林誠司 俳句オデッセイ

「本当に凄い俳句」〜水原秋桜子、長谷川かな女、長谷川秋子作品追加

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(栃木県那須町芦野 遊行柳)


以前ブログで書いたが、大輪靖宏「輪」主宰、田中亜美「海程」同人、堀本裕樹「いるか句会」代表、三名で座談会をしていただいた。

大輪靖宏、田中亜美、堀本裕樹三氏の座談会

そのやりとりを聞いて、ふと、思ったことを書きたい。
日本人、日本語、さらに言えば、松尾芭蕉の「自」と「他」との境界意識についてである。

座談会では、『おくのほそ道』栃木県芦野での松尾芭蕉の、

田一枚植ゑて立ち去る柳かな

という句をどう解釈するか、という話であった。
この句は実にやっかいで、

田を植えたのは誰か?
立ち去ったのは誰か?

ということが問題になる。
この句は「
主語(誰が)が明記されていない」ために、句がわかりづらいのである。
一番有力な解釈は、

「早乙女」が田を一枚植え、「芭蕉」がそれを眺めて立ち去った。

というものである。
ただ、

植ゑて  立ち去る

と、二つの動作が「連続」している。
こういう場合、早乙女だったら早乙女が田を植え立ち去った、芭蕉だったら芭蕉が田を植え、立ち去った、と解釈するのが普通である。

田を植えたのが早乙女で、立ち去ったのは芭蕉、というように、途中で主語が変わるのは不自然ではないか、という反対意見もあるのだ。

そのことはともかく、この句について触れている時、大輪先生と田中さんとの間で、以下のやりとりがあった。
大輪先生は近世文学研究者、田中さんはドイツ文学研究者である。

〈大 輪〉 
芭蕉の『野ざらし紀行』に、

海くれて鴨のこゑほのかに白し

がありますが、「海くれて」で完全に切れていますね。
“中止法”と言いますが、こういうふうに、途中で主語が変わるというのは、芭蕉の句には、割とあるんです。
それに、芭蕉に限らず、江戸時代の文章は全体的にあまり主語を入れません。
だから、誰が、というのがいつも問題になるんですけどね…。
〈田 中〉 
ドイツ語や英語の場合、人称代名詞(私、君、彼、彼ら等の代名詞)は絶対必要なんです。
外国留学生がよく指摘するのは、日本語は人称代名詞がなくても話せる、ということなんです。
私は仕事柄、常に人称代名詞を意識していますが、大輪先生のお話で、江戸時代、というか、昔の日本人は、今の我々よりかなり「自」と「他」の分裂が少なかったのではないか、と思いました。
「自他の分裂がない」ということは、ある意味、日本語や俳句には、アニミズムのような生命力を感じますね。

田中さんはドイツ文学研究者ゆえ、この日本語の主語がなくても成立してしまうのが不思議に感じるらしい。
主語がないというのは例えば、

今度、遊びに行くね。

などという表現ではないか。
英語、ドイツ語であれば、

今度、私はあなたの家に遊びに行くね。

となる、ということだろう。
この日本語の手法は、ドイツ語や英語では絶対考えられない、ことだと言う。
つまり、日本語には「自」と「他」の分裂がない、のではないか、と田中さんは指摘した。
そして、それは日本の「アニミズム」にも起因しているのかもしれない、と述べている。

さて…、ここからである。
以前、私も同じようなことを考えた。
田中さんのようにアカデミックではないが、芭蕉の句には「自我」がないのではないか…、ということである。

思いついたことなど〜芭蕉俳句に見る自己の意識

芭蕉俳句に現代俳句がいつまでも追いつけないのはそこにあるのではないか、ということだ。
つまり、近現代俳句は「自我」「自己」を意識しすぎている。
それゆえ俳句が小さい、と考えたのである。

『おくのほそ道』の句が、「誰」あるいは「何」を詠んだものかを大雑把に考えてみよう。

(深川)
草の戸も住み変る代ぞ雛の家
〜草の戸、つまり、芭蕉庵へ呼びかけている。
(千住)
行春や鳥啼き魚の目は泪
〜春を惜しみ、鳥、魚を詠んでいる。
(日光)
あらたうと青葉若葉の日の光
〜青葉の日光を誉めたたえている。
(黒羽)
木啄も庵は破らず夏木立
〜仏頂和尚の庵を詠み、和尚を讃えている。
(白河、須賀川)
風流の初めや奥の田植唄
〜みちのくの田植風景を愛でている。
(平泉)
夏草や兵どもが夢の跡
〜もののふの生きざまに思いをはせている。
(山寺)
閑さや岩にしみ入る蝉の声
〜山寺の風景を詠んでいる。
(出羽三山)
雲の峯幾つ崩れて月の山
〜自然の大きさ、流れを詠っている。
(尾花沢)
五月雨をあつめて早し最上川
〜最上川とその地を讃えている。
(新潟)
荒海や佐渡に横たふ天の川
〜佐渡の海や天の川、佐渡に流された人々を思いやっている。

このように、自分がどうした、とかいう句は一切ない。
「自我」少なくとも「近代的自我」がない。
今の俳句は個に執している。
まあ、旅吟だから当たり前だと言われてしめば身も蓋もないが、私が感じるのは「自分の心」より優先しているものがある、ということだ。

前衛的な俳句も、「情」というものを述べなくても、おのれの感性、表現の独自性に執している。
これも「個」の執着である。

これが芭蕉と現代俳句の「詩の器」の違いではないか、と私は思った。
芭蕉の詩の器は自他などいっさいが溶け込んでいる。
それゆえ詩の器が大きい。

これはもちろん芭蕉自身の器の大きさでもあるが、それ以上に、日本人が持っていた「自他の無境界」によって、生まれたものではないか、と思う。

当時の人、そして、芭蕉にしてみれば、田を植えたのが誰か?立ち去ったのは誰か? などということは、ひょっとしたら、どうでもいいことなのかもしれない。

この大きな「詩の器」は、先人たちが遺した素晴らしい思想だと、私は思う。

この記事に

閉じる コメント(2)

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たっぷりと勉強させて頂きました。素晴らしいエッセーでした。「日本語や俳句には、アニミズムのような生命力」これです。ありがとうございました。

2017/8/31(木) 午後 5:36 大介 返信する

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> 大介さん 生命力というのはいいですよね。

2017/9/6(水) 午前 11:37 セセエト 返信する

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