち気味なので、横から見ると白さがめだつ。球果は黒紫色であり、シラベ同様に樹冠上部の枝に直立してつき、長さ六〜一〇cm、直径四〜五cmでシラベより大きい。
オオシラビソは湿潤多雪地帯によく純林を形成するが、積雪量の少ない太平洋側にシラベ林が形成され分布する。脊梁地帯では両種が混生している。山梨県の亜高山帯でも混在しているところもみられるが、微地形的にみると、凹地形ではオオシラビソが凸地ではシラベが発達している。
歴史的過程で説明すると、氷河期に温度が低下することにより、より低い標高に分布は移動する。最終氷河期以降・約六〇〇〇年前に、現在よりも高い気候の時期があり、逆に高標高域に分布は移動し、低い山では絶滅がおこった。これを「追い出し効果」といい、温度が再度下がった現在でも針葉樹林が回復しない場合が多い。また、一方では日本海側が多雪気候になったのは最終氷河期以降で、多雪に弱いシラベは絶滅し、比較的雪に強いオオシラビソのみがいくつかの山で残った、とする説もある。
集団遺伝学的にはシラベは北海道のトドマツと近縁関係にありアジア分布域にはいるが、オオシラビソとは近縁ではなく、オオシラビソは北米太平洋岸分布種と近縁であることが明らかにされた。それはモミ属の中でもオオシラビソは古く分化したものが日本列島に遺存した種と考えられている。
シラベは富士山北麓にずいぶん造林されているが、困ったことが起きている。それはニホンジカの樹皮食い被害が増えていることである。一九九三年頃から被害が発生し一九九九年には急増している。被害に遭うのはシラベがほとんどで、ウラジロモミ、ヒノキにも被害はでているが、多くはない。八ヶ岳地域ではカラマツに被害がみられ、しかし富士山麓ではカラマツの樹皮食い被害がほとんど無いのも特徴である。なぜシラベを食べ,カラマツを食べないのか、恐らくニホンジカの母親の集団の違いによるものと思われる。それは個体群の遺伝的違いを明らかにすればよい。現在DNAのマイクロサテライト分析により遺伝的多様性を明らかにし地域個体群の違い、個体交流の範囲・頻度が明らかにされつつある。
また病虫害では富士山麓のシラベ人工林においてトウヒツズヒハマキによる被害が一〇〇ヘクタールにもおよび、多くの枯死が生じていて、これも今後の更新がどうなるか問題でもある。皮肉にも単一樹種一斉造林の弊害を示す展示場となった。
花言葉は「高尚」。

アカマツ・クロマツ

アカマツ Pinus densiflora                 マツ科
クロマツ Pinus thunbergii
樹木の染色体                                 

  大学の林学科で専攻した研究室は、造林学教室であった。それぞれ個性的で魅力にあふれる先生方であったため、学生の人気があり、入るのには倍率の高い研究室であった。
私は船引洪三先生の林木育種を専攻するこたになった。フルブライトでアメリカのモンタナ大学に留学し、植物の染色体の倍数性を研究して来られた先生で、英語を自由自在にこなし、暇があれば学生を捉まえフリスビーで遊び(当時はめずらしかった)、トヨタパブリカ(今でいえばトヨタビッツか?)に学生を乗せてあちこち見学に行き、その行動力ものの考え方もアメリカナイズされていて魅力にあふれていた。また、専門の林木育種学も土とか造林とか何となく泥臭さを感じさせるものよりも、遺伝学、細胞学、生化学等基礎科学をベースに、新しいもの創り出す、増殖するなど私にとってその学問領域はとても新鮮に思えた。
アカマツ・クロマツは、卒業研究のために用いた染色体研究の材料であり、想いで深い。研究テーマは「アカマツ・クロマツの核型について」であった。
核型とは、生物は細胞から成り立っているが、その細胞中の核内にある一セットの染色体の形態をいう。
