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(茅舎追想その十七)虚子・茅舎・龍子の「花鳥諷詠」
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 茅舎の第二句集『華厳』は、昭和十四年(一九三句)、四十二歳のときに刊行された。この年は、龍子と茅舎の父の七回忌に当たる。言わば、この句集は、茅舎が亡き父に捧げたものとも解しても差し支えなかろう。
 この句集の「序」は、高浜虚子の夙に世に知られている「花鳥諷詠真骨頂漢」である。
虚子は、「花鳥諷詠」俳句の主唱者であり、そして、茅舎は、その「花鳥諷詠」の「真骨頂漢」(真の神髄を究めた俳人)だというのである。
 虚子の「花鳥諷詠」については、虚子自身、折りに触れて様々に言っているが、端的には、「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります」(『虚子句集』)ということになろう。
 「花鳥」というのは、「花鳥風月」のことで、この「花鳥風月」が集体積されたものが、「季語・季題」であって、「俳句は花鳥風月(季語・季題)を諷詠する」こと、「諷詠」は「調子を整えて詠う」ことで、これらを要約すると、「俳句は花鳥諷詠詩」ということになる。
 ここから、「季語・季題重視」と「定型(五七五の調子を持つ十七音の俳句形式)重視」ということになる。
 川端茅舎は、この「花鳥諷詠」について、次のように述べている。
 
「俳句は花鳥を諷詠する以外の目的をば一切排撃することによつて、種々の雑多な目的を持つた他の芸術と毅然と対してゐる。又僕は斯様な啓蒙めく言葉を繰返して置きたい。/然し、時代の問題へ驀地(まっしぐら)に突進する事が勿論勇気を要する如く、花鳥を諷詠する以外の目的を一切排撃する事も亦聊か勇猛な精進を要求する。それゆゑ何か意味ありげな目的の偶像を破壊し得ぬ人達は花鳥諷詠の律法に得堪へず頻々この陣営から遁走した。僕は虚子先生の平明な花鳥諷詠の説話の底に常々斯様な峻厳さを発見する。さうして花鳥諷詠の存在の意義を確かにする。(「花鳥巡礼」第二回 「ホトトギス」昭和九年一月)
 
 茅舎の俳句が、「花鳥諷詠真骨頂漢」なのかどうか、これは、虚子の「ホトトギス」俳句との関連で、「茅舎の俳句が、『ホトトギス』俳句の、一つの目指す俳句」だと、虚子が考えているということにも換言できよう。
 そして、このことは、茅舎が登場する以前の、水原秋桜子が、「ホトトギス」派、即ち、「花鳥諷詠詩」のエースであったのだが、秋桜子が、脱「虚子・ホトトギス」して、その秋桜子に替わるエースが、茅舎であるということにもなろう。
 この茅舎が亡くなると、茅舎に替わって、「曩(さき)に茅舎を失ひ今朱鳥(注:野見山朱鳥)を得た」(野見山朱鳥の第一句集『曼珠沙華』「序」)と野見山朱鳥が登場して来る。
 この野見山朱鳥が、大の茅舎俳句の崇拝者で、後に、『川端茅舎の俳句』(昭和四十四年)を公刊している。しかし、朱鳥は、虚子の「花鳥諷詠詩」から「生命諷詠詩」という新しい世界を樹立していくことになる。
 虚子にとって、「花鳥諷詠」は、その悟道の「極楽の文学」のお題目であると共に、「ホトトギス」という組織を束ねていくための教典でもあった。
 
○ 明易や花鳥諷詠南無阿弥陀    虚子
 
 それに比して、虚子から「花鳥諷詠真骨頂漢」とのお墨付きを頂戴した茅舎は、「花鳥を諷詠する以外の目的を一切排撃する事も亦聊か勇猛な精進を要求する」と、虚子の「花鳥諷詠」に基本を置きつつ、その虚子の「花鳥」(季語・季題)をより内面的な「季題・季語の深化」(それは朱鳥の「生命諷詠詩」の「生命」に近い)を図り、その虚子の「諷詠」をより自覚的に「諷詠詩」(朱鳥の「生命諷詠詩」の「諷詠詩」は茅舎により多く起因している)として、虚子の「花鳥諷詠」とは別次元の世界の飛翔をも匂わせったのであった。
 
○ 涅槃会に吟じて花鳥諷詠詩    茅舎
 
 虚子は、「花鳥諷詠南無阿弥陀」とお題目を唱えるが、茅舎は、「花鳥諷詠」はお題目ではないのだ。「自分の心・魂」を詠むための「花鳥諷詠詩」なのである。涅槃会に際しても、お題目は唱えない。ただひたすら、「自分の心・魂」を詠出するための「花鳥諷詠詩」を吟じるのである。
 
