夜半亭(YAHANTEI)のブログ

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(茅舎追想その十八)龍子・茅舎と秋桜子
 
 『日本の名画第十六巻川端龍子』(中央公論社刊)に水原秋桜子の長文の「創意あふるる画家」が収載されている。
 虚子と龍子とが知己の関係にあったということは知られているが、秋桜子と龍子とが知己の関係にあったとは、この長文に接して始めて知った。と同時に、ここには、秋桜子と茅舎との関係なども詳細に記されている。
 ここで、秋桜子と龍子、そして、茅舎の、この三人のことなどについて、その秋桜子のものから、これはと思うようなことを抜粋して置きたい(併せて、簡単なメモを括弧書きで記して置きたい)。
 
[この第一回展(注・龍子が「青龍社」起こしての第一回展、昭和四年、龍子、四十四歳)に出陳された龍子の「鳴門」は、おそらく龍子全生涯の作のうち随一に推すべきものであろう。(中略) 要するに龍子の「鳴門」は、自然そのものの上につよい感激がかさなり、それが純粋の芸術にまで昇華してものにちがいないと、改めて感心した(注・秋桜子の「自然の真と文芸上の真」の主張の骨子の要約のような記載である)。
 
 昭和五年頃であったろうか。俳句雑誌『ホトトギス』の選句欄に川端茅舎という名を見かけるようになった。(中略) 普通の写生仕立てでなく空想力のつよいもので、主として京都あたりの僧房生活が詠まれ、時には東京の市井風俗も扱われていた(注・虚子の「客観写生」ではなく秋桜子の「主観写生」の俳句であるというニュアンスである)。
 
 ある日『ホトトギス』発行所に顔を見せた中村秀好という作者が、自分は茅舎を知っている。あれは川端龍子の弟であると言った。龍子はそれまでに『ホトトギス』の表紙絵や挿絵を描いていたので、その人の弟が知られていなかったのは不思議だと思ったが、後になって茅舎は龍子の異母弟であり、早くから独り離れて暮らしているということもわかって来た(注・茅舎は龍子の手引きで『ホトトギス』に入ったのではなく、また、龍子の弟であるということは当初の頃は虚子も知らなかったのではないか?)。
 
 その後茅舎は身体の調子がわるく、僧房の独居に耐えがたくなったので上京した。大森区の桐里町という静かなところに、龍子が父のために建てた家があったが、茅舎はそこに父と住むことになった。新井宿の龍子の画室とは四、五町を距てているだけであるが、茅舎が兄の家を訪れるのは月に一、二回のことであるらしかった(注・茅舎が龍子の建ててくれた家に父と共に移るのは、昭和三年、三十一歳のときであった。二月に茅舎らの母が亡くなり、四月にこの青露庵に転居し、父共々龍子の庇護の下に暮らすこととなる。茅舎が龍子のところに訪れるのは月一、二回程度ということだが、龍子の妻夏子夫人などが茅舎らの日常の世話をしたということだろう)。
 
「僕のところへ送っていただく『馬酔木』を、兄貴がいつも読んでいましてね、『馬酔木』の表紙ならいつでも描くと言っていますよ。頼んで置きましょうか・・・」。私は喜んで、それでは七年度の新年号からのものを描いていただきたいと言って別れた。その表紙絵は十月の末になって龍子から届けられた。期日より五、六日も早めなのである。その上に画が二枚、青獅子と孔雀とが描かれてあり、どちらを使ってもよいという手紙を添えてあった(注・龍子は茅舎の所にある本などには目をとおしていて、秋桜子の『馬酔木』なども読んでいた。そして、虚子の『ホトトギス』だけではなく、その虚子から独立していく秋桜子の『馬酔木』の表紙絵も描いている。龍子には虚子への遠慮とかそういう気配は感じられない)。
 
 十一月の末になって、茅舎を伴った龍子夫人が、荏原区の中延にあった昭和医学専門学校に私を訪ねて来た。この学校は私の友達の四、五人が集まって建てたもので、私は依頼を断ることが出来ず、忙しい中を一週に一回講義と診療のためにかよっていたのだ。来意をきくと、この頃茅舎は身体の調子がわるく、頸部の後方に大きな腫瘤が出来たので、専門の科で診療を受けたいとのことであった(注・昭和六年、茅舎が「頸椎カリエス」で昭和医学専門学校の病院に入院するのは、龍子の夏子夫人と一緒に秋桜子のところに来て、その病院の専門医の診察を受けてのものである。ここでも龍子の夏子夫人の茅舎への日常の介護振りが察知される)。 
 