生命の本体はDNA(遺伝子)といわれているが、生物体の組織的単位は細胞で、細胞は大まかに核と細胞質から成り立っている。各々の細胞の一つ一つに一定数の紐状の染色体をもっている。人間の染色体は四六本、一〜二二番がそれぞれ対で計四四本、それに性を決定するX、Y、男ではXY、女ではXXの染色体二本を加えた合計四六本である。紐状の分子の染色体は小さいものでも長さが二cmくらいで、一個の細胞の中にある四六本をつなぐと二mの長さにもなる。
生き物の設計図が、細胞の核の中に染色体という形で存在している。DNAという紐状の分子の上に、化学記号の文字AGCT(アデニン、グアニン、シトシン、チミン)が三〇億個(塩基数)並んでいる。この設計図の重要な部分である遺伝子を発見していくのが、世界の一六チームが参加しておこなわれているヒトゲノムプロジェクトだ。 一九九九年一二月二日、ヒトゲノムプロジェクトの最初の記念すべき成果として、二二番染色体のDNAシーケンスの三,四〇〇万文字の塩基配列を決定した。日、英、米二〇〇人の研究者が一体となり、遺伝子研究の貴重な一里塚を築いた。それは、天地創造の瞬間に喩えられた。二二番染色体のAGCT三,四〇〇万文字を確定し、染色体の上にある五四五個の遺伝子を発見したのである。
 二〇〇〇年五月には、二一番染色体が解読された。さらに、二〇〇一年二月になって、すべての遺伝子の大雑把な解読ができたという発表が行われた。人間には三万二,〇〇〇くらいの遺伝子が存在することがわかった。DNAは、生命の設計図とよくいわれる。正確には生命を支えている素材のタンパク質の設計図であって、生命そのものの設計図とはいえない。生命の起源、進化、地球生物の地位については、理解が不十分どころか、ほとんど何もわかっていない。
 話はずいぶん横道にそれたが、では、針葉樹樹木の染色体数は、どうなっているであろう。
コウヤマキ属は二〇本、スギ科、ヒノキ科では二二本、私の研究したマツ科は二四本、同じくイヌガヤ属、イチイ属、イチョウ属も二四本である。ナンヨウスギ科は二六本である。
 なぜ染色体数がわかっているのにマツ属のアカマツ、クロマツの染色体を研究対象としてとりあげたかというと、マツ属には沢山の種があり、その種の違いを染色体の形態的違い(核型)から明らかにしようというのがねらいで、アカマツ、クロマツを取り上げた。染色体の細部の違いがわかれば、交雑の成功率も向上するであろうというものであった。したがって、染色体の各長さ、くびれの位置、サテライト(付随体)の有無を調べた。
染色体を調べる方法は、各種子を発芽させ伸びた芽の先端をとり、それをプレパラートにのせ、酢酸オルセインという染色液をたらし、ガラス棒で押しつぶし、顕微鏡で覗いて細胞分裂した染色体をさがし、その染色体をさらに詳しく見ていくという根気のいる仕事であった。夜遅くまで顕微鏡を覗いていた研究室の仕事がなつかしい。染色体の形態は、同じ樹種でも変動が見られた。新しい知見も見られたので、先生と共同で大学の研究報告、それに英文誌の染色体学会誌にも載せた。それがはじめて世に研究者として名前が出た記念すべき報告である。
 筑波大学で学位を取得したナイム博士の研究は、標識遺伝子を用いて行なったアカマツの遺伝変異の研究である。多型遺伝子座、一遺伝子座あたりの平均対立遺伝子数、期待平均ヘテロ接合率の遺伝パラメーターから、かなり大きな遺伝変異をもつことを明らかにした。ナイム博士は、かつて私がJICA長期専門家として働いたインドネシア国林木育種研究所の所長もした方で、現在はジョクジャカルタにある名門ガジャマダ大学の学長をしている。
