「愛に生きる」

愛をメッセージにした物語

読書日記

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 「イエスの生涯」
                                  遠藤周作


 読後、もっともつよく印象に残ったことは、旧約の神と、イエスが民衆に伝えようとした神とは、天と

地ほどの開きがあったということ。

 有史以前の神の概念は、人間を罰する「怒りと裁きの神」であり、それとは正反対のイエスの説く神

は、母親が子どもを愛しむ温かい「愛の神」である。

 その「神の愛」を、苛酷な現実に生きる人間にどう伝えれば、理解されるのだろうと、イエスが真剣に

苦闘するようすが、とても人間らしくていいと思った。

 当時の人間に、「愛の神」を語るより、「峻厳仮借ない神」や「つめたい神」を語るほうが、人の心に

より染み入ったと思う。それほどに、極限に貧しい暮らしをしていたに違いないからだ。また、それほど

に「愛」を民衆に語るに難しいことであっただろう。

 いまでも、耳なじみのあるイエスの言葉に、『汝の敵を愛せよ・・あなたを憎む人にも恵もう・・右の

頬を打たれれば左の頬を差し出そう。』この言葉を難しくないと考える人間はそう多くいないと思う。

 なぜなら人間という生きものは、自分を一番大切に思い、可愛がるものだからである。それでも、願わ

くはイエスの説いたことを、胸におさめて生きていくことがいいと願う自分もいる。こういった矛盾を抱

えながら、人間は生きていくのだろう。

 作家、遠藤氏が読者に伝えたかったのは他にもあって、、イエスが、ユダヤ教の衆議会から、異端者と

して執拗につけ狙われ、ついには捕縛され、十字架刑に処される、「受難」の物語がそのひとつ、そして

もう一つが、イエスの処刑後、葬られていた墓場から遺体が消失し、逃走をつづけていた弟子たちの前

に、イエスキリストが「復活」する物語が、二つめの伝えたかったことではないだろうか。この二つの物

語が作者自身が最もこだわったところのような気がする。

 それは、作者がこの二つの物語に、より多くの頁を割いていることでわかる。

 とくにイエス復活の場面は、ひとつ間違うと荒唐無稽な話で終わってしまいかねないが、そうならない

よう、慎重に文章を厳選し、ていねいに書いていたことが、功を奏したのではないかと思う。その努力が

この作品じたいを軽くさせないようにしていたことと思う。はたして実際はどうだったのか、いまはもう

知る由もない。

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 「風の王国」
                                 五木寛之著


 作家、五木寛之が長期間の休筆の後、満を喫して著わしたのが、この「風の王国」という長編小説であ

る。この著作のために、膨大な資料を読み込んだことが「あとがきに」によって、はじめて知るところと

なる。


 物語は、明治の黎明期、大阪と大和をまたぐ葛城山系の二上山と、それに接道する竹ノ内街道という古

道が舞台となっている。登場人物も、ごく限られた少数種族の民にスポットが当てられ、極めて希少性の

高い話題を、劇的に著わしたのが、この「風の王国」という作品である。


 その当時の、日本の山間奥地には、戸籍を持たず、また、一と所に定住せず、いわゆる国家権力の管理

のおよばない、自由放浪の民が少なからずいたという。


 その希少な民というのが、知る人ぞ知る《サンカ》と呼ばれる一群の人々であった。《サンカ》とは、

蔑称で、自らは《ケンシ》と呼び習わしていた。


 その《ケンシ》たちが、当時、和泉・河内・大和一帯を、植民地のごとく統治していた、齋所厚(さい

しょあつし)という、時の堺県令。国の住民登録令の施策の下に、「浮浪者狩り」と称した、無戸籍者に

対する弾圧に着手し、一族郎党、抹殺の危機にさらした。


 齋所厚(本名・税所篤)という名は、古書などの記録にも、悪行の数々が記され、ただ私腹を肥やすた

めだけに働く政治家であったようである。


 そして、もう一人、県令の手先となって働いていた縄岐要介(なわぎようすけ)という人物もまた、県

令に負けず劣らずの悪人であったことが、葛城山系に棲む《ケンシ》たちにとって、二重に窮地に陥れる

結果となった。


 そんな中、九死に一生を得た、《ケンシ》たち八家族、五十五人は、新しいリーダーとなった、葛城遍

浪(かつらぎへんろう)のもとに同行、安住の地をもとめて、命がけの大疾歩(おおのけ)が決行される

ことになる。それは、未知の土地である、伊豆の山中への大長征で、道なき道を、山づたいに、大和・河

内の《ケンシ》が歩んだ、はじめての東行きとなった。



 長編「風の王国」を読了して思うこと、この物語は、神秘性や浪漫にあふれ、所々にハードボイルド

的手法も取り入れ、娯楽作品としても成功していると思う。


 しかし、作者が真に伝えたかったのは、娯楽性なんかよりも、もっと深い、国家とは、組織とは何か?

