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――すっごい人混み……。
星子、思わずため息をついた。丁度、夕方から夜にかけてのラッシュ時ということもあって、新宿駅の構内は行き交う人々でかなりの混雑だ。
帰宅する学生や会社員、遊びにきた人達、夜のお仕事に出勤する人達、その他ありとあらゆる階層の老若男女で、もう、むんむん、わんわんしちゃっている。
なにしろ、新宿駅の利用者は、一日になんと約三百五十万人。日本一はもちろんのこと、ギネスブックにも認定された世界一乗降客が多い駅だ。
乗り入れている鉄道だって、JRに私鉄、地下鉄、もう、沢山あり過ぎて数えられない。その一つ山手線に乗って、星子、渋谷から新宿へ。途中には原宿駅もあるし、わいわいがやがや、大混雑の車内でもみくちゃ。
背中のリュックの中でゴンベエがペッチャンコに……っていいたいけど、ゴンベエは連れてこない。双子ちゃんの子守りに残してきたわけ。役に立ちそうにもないけどね。
それはさておき、新宿駅に着いたのは、七時四十五分。亜利沙さんと待ち合わせた時間の七時五十分まであと五分足らずだ。
大急ぎで階段を駆け上がり、まるでサッカー選手のように右に左に人混みをかわして10番ホームへの降り口をさがす。
ありました。10番ホームは中央本線の特急列車専用のホームじゃないですか。どうしてこんな所で待ち合わせるんだろう。
そう思いながらホームへ降りると、10番線には20時丁度発の特急「スーパーあずさ33号」が停まっている。もうじき発車ということもあってか、乗客たちが急ぎ足で乗り込んでいる。
亜利沙さんは、どこ? どこにいるわけ?
星子が懸命に見回しているうちに、時計の針は約束の夜七時五十分を過ぎていった。そして、間もなく列車の発車を知らせるチャイムが、せわしなく鳴りだした。
その時だった。ポケットの携帯電話から着信音が流れ出した。
急いで携帯電話を取り出す。着信番号は亜利沙からだ。
「もしもし? 亜利沙さん?」
星子が話しかけると、
「星子さん、急いで乗って! 早く!」
亜利沙の声が、聞こえてきた。
「え? でも、どうして?」
「あとでわかるわ。とにかく、早く乗って! 早く!」
発車チャイムは鳴り終わり、じきにドアが閉まろうとしている。
星子、あわてて近くのドアに走ると、デッキに飛び乗った。その直後、ドアが閉まって、列車は動き出した。
ホッと一息ついていると、亜利沙の声が携帯電話から流れた。
「7号車の3Aの座席にきてちょうだい。あ、それから、電話切らないで。このままね、いいわね?」
はい、はい。
次から次へと指示されて、ちょっと面白くないけど、この際、ガマンだ。7号車の3Aへきてということは、そこに亜利沙がいるってことかもしれない。
星子、緊張した顔で7号車へ向かった。車内はほとんど満席だ。帰宅時間の中央線特急って混むよね。
7号車に入って、座席番号を確認する。3Aの番号の座席はじきに見つかったけど、空席だ。亜利沙の姿は見当たらない。
すると、再び、携帯電話から亜利沙の声が、
「その席に座ってちょうだい。キップが置いてあるから」
「は?」
たしかに、座席の上には乗車券と座席指定券が置いてある。
こんな手の込んだことをして、どうして本人は姿を見せないんだろう。星子、首をかしげながら座席に座った。
乗車券の行き先は、甲府になっている。
なんで、甲府なの? そこに、もしかして、右京さんがいるわけ?