一昨年五月に東京にこられ、インドネシアの林木育種事情に関して講演をおこなっていった。インドネシア語で「おひさしぶりです。お元気そうでなによりです。」と握手をもとめたら、「まだインドネシア語覚えているのですか」と、うれしそうに固い握手を交わした。歳のせいなのか、胸が熱くなった。
アカマツは、本州の青森から屋久島まで広く分布する。
生まれ故郷の函館には、札幌に通じる近郊の国道五号線沿いにアカマツ並木がある。この並木は、通称赤松街道と呼ばれ、老木で見応えがする。これは明治天皇の行幸を記念し、安政二年(一八五五年)に箱館奉行がタネを佐渡より取り寄せて育苗したアカマツを植えたと言われている。
また函館公園、五稜郭公園にも立派なアカマツがある。日本産針葉樹の中では分布する範囲が最も広い樹種である。乾燥したやせ地、凸型地形、尾根、他の樹木が枯れてしまったような二次林によく育つ旺盛な樹木である。。
山梨県では有名なアカマツ林もあちこちにある。峡北地方に美林が多い。小淵沢「道の駅」周辺の林はまっすぐのびた高木林は県見本林になっている。また富士山麓にアカマツ林も多い。大木の多い諏訪の森のアカマツ林、スバル入り口の剣丸尾のアカマツ林など。甲府周辺では昇仙峡、要害山、小松山に美林がある。山梨市八景の一つ万力林は武田信玄の時代に水害防備林としてアカマツが植えられ、四季を通じ人々の憩いの場となっている。単木では旧武川村の「萬休院の舞鶴松」鶴が羽を広げた姿から名付けられたアカマツで樹齢四〇〇年といわれている。アカマツの名木中の名木といってもよいまれにみる美しさである。また旧白州町横手にある横手の駒のマツもすばらしい枝ぶりで美しいアカマツである。
一方、クロマツは、同じように広く本州以西に分布するが沿海地に多い。 クロマツはアカマツに比べ、水分条件の良い場所では初期成長が良好であり、植林されることも多かった。初期生長が良いのはアカマツに比べて葉への資源投資が多いからであると思われる。葉量が多いので、次の年の拡大再生産比率は大きなものとなるが、逆に根への投資は少ないわけであり、土壌条件の良い場所であることが前提となる。したがって、痩悪な林地ではクロマツよりもアカマツの方が優勢となる。塩に強いいので、潮風の強いクロマツが防風林、土砂防止林として造林されている。しかし、もともと沿海分布樹種というのではなく、暖地では山中に自生していることから、進化過程でクロマツは、山から追いやられ耐塩性があるので沿海に残ったと考えられる。山梨県では富士川沿いに見られる。
アカマツは雌マツ、女マツ、クロマツは雄マツ、男マツとも呼ばれていることも多い。雌雄同株(雌花と雄花が同じ木につくもの)である。四から五月頃に花が咲き、アカマツの場合は新しい枝の先に紅色の雌花の芽がまっすぐに一〜二個クロマツは二〜四個つく。 雄花は、新しい枝の下の方に淡黄緑色の円筒形のものがいくつかについており、ここから黄色の花粉をたくさん飛ばす。この花粉は羽根(気のう)をもっているので風にのりやすい風媒花である。この時期は車のボンネット、ガラスを黄色くすることも多く、花粉飛散量には驚かされる。花粉症を引き起こさないのでまだましか?雌花は、受粉受精すると成長し次の年の一〇月頃に球果(松ボックリ)として熟する。アカマツの場合は、この天然下種更新という方法で未来の森を残していくことが多い。
両樹種の見分け方は、アカマツは樹皮が赤っぽく針葉は細く柔らかい明るい緑色、葉の先を手でふれると少し痛い。クロマツは樹皮が黒っぽく針葉は堅く濃い緑色で、アカマツより長い葉の先を手でふれるととても痛い。
学生時代「樹木解剖学」の授業で組織を観察する実習があった。マツの針葉をニワトコ(Sambucus Sieboldiana)の枝のコルク質の髄に挟み、両刃のかみそりでスライスして顕微鏡で観察した。そのマツの違いはヤニが含まれる樹脂道の位置にある。アカマツの樹脂道は下表皮に接しており、葉肉中に樹脂道があるのがクロマツである。
