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東洋史家の宮脇淳子氏をお迎えし、河村・名古屋市長の「南京事件」をめぐる問題が波紋を広げる中、日本とは歴史も価値観も異なる中国と対等に向き合い、言うべきことを主張するために、日本人は何を自覚し、そして、譲ってはならない一線をどこに見るべきなのか、分かりやすくヒントを解き明かす関連書籍や新著書なども御紹介いただきながら、お話を伺います。

転載元転載元: 海上保安、国土防衛、美しい日本を私たちが行動して守りましょう


謎の海洋民族『ラピタ人』 忽然と姿を消した太平洋の覇者

ラピタ人 - Wikipedia

ラピタ人(英: Lapita)は、人類史上初めて遠洋航海を実践し、太平洋の島々に住み着いたと思われる民族。
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忽然と姿を消した太平洋の覇者・謎の海洋民族『ラピタ人』

2015/11/25 · 今から3000年ほど前、パプアニューギニア付近から現れ、ポリネシアの島々に共通の文化を伝えた海洋民族がいました。海図も羅針盤もない時代に非常に高度な航海技術を用...


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沖縄海洋文化館



【衝撃】ほとんどの人が知らない「天空の城ラピュタ」の秘密8 ...

buzz-plus.com/article/2016/01/05/castle-in-the-sky-laputa
老若男女が愛するアニメ作品といえば「天空の城ラピュタ」だ。アニメスタジオのジブリの代表する作品であり、いまもなお、テレビで放送され、多くの人たちを楽しませている。 ・公式に発表されている秘密 「天空の城ラピュタ ...



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第4回 人類拡散の最終章をつづった謎のラピタ人とは ...

2014/12/01 · 約3300年前に突如あらわれ、メラネシアからポリネシアへと拡散したラピタ人。彼らの文化はどこで生まれ、どうやって拡散したのか。謎に満ちた彼らの足跡を追う。



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ラピタ人(英: Lapita)は、人類史上初めて遠洋 ...- Yahoo!ブログ

ラピタ人 この項目では、古代 オセアニア の 民族 について説明しています。 古代ギリシア の民族については「 ラピテース族 」をご覧ください。 ラピタ人の広がったと考えられる範囲 ラピタ人 ( 英 : Lapita )は、人類史上初めて遠...

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ホーム各施設紹介海洋文化館 プラネタリウム > 海洋文化館 展示ホール

海洋文化館 展示ホール

沖縄を含めた太平洋地域における海洋民族の歴史や文化を紹介する施設です。
ここに集められた展示物は1975年に開催された「沖縄国際海洋博覧会」の際に作られたものであり、1970年代のアジア・南太平洋地域の海洋文化を現代に保存し、伝えています。
「海洋文化」とは、母なる自然の「海」と日々を生きる「人間」とのやりとりを通じて育まれた心のあらわれとも言えます。海の魅力に誘われ、人々は海と共に生きようとします。そこに海と人とを結ぶ「船」が生まれ、さらに、未知なる同報と行き来を求めるのです。
当海洋文化館では、このような海を舞台に繰り広げられる人々の交流、すなわち「海洋文化」について、その文化・歴史を紹介します。
日本そして沖縄のなりたちと特に密接な関係にある環太平洋圏へ、豊富な資料や興味深い解説に導かれての船出が始まります。先人達の、そしてこれからの我々の「海洋文化」について思いを巡らせてください。

太平洋と沖縄のくらし(movie)