列車はスピードを上げて、窓の外には街の明かりがどんどん流れていく。
宙太さん、怒ってるだろうな。私が勝手に飛び出したりして。春ちゃんが説明してくれるっていってたけど、納得してくれるかどうか。
それに、星丸クンと宙美ちゃんのことも、すっごく気がかりだ。せっかくのパーティをすっぽかしたわけだし。ああ、もう、思ってるだけで、胸が痛くなってくる。
でも、これも宙太さんや双子ちゃんのためなんだ。星子ママを光の壁の中から救い出すには、右京さんの力を借りるしかない。
そう、星子ママの右京さんへの想い、そして、右京さんの星子ママへの想い、一つにつながったその思いだけが星子ママを助け出せる命綱なんだ。そんな気がする。そのためにも、まず、わたしが右京さんを助けなくては。
星子、ギュッと唇をかみしめた。
夜闇の中を一時間ほど走って、列車は大月駅のホームに滑り込んだ。大月を発車すれば三十分ほどで甲府に着く。
もう少しね、と、背中をのばした時、携帯電話に亜利沙から着信が入った。
「星子さん、すぐ降りて!」
「え?」
「早く! 早くして!」
んもぅ、またですか。
星子、大慌てでリュックを掴み、デッキへ。ドアが閉まる寸前、ホームへ飛び降りた。
すると、またもや、亜利沙の声が携帯電話から流れた。
「星子さん、隣りのホームに河口湖行きの電車が停まってるでしょ。急いで乗り換えてちょうだい」
「ちょっと、待って下さいっ」
星子、ムッとなった。
「行き先は甲府じゃなかったんですか? いい加減にしてください!」
「ごめんなさい。はじめから大月で降りて、河口湖行きの各駅停車に乗って欲しかったの」
「そんな!」
「とにかく、早く乗って。お願いね」
いいたことだけいって、電話は切れた。
うううっ。
なんて、オンナだろ。もう、アタマにきたっ。このまま、帰ってやろうかと思ったけど、ガマン、ガマンの星子さんだ。
渋々乗り込んだ電車、間もなく発車。車内はほどほどに混んでいる。今さっきまで新型の特急列車に乗っていたので、かなりランクは落ちるよね。でも、この電車、新宿発の通勤快速なんだよね。新宿を発車したのは、星子が乗ってきた「スーパーあずさ33号」よりも三十分ほど早いけど、大月で追いつかれたってわけ。
電車は、中央線と別れて私鉄の富士急行線の線路へと入った。富士急行線は、富士山や富士五湖の観光で大活躍している路線だよね。週末や休日は観光客がいっぱいだけど、今は通勤客や通学客がほとんど。それも、駅に着くたびにどんどん降りていって、車内はかなり空いてきた。
車窓は、ほとんど真っ暗だし、心細くなってくる。途中にはリニア実験線の高架橋が見えるはずだけど、見当もつかない。
この先、どういうことになるのか、不安がいっぱいだ。でも、とにかく、右京さんに会わなくては、という気持ちがなんとか支えてくれる。
途中、亜利沙からの指示はなにもないまま、終点の河口湖駅に到着。もう、夜の十時過ぎですよ。駅前は閑散としているし、ぽつんと一人で立っていると、心細いのなんのって。
引き返そうとしても、ちょっと前に最終電車が発車して、もう、おしまい。
まさか、ここで野宿でもしろってか。サイアク。泣きたい。
そう思った時、一台の黒いワゴンが星子の前に横付けされた。運転席には、女の人が……明かりに浮かんだ顔は、亜利沙だった。
やっと、あらわれたわね。
星子が憮然とした顔で見ると、
「あなた、星子さんよね?」
亜利沙、確かめるように星子を見た。
なによ、人を呼びつけておいて、そのいいかた。ますます、不愉快になってくる。
「さ、乗ってちょうだい」
「……」
星子、ふくれっ面のままで助手席のドアを開けて乗り込んだ。
「ごめんなさいね、思ったより若く見えたから。まるで、高校生見たいで……」
亜利沙、ハンドルを握りながらいった。
当り前よ。わたし、高校生ですっ。
そう怒鳴ってやろうと思ったけど、そうか、亜利沙さんはわたしが星子ママだと勘違いしているんだ。
