三河土龍の迷走日記

4代目DON様,頭にフォーク!ぶっちゃーにやられた?!--バイクなら、フロントにフォークは当たり前---。

音楽

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昨日の朝のことだけれど、NHKの朝のクラシック倶楽部に何気なくチャンネルを合わせて、思わずひきつけられた。
虚を衝かれた、と言う言い方がぴったりしていた。

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既に30歳代に入るこの青年、それなりに経歴も持っているらしいが、ご多分に漏れず僕は全く未知の人だった。

ルクセンブルグ出身の(5ヶ国語を流暢に話す彼にとっては、汎ヨーロッパの、と言うべきだろう)、Franceca Tristano Shlimeフランチェスカ・トりスターノ・シュリメという。
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聞き始めたのは、後で判ったのだが、ジョン・ケージの「ある風景の中で」と言う曲の、後半からだった。
知ってはいたが、はじめは何の曲か、全く判らなかった。
それでも最初の数音から僕を惹きつけたのは、その「音」だった。

プロのクラシック演奏家から聞いたことの無い音。
プロの演奏家なら決して出さない、あるいは否定するだろう、音。

録音や再生の条件もあるだろうが、その後ネットで漁った音源でも、この印象は全く変わらなかったから、その点は差し引いてもいいだろうと思う。

どんな「音」か?

一言で言うと、マットで肉感的、あえて言うなら輝きも化粧も無い「汚い」音と言ってもいい。
弾く本人は、男性モデルといっても通用する美青年なのだが、音は全く違っている。

では、外見頼りのアイドル・タレントか?というと、とんでもない!、

これはとんでもない才能に出会っていると確信させる、音だったのだ。

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− ピアニスト フランチェスコ・トリスターノ     〜伝統と革新の響き〜 −             
                              
「KYEOTP“イントロダクション”            
〜インプロヴィゼーション」 
フランチェスコ・トリスターノ作曲           
「パルティータ 第1番 変ロ長調 BWV825」 バッハ作曲              
「ある風景の中で」            ジョン・ケージ作曲  
「鍵盤楽器のための作品から」          ギボンズ作曲                        
「シャコンヌ“グラウンド・ベース”(2004)」フランチェスコ・トリスターノ作曲      
                              
(ピアノ)フランチェスコ・トリスターノ  〜東京・自由学園明日館講堂で収録〜
<収録:2011年6月14日(火)>               

            
やたらと無機的に演奏されることが多い、というより「それしかない」 ケージ作品、
それがこれほど肉感的で濃厚な空間を作り出すとは!

驚きはギボンズに至って決定的になる。

モダンピアノでギボンズ、と言えばなんと言ってもG・グールドを思い起こすし、トりスターノ自身、グールドに傾倒しているらしいが、しかしまるで違う世界!
まずグールドの純粋で贅肉の無い、結晶のように強靭な音に比べるまでも無く、トりスターノは音の質に関心が無いかのようだ。
関心があるのは、ひたすら音の「運動性」。
曲の構造すらその「運動性」の支配下にのみ、意味があると言わんばかりの自在さ。
グールドのアルカイックなルバートとは全く違った、一種生理的で枠にとらわれないルバートが、いたるところ、では無く、最初から最期まで現れ、
ピアノという近代産業の生み出した「機械」が、遥かにプリミティブな楽器であるかのように呼吸し、つぶやき、蠢く。

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こういう音は、おそらくありきたりな(特にこの国の)クラシック教育では、完全に否定されるか無視されるはずだ。
現に白寿ホールやそのほかで生で聞いた聴衆のなかに、戸惑いや、否定的な見解を表明したものもあった。

しかし僕には、親しみ深く、もっとも生々しい音でもある。
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彼の名前すら知らない段階で、僕の頭を掠めたのはあの伝説のModernJazzの巨人、レニー・トリスターノだった。

あるいは親愛なるPaul Bleyの肖像も、と言ってもいい。

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何でもかんでも美しく磨き上げて、御伽噺のように「きれい」に聞かせようという、一種、伝統的な衝動を持つクラシック演奏家とは、無論彼らはまるで違った位相に立つ。
奇しくも同じトリスターノ(関係はなさそうだけれど)という名を持つこの青年も、どうやら「音」の発想が、ありきたりなクラシックの範疇にはないようだ。