 国が指定しているアカマツ林木遺伝資源保存林は、岐阜県大野郡宮村宮国有林に生育しているアカマツである。 天然性の平均胸高直径四〇cm、平均樹高二六mの優良アカマツが群生する原生的な林分でアカマツの他ヒメコマツ、ヒノキ、コハウチワカエデ等多様な樹種が混生し、ヌクイ谷を代表する天然林である。
 人間の活動によって急激にマツ林は分布を拡大したが、 山梨のマツ林も北海道を除く地域同様、全山のマツが紅葉かと思えるほど、マツの集団枯損が見られている。マツノザイセンチュウによるマツ枯れ病である。大気汚染などの環境汚染が大きく影響しているとの意見もあるが考えにくい。植生の遷移や里山の管理放棄、環境汚染や地球温暖化などの要因が複雑に絡んでいるものと思われ、疫学的な調査や接種試験などから、マツノザイセンチュウが病原であり、これを媒介するのが運び屋:マツノマダラカミキリであるとするのが、現在の定説であると考えて良い。山梨では標高八〇〇mから上では発生がほとんど見られていなかったが、最近、富士山周辺の九〇〇m以上で確認されたことから、地球温暖化の影響も及んできたかと思うこの頃である。
アカマツ、クロマツともに、梁などの建築材、家具材のほか、樹脂も多く耐久性があるので土木用材にも利用されている。
薬用としては、マツの実、マツ葉は、低血圧症、冷え性、不眠症、食欲不振、去淡、膀胱炎、動脈硬化症、糖尿病、リューマチ、神経痛、胃炎、疲労回復、心臓病などに効果があると言われている。マツの有効成分は、葉緑素クロロフィル(増血作用、血液浄化、血液中の不飽和脂肪酸溶解)、テルペン精油(ピネン、ジペンテン、リモネン含有成分・血液中のコレステロールを除去し血液をサラサラにしてボケ、脳卒中、動脈硬化を抑制)、ビタミンA・C、ビタミンK、鉄分、酵素(血液の凝固、骨へのカルシウム沈着・老化を抑制し出血を防ぐ)と言われている。
生のマツ葉を煎じて、うがいをすると虫歯や口内炎治療の効果もあると聞いたことがあり、松脂成分テルペン精油が鎮痛作用を担っていると考えられる。 
また、生の青いマツ葉を採取して良く洗い、半分くらいに折って、折った方から口に入れて、軽く噛む。噛んだ後には吐き捨て、それで精神集中や歯の病気の予防になるとされている。松葉ジュースは、青く新鮮な松葉一〇グラム程度の根元のさやを取り除いて水洗い、水〇.二リットルと皮をむいたレモン半分をジューサーに三〇秒程度かける、ハチミツで甘味をつけてそのまま飲む。 バナナ、リンゴ、アシタバ、パセリなどを入れてブレンドしたジュースも味わいがある。松葉酒は松葉(生松葉)を適量と焼酎を加えて一〜三ヶ月冷暗所において飲用する。ハチミツを入れると飲みやすく

ソメイヨシノ Prunus yedoensis              バラ科
五稜郭公園の桜

日本の象徴、サクラ。奈良時代の日本は、中国の影響を受け、花といえば「梅」であった。それが平安時代になると「桜」に変わっている。この桜という語源も、いろいろな説がある。「さくや・咲耶」、「さきうら・咲麗」、「さきはや・咲映」などがあるが、すべて花が咲くということに由来し、桜の花が咲くことを愛でることが重要だったことがうかがえる。
子供の頃のアルバムに、家族と、両親の親しくしていたご夫婦とで、お花見にいった時の思い出の写真がある。鍔のある学生帽をかぶって、正装をし、おすましをしている。サクラの木の下にゴザをしき、ジュースを飲んだり、手作りの海苔巻き、稲荷すし、卵焼きなどのご馳走を食べた。父は酒もタバコも駄目だったが、周りでは、カラオケこそなかったけれど、飲めや歌えの大騒ぎの宴が繰り広げられ、酔っ払いも多かった。花見は当時、数少ない娯楽のひとつだった。その場所は、函館の五稜郭公園である。函館には、この五稜郭と、石川啄木の歌「函館の青柳町こそ悲しけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」の碑のある函館公園が、桜の名所だった。