 茅舎は寒い間つづけて入院することになり、私の周一回の通勤日を待ち通しく思っているらしかった。私も時間の許すかぎり病室にいて話し相手になった。『ホトトギス』と『馬酔木』との間は、もはやどうにも仕方のない状態になり、『馬酔木』は一本立ちすることに決まった。そのことを茅舎に告げると、「それはどうも困ったね」と言っていたが、眼はすこし笑っているようであった。茅舎は深い事情は知らなかったのだが、勘の鋭さでもはやどうにも方法のないことを知っていたのであろう(注・秋桜子の『ホトトギス』からの独立に関しての秋桜子と茅舎とのやり取りに関してのものである。茅舎ならずも、虚子と秋桜子との関係が抜き差しならないところで来てしまったということを承知していたのであろう)。
 
 二月に入って茅舎は退院したが、私は時折桐里町へ見舞に行った。医専としてもその後の容態を知って置く必要があったわけである。茅舎はたいてい病院で作ったギプスベッドに入っていて、「いまお涅槃の最中さ」と、いかにも坊さんめいた冗談を言いながら、ひとりで巧くベッドを抜け、日当たりのよい縁側へ出てきた(注・「青露庵」での茅舎の日常というのは、ギプスベットに入ったりしての極めて不自由なものであったのだろう。「涅槃会に吟じて花鳥諷詠詩」などの句も、こうしたギプスベットなどに入っての自嘲的な句とも取れなくもない)。
 
 その翌々年あたりであったろうか。私は龍門会に入会することをすすめられた。この龍門会というのは大森区と荏原とに住む医師だけで成り立った会で、御形塾を後援するのが目的であった。毎年歳晩になると十五、六人の会員が集合し、塾員の作品を分け合うのである(注・「御形(ごぎょう)塾」は龍子の内弟子の集まりの画塾で、「青龍社」はこの御形塾の塾員が中心になる。この「御形(ごぎょう)」の由来は、龍子が住んでいる地区の「子母沢」の逆さ詠みの「母子」から「母子草」の別称の「御形(ごぎょう)」とがその由来らしいが、龍子の「母」のイメージもあるのかも知れない。そして、秋桜子は、その「御形塾」を後援する「龍門会」のメンバーの一人で、言わば、龍子の後援者の一人でもあったのである)。
 
 昭和二十一年の初夏であったと記憶する。久しく打ち絶えていた龍門会を開くという通知が、当時八王子に住んでいた私の家に来た。(中略) 私が着いたときは午後の日が傾きかけていたが、前に住居のあったところには何もなく、大きな池ほどもある穴が出来ていた。これは戦の終わる二日前、大型爆弾の落ちた跡で、住居は一瞬に微塵となったが、龍子と家人に怪我はなく、画室は少し離れていたため殆ど無疵のままであった。会員が揃うまでに私は画室の前庭を歩いていた。羊歯の葉が揺れたかと思うと、大きな蟇が貌を出したので、蟇嫌いの私はびっくりして立ち止まった。龍子がそれを笑いながら画室で見ていた。
「蟇はわるいことをしませんし、愛嬌がありますが嫌いですか?」
「どうもこれは苦手ですね。しかし蛇よりはいい。蛇だったら画室へ飛び上がりますよ」
(注・終戦二日目の龍子邸に大型爆弾が落ちたことが記されている。また、「蟇ないて唐招提寺春いづこ」の名句を遺している秋桜子が蟇嫌いというのは面白い)。
 
 四十一年一月に池上本門寺の天井に「龍」を描いたが、二月に入って臥床する日が多く、遂に四月十日安らかにその生を了えた。告別式は龍子記念館で行われ、参加した人の列は長くつづいた。館の短い階段を登ると、そこに御形塾の塾員達が静かに立並び、師と今生の別れを告げる悲しみに耐えているようであった。思えば私がはじめてこの新井宿を訪ねてから、すでに四十余年の歳月が流れているのであった(注・龍子の告別式の様子である。そして、龍子と秋桜子とは四十余年という長い付き合いがあったのである)。]
 
(秋桜子が龍子の最高傑作画としている「鳴門」→龍子記念館内)
 
 
(龍子画「鳴門」の一部)
 
 
(龍子画「薄暮」→この蟇は龍子の「御形荘」の庭の蟇か? 秋桜子もこの蟇を見たか?)
 
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