海洋文化館に展示してあるカヌー

バジャウの家船

  • フィリピン スールー海
  • 全長:約9.5m
  • 素材:ニッパヤシ、ラタン
  • 1970年代 収集

ワトム島のシングルアウトリガーカヌー

  • パプアニューギニア ワトム島
  • 全長:約5m
  • 1970年代 収集

セピック川のカヌー

  • パプアニューギニア セピック川流域
  • 全長:約11m
  • 1970年代 収集

バヌアツのシングルアウトリガーカヌー

  • バヌアツ ペンテコスト島
  • 全長:約5.9m
  • 1970年代 収集

バリ島のダブルアウトリガーカヌー

  • インドネシア バリ島
  • 2002年 製作

タオ族のタタラ船

  • 台湾 ランユウ島
  • 全長:約3.7m
  • 2009年 収集

シューテン諸島のシングルアウトリガーカヌー

  • パプアニューギニア シューテン諸島
  • 全長:約6.7m
  • 1970年代 収集

サモアのシングルアウトリガーカヌー

  • サモア ウポル島
  • 全長:約5m
  • 素材:パンノキ
  • 1970年代 収集

海洋文化の広がり

オセアニアのひとびとのくらしの様子を住、食、漁撈、装い、音楽、踊り、信仰などのテーマに分けて紹介するコーナーでは、異なる文化や習慣、使われている多彩な道具の数々を知ることができます。
http://oki-park.jp/userfiles/images/inst/kaiyo/en/no02.png 海からの素材でつくられるもの(ソロモン諸島)
http://oki-park.jp/userfiles/images/inst/kaiyo/en/no03.png バヌアツのキッチン(バヌアツ)
http://oki-park.jp/userfiles/images/inst/kaiyo/en/no04.png 祖先像(パプアニューギニア)
http://oki-park.jp/userfiles/images/inst/kaiyo/en/no05.png ビンロウジ・カバの道具(パプアニューギニア/サモア/バヌアツ)
http://oki-park.jp/userfiles/images/inst/kaiyo/en/no06.png 木鉢・容器(フレンチポリネシア マルケサス諸島)
http://oki-park.jp/userfiles/images/inst/kaiyo/en/no07.png ストーリーボード(パラオ)
http://oki-park.jp/userfiles/images/inst/kaiyo/en/no08.png 祖先の絵(パプアニューギニア)
http://oki-park.jp/userfiles/images/inst/kaiyo/en/no09.png 装身具[ブタ牙製](パプアニューギニア/バヌアツ)
http://oki-park.jp/userfiles/images/inst/kaiyo/en/no10.png ムワリ(パプアニューギニア トロブリアンド諸島)
http://oki-park.jp/userfiles/images/inst/kaiyo/en/no11.png ボール[パンダナス製](パプアニューギニア/マーシャル諸島)
http://oki-park.jp/userfiles/images/inst/kaiyo/en/no12.png 地域通貨[イルカ歯製・コウモリ歯製](ソロモン諸島 マキラ島)
http://oki-park.jp/userfiles/images/inst/kaiyo/en/no13.png 片面太鼓(フレンチポリネシア マルケサス諸島)
http://oki-park.jp/userfiles/images/inst/kaiyo/en/no14.png 握り型武器(ミクロネシア連邦 チューク諸島)
http://oki-park.jp/userfiles/images/inst/kaiyo/en/no15.png ヒクイドリの彫刻(パプアニューギニア)
http://oki-park.jp/userfiles/images/inst/kaiyo/en/no16.png マライタの貝貨(ソロモン諸島 マライタ島)

エントランスホール(1階ホール)

海洋文化館のダブルカヌー

昭和50年に開催された沖縄国際海洋博覧会から展示されているカヌー。
このダブルカヌーは歴史資料を基にハーバート・カネ氏がデザインしタヒチの人々が復元しました。

タヒチのダブルカヌー

  • フレンチポリネシア タヒチ島
  • 全長:約17.6m
  • 素材:パンノキ、松、ハイビスカス、アガチス、ココヤシ、アメリカネムノキ、ウォールナッツ、ローズウッド
  • 1974年 建造

ダブルカヌー(movie)


航海ゾーン(3階ロフト)

航海ゾーンでは、新天地へ向け大航海した人類の移住の経緯について映像で展示。長い期間を経て培い、今なお継承されているミクロネシアの伝統的航海術と造船技術を、国内初30mに及ぶバンドデシネ(続き漫画)にて紹介しています。航海術を学ぶための道具(星座コンパスとスティックチャート)や、航海時の所持品などの展示もあります。

伝統航海術(movie)


海を渡った人々

海を活動の舞台としていた人類の一団は、長い時間をかけて造船技術や航海術を生み出し東の海に向け旅を続け、広く太平洋地域に拡散していきました。その様子をパネルや映像で紹介します。

