林誠司 俳句オデッセイ

「本当に凄い俳句」〜水原秋桜子、長谷川かな女、長谷川秋子作品追加

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(和歌山県 根来寺)

時は今天が下しる五月かな                      明智光秀

(ときはいま   あまがしたしる    さつきかな) 



明智光秀の、本能寺の変のあとに書かれた書状が発見されたらしい。
原文を読みたい、と思ったが、どの新聞のネット記事にも掲載されていない。
おそらく、自分の眼で見ていないで、記事を書いているのだろう。
このあたりが日本の新聞のだらしのないところだ。

本能寺の変は天正10年(1582)6月2日(旧暦)に起きた。
見つかった書状は、その10日後の12日の日付。
紀州、今の和歌山の武将・土橋重治に送った書状である。
和歌山には、鉄砲衆で有名な雑賀衆(さいがしゅう)がいる。
雑賀衆は、基本、「反織田信長」だった。
土橋という武将もそうであっただろう。
ただ、調べてみると、このころは信長に圧迫され、土佐に逃れていたようだ。

書状の「意訳」は掲載されていた。
読んでみたが、どうもまどろこっしい表現が多すぎる。
自分なりにさらに意訳してみた。

初めまして。
足利将軍の為に奔走せよ、と命令を受けたこと、お知らせいただき、ありがとうございます。
足利将軍も、京都に入り、室町幕府再興することをすでに承知されています。
土橋様も、室町幕府再興の為、お働きくださいますようお願いいたします。

1) 雑賀衆がわが軍にお味方していただけることありがたく存じます。
今後ともよろしくお願いいたします。もろもろご相談させてください。
1) 高野衆、根来衆、雑賀衆が揃って、大阪方面へ出兵することは大変ありがたく存じます。
恩賞については、我がほうの重臣と話し合い、のちのちまで良好な関係が継続できるようご相談させてください。
1) 家臣らに、滋賀県と岐阜県南部までをことごとく平定するよう命じ、すでに完了しておりますので、ご心配には及びません。詳細は使者がお話いたします。

追伸
くれぐれも足利将軍ご入洛の為、お働きなさることが肝要です。
こまかいことは足利将軍よりご命令があるでしょうから、私のほうからは申し上げられません。

意訳の意訳であるから、細かいニュアンスに間違いはあるかもしれない。
つまり、こういうことだ。

土橋氏は雑賀衆の有力な集団で、信長によって、京都を追放された足利将軍家と通じていた。
本能寺の変で、信長を葬った明智光秀は、柴田勝家や羽柴秀吉との決戦に備え、土橋氏を味方に引きこもうとし、おおむね、了解を得ていた。
光秀は、雑賀衆の他、同じく鉄砲集団で、根来寺僧兵の根来衆(ねごろしゅう)、高野山僧兵の高野衆と協力して、大阪へ出兵するようお願いしている。
大阪に出兵するということは、中国地方から東進してくる秀吉軍を封じるためだろう。
そして、家臣に命じ、滋賀、岐阜をすでに武力で平定した。
北陸から来る柴田勝家は近江で封じ、中国地方から来る秀吉は大阪で封じる、という計算だったに違いない。
追伸で、光秀は「足利将軍のために働きなさい」と言いつつ、具体的なことは将軍に聞け、と言っている。
この部分が実に不可解である。
「具体的にこうしてほしい」となぜ頼まないのか?
主人ヅラすると、土橋氏の反感を買うと思ったのか?

俺は明智の家来ではない!

とすねられることを危惧したのか。
光秀は、自分は、私利私欲で信長を倒したのではない、あくまで、足利幕府再興の為に働いているのだ、ということを示したかったのかもしれない。

しかし、この時、足利将軍は京都にはいない。
中国の毛利のところにいたはずである。
命令などできるわけがない。
秀吉ならば、うまい語り口で具体的なお願いをしたのではないか。
このへんが光秀の奥ゆかしさであり、武将として、秀吉に劣るところだったのかもしれない。