自作の「シャコンヌ〜グラウンド・ベース」で、その感は確信に変わった。

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中学生の頃、ブラームスとバッハへの傾倒から、作曲の真似事をしようと思ったときに、バカモグラが最初に取り掛かったのがシャコンヌ、あるいはパッサカリリア形式だった(無論、モノにならなかったけれど−−恥;-)。

そんなことはどうでもいいが、この青年にとって、シャコンヌはカビの生えた博物館のモノではなく、Jazzのインプヴィゼイションの根底と同じものであり、ピアソラやミニマル・ミュージック、あるいはハウス・ミュージックのエコーさえ水平に内包できるものだ。

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YouTubeにアップされている動画は、相当数あるようだ。

フランチェスコ・トリスターノ・シュリメ

FrancescoTristano torino

FrancescoTristano live @ Humani

「汚い」と言ったが、それは一般的なクラシックの「常識」を代弁しただけで、
僕にとって魅力の無いものだという意味では全く無いし、文字どおり汚い音なわけでもない。
独特の揺らぎのある(妙な言い方だが「スィング」のある)リズム感とあいまって、
濃密なライブ感がありながら、熱くなりすぎないでクール、
(動画のいたるところで指を食い入るように見つめたが、見たところごく普通で、何の発見もできなかった。)
シェーンベルグから20世紀音楽の屈曲も、Jazzやワールドミュージックに至るまで、
重荷やくびきではなく、豊かな財産として内包しながら、しかも自在。

もう一方の活動、ドラムやシンセと組んでのバンド活動や、クラブミュージックのほうも相当面白い。

何より、僕には彼の音から、
一番聞きたかった「現在」が聞こえてくるのが面白い。

グールドとの単純比較は、僕には完全な的外れだと思える。
ある意味、グールドの場合とはいろんな意味で、正反対ですらあるだろう。
しかし、グールドの登場がもたらした衝撃と言う意味なら、
ひょっとすると同じようなことになるのかもしれない。

それにしても、とんでもない才能が現れたものだ。

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閑話休題:いつもなら、真っ先に避ける同放送局の「しろうと喉自慢」。
 
今日は震災被災地での予選をやっていた。
出場者は少なくとも直接の被害が少なかったか、あるいは生き延びた方々や、その隣人だ。
音程もリズムも取れない、発声もなっていないド素人のKARAOKEレベルの歌を聴く趣味は僕にはない。
今日だって、その点はなんら変わりなかった。

----そのはずだった。

だが驚いた。

彼らが歌うその音楽と日本語、それへの生々しい「思い」が、僕の胸を突いた。
「超」が着くほど「下手」なのに、音楽の一番生々しい渇望と心が、僕と同じごく普通の大衆の一人一人に満ちていた。
そして音楽にとって、それが最も根底の生命になるものだ、と僕は信じている。


日本人がこんなに音楽的だったのか、といぶかりながら、
その「現在」に、僕はひどく感動させられていた。





(画像は借り物です、責任は三河土竜にあります)

                            
      




昨日のままで

悪口は書かないと内心決めていた。
でも「がっかり」を記録しておくのも、悪くないかも知れない。

昨晩に続いて、今夜はバイロイトの『ローエングリン』、それも衛星生中継と来ている。
幕間に一時間の休憩が入って、合計6時間というのもすごいが、
バイロイトならこれくらいで驚いてるわけには行かない。

最初に言ってしまったが、結果は「残念」の一言。
昨日のザルツブルグのティーレマンの『影のない女』のところで「モダン演出」についてちょっと触れたが、一方の『ローエングリン』の演出は、その悪い意味での表出となっていた、と言っておこう。

イメージ 1

解説に立った、船山氏(舟木氏?)のお利巧で好意的な意味づけはそれらしく、またあながち外れても居ないだろうと思うが、
でもねぇ、群集や兵士が「ねずみ」で、最後のお世継ぎの王子が卵の殻の中のグロテスクなへその緒をつけた胎児、というのも、僕にはいただけなかった。
音楽がワグナーでなければ、それはそれで興味深いものだったかもしれないが。

その音楽も、いいところもなしとまでは言わないが、アンドリス・ネルソンズという指揮者、若干32〜3歳と聞くが、それを差し置いてもオケをドライブすることに熱中するあまり、ワグナーがスコアに忍ばせたモチーフと和声とリズムの一種「くさみ」といったものが全て、すっ飛んで、ただただ豪快に鳴りまくるだけ。
f も pも音量と音響の量的問題だけでなく、心理的なものへの深い理解がなければ、ハリウッド映画のBGMやPAを駆使したロックコンサートのほうがはるかにましだ。
以前何かのライブを聞いて、あまり感心しなかった記憶があるが、それを裏切ってはくれなかった、という結果。