権力とは、はたまた、経済とはいったい何だろうか?と、読み手に、ことの本質を考えさせることに想い

が込められているのではないだろうか、と、そんなことを強く感じさせられた作品であった。

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『あだこ』
                                        山本周五郎

 短編小説「あだこ」は、一度読んだだけでは作者の意図するところはなかなか読者に伝わってこないか

もしれない。だが、二度、三度と深読みする毎に、そのすごさが分かってくるのだ。

 まず、「あだこ」のゆくたてから話すことにしよう。「あだこ」とは、津軽地方の方言で、『下女』と

か、また『子守おんな』との意味があるそうである。「あだこ」の本名は「いそ」といい。国もとで、両

親と弟が二人いる五人家族で暮らしていたが、ある時、父親が亡くなり、その継父に母より七つも年若い

叔父、つまり、亡くなった父の弟がやって来たことから、これまでの生活の歯車がとつじょとして狂いだ

すのである。

 その叔父は仕事もよくできるし、静かないい人だったが、問題は母親にあって、七つも下の夫をもった

勝気な母親は、同居する年頃の娘に対して、嫉妬のような感情をもつようになり、母である前に女になっ

てしまうのである。娘も敏感にそれを感じ取り、同じ家にいてはいけないことを悟り、心ならずも家を出

ることを決心し、独り江戸を目指すことになる。

 さてここに、もう一人の重要な登場人物、小林半三郎という侍のことも書いておこう。半三郎の父、半

兵衛は、祖父の代まで、百石あまりの小普請にすぎなかったが、半兵衛の代で、二百二十石余の書院番に

まで仕上げた、勤勉と倹約と努力の人だった。その父が、半三郎の将来を見据え、上役の金森主膳の娘、

みすずとの縁談をまとめ、いよいよ小林家の将来を固めるところまできたが、許嫁だったみすずが、婚前

にほかの男と出奔し行方知らずとなってしまった。

 それを機に、半兵衛もまた、大きく人生の歯車が狂いだすのである。幼馴染でもあった、みすずとの結

婚を夢に描いていた半兵衛は、それ以来、生きることの虚しさを覚え、出仕もしなくなってしまう。それ

を案じる朋輩たちも、立ち直らせようと、いろいろ教え諭すのだが、とうとう諦めてやがて一人、二人と

去っていった。

 そして、これまで唯一たよりとしていた父まで亡くなってしまっては、生きる意味をも見失い、ただ阿

保のように酒をあおるだけの日々となってしまう。しかし、そんな生活はいつまでも長つづきするはずも

なく、借金はかさむ一方になり、やがて、家士や下男小者も出て行き、最後に、独り残された半兵衛は、

今はあばら家同然となったその家で、ただ昼も夜もなく寝転んで死を待つだけの身となってしまう。

 ここで、話は「あだこ」にもどすことにする。多くの人々の好意によって江戸まで漸くたどり着いた娘

は、請け人宿の世話をうけて、一年の間に五たびの奉公を変えることを余儀なくされることになる。それ

は、奉公先へ行く度に、いやな眼にあって、あげくに商店を飛び出さざるを得なくなってしまうのだ。そ

んないやなことのすべてが、店の手代や主人たちが、力関係にものを言わせて、寝間に忍びこんで来るな

どの嫌がらせが続くというものだった。

 そこで思いついたのが、武家ならば、そんなみだらなことはしないだろうと、 請け人宿の世話にもな

らずに、ひとり武家屋敷を訪れて、藁をもすがる思いでさまようのである。武家町を訪れるも、飛び込み

で雇ってくれるところなどあるはずもなく、まさに諦めようとしていたその矢先に、たまたま、御用聞き

に歩いていたふたり組の小僧の立ち話を耳にするのである。「この屋敷には行ってもだめだよ、貸しが溜

まって、家には誰一人使用人もいないんだから」

 この一言で娘は「ここだ、もう此処しかない」とかたく心に決め、夢中で荒れ放題で草叢になっている

庭へと入ってゆく。


 さて、このあと、虚無感におそわれた、ただ死を待つだけの侍と、かたや、生きるために必死に力をふ

り絞る娘との、邂逅やいかに!

 周五郎文学の「死生観」に触れられる一編。あとは、本を読んでのお楽しみ!