話しを戻すが、五稜郭公園は、城郭が五角の星形をなし、江戸末期に造られた我が国初の洋式城郭。明治維新の際、榎本武揚(たけあき)が官軍に抵抗した舞台として広く知られている。堀の内外には、桜が約二六〇〇本咲く。約八割はソメイヨシノで、二割は八重咲きの関山(かんざん)や普賢象(ふげんぞう)、鬱金(うこん)などのサトザクラである。ここの桜は、大正二年(一九一三年)に函館毎日新聞社が一万号発行記念として約五〇〇〇本を植樹したのが始まりだという。確かに太い堂々としたサクラだったと思うので大正時代に植えられたとすれば当時四〇年は経っていたのかもしれない。花見はゴールデンウイークの五月に入ってからだった。したがって、甲府のソメイヨシノの開花と比較すれば一ヶ月はずれている。
山梨にきて初めての花見をしたのは、山中湖にある東京大学の演習林の庭であった。東大の山中湖演習林とは共同で仕事をしていたので、演習林を管理していた方々も加わって行われた。
ここでのサクラは、自生しているフジザクラ( Prunus insisa)が多いが、富士山麓一帯にこのフジザクラが分布している。別名マメザクラといい、樹高もせいぜい五・六m前後で花も小さい。直径二cm前後の花が散形状に横向き下向きに咲く。ここ山中湖での花見は、五月に入ってからだと思う。そんな意味で、函館生まれの私には、山中湖に同じ季節観を感じ、うれしかった。
開花の仕組みはどうなっているのであろう。桜は前年の夏に花の元になる花芽をつくる。そのまま休眠し、秋から冬の低温に一定期間さらされると休眠から目覚めるいわゆる休眠打破が起こる。休眠打破は一度以下では起きず、二度〜一二度の気温が打破を促進する。目覚めた花芽は春の気温の上昇に伴い。生長し開花することになる。
したがってソメイヨシノの開花は気象温度でも予測することができる。一般に一日の平均気温が一二―一三℃になると開花し始めると言われている。しかし雪国と言われる地方では一〇℃、開花から満開になるのにかかる日数はおよそ七―八日間、東北地方では五日間で寒冷地になるほど開花から満開までの日数が短くなるといわれている。これもあくまでも目安で、木の個体差も大きい。咲いた花は一週間で散る。 
サクラの開花は、八分咲きのまだ若いときもよし、満開の一瞬もよし、さらに花びらが舞散ってゆく姿もまたよい。日本に生まれ育った我々は、そうした移り変わりを愛でる情緒風流があることに優越感を覚える。
サクラは日本の国花であり、山梨県ではフジザクラが県花となっているのがうれしい。ソメイヨシノはオオシマザクラ(関東地方や伊豆七島に多い)とエドヒガン(他のサクラより早く開花する)との雑種である。木の生長が早く、春、葉に先立って開花する。花は淡い紅色の五弁の花びらを持ち、萼(ガク)や花柄、葉などには軟らかい毛が多く生えている。江戸時代末期に、江戸染井の植木屋さんから売り出されたのでソメイヨシノの名前がついたといわれている。
フジザクラは、 花の直径は二センチほどで,小さいことからマメザクラという名前になった。木の高さも 三 〜 八メートルとあまり大きくならず,桜の中では最も葉が小さく、枝も細い。日当たりの良い山地の、比較的若い林や、風当たりの強い土地にも生える。
 分布範囲は狭いが、富士火山帯地域、箱根山地では、比較的多く見られ、花時は可憐で目立つ。