拾いものだったのは、合唱。
指導者が変わったらしいが、これは羨ましいほど素晴らしかった。


それと、この人、→
イメージ 2
タイトルロールのローエングリン役に大抜擢されたたという、
クラウス・フロリアン・フォークトというテナー、これは良かった。
伝統的な意味でのヘルデン・テノールの正反対の声質、
しかし声量にも表現にも余裕があって、これはこれで新しいローエングリンとして、よく納得できる。


それにしても、バイロイトの聴衆は、
さすがたいしたもんだと思う。
盛大な拍手を受けたのは、合唱とフォークト、他の数人の歌手だけだった。
「耳が肥えている」といっても、
決して懐古趣味や保守的なバイロイト「詣で」信者の集団ではないこと、
それは、古い意味でバイロイト的ではない、フォークトへの盛大なオベーションからも伺える。






幕間にバイロイトの歴史のドキュメンタリーを流していたが、これが面白かった。
中身は兎も角として、オケ・リハやBGMで挿入される音楽が面白かったのだ。

「おっ!?」と耳をそばだてると、振っているのはティーレマン。
古い音源では(多分)カイルベルトやクラウスのものが使われていたと推測するが、
それもやはり、「おっ!」となった。
ティーレマンというひと、正直なところちょっと前までは半信半疑だったが、
既に彼自身の「音」を持っている、ところまで来ているようだ。

バイロイトとナチスの因縁を紐解くまでもなく、芸術(という言葉が大嫌いなモグラですが)は大衆社会や経済社会に対して、『猛毒』をはらんで一向に差し支えないと思う。
口を滑らせれば、毒のない表出など「シャリコマ」(コマーシャリズム=市場社会)の流通消耗品(エンタテイメント)に過ぎない、とさえ思っている。
(それはそれで、大好きですが。)

「受け」を狙うのも、反対に「非(反)社会性」を気取るのも、どちらも受容者にとっては
はなはだ気詰まりで浅薄なポーズに過ぎない。

好きではなかったけど、ブーレーズ・シェローの時代のバイロイト、
一方、大好きなヴィーラント・ワグナーとベームやクナッパーツブッシュやカイルベルトの時代、そのどちらもが(メディアでしかしらないけど)、ある「凄み」と
「毒」を孕んでいて、僕には忘れられない。

情けないことに、数日ぐらいしか継続しないけれど、
少なくとも上記のバイロイトなんかを聞くと、それまでの自分がなにが何でも別物にならなくては、と思いこまされるほど、その享受は強烈な体験だった。


バイロイトの生中継という、少し前には信じられない出来事に遭遇して、
でも、とりあえず、今日のところはそんな風に思わないで、
昨日の僕のままでいけそうだ-----。



最高の贅沢

実は、このところ、心身ともぼろぼろ。
もともとボロだから今更どうって事ないが、それでもこたえる。

だから、この二日、何もしないでこの時間を待った。
録画機を用意していないからだけど、どうせなら作品の時間を、「巻き戻し」なしで、たどりたかった。なんと言っても、それがイチバンの贅沢だから。
他ならない、BSで放映されたザルツブルグの『影のない女』のためだ。
約4時間、それはやはり一つの「体験」になった。

一応、データを書いておこう。

<曲目>歌劇「影のない女」全3幕(リヒャルト・シュトラウス)
1幕 23:30:000:43:40
2幕  0:45:101:52:50
3幕  1:55:203:15:30
<出演>
(皇帝)スティーヴン・グールド
(皇后)アンネ・シュワーネウィルムス
(皇后の乳母)ミヒャエラ・シュスター
(染め物師バラック)ウォルフガング・コッホ
(バラックの妻)エヴェリン・ヘルリツィウス
(バラックの兄弟たち)マルクス・ブリュック、スティーヴン・ヒュームズ、アンドレアス・コンラート
(霊界の使者)トーマス・ヨハネス・マイア
(鷹の声)レイチェル・フレンケル
(現われた若い男)ペーター・ゾン
(敷居の護衛官)クリスティーナ・ランズハマー
(上方からの声)マリア・ラードナー

(管弦楽)ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(合唱)ウィーン国立歌劇合唱団
(指揮)クリスティアン・ティーレマン