秀吉が戻り、山崎の合戦で明智軍を破ったのは6月13日である。
で、あるから、土橋の手元にこの書状が届いたのは、合戦の後。
明智軍が敗れたあとだった、と思われる。

ちなみに一部の新聞記事では、この書状によって、明智光秀の謀反の目的は「足利幕府再興だった可能性が高い」と書いているが、それはどうだろうか。
「自分が天下を取りたかったから」とか、「信長にひどい仕打ちを受けたから仕返しに」とは書くことはできまい。
織田信長の上洛だって、名目は「足利幕府の再興」だった。
やはり、これは方便で、そういうのが一番無難だった、と考えるべきだろう。
直筆の書状が見つかっても、本能寺の変の謎はまだまだ解けそうにない。

上記の句は、明智光秀が本能寺のひと月ほど前に詠んだ、連歌の「発句」である。
この発句の、発句としての優劣は、不案内の私には判断できない。
この発句には、明智光秀の本能寺の変に懸ける決意を示したものだ、という俗説がある。

今や、連歌は、研究者や愛好家でなければ、知られていない。
発句の優劣はともかく、歴史への関心から、この連歌の発句は、現代でもっとも知られている連歌となった。
意味については下記を参照していただきたい。

明智光秀の連歌〜「時は今」の句について





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連句が残した日常語

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(滋賀県近江八幡)

現代は「俳句」が主流で、「連句」をしている人は、(もちろん今も、たしなんでいる人もいるが…)圧倒的に少ない。
ある時、連句も勉強しなければ…、と思い、連句をされている俳人に、一度、見学したい、とお願いしたら、高齢化と人数不足で、中断してしまった、と言われた。
はっきり言えば壊滅的現状であろう。

ただ、連句の「言葉」は今に残っている。
私たちがなにげなく使っている日常語に、連句から生まれた言葉があり、今に残っているのだ。
知っている限りを列記してみたい。

<二の句がつげない〉
【意味】
次の言葉が出てこない。
あきれてあいた口がふさがらない。
【由来】
もともとは平安時代の「朗詠」(ろうえい)から生まれた言葉である。
朗詠とは、漢詩を三つ、「一の句」「二の句」「三の句」に分け、歌うこと。
「一の句」は普通の音の高さで歌うが、二の句から急に音域が高くなるので、歌いづらい。
うまく歌えないことを「二の句がつげない」と言うようになった。
ただ…、上記の由来では、

次の言葉が出てこない。
あきれてあいた口がふさがらない。

という意味にあてはまらない。
「連句」でいう「二の句」とは、発句の次、二番目の句である。
発句が「575」を詠み、二の句が「77」をつける。
ところが、発句があまりに下手だと、二の句でどうつけていいのかわからない。
それが今、われわれが使っている「二の句がつげない」という意味になった。

〈挙句の果て〉(あげくのはて)
【意味】
最後の最後。とどのつまり。
【由来】
連句は全部で32句(歌仙)、50句(五十韻)、100句(百韻)などの形式があるが、どれであっても一番最後の句を「挙句」(あげく)という。「揚げ句」ともいう。)
ここから、ものの最後のことを「挙句」と呼び、最後の最後なので「挙句の果て」となった。

さんざん迷惑をかけた挙句

というように、単独でも使われる。

〈花を持たす〉
【意味】
相手を立てる。
名誉や栄光をその人に譲る。
【由来】
連句には「花の座」「月の座」などという「座」がある。
つまり、連句の何句目には「花」を、何句目には「月」を詠まなければいけない約束事がある。
何句目に詠むかは歌仙、五十韻、百韻などで違う。
中でも「花の座」は連句の華で、句座の主役や来賓などが詠む。
そこを若い人や、他の人に譲る。
そこから「花を持たす」という言葉が生まれた。

このように日常において今でも使う言葉が、連句から生まれた、というのは実に不思議である。
それだけ、「連句」が庶民の暮らしに浸透していた、ということではないか。
「連句」は「俳諧」の一部である。
俳諧はなにより、人々の暮らしに寄り添っていたのだ、ということをしみじみ思うのである。
今の「俳句」は、それほど(ことわざが生まれるほど)親しまれているだろうか、と考えると、はなはだ心もとない。
芸術性の高い俳句も必要だが、もっと気軽であっていいのではないか、と思うゆえんである。


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つきぬけて天上の紺曼珠沙華     山口誓子(やまぐち・せいし)

(つきぬけて てんじょうのこん まんじゅしゃげ)


今日は台風一過(たいふういっか)である。
子供のころの話だが、私はこの「台風一過」を、

台風一家

だとずっと思いこんでいた。
テレビでアナウンサーが、

今日は「たいふういっか」の青空です。

などと言っているのを見て、驚愕したものである。

え〜?  やっと、台風が行ってくれたのに、今度は「一家」でやってくるのか?