インドネシアで仕事をしていた時、ジャカルタから車で一時間半ほど南へ走ったところのプンチャック峠に、ボゴール植物園の分園、チボダス植物園があり、そこを訪ねたことがある。この地域は標高も結構高くなっており、雨の日などは肌寒いほどである。気温の急激な変化を利用してか、お茶畑が山の斜面に広がっており、そうした気象条件であるので避暑地・別荘地ともなっている。この植物園は別名「花の植物園」ともいわれ、亜熱帯植物を集めている。インドネシアにきて、はじめてサクラを見たのはここである。ヒマラヤザクラ(Prunus cerasoides )の表示板があった。日本のサクラよりも色が濃く花びらは重ならず一枚一枚でソメイヨシノとは、すこし異なるが、やはりサクラをみると日本人であることを意識する。日本のサクラの故郷はネパールのヒマラヤ地帯という説もある。ヒマラヤザクラは、ヒマラヤ山脈の標高一一〇〇〜二三〇〇mの暖温帯に分布している。日本には、ネパールのビレンドラ国王が日本留学中に熱海市に寄贈された種子から育てられた三本が知られている。毎年一一月下旬から一二月にかけてピンク色の見事な花を咲かせ、正月には若葉が青々として人々の目を楽しませていると聞いた。最近、二酸化窒素の吸収同化能力が優れていることがわかり(ソメイヨシノの五倍)、地球温暖化に一役かうサクラとして注目されてきた。
サクラの開花時期でないのにサクラが咲いているとのマスコミの問い合わせが、秋以降に毎年ある。
本来開花する時期に咲かないで、季節外れにサクラなどの花が咲くことを「狂い咲き」と言うが、この現象はどうして起きるのであろうか。
開花について「成長抑制ホルモン」の視点からみると、サクラなど落葉樹の場合、花芽分化から開花するまでのメカニズムは、花芽ができた後で、各葉に「成長抑制ホルモン」が作られ、これが花芽に移動する。そして葉は役目を終えて落葉する(休眠)。花芽は例え季節外れの暖かさがやってきても、「成長抑制ホルモン」の効果から、そのまま冬を越す。そしてこの「成長抑制ホルモン」は冬の寒さによって壊される(休眠打破)。この「成長抑制ホルモン」が壊されてから、春を迎えて暖かくなると、グングン成長し、ちょうど良い時期に開花するのが通常の姿である。ところが、各葉で作られた「成長抑制ホルモン」が花芽に移動する前に、大型台風、異常乾燥などによって、大事な葉が早く切り取られると、「成長抑制ホルモン」が花芽に届かないでしまう。それでも異常な暖かさがやって来なければ、花芽はそのまま冬を越すので、「狂い咲き」は起きない。問題は、台風などで「成長抑制ホルモン」が花芽に届かない場合で、かつ異常な暖かさがやってきた時に、もう春が来たのかと勘違いさせられ開花してしまう。つまり、「成長抑制ホルモン」が花芽に届かない場合で、異常な暖かさがやってきたという二つの条件が重なった時に、「狂い咲き」と言われる現象が起きる。「狂い咲き」というとなにやらロマンチックな響きがあるが、なんのことはない、桜は素で間違えているのである。
職場の近くの大法師公園で毎年桜祭りが盛大におこなわれている。その開催期間をいつにするか本当にその予測が大変のようだ。二〇〇二年の春は、桜が平年よりも二週間あまり早く咲いた、このため種々の影響がでた。
生物季節は、桜の開花や満開など、温暖化の影響を直接受ける感度の高い指標とみることもできる。甲府では一週間ほど早まっている。今後、こうした生物季節現象や植物の生長を注意深くみていくことにより、温暖化の影響の発現をいち早く検出できるので、影響を緩和するべく適応策の検討も容易になると考えられる。花言葉は「優れた美人」。

はじめに 
    