「だけど、不愉快だったでしょ。携帯電話であれこれ指示されて。ほんとに、御免なさいね」
「どういうことなんですか、いったい」
「もしかしたら、あなた、宙太さんに後をつけられてるかも、と思って」
「宙太さんに?」
「ええ、右京さんの居所を突き止めるためにあなたを泳がせる、刑事なら当然よね」
「そんなぁ」
星子、キッとなった。
「たしかに、宙太さんは刑事よっ。でも、仕事のためにわたしを泳がせるなんて……そういうことは出来ない人です! あの人、すごく優しくて、いい人なんですから!」
「星子さん……」
「あ、ごめんなさい、大きな声を……」
「いいのよ、あたしのほうこそ謝らなくっちゃ。あなたって、ほんとに宙太さんのことを愛しているのね。でなきゃ、そこまでいえないわ」
「ええっ」
「それなのに、どうして……どうして、あなた、右京さんのことを……」
「待って!」
星子、あわてて首を振った。
「ち、ちがいます! わたしは、別に右京さんのことなんか……わたしは、星子ママじゃないんです! 別の、ううん、三年前の星子なんです!」
「星子さん……」
亜利沙、吐息まじりにいった。
「あたしに気を使って、そういってくれてるのね」
「ううん、そうじゃなくって……」
「いいのよ、もう、そのことは……」
「でも!」
「ほんとに、いいから、星子さん。とにかく、今の右京さんを助けられるのは、あなただけ、あなただけなのよ」
「亜利沙さんっ」
いいかけた瞬間、星子、ハッと言葉を飲み込んだ。亜利沙の目には涙が光り、頬へと伝わっていた。
――亜利沙さんは、右京さんを愛してる。心底、愛してるんだ……。
星子、鼻の中がつーんとなって、車窓へ目を向けた。
車はそれから三十分ほど暗闇を走り続けたあと、湖畔に着いた。富士山には五つの湖があるけど、どの湖だろうか。湖面は月明かりに光って、幻想的な景色が広がっている。
亜利沙に促されて車から降りると、近くに一軒の建物が見える。廃屋になった別荘なのだろうか、灯はなく、不気味に静まり返っていた。
湖面から吹いてくる冷たい風に、星子が体をすぼめた時だった。
ピアノの音が……静かなピアノの調べが、廃屋の中から聞こえてきた。
その音色は、この前、星子の携帯電話から聞こえてきた、あの切ないほど美しいピアノの調べと、同じだった。
「さ、こっちよ」
亜利沙に案内されて、星子は廃屋の中へ入っていった。
黴と埃の匂いがする暗い廊下を進むと、前方に薄ぼんやりとした明かりが見えてきた。そこは大広間でローソクの明かりがいくつも灯っている。そして、大広間の中央にはグランドピアノが置かれ、やつれた感じの男の人が背中をかがめ、やっと体を支えるようにして鍵盤と叩いている。
ふいに咳込んだ男は、ピアノを弾く手を止めて口に手をやった。かなり、苦しそうだ。その指の間から血のような赤いものがにじみ、床へと滴り落ちた。
「あっ」
亜利沙、急いで駆け寄ると、男の人の背中をさすった。
男の人、喘ぎながら、亜利沙の手を邪険に払いのけた。その瞬間、額にかかった長髪が分かれて、彫りの深い端正な顔があらわれた。
右京、だった。
(つづく)
追記 予定より少し遅れたようです。申し訳ない。じつは、数日前、家内の手術がありましてね。重い脊髄の病気で足が不自由になり、ほとんど歩行が出来ない状態でしたので。僕もあまり役に立たない主夫兼介護士役をこなしてきたわけです。
ま、術後の経過はいいようなので、今のところはホッとしています。とたんに、風邪をひたりして。やれやれです。それでなくても、いろいろあって鬱状態だった家内ですので、今後、なんとか元気になってくれればいいのですが。鬱は、うつる。僕も少々、こたえました。
歳をとると、女性は特に腰と足をやられますからね、皆様はまだお若いでしょうが、今のうちから十分気をつけて下さいね。
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