と驚いたのである。
なんとなく、イメージとして、

とうさん台風
かあさん台風
こども台風

みたいなものが、いっぺんにやってくる、と思っていた。
これは大変なことではないか、と心配した。
しかし、当然のことながら、その日は「ピーカン」で、その日は台風などまったく来なかった。
そのうち、「一家」のことはすっかり忘れて、外で遊びほうけてしまう。
そんな感じだった。

掲句。
山口誓子の代表句の一つである。
今日のような、台風一過の好天にふさわしい一句で、今日は、この句をしきりに思い出していた。

この句をとくに意識したのは、以前、大輪靖宏先生、田中亜美さん、堀本裕樹君との座談会で、話題になったからである。

〈この句で「突き抜けている」のは何か?〉
  天上の紺が突き抜けている。野辺には曼珠沙華が咲いている。
  曼珠沙華が天上の紺を突き抜けるように咲いている。
  天上の紺も、曼珠沙華も突き抜けている。

ということである。
面白いことに三人とも、③の鑑賞を支持した。

「つきぬけて天上の紺」は、「秋高し」を連想する。
「曼珠沙華」は、葉の出る前に花だけを茎のてっぺんで咲かせるので、「つきぬけて」をイメージする。

この場合、多くの人は①を選ぶのではないか。
俳句には「切れ」というものがある。
どこで一句が切れるのかということである。

この句の場合、普通に考えれば「天上の紺」で切れる。
そうなると、曼珠沙華はつきぬけているのではなく、野辺にひっそり咲いている…、という鑑賞になる。
しかし、それでは「曼珠沙華」の勢いが消えてしまう、と三人は言う。
私もまったく同感であった。
この場合、「つきぬけて」は「天上の紺」にも「曼珠沙華」にもかかっている。
「天上の紺」と「曼珠沙華」は並列になって、どちらも「つきぬけて」にかかっている、という鑑賞である。

俳句において「切れ」などのセオリーは重要だが、時にはセオリーを無視して、鑑賞することも必要。
そういう意見で一致した。
俳句の大きさ、俳句の鑑賞の大きさを感じた時だった。
誓子がこの句をどういう意図で作ったのかはわからない。
しかし、鑑賞は自由であり、そのことは誓子もわかっているはずである。
この句は誓子の意図はともかく、私には俳句の大きさ、自由さをあらためて感じさせてくれた。

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「庚申塚」「庚申塔」をよく見かける。
田舎ばかりではなく、都市部でも残っている。

この庚申(こうしん)というのは、何か。
「庚申講」というのがある。

人間の体内には「三尸虫」(さんしちゅう)という虫がいる。
この虫が、庚申の日の夜、人間が寝ている間に、口の中から、出てきて、天に登り、天の帝に、その人間のしている悪事を告げ口しに行くそうだ。
天の帝に悪事を報告されてはたまらない…。
それを防ごうと、庚申の日の夜は、夜通し眠らず、お堂や誰かの家などに籠る。

これが庚申講である。
庚申自体は「干支」の一つである。
干支は60の組み合わせがあり、庚申は58番目になる。
早い話、60日に1日、昔の人は、徹夜して、そういうことをやっていたわけである。
昔と今は変わらないことも多いが、この習慣は今は完璧に無い。
今のわれわれから見ると、不思議な感じがする。
江戸時代にとくに盛んにおこなわれたらしい。
これは「道教」の思想である。

さて、では、庚申塚、庚申塔とは何か。
庚申講を3年18回続けた記念に、講の仲間が金を出し合い、建立したものである。
つまり、いたるところで見かける庚申塚は、そのあたりで、江戸時代に一定期間、あるいは長い間、庚申講が行われた「証」なのである。
そうやって考えると、なにげない道にも「味わい」というものが生まれてくる。
さて、その庚申だが、その徹夜作業(?)の中で、俳諧なども行われた。
想像だが、始めた頃は、真面目(?)に籠っていたが、ただ、夜が明けるまで籠っていたのでは、退屈である。
それなら、退屈しのぎに俳諧でも…、ということではないか。
俳諧とは、この場合、連句であろう。