  〖乞うご期待!〛

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前項からのつづき、


『そうだ、ブラウン運動に似ているな。斜面を登ってゆきながら、松山隆二は考えた。ヨブなどをもちだ

すことはない、水中へ花粉を落とすと、水を構成する分子に突き当たり、花粉の粒子は不規則な運動を休

みなしに続けるという、植物学者ブラウンの発見した現象のほうが、人間社会のありかたを、さらによく

暗示しているじゃないか。

 
 善と悪、是と非、愛と憎しみ、寛容と偏狭など、人間相互の性格や気質の違いが、ぶっつかり合って突

きとばしたり、押し戻してまた突き当たったり、休みなしに動いている。こうした現実の休みない動き

が、人間を成長させるのだ。水を構成する分子の抵抗があるからこそ、花粉の粒子の運動があるように、

無数の抵抗があるからこそ人間も休まずに成長し、社会も進化してゆくのだ。』


 この悟りにも似た考えは、周五郎自身が生涯をとおして、考えに考え抜いたうえで、やっと辿りついた

境地といえるのかもしれない。自然界の現象と、人間社会の現象は、同じところでつながっている、と考

えることで、この世でおきる、あらゆる不条理の説明がつくと考えたのだろうか。


 70年前の、あの軍国主義下でおきた酷い戦争の深い反省と懺悔が、あの崇高な平和憲法を生みだした

ように。


 また、別の稿にも次のような文章があった。


「ある県人とある県人との、ぬきがたい気質の対抗がある。ばかげたはなしだ、と松山隆二は思った。

『いや、そうではない、ばかげているだけではない、と彼は思い直した。どんなにばかげたようにみえて

も、それは現にあるのだし、現にあるということは、そこになにかの意味があるにちがいない、憎悪や敵

意もそのままではなんの価値もないが、互いに対抗するとき、そこになにかが生まれるのではないか』

〈原文から〉


私たちの住む相対界の世界では、敵対する互いが、対抗し合うゆえに、時にブレーキがかかり、一方に大

きく偏らないようになっていることは確かだ。抵抗があることで、そこに多様さが生まれ、豊かさが生み

だされるのではないだろうか。それにしても、この書が未完に終わったことは返すがえすも残念である。


 周五郎が「現代の聖書」を描こうとしたのなら、どうしても書かざるをえないことがある。それは、人

は何処から来て、何処へ向かっていくのかということだ。果たしてどんな工夫を凝らして、そのことを著

わしたのだろうか、それをどうしても知りたかった。それを思うと本当に残念である。


 実のところ、私たち読者以上に、当の本人がいちばん残念に思っていたことは疑いがないだろう。

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 『おごそかな渇き』
                                    山本周五郎

「おごそかな渇き」は、周五郎、六十三歳(一九六七年)最晩年の作品で『朝日新聞日曜版』に八回分ま

で連載中に、肝炎と心臓衰弱のため、とつじょ仕事場で亡くなった。まさに志し半ばで絶筆となった作品

である。


四〇〇字詰め原稿用紙にして、わずか一一〇枚ほどの未完の作品だが、周五郎の作家人生の集大成として

“現代の聖書”を描きたいとの願いが、読み手に伝わってくる作品である。あの周五郎が、聖書を描くの

かと疑問に思われる方もあると思うが、これは、作家と長く親交のあった文芸評論家、木村久邇典氏が生

前に周五郎から、その想いを聞いていたことから、世に知られることになった。


書き出しは、ある辺地の村に残る宗派的対立を、物語のなかにさりげなく織り込み、作者のもつ宗教的課

題をそれとなく浮かび上がらせようとの工夫を感じる。さらには、登場人物に、終末観に囚われた訳あり

元中学教師の竹中啓吉や、天災によって、代々築いた網本一家の、莫大な財産を一夜にして無くし、あげ

くに、飢えと渇きの果てに、山道に行き倒れとなり、死の淵から生還した松山隆二という青年と、その青

年を診察した村田医師などの、当時でいうインテリ層の人物を登場させ、たがいに形而上的な話題を語ら

せるのである。


きっと周五郎は、残り少ないわが余命を悟り、少ない原稿紙数の中に、持てる心魂を傾けて文章を著した

に違いないと思われる。それほどに、凝縮された文章が、其処ここに散りばめられているように思う。中

でも、これから先、物語の主人公になってゆくであろう、松山隆二の言葉に、次のような文言がある。少

し書き出してみよう。


『そうだ、ブラウン運動に似ているな。斜面を登ってゆきながら、松山隆二は考えた。ヨブなどをもちだ

すことはない、水中へ花粉を落とすと、水を構成する分子に突き当たり、花粉の粒子は不規則な運動を休

みなしに続けるという、植物学者ブラウンの発見した現象のほうが、人間社会のありかたを、さらによく

暗示しているじゃないか。

 
 善と悪、是と非、愛と憎しみ、寛容と偏狭など、人間相互の性格や気質の違いが、ぶっつかり合って突

きとばしたり、押し戻してまた突き当たったり、休みなしに動いている。こうした現実の休みない動き

が、人間を成長させるのだ。水を構成する分子の抵抗があるからこそ、花粉の粒子の運動があるように、

無数の抵抗があるからこそ人間も休まずに成長し、社会も進化していくのだ。』
 
 
 この個所を読んで、わたしは現在の世相を思い「う〜ん」と唸った。       つづく

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