|
昭和天皇の「中国認識」http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/news/20050611k0000m070151000c.html
3回続けて日中問題を書くことになる。靖国神社参拝をめぐって、先々週は状況の読み違い、先週は言葉のすれ違いに触れた。
外交のハンドリングがぎこちないから、双方奥深いところでかみ合ってこない。<歴史認識>という言葉は食い違いの代名詞になってしまったが、やはりそこがネックになっているのではないか。
元宮内庁式部官長の安倍勲が3日、90歳で死去した。安倍は長年国連大使をつとめて1979年、式部官長に転じ、約10年間皇室儀式を取り仕切った。
外交儀礼の第一人者として知られ、昭和天皇の大喪の礼を担当している。儀式だけでなく、各国の賓客と天皇との会見場面にほとんど立ち会い、雰囲気を知る立場にあった。
ざっくばらんな人柄で、昭和天皇が亡くなられてまもなくだが、毎日新聞のインタビューに次のように語っている。
「昭和天皇の考え方は、(他国の)国民に迷惑をかけたというのは、中国だけなんです。日支事変(37年7月の盧溝橋事件)以来、わけもわからず入っていってね、散々迷惑をかけた。これははっきりしている。韓国はまた別なんです。日本は当時、統治していたわけですから、いい話と悪い話と両方あるわけです。治めていて、まじめに働いていた人なんかは、『いやよかった』と言うし、悪いほうはあまり(天皇の)お耳に入っていない。
もう一つ、間接的なんです。(韓国に対して)いろいろ悪いところがあった。それはそれで謝らなくてはいけないが、中国とは違う、という考え方です。中国については、はじめから『いかん』と思ってらした」
昭和天皇の中国認識がよく伝わってくる。中国への贖罪(しょくざい)意識がとりわけ強かった。
初の要人として、78年10月、最高実力者のトウ小平副首相が来日、昭和天皇と会見するが、天皇は顔をみるなり、
「わが国はお国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をかけ、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です。こうしたことは再びあってはならないが、過去のことは過去のこととして、これからの親交を続けていきましょう」
と謝罪の気持ちを述べたという。瞬間、トウは立ちつくす。電気にかけられたようになって、言葉が出なかった、と一部始終を見ていた入江相政侍従長がのちに話している。
しばらくして、トウは、
「お言葉のとおり、中日の親善に尽くし……」
と応じた。
トウのショックは、<簡単なあいさつ程度で過去に触れない>という日中外交当局と宮内庁の事前了解と違っていたこともあるが、やはり天皇の率直な語りかけが心を打ったのだろう。
72年の日中復交から10年余が過ぎたころ、当時の中曽根康弘首相が外遊のお伺いをたてると、昭和天皇は、
「私は中国に行きたい」
と訪中の熱意をはっきり口にされたが、果たせなかった。
再び、安倍の話−−。
「戦後、スカルノ大統領(インドネシア)やガルシア大統領(フィリピン)がきたときでも、陛下はまったく謝っていないのです。『嘆かわしい』とおっしゃったのはアメリカだけですよ。何か最近、いっしょくたにして、海部(俊樹)総理があちこちに行って謝っているでしょう。あれは政治家ですからいいのでしょうけど、昭和天皇の場合にはなかったですよ、そういうことは」
アジア諸国、と安易にひとくくりにしない。歴史認識を深めるには、そうした丁寧な視点も必要である。(敬称略)
|