(美術)ヨハネス・ライアッカー
(衣装)ウルスラ・レンツェンブリンク
(照明)シュテファン・ボリガー
(演出)クリストフ・ロイ

(字幕)武石みどり


収録:2011729
ザルツブルク祝祭大劇場(オーストリア)


僕には畏れるものがある。
恐れているのではない。
その際たるものが、R.シュトラウスと数多のJazzプレイヤーたちだ。
彼らを畏れる理由は何かといえば、どう転んでも僕などには指先も届かない、
月並みだけれど、彼らの音楽的能力故だ。
バッハやグールド、をその仲間に入れてもいい。
僕は心ひそかに、彼らを「音に淫した人」と呼ぶことにしている。

金の計算ばかりしていたというR.シュトラウス。
しかしこの人の膨大な仕事がなかったら、ドビュッシーもヤナーチェックも、
シューエンベルグやベルグは勿論、ヨーロッパの20世紀音楽は違ったものになっていたに違いない。
だいぶ前からたが僕は、R.シュトラウスの最高傑作は、よく言われる『エレクトラ』や
『バラの騎士』ではなく、この『影のない女』ではないか、と思っていた。

今までサヴァリッシュやベーム盤を聞いてきたが、
ティーレマンの衝撃は、僕にとってはそれらを超えていた。

イメージ 2

実は画像の3幕(のカーテンコールの画像だけれど)は、シュトラウスの音楽自体が
それまでの2幕に比べれば焦点が合いきっていない観があって、無条件で問題なしとはいえないのだけれど、この公演の優れた象徴的演出も、ここで少しならず苦心が見えた気がした。
もともと詩的な象徴(シンボル)の膨大な重層ともいえる、難解なホフマンスタールのスクリプト。
しかし3幕のフィナーレを除けば、最近流行の「象徴演出」が、これほど生きて見えた公演は、僕には初めての経験だった。

ほとんど場面転換のない、どこかの公証人役場か裁判所のような空間で心理と象徴の葛藤が描かれる。
説明的な表現は全くないから、こちらから「観に」行かなければ、何一つ意味のないものになってしまう。いすに座って押し頂いているわけにはゆかないのだ。
しかし、ともすれば牽強不会にすぎるか、自己主張が強すぎて音楽と作品を邪魔することの多い、最近の「モダン演出」とは、これは大きく違っていた。

演出から始めてしまったけれど、音楽、
これはもうすばらしいの一言。
まるで、奇跡のようなオーケストラ!、と思う。
なんと言ってもウィーン・フィルの素晴らしさだけど、少なくとも世界中でR・シュトラウスを、こんな音で、こんな表現ができるオーケストラは、他には決してないだろうと確信させる。その巧いこと、美しいこと、艶かしいこと、信じられない奥行きと立体感をともなった「生きた」音を出せるオケは、信じがたい気さえする。
不協和音まで虹色の雲のように艶めいてたなびき、咆哮し、囁く。

勿論それを引き出したティーレマンを言うべきだろう。
だが、意外だったのは彼がこの作品で、ひどく柔軟な対応を見せていたことだ。
どちらかというと、ゆっくり目のテンポと、丁寧な「間」の取りかた、
声部を「横」の線で際立たせるバランス感覚、
僕にはオケも、とりわけ声楽陣が歌いやすそうに聞こえた。
これは、何重にも対位法と近代和声の罠が張り巡らされたシュトラウスの劇場作品では、驚異的なことだ。
冒頭の「カイコバート」のテーマからして、驚かされた。
fffからディミヌエンドしてff、fと音量を漸減しながら3回繰り返すスコアのはずだが、
彼は逆に1.2回目をf、3回目にffで強調、とやっていた。
彼のお得意のアゴーギグといってしまえばそれまでだが、
僕はひどく感心してしまった。
他にもいくつもあったが、よく言う「あざとさ」より、「明瞭さ」を感じたのだ。
これは何度も言うけれど、相手がシュトラウスだからなおさら特筆ものだ。
彼は「客=聴衆」を知っている、と思ったのだ。

1.2幕のフィナーレなど、陶然とさせられたのを告白しておこう。

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それにしても、ザルツブルグやウィーンでは、貧乏学生のために天井桟敷という格安の料金システムがあったと聞く。
そしてその天井桟敷の、若く、志も批評眼も高い人々の反応が、時としてルーティーンワークに陥った奏者を最も鋭く撃ったとも。
TV桟敷は、(ほぼ)無料だ。