バンド・デシネ(続き漫画)展示

「続き漫画」の手法を用いて、それぞれ約30Mにもおよぶ壁画で「伝統的航海師になるまで」「伝統的なカヌーづくり」をわかりやすく紹介します。

カヌー大集合

オセオニア各地域の特色あるカヌーの模型を展示したコーナー

オセアニアゾーン(2階ホール)

オセアニアゾーンでは、大海原で繰り広げてきた航海を巡る人々の知恵や勇気を、床地図と大型スクリーンを使ったダイナミックな映像で紹介するほか、住・食・漁労・装い・信仰・音楽や踊りなど、オセアニアの海洋文化について、テーマ別に紹介。体験コーナーも設けています。
展示ホールの30M×15Mの吹き抜けの床には、太平洋の地図が広がっており床地図と大型スクリーンのダイナミックな映像で「大海原を渡った人々」を上映します。

交流ゾーン

交流ゾーンでは、「海が結んだ交流」を象徴する3つの大型カヌーが展示されています。かつて交易に使用されていたラカトイ、友情を結ぶ交換儀礼に使用されたクラカヌー、そして今なお島民の生活の脚として活躍するミクロネシアの航海カヌー「リエン・ポロワット号」です。 

リエン・ポロワット号

ミクロネシアに伝わる伝統的カヌー建造技術を用いてポロワット島で建造されました。建造後ポロワット島からグアムまでの800Kmを伝統的航海術(スターナビゲーション)により5日間で実際に航海したカヌーです。

リエン・ポロワット号

  • ミクロネシア ポロワット島
  • 素材:パンノキ、オオハマボウ、テリハボク、パンダナス、ココヤシ
  • 全長:約8.4m
  • 2013年 建造

ミクロネシアの航海カヌー(movie)




クラカヌー

クラカヌーは、独特な彫刻と彩色、タカラガイの飾りを施された美しいカヌーです。「クラ」とは、トロブリアンド諸島で行われる貝製の首飾りや腕輪を交換する儀礼のことです。

クラカヌー

  • パプアニューギニア キリウイナ島
  • 全長 約10m
  • 1970年代 収集

クラカヌー(movie)




ラカトイ

パプアニューギニアのポートモレスビー一帯に住むモトゥ族が交易に使用した舟。展示のラカトイは、イギリス女王エリザベス2世が1974年にパプアニューギニアを訪問した際につくられた舟と全く同じデザインで復元された貴重なものです。

ラカトイ

  • パプアニューギニア ポートモレスビー
  • 全長:約15.5m
  • 素材:パンノキ、ユーカリ、パンダナス
  • 1970年代 収集

物流を支えた大型カヌー(movie)


沖縄ゾーン

沖縄の漁労生活を紹介するゾーン。沖縄の伝統漁具が展示され、伝統的素潜り網漁(アギヤー)も映像で観覧できます。今回沖縄県内で60年ぶりに復元された「マチキフニ(マルキンニ)」や「本ハギ」「南洋ハギ」のサバニを実際の製作工程の映像も併せて展示しています。

本ハギ

  • 沖縄県 糸満市
  • 素材:宮崎県産飫肥杉
  • 2013年 製作

南洋ハギ

  • 沖縄県 糸満市
  • 素材:宮崎県産飫肥杉

タンクブニ

  • 素材:ジェラルミン

マチキフニ(松木舟)

