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昨日の朝のことだけれど、NHKの朝のクラシック倶楽部に何気なくチャンネルを合わせて、思わずひきつけられた。
虚を衝かれた、と言う言い方がぴったりしていた。
既に30歳代に入るこの青年、それなりに経歴も持っているらしいが、ご多分に漏れず僕は全く未知の人だった。
ルクセンブルグ出身の(5ヶ国語を流暢に話す彼にとっては、汎ヨーロッパの、と言うべきだろう)、Franceca Tristano Shlimeフランチェスカ・トりスターノ・シュリメという。
聞き始めたのは、後で判ったのだが、ジョン・ケージの「ある風景の中で」と言う曲の、後半からだった。
知ってはいたが、はじめは何の曲か、全く判らなかった。
それでも最初の数音から僕を惹きつけたのは、その「音」だった。
プロのクラシック演奏家から聞いたことの無い音。
プロの演奏家なら決して出さない、あるいは否定するだろう、音。
録音や再生の条件もあるだろうが、その後ネットで漁った音源でも、この印象は全く変わらなかったから、その点は差し引いてもいいだろうと思う。
どんな「音」か?
一言で言うと、マットで肉感的、あえて言うなら輝きも化粧も無い「汚い」音と言ってもいい。
弾く本人は、男性モデルといっても通用する美青年なのだが、音は全く違っている。
では、外見頼りのアイドル・タレントか?というと、とんでもない!、
これはとんでもない才能に出会っていると確信させる、音だったのだ。
− ピアニスト フランチェスコ・トリスターノ 〜伝統と革新の響き〜 −
「KYEOTP“イントロダクション” 〜インプロヴィゼーション」 フランチェスコ・トリスターノ作曲 「パルティータ 第1番 変ロ長調 BWV825」 バッハ作曲
「ある風景の中で」 ジョン・ケージ作曲
「鍵盤楽器のための作品から」 ギボンズ作曲 「シャコンヌ“グラウンド・ベース”(2004)」フランチェスコ・トリスターノ作曲
(ピアノ)フランチェスコ・トリスターノ 〜東京・自由学園明日館講堂で収録〜 <収録:2011年6月14日(火)> やたらと無機的に演奏されることが多い、というより「それしかない」 ケージ作品、 それがこれほど肉感的で濃厚な空間を作り出すとは!
驚きはギボンズに至って決定的になる。
モダンピアノでギボンズ、と言えばなんと言ってもG・グールドを思い起こすし、トりスターノ自身、グールドに傾倒しているらしいが、しかしまるで違う世界!
まずグールドの純粋で贅肉の無い、結晶のように強靭な音に比べるまでも無く、トりスターノは音の質に関心が無いかのようだ。
関心があるのは、ひたすら音の「運動性」。
曲の構造すらその「運動性」の支配下にのみ、意味があると言わんばかりの自在さ。
グールドのアルカイックなルバートとは全く違った、一種生理的で枠にとらわれないルバートが、いたるところ、では無く、最初から最期まで現れ、
ピアノという近代産業の生み出した「機械」が、遥かにプリミティブな楽器であるかのように呼吸し、つぶやき、蠢く。
こういう音は、おそらくありきたりな(特にこの国の)クラシック教育では、完全に否定されるか無視されるはずだ。
現に白寿ホールやそのほかで生で聞いた聴衆のなかに、戸惑いや、否定的な見解を表明したものもあった。
しかし僕には、親しみ深く、もっとも生々しい音でもある。
彼の名前すら知らない段階で、僕の頭を掠めたのはあの伝説のModernJazzの巨人、レニー・トリスターノだった。
あるいは親愛なるPaul Bleyの肖像も、と言ってもいい。
何でもかんでも美しく磨き上げて、御伽噺のように「きれい」に聞かせようという、一種、伝統的な衝動を持つクラシック演奏家とは、無論彼らはまるで違った位相に立つ。
奇しくも同じトリスターノ(関係はなさそうだけれど)という名を持つこの青年も、どうやら「音」の発想が、ありきたりなクラシックの範疇にはないようだ。
自作の「シャコンヌ〜グラウンド・ベース」で、その感は確信に変わった。
中学生の頃、ブラームスとバッハへの傾倒から、作曲の真似事をしようと思ったときに、バカモグラが最初に取り掛かったのがシャコンヌ、あるいはパッサカリリア形式だった(無論、モノにならなかったけれど−−恥;-)。
そんなことはどうでもいいが、この青年にとって、シャコンヌはカビの生えた博物館のモノではなく、Jazzのインプヴィゼイションの根底と同じものであり、ピアソラやミニマル・ミュージック、あるいはハウス・ミュージックのエコーさえ水平に内包できるものだ。
YouTubeにアップされている動画は、相当数あるようだ。
FrancescoTristano live (1/3)FrancescoTristano live (2/3)FrancescoTristano live (3/3)フランチェスコ・トリスターノ・シュリメFrancescoTristano torinoFrancescoTristano live @ Humani「汚い」と言ったが、それは一般的なクラシックの「常識」を代弁しただけで、
僕にとって魅力の無いものだという意味では全く無いし、文字どおり汚い音なわけでもない。
独特の揺らぎのある(妙な言い方だが「スィング」のある)リズム感とあいまって、
濃密なライブ感がありながら、熱くなりすぎないでクール、
(動画のいたるところで指を食い入るように見つめたが、見たところごく普通で、何の発見もできなかった。)
シェーンベルグから20世紀音楽の屈曲も、Jazzやワールドミュージックに至るまで、
重荷やくびきではなく、豊かな財産として内包しながら、しかも自在。
もう一方の活動、ドラムやシンセと組んでのバンド活動や、クラブミュージックのほうも相当面白い。
何より、僕には彼の音から、
一番聞きたかった「現在」が聞こえてくるのが面白い。
グールドとの単純比較は、僕には完全な的外れだと思える。
ある意味、グールドの場合とはいろんな意味で、正反対ですらあるだろう。
しかし、グールドの登場がもたらした衝撃と言う意味なら、
ひょっとすると同じようなことになるのかもしれない。
それにしても、とんでもない才能が現れたものだ。
閑話休題:いつもなら、真っ先に避ける同放送局の「しろうと喉自慢」。
今日は震災被災地での予選をやっていた。
出場者は少なくとも直接の被害が少なかったか、あるいは生き延びた方々や、その隣人だ。
音程もリズムも取れない、発声もなっていないド素人のKARAOKEレベルの歌を聴く趣味は僕にはない。
今日だって、その点はなんら変わりなかった。
----そのはずだった。
だが驚いた。
彼らが歌うその音楽と日本語、それへの生々しい「思い」が、僕の胸を突いた。
「超」が着くほど「下手」なのに、音楽の一番生々しい渇望と心が、僕と同じごく普通の大衆の一人一人に満ちていた。
そして音楽にとって、それが最も根底の生命になるものだ、と僕は信じている。
日本人がこんなに音楽的だったのか、といぶかりながら、
その「現在」に、僕はひどく感動させられていた。
(画像は借り物です、責任は三河土竜にあります)
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