ザルツブルグのチケット代は知らないが、本来ならこの公演に支払うべき対価はいくらになるだろう、と想像してみた。

一晩4時間で、一人2〜30万円、この辺が僕なら妥当だと思う。
(実際はもっと安いはずだが)。
オケ100〜120人、出演者5〜60人、裏方3〜40人、直接の参加者だけでも
これ以上の人が4時間のために、数日から数ヶ月を費やし、
演奏家たちはこのレベルに至るまで、長い間血がにじむ努力と犠牲を払っている。

最高の贅沢。
進化したメディアの恩恵に感謝しながら、
受容する側のセンサーと姿勢を、考える。



こんなもので遊んでるからだめなんだと、ネックを握って振りかぶり、
エントランスの鉄柱に飴色の胴体を思い切り打ち付けた。
バッカァ〜ン、と間の抜けた音を立てて、
くびれた胴の真ん中から、真っ二つになって飛び散った。
十代後半から手遊びで始めたチェロの、2台目の最期だった。
 
30歳代になる前後のことだったと思う。
どうしてそんなことをしたのか、正直あまりよく覚えていない。
仕事のストレスの発散だったのか、周囲に理解が得られないで孤軍奮闘する疲労への八つ当たりだったのか、数十万を一瞬で無に帰さしめる自分に酔っていたのか、
いや、実は、どんなに頑張っても思い通りの音が出せない自分の能力への苛立ちのすり替で、楽器に倦み果てていたというのが、本当のところだったかも知れない---。
が、--------。


最初のBACHの「アリオーソ」から、ぎょっとさせられた。
何より耳を惹きつけた物は、その「音」だった。
幅があって強いのに柔らかく、よく「抜ける」のに豊かで、よく歌う。
こんなチェリストが現代にいるのか?と思ったのには、理由があることに我ながらすぐに気づかされることになった。
 
要するに、「古風」なのだ。
 
と言っても、「ピリオド」(『古楽』)奏法という名の現代的「古風」のことではない。
カビの生えた往年の名演奏家風の、「古風」でもない。
音楽がもっと大きなものであった時代、人間の精神文化の頂点で、詩と対峙して深化するほどの意味を持った時代の『Grand-Manner』をそのまま体現している人と、その音楽。
 
その人はやはり若い人ではなかった。
「忘れられた名演奏家」、クリスティーヌ・ワレフスカのことだ。イメージ 1
 
 
勿論、ぼくは何も知らなかった。
なんと、デュ・プレの向こうを張って、
レコード会社が売り出しにかかったとか聞けば、4〜50年も前の話になる訳だし、
いくつかのレコーディングもあったと聞けば、自分の無知を恥じるしかない。
 
一体、この人(女性の御年を聞いては失礼かもしれないが)何歳になられるのだろう?
 
僕が聞いたのはFMで放送された
2010年6月5日の、上野学園石橋メモリアルホールでのリサイタルだった。
(この放送、2010年8月に放送されたものの再放送だったらしい。)
 
 
この音源、よほど評判を呼んだらしく、
すでにそのままライブCD化されて発売中らしい。(↓)
 
イメージ 2
 
 
(曲目)
 1.バッハ:アリオーソ ト長調(カンタータ第156番から)BWV15
2;ブラームス:チェロ・ソナタ第1番ホ短調作品38
3.ボロニーニ:チェロの祈り 
4;.ピアソラ:アディオス・ノニーノ(J.ブラガート編曲
5;.ショパン:序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調作3
6:ショパン:チェロ・ソナタ ト短調 作品65
このほか、放送では3.4の間に下記の2曲が入っていた。
ボロニーニ作曲「エコー・セレナード」
ブラガート作曲「ミロンタン」          
 
 
 
ポルタメントの多用や、ダイナミックレンジの大きさ、揺らぐようなヴィブラートの遅さ、レガートの豊かさなど、一聴してわかる特徴は、現代の「シンセサイザー」風の超絶技巧のチェリストからは決して聞くことのできない、(いや、多分相当批判さえも浴びせられる)ものだろう。
しかしこの人の音楽の大きな表情と呼吸、まるで声量豊かな美声の歌手を聞いているかのような生々しさと熱さを、僕なら涙して聴く。
 
