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先日の衆議院解散で、私は国会を引退いたしました。多くの方々から引き続いて立候補せよという好意にあふれたお勧めをいただきながら、そのお心にそむく結果となりましたこと、本当に申し訳ありません。
改めて、亡父龍伍の時代からご支援いただきました皆さまに、心からお礼を申し上げます。小選挙区が良い制度だと今でも思っておりません。私の、何よりつらい選択は、県内県外からの「党のために」と言う声の中、新5区(旧選挙区)の皆さんとお別れすることでした。 26歳になりたての私を応援して下さった方々に今、なんと申し上げたら私の気持ちをお伝え出来るのか言葉がありません。
故郷総社をはじめ各地でご支援いただいた多くの方々のさまざまなその想い出は生涯忘れることの出来ない大切な私の宝です。
長年気になっていた両親の墓も、今回長年のご縁で、宝福寺の一角にようやく作ることが出来ました。
直接、引退の決心を固めさせたものは日本歯科医師会の献金問題です。派閥に対する献金とはいえ、この事件は政治に対する国民の信頼を大きく損なう事件です。私なりのけじめの付け方として、任期を全うした瞬間に引退する以外の道はありませんでした。
この41年余、本当にさまざまなことがありました。第3回目には初めて選挙違反事件を起こし、多くの方々に大変なご迷惑をかけましたし、今は亡き江田三郎先生と激しい最下位争いを繰り広げたことも多くの方々に大きな心配をお掛けしたことでした。
そんな私が今日まで政治家として働けたのは、旧岡山県第2区時代からの後援会の皆様等の強い、いつも変わらぬご支持のおかげです。新制度になってからは岡山県第4選挙区の皆さんのおかげでした。そのご支援が、あるときは厚生大臣として、あるときは運輸大臣として、あるときは大蔵大臣、通商産業大臣としての私を曲がりなりにも勤め上げさせていただいたエネルギーでした。2年7ヶ月の総理大臣の間も、重荷にくじけそうな時、励ましていただいたものは皆さんの激励でした。
振り返ると、政治家として、私は仕事にも恵まれていたと思います。厚生大臣の時にはスモンの患者さんとの和解を成立させることが出来ました。運輸大臣として国鉄民営化に取り組み、JRの誕生に立ち会うことも出来ました。消費税をご理解いただくために苦労した大蔵大臣時代、この時は湾岸危機から湾岸戦争が始まり、日本としても多国籍軍派遣にたいする資金負担を国際的にも求められるといった予想しない出来事にも遭遇しました。通商産業大臣の時には、日米関係最悪の中で、通商摩擦を起こしていた品目中の最大の懸案、自動車交渉の当事者になることになりました。
総理の間、忘れがたいことはクリントン米大統領との間で始まった沖縄の普天間基地の返還交渉、行政改革の柱となる中央省庁の半減、在ペルー日本大使公邸が多くの人質と共にテロリストに占拠されたことなどです。この人質が無事に救出されたときには涙が出ました。この時にも多くの各国の首脳から助言していただくことが出来、改めて、意識的に多くの国の首脳たちと交流し、友情を交わしていたのが結果的に全員無事救出と言う結果を生みました。
その後沖縄・北方領土問題の担当大臣も勤めさせていただきましたが、引退した私が今ゆだねられている仕事としては、国連アナン事務総長の諮問機関として設置されている“水と衛生に関する諮問委員会”の議長、日仏対話フォーラムの日本側座長、そして日本・アラブ対話フォーラムの日本側の代表、いずれも代わっていただける方が無く、今後も続けてゆくことになりそうです。中国との関係でも、日本国際貿易促進協会の会長を始め、いくつかの関係を率いることに変わりはありません。 国内でも、特定非営利活動法人“日本水フォーラム”の会長もお引き受けし、本年3月メキシコで開かれる第4回世界水フォーラムに向けて準備をしている現況です。
独身で最初の選挙を戦った私がいつの間にか5人の子どもの親となり、上の4人はそれぞれに親になりました。今、3女だけが家におりますが、これとて何時まで一緒にいてくれることやら、そう思うと何か寂しくなります。孫もおかげさまで12人になりました。少子社会と橋本一族は一生懸命戦っている、お人に孫の数を聞かれては、こう何時も繰り返しています。
本当に長い間、お世話を頂き有難うございました。きっと新しい時代を次男の岳が切り開いていってくれる、そう信じ、ご挨拶といたします。本当に有難うございました。
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