さて、実は私の住んでいるマンションに「青面金剛」が建っている。
それが最初の写真である。
青面金剛は、庚申講の時に祀った仏(?)である。
道教というのは実に複雑で、日本において、仏教と混合したり、神道と混合したりした。
仏教において、庚申の本尊は「青面金剛」だった。
ちなみに神道では「猿田彦」を祀る。
だから、これも庚申塔なのである。

この地はおそらく三浦海岸沿いの「古街道」である。
きっと、私が住んでいるマンションも、江戸時代には、庚申講が行われた、という証拠である。

私はこの青面金剛像を気に入っている。
地蔵のような仏像でもないし、道祖神のような神でもない不思議さがあり、親しみもある。
表情も巧みに彫られていて、ユーモラスさえある。
マンションの玄関の横にあり、帰宅した時など、つい、

ただいま戻りました。

と、軽く頭を下げてしまう。

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(栃木県日光市  裏見の滝)

【原文】
二十余町登りて、滝あり。
岩洞(がんとう)の頂より飛流(ひりゅう)して百尺(はくせき)、千岩(せんがん)の碧譚(へきたん)に落ちたり。
岩窟に身をひそめ入りて滝の裏より見れば、裏見の滝と申し伝へはべるなり。
しばらくは滝にこもるや夏(げ)の初め

【意訳】
二キロちょっと山を登って行くと滝がある。
岩の洞の頂から流れること百尺、千岩の深い淵へ落ちている。
岩窟に身をかがめて入り、滝の裏側から見るので、裏見の滝と言われている。
しばらくは滝にこもるや夏(げ)の初め

今回は、この句の、

夏(げ)の初め

について考えてみたい。
当初、「夏の初め」とは、「初夏」(しょか)、つまり「夏の初め」という意味かと思っていたが、(それも含まれてはいるだろうが…、)そうではないようだ。

「夏(げ)」とは、

夏行(げぎょう)
夏籠(げごもり)
夏安居(げあんご)

を意味するらしい。

角川文庫『おくのほそ道』の発句評釈を引用してみる。

夏(げ)は四月十五日または十六日から七月十六日までの間、仏徒が一室にこもって勤行(ごんぎょう)することで、夏行・夏籠・夏安居などともいう。
「夏のはじめ」は、その夏行に入る最初である。
(中略)
滝の裏へまわって岩窟に身をひそめているのが、あたかも夏行にでもこもっているような気がしたので、ふとこうした句が浮かんだのである。

夏行・夏籠・夏安居(以下、夏安居)は、夏の季語で、現代俳句でも時折、夏安居を詠んだ句を見かける。
夏安居については、私もも発句評釈に書いてある程度は知っていたが、では、実際に、籠ってどんな修行をしているのか? あるいは、なぜ、夏安居なるものをするのか、ということについてはあまり考えたことがなく、これを機会に考えてみた。

調べてみると、こういうことだ。
仏教発祥の国・インドの風土が大きく関係している。
インドでは4月から7月の約100日間は「雨期」となる。
そのため、屋外で、仏教の普及活動や托鉢などが出来ない。
そこで、その期間を利用し、皆で一か所に定住したり、一室に籠ったりしながら、仏法修行や研究をした、…それが「夏安居」の始まりである。
それが、そのまま日本に伝わったわけである。
日本にも「梅雨」という「雨期」があるから、素直に導入できたのだろう。
例えば、奈良の法隆寺では、聖徳太子の「三経義疏」(法華経義疏・勝鬘経義疏・維摩経義疏)の講義を行っている。
そのほかはどうだろう、と調べてみたが、あまり公表されていない。
ちなみに7月16日、夏安居が終わることを「解夏」(げげ)という。

仏教の場合は100日だが、芭蕉の場合、滝に籠ったのはわずか数分である。
そう考えると、この句は、ちょっとした「しゃれ」であって、当時の人からすれば、「笑い」の句であったのかもしれない。

さらに、なぜ、この句に「夏安居」が登場するのか、考えると、滝の裏から見て、茫々と流れる水を「雨季の大雨」に見立てたのではないか。
僧は雨が降る中、お堂に籠る。
芭蕉たちは、滝水が降る中、滝裏に籠る。

当時の人からすれば、

うまいもんですな〜。

と拍手喝さいを浴びたのではないか。

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