 龍子の昭和二十九年(一九五四)作に、「花鳥諷詠」と題する絹本着色一面ものがある。
その解説記事(『現代日本の美術 川端龍子(村瀬雅夫稿)』)の全文は次のとおりである。
 
[俳人虚子像 一見和紙に水墨風の軽やかな画面だが、絹に描かれている。絹地の上に、自在に線描をふるえる画技の持主は近代日本画人ではむろん、過去の大家にもまれである。梅にウグイス、らんまんの春、黒アゲハに青梅の実る夏、黄ばむ山鳩の秋、雪の枝に雀の冬、四季のうつろいに想をよせる句境が梅の一樹にやさしく広げられる。龍子が国民新聞社に入社した明治の末年、虚子は学芸部長。虚子のもとで新人として新聞の仕事を受け持ち、感化も受けた。社会面に記事を漫画化した挿絵を龍子は毎日描き、ユニークなこの方式は当時の新聞の新企画と評判を集めた。明治四四年七月に、過去一年分を集録した『漫画・東京日記』が本になった。その序文も虚子が書いた。後、俳句雑誌の『ホトトギス』の表紙を一四年間担当、戦後にホトトギス同人になり、堅山南風、奥村土牛氏などと句会も催した。題名は虚子の信条「花鳥諷詠」をそのまま象徴させた。]
 
 この龍子の「花鳥諷詠」も、また、その解説記事(村瀬雅夫稿)も、非常に示唆に富んでいて面白い。
 まず、その龍子画の「花鳥諷詠」では、そのバックに、「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象」(『虚子句集』)が、「梅の花にウグイス(春)、青梅に黒アゲハ(夏)、黄ばむ梅の葉と山鳩(秋)、梅の枝に雪と雀(冬)」と全部描かれている。そして、そこに、
「四季のうつろいに想をよせる」(村瀬雅夫稿)ところの一人の人物、これが高浜虚子なのである。
 虚子の「花鳥諷詠」は、「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります」の、その「人事界の現象を諷詠する」ことにおいて、「自然界の現象を諷詠する」ことが「主」とすると、「従」となることは、その特色でもあるし、また、それが限界となっていることは、誰しも、素直に肯定することが出来るところのものであろう。
 まさに、虚子の「花鳥諷詠」は、この龍子画のとおりのものと言っても、それほど誇張したものではなかろう。
 そして、この龍子画の解説記事で、日本俳壇の巨匠・高浜虚子と日本画壇の巨匠・川端龍子は、国民新聞社(読売新聞)で、「上司(虚子)と部下(龍子)」との関係にあり、龍子が社会人としてスタートする時点の頃(明治四十一年、龍子・二十三歳、虚子・三十五歳)からの付き合いだったということなのである。
 ともすると、俳人・高浜虚子と俳人・川端茅舎との二者の関係で論じたり見られたりもするが、そこに、画人・川端龍子をも加味して、この三者の関係で見ていくと、新しい「虚子像」、「新しい茅舎像」、そして、新しい「龍子像」が浮かび上がってくるのが、何とも興味深いのである。
 
(追記)この龍子の「花鳥諷詠」は、『現代日本の美術第一三巻川端龍子(村瀬雅夫解説)』(集英社刊)からのものである。これを取り上げている画集などは少ない。龍子記念館蔵で、縦、一一二・〇センチ、横、一七六・〇センチ。絹本着色 一面。昭和二十九年(一九五四)作。
 
 
 
 
川端龍子筆虚子像軸
「花鳥諷詠」下絵
(昭和二十九年制作)
 
下絵ながら晩年の虚子の趣を如実に写した秀作。「龍子記念館」(東京大田区)に蔵されている完成作品「花鳥諷詠」の虚子の背景には、一本の梅の巨木に満開の白梅、たわわに実った青梅、黄葉した葉、枯枝に積もる雪といった四季が描かれており、虚子が唱えた俳句理念「花鳥諷詠」の世界を象徴している。この「花鳥諷詠」は昭和二十九年三月十六日から二十八日までの、第二十二回春の青龍展に出展された。虚子は満八十歳、同年十一月には文化勲章を授与された。
そもそも龍子と虚子の出会いは古く、明治四十年に龍子が二十二歳で国民新聞社会面の挿絵画家として入社した時に始まる。虚子は同社の学芸部長であった。龍子は同じく挿絵画家であった平福百穂と机を並べている。龍子の社会記事の挿絵は評判を呼び、後に「漫画、東京日記」として本になったが、その序文は虚子が執筆している。龍子と百穂は共に「ホトトギス」表紙絵画家及び俳人として活躍し、戦後には「ホトトギス」同人となった。

 

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