ブラームスやピアソラなんか、何百回も聴き、弾いた曲なのに、恥ずかしいが本当に目頭が熱くなってきたくらいだ。決して、深みのある音楽ではないけれど、まさにグラン・マナの音楽。少し前までは、こういう桁外れの気宇をもった「大家」が綺羅星のごとくいたし、僕はそういう音楽に憧憬し、魅了されて育ってきた。すでに絶滅したかと思っていた現代に、突如姿を現した巨人、と言う驚き---。
 
それにしても、この人の「音」は不思議だ。
なぜか懐かしく、人肌の温かさがあり、大柄なのに柔らかで、豊かだ。
驚くのは、この音が上の二弦A,Dが「ヤーガー」、G,Cが「プリモ」のスチール絃だと言うから、狐につままれたような気がする。どちらも僕も使ったことがあるけれど、とてもこんな音は出せなかった(---ま、当たり前と言われればそれまでだけど--)。
スチール絃の、輝きと音量はあるが、きつい音になりかねない特性に、散々てこずった挙句、ぼくはガット絃やナイロン・ガットに走った。ところが、それでも難しい、柔らかく倍音の豊かな音が、ありきたりの(と言っては失礼だが)スチール絃から出てくる不思議。
どうやらワレフスカの左手の奏法がカザルス・スクールやロシアン・スクールといった現代の主流とは、全く違っているらしい。
指盤をなんと「指の先」ではなく、指の「腹」で抑える、さらに完全に押さえ込まないで、絃と指盤が微妙に「浮いた」状態で音程を取る、というような奏法。倍音の多さと豊かさ、柔らかさはそれで一応の説明はつきそうだが、---
 
この辺の事情は下記のサイトでもう少し詳しく語っている方が居られた。)
 
この「忘れられたチェロの女王」を、熱心にアメリカの片隅から「最発見」し、自ら招聘に奔走したのが、日本のアマチュア・チェリストで歯科医師のW氏だったという。
そう、----だから僕は妙な固定概念の縛りの少ない「アマチュア」が大好きなのですよ、はい。
本気のアマチュアの怖さ・凄さというの、あると思いませんか?イメージ 3
 
 
さて、こちらは、店の飾りに成り果てた、僕の3代目(ヤ■ザじゃありません)。
「名前は、まだない。」
(夏目漱石風に)
初お目見えとなる。
 
結局欲望に抗しきれず、
数年前にヤ◎オクで落札したら、なんと市内のお寺の住職の奥方様の玩具になっていたのを、手渡しで譲っていただいたといういきさつのある代物。         
             
韓国製の超安物と言う出自は、この際不問に付すとして、
弓と絃のほうが高いという奇妙奇天烈は、そのまま進行中。       
イメージ 4流感予防のために、この冬、横に置いた加湿器。
 
おかげで、二日前調弦しようとしたら
A線が「ブチッ!」。ナイロン・ガットの宿命を亡失した愚か者の仕儀。
 
 
何人かの諭吉さんが飛んでいくところ------ま、買い置きがあったので何とかなったけれど。(次はヤーガーで行こう。逃げは止めだ。)
 
腕を支える想像力と創造力を棚上げにして、モノに走った安易さのツケでした。
 
                 
「俺もそうだが、お前も仕事まで道楽にしてるヤサグレだな。同類だ。生粋の職人やプロではない。だが、プロにはできないことを道楽者はやすやすとやる。簡単に負けやしねぇ。遊びは適当でいいが、道楽に際限はない。だから命がけだ---違うか?」
数年前にお付き合いのあった土建業の社長の言葉だ。銀座で水商売をやり尽くした挙句、片田舎の町に来て、全くずぶの素人から起業した方だった。仕事は小さくても、水準は全国レベルと聞いた。
 
見透かされた居心地悪さと同時に、その方に僕は深い共感を覚えた。
でも、残念ながら、
ぼくは負け続けている。
 

「お郷が知れる」

「お郷が知れる」、という言い方は、あまりいい場面で使われないし、仮に「お郷」が知れても、それで何か分かったかのように思い込むことは、あまり健全な知性とは言い難いだろう。
でも誰にでも、「お郷」はある。
 
地上波で視聴した、二人のチェリスト。
一人はJean-Guihen Queyrasジャン=ギアン・ケラス。
もう一人はSergey Antonovセルゲイ・アントノフ。
 
全く情報に疎く、継続的な追いかけもしていない僕にとって、この二人は始めて聞く名前だった。
勿論夫々に立派な経歴をお持ちだし、一方は既に現代を代表するプレヤーの一人といってもいいかもしれない。
 