  • 素材:リュウキュウマツ、クロツグ、サンゴ石灰岩
  • 2013年 製作

タタナー

  • 素材:木材にFRP塗装コート

コミュニティーゾーン

1975年に開催された海洋博覧会に関する資料展示に加え、情報検索端末が設置されています。乗船し写真撮影が出来る「撮影用サバニ」もあります。

転載元転載元: 海上保安、国土防衛、美しい日本を私たちが行動して守りましょう



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関ヶ原の戦い


関ヶ原の戦い 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
Sekigaharascreen.jpg
関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)
関ケ原町歴史民族資料館
戦争:関ヶ原の戦い
年月日慶長5年9月15日1600年10月21日
場所美濃国関ヶ原垂井
結果:東軍の勝利。
石田三成小西行長安国寺恵瓊らの斬首
西軍 東軍
Ichimonjimitsuboshi.svg 毛利輝元
大一大万大吉.svg 石田三成
Jimonji.svg 宇喜多秀家
上杉氏竹に雀 上杉景勝
ほか
Tokugawa family crest.svg 徳川家康
Tokugawa family crest.svg 徳川秀忠
時計回りの三つ巴 結城秀康
Kuroda Fuji(No background and Black color drawing).svg 黒田長政
ほか
80,000以上[諸説あり] 74,000 - 104,000[諸説あり]
戦死者:[諸説あり]
8,000[1] - 32,600[2]
戦死者:[諸説あり]
4,000 - 10,000[3]
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代慶長5年9月15日西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦関ヶ原合戦とも呼ばれる[4]。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある[注釈 1][5]
主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。


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概要

豊臣秀吉の死後発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家石田三成らを中心に結成された西軍と、徳川家康を中心に構成された東軍の両陣営が関ヶ原での戦いを含め各地で戦闘を繰り広げた[注釈 2]。この戦役の結果、豊臣政権は統一政権の地位を失った一方、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、幕藩体制確立への道筋が開かれることになる。



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決戦までの経緯

豊臣家内部の対立とその背景

秀吉の死後、豊臣政権の政治体制は秀吉の独裁から幼少の後継者秀頼を五奉行五大老のメンバーによって支える集団運営体制へと移行する。しかし秀吉死後の政治抗争の過程でこの体制は徐々に崩壊してゆき、戦役の結果により消滅することになる。
政争の原因については以下のようなものが想定されているが、関ヶ原の戦いにおける東西の対立関係は複雑なものであり、各大名の動向を決定した要因は多岐にわたるものと考えられる[6]。また地方での戦闘は主力決戦が政治面も含めて決着した慶長5年10月以降も行われており、必ずしも政権中央での政治対立に直結したものでは無い[7]


中央集権派と地方分権派の対立

太閤検地の実施とそれにともなう諸大名領内への豊臣直轄領(豊臣蔵入地)の設置や[8][9]、大名内部で発生した諸問題への介入によって、豊臣政権(中央)による地方大名への支配力強化を進めようとする石田三成増田長盛らの強硬・集権派と、これに反対する浅野長政らの宥和・分権派との対立[10]が抗争の背景にあったとする説である。
一方、戸谷穂高は宥和・分権派として長政の名が挙げられている点について、「その論拠は一切示されておらず」強硬・集権派との「対立構図自体にも再考の余地が見だされる」としている[11]。文禄2年長政は甲斐へ国替えとなり伊達・南部・宇都宮・成田らの東国諸大名を与力とするが、それ以降、運上金増収を目的とした大名所有の鉱山への支配強化や、日本海海運の掌握を進め[12]、また宇都宮氏佐竹氏の改易を主導するなど[13]宥和・分権的とは言い切れない動向も見られる。曽根勇二はこれら東国における長政の動向を朝鮮出兵のための「総力戦の体制を打ち出した秀吉政権の集権化の実態を示すもの」とし、集権派対分権派の構図に疑問を呈している[14]

朝鮮出兵時の豊臣家臣団内部の対立

慶長・文禄の役の際、石田三成・増田長盛を中心とした奉行衆と加藤清正・黒田長政らを中心とする渡海軍諸将との間に発生した作戦方針・軍功を巡る対立が関ヶ原の戦いの主要因とする説である。この対立関係は豊臣政権において主に政務活動を担当した「文治派」と、軍事活動に従事した「武断派」との対立を含んだものともされる[15]
しかし両派閥の不仲を示した逸話には一次史料による確認が取れないものや創作と思われるものが多く[16][17][18][19]、一方のちに東軍の属する武将間でも対立関係は存在している。巨済島海戦の軍功を巡っては加藤嘉明と藤堂高虎が対立しており[20]、蔚山の戦い後、現地諸将より秀吉に提案された戦線縮小案については蜂須賀家政が賛同したのに対して加藤清正は反対の立場を取っている(慶長3年3月13日付加藤清正宛豊臣秀吉朱印状)[21]