 函館生まれの私は、子供の頃は海によく行き、貝をとり、泳いだものだ。今だに海を見ると血も騒ぐ。しかし海だけでなく、川に入ってヤゴや雑魚を採ったり、森林に行ってクワガタやバッタ、セミ、アゲハチョウなどの採集を楽しんだり、冒険遊びで夜明けから日が暮れるまで野山を駆け巡った記憶も鮮明に残っている。昔の自然は、遊びの宝庫であった。また、高校時代は一時山登りに凝ってワンダーフォーゲル部にも属していた。そんなわけで自然に親しむことは原体験として染み込んでいる。
両親は、盛んに地元の教育大学へ進んで先生になることを勧めた。しかし当時人前で話をすることが苦手だった私にとって教壇に立って話し、また子供の親と接するなど、想像しただけでも、耐えられないことに思えた。結局、大学は林学科に進んだ。当時は樹木の名前も知識も乏しかった。
大学に入り、専門分野の授業では、林木育種学に引かれた。一つの樹種をとらえても種内は同じではないさまざまな違い(変異)があり、それを巧く利用するのが林木育種、そのことに強く興味をもった。大学の夏休みは、国有林の東北林木育種場、長野林木育種場(現長野増殖保存園)で、ツギキ、挿し木の育種のテクニックの手ほどきをずいぶん受けた。
この経験を通し、卒業後は試験研究の道を進みたいと思うようになった。といっても当時は大学院に行く、ということは遠い世界に思えた。恩師も早く世の中にでて仕事をすべきとの勧めで、山梨県林業試験場に雇われることになり、そのまま県に採用になって試験研究畑を歩むことになった。
入った頃の職場、研究職員はスネデッカーの「統計的方法」のゼミ、、山梨大学に行って教授を囲みドイツ語の文献ゼミ、また、「学会が研修の場である」といって出席発表が義務づけられ、出張から戻って研究動向の報告会をするなど、アカデミックな雰囲気で活気に満ちていて、充実した日々であった。あの頃を本当に懐かしく思う。
 研究所では育林・育種のセクションの担当であったので、大学の専門を生かせた仕事が出来た。
林木育種はかならずしも一般にはなじみがないと思う。私がたずさわった育種研究の成果は、採種園の遺伝的管理ということでまとめた。具体的な研究の結果としては、優良種苗の供給ということになる。優れた親木(精英樹)を沢山選びそれを増殖し、それらでタネとり園である採種園を造成し、その採種園において自然交配が偏りが少なく起こるようにして種子を生産させる、その実態を解析し、管理に結びつけた。
山に植える苗木の親木の素性まで気にする人は少ないと思う。採種園から種子が供給されているので、私の成果は知らず知らずの内に種苗行政をとおし、黙々と山づくりにその結果が貢献していると思っている。
まったく木の名前も知らず遊んでいた子供の頃と違って、長い森林とのつきあいの中で沢山の樹木に出会い、それにまつわる知識も得た。大した重要な情報も書き加えられず、自己満足の昔話にとどまる文でしかないことをご容赦ねがいたい。
人それぞれ異なり、その人その人の役割があるように、樹木それぞれには、個性があり、様々な個性・特徴をもって森林形成の役割を担っている。変異、多様性があるということは共生して生態的な役割を担っているということであろう。
 本書は、樹木に興味のある方でないかぎり、イラストや写真がない木の話では、余計退屈にちがいない。絵心のない自分には絵を載せられないのが残念ではある。しかし、取り上げた樹種は見慣れた樹種であり、特殊な樹種はそんなにない。
今日、地球規模での環境という視点から、森林に対する期待・注目が高まっている。また、人間形成の面からも学校教育の中で森林をとりあげられるようになってきた。さらに、医療的効果として森林療法がクローズアップされてきている。そのような中、構成している樹木の個性・多様性に目を向けてほしいと願うものである。

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