その「一方」とは、ケラスのことだ。 
イメージ 167年生まれの43歳。
プログラムはシューマン、ウェーベルン、メンデルスゾーン、ブリテンといった変わった物。
 
一聴して、この人の音楽は「軽い」と思った。
 
 
音色も軽いが、これは王子ホールの音響や、集録の関係、当方の再現環境にも寄るので、一概に言えないとは思うが、多分実際もそう違わないだろう。
 
逆に言えば、この人、低音弦の響かせ方に、相当抑制が働いていると思われる。
そのために、無駄な「響きっぱなし」がなく、それもあってタイトでクリーンな音楽が作られている印象だった。イメージ 4
 
テクニックは素晴らしいの一語。
先日(アルバン・ゲルハルトのところで)肩透かしを食らうほどに、「やすやすと弾ききってしまう」現代のチェロ奏者の代表にリン・ハレルの名を上げたけれど、ケラスはおそらくそれ以上と言ってもいいかもしれない。
一番面白かったのはブリテンだったけど、それより分かりやすかったのがアンコールの2曲。
クライスラーと、ドビュッシーのソナタの終楽章だった。
もう、あきれるほどの自在さ精確さ。
どなたかが「かっこいい!」と言っておられたが、そりゃそうでしょう------譜面を見ると簡単なのに、いざ弾くとなるとちっともまとまらないあのソナタを、あれほど速いテンポでさらりと弾ききって、即興でも入れかねない余裕。
(クライスラーは部分的にアドリブ、やってましたね。)
 
それでも、先ほどの「軽い」と言う印象は、強くなっても消えはしなかった。
ただこの場合、その軽さは決して悪い意味ではないことも言っておこうと思う。
 
僕は長い間苦手にしてきたチェリスト、ピエール・フルニエを思い出していた。イメージ 2
 
貴公子」とか「王様」と呼ばれたフランスの名手、抜群の技術と、気品さえ感じられる清潔な音楽。誰もがご存知だろう。
何を弾いても、文句のつけようがない完成度で聞かせるフルニエだが、正直に告白すれば、ぼくは彼の演奏で感動したことがなかった。
取ってつけたような迫力や、力演で聞かせるような「下品」な真似は、決してしない。
音量の大きさや、舞台栄えする「透る」音で喝采を狙うわけでもない。
 
だからだろう、とおもう。
カザルスの次に指折り上げるべきフルニエを、僕は長い間等閑視してきた。
清潔だが、軽い。
 
ところが最近、ドヴォルザークでコンチェルトで、僕が掛けるディスクは、フルニエ盤が圧倒的に多くなってきたのだ。
清潔さも、気品も、軽さも、実はそれを支える高い技術と抑制がなければ到底なしえないことを、僕はこの年になってようやく気づいたと言うところかもしれない。
 
閑話休題:
フルニエ、トォルトリエなどフランス系チェリストになぜか共通する、エンドピンの長さ!ケラスも比較的長い。
面白いと思いませんか?---
 
ブーレーズとの交流も多く、現代作品の初演も少なくないケラスを、「フランス」流と言うには遥かにインターナショナルでモダーンだけど、僕には最良の意味で、フレンチ・インテリジェンスが感じられてならなかった。
 
イメージ 3もう一人のセルゲイ・アントノフは27〜8歳。
 
ロシアものプログラムは、まぁ、「売り出し」リサイタル行脚では、本人の意思は兎も角、致し方ないところなのだろう。
 
ロストロ御大の教え子という、なくても良いレッテルを、しかし知らずに納得してしまうようなところが、この人にはある。
 
よく伸びる音と、(多分)豊かな音量。
最低域から最高域まで、所謂よく「抜ける」つややかな音。(かなりのオールド楽器かな?)
表情豊かで、少々センチメンタルな程訴えようとする、音楽作り。
コンクールとか、舞台ではこういう人は得をするはずだ。
この人自身の「音楽」は、またいつか、もう少し聞いてから話そう---。
 
 
 
ところで、僕の名前にも「お郷」が付いている。
三河」のモグラ!?
この辺の仲間は、みんな「コウベモフラ」なはずだ。
 
新種か!?
 


建国記念日に、新聞から「国旗」が消えた、と聞いて
おれの「お郷」はどこだ!?といぶかる、
馬鹿モグラ。
でした---。
 
 
 

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