秀次事件による豊臣家及び豊臣家臣団の確執

文禄4年(1595年)6月に発生した秀次切腹事件の影響を受けた諸大名と、秀次粛清を主導した石田三成との間の対立関係が抗争の背景にあった説である。秀次による謀反の計画への参加を疑われた諸大名に対する処罰のいくつかは、家康の仲裁により軽減されている。結果両者は親密な関係を結ぶことになり、一方諸大名は三成を憎むようになったとする。

「太閤様御置目」を巡る奉行衆と家康の対立

「太閤様御置目」(秀吉の遺言[25]や死の前後に作成された掟[26]・起請文群[27])に従って政権運営を進めようとする豊臣奉行衆と、それを逸脱して政権内での主導権を握ろうとする家康及びその家康を支持する一派との対立が抗争に繋がったとする説である。
家康は伊達政宗ら諸大名との間で進めた私的な婚姻計画をはじめ、秀吉正室北政所を追い出しての大坂城西の丸入城、大老・奉行による合意によって行われるべき大名への加増の単独決定、豊臣政権の人質である諸大名妻子の無断帰国許可など、秀吉死後数々の置目違反を犯しており、これらは関ヶ原の戦いにおいて西軍が家康を討伐対象とする根拠となっている。

政治抗争の発生

慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が伏見城で死去すると、それ以降政権内部での対立が表面化していくことになる。まず秀吉の死の直後、徳川家康と伊達政宗ら諸大名が[29]、秀吉の遺言に違反する私的婚姻を計画していたことが発覚し大老前田利家や豊臣奉行衆らによる家康追及の動きが起こる。 一時は徳川側と前田側が武力衝突する寸前まで至ったが、誓書を交換するなどして騒動は一応の決着を見る。正徳3年(1713年)成立の「関ヶ原軍記大成」では、この騒動の際伏見の家康邸に織田有楽斎(長益)・京極高次伊達政宗池田照政福島正則細川幽斎細川忠興黒田如水黒田長政藤堂高虎加藤清正加藤嘉明ら30名近い諸大名が参集したとしている[30]
翌年の閏3月に前田利家が死去すると、五奉行の一人石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興・蜂須賀家政浅野幸長[31]の七将に襲撃される。その動機は慶長の役末期に行われた蔚山の戦いの際、不適切な行動をしたとして長政らが戦後処罰されたのは、三成の縁者福原長尭が秀吉に歪曲して報告したためと主張する、彼等の不満にあったとされている[15]。ただし忠興と正則は蔚山の戦いに参加しておらず、清正と幸長への処罰は発給文書類からは確認されない。

加賀前田征伐と家康の権力強化

1599年9月7日、家康は秀頼に重陽の節句の挨拶をするためとして伏見城から大坂城に入城。同日、家康に対する暗殺計画が発覚する。
計画は前田利家の嫡男で加賀金沢城主である前田利長を首謀者として五奉行のひとり浅野長政、秀頼・淀殿側近の大野治長、および加賀野々市城主の土方雄久が、大坂城入城中の家康を襲撃し暗殺するというものであり、寛永年間成立の『慶長年中卜斎記』では計画を家康に密告したのは増田長盛とする。ただしこの事件に関する一次史料はわずかであり、計画の真相や騒動の経緯については不明な点が多い。
10月2日、暗殺計画に加担した諸将に対する処分が家康より発表され、長政は隠居を命じられ武蔵国府中に蟄居し、治長は下総結城、雄久は常陸水戸に流罪となった。翌3日には首謀者である利長を討伐すべく、「加賀征伐」の号令を大坂に在住する諸大名に発し、加賀小松城主である丹羽長重に先鋒を命じた。金沢に居た利長はこの加賀征伐の報に接し、迎撃か弁明の択一を迫られたが、結局重臣である横山長知を家康の下へ派遣して弁明に努めた。家康は潔白の証明として人質を要求、利長の母で利家正室であった芳春院を人質として江戸に派遣することで落着した。


転載元転載元: 歴史の真実を世紀ごとに学ぶ

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