夜半亭(YAHANTEI)のブログ

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(茅舎追想その十九)龍子の建てた「茅舎句碑」と「芭蕉翁」(龍子画)
 
 昭和十六年(一九四一)七月十七日、川端茅舎は「青露庵」にて永眠した。四十三歳十一ヶ月。「青露院茅舎居士」と異母兄の龍子が戒名を付け、伊豆修善寺の龍子の墓域の一角に埋葬された。そして、龍子は、「ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな」の茅舎句碑を建立した。
 また、龍子は、戦後、高浜虚子と「ホトトギス」同人の深川正一郎の手を煩わせて、『定本川端茅舎句集』を刊行した。その装幀は、龍子自らの手で施し、その表紙絵に、「芭蕉の花」を描いた。
 龍子が、茅舎の母亡き後、父と茅舎のために建てた青露庵の庭には、芭蕉が植えられていた。この『定本川端茅舎句集』の表紙絵の芭蕉の花は、その青露庵の庭に咲いていたものであろう。
この句集には、虚子の「庭の花」という一文が収載されていて、茅舎が亡くなったときのことが詳細に綴られている。その中に、龍子が、青露庵の庭の芭蕉の花を手折って、茅舎の棺に入れる場面が、「芭蕉の花が重かったのでごぼと沈んだ」とリアルに記述している。
青露庵の庭の植物などは、水原秋桜子の「創意あふるる画家」によると、龍子の作庭との茅舎の伝言が記されており、茅舎が句材にしている「朴・芭蕉・羊歯・蕨・ぜんまい・土筆」等々は、全て、その庭に植えられたものなのであろう。鳶は、その垣根の向う側は池上本門寺の境内で、そこから飛んで来るのだろう。土竜はその作庭の石の下からよく貌を出したという。
龍子には、大正十二年(一九二三)の、紙本着彩の「芭蕉翁」という絵がある。その解説記事(『日本の名画第十六巻川端茅舎(佐々木直比古稿)』は次のとおりである。
 
[大正十一年に入ると龍子は大和絵の構成に心をひかれだした。在来の日本画の技法そのものにも漠然ながら疑問を持つようになり、このような懐疑的な過程を切抜ける道は、もっと日本画の伝統的な技法を積極的に考究する以外にないことに気づいた。古土佐の芸術にそれを求めた「つのづきの巻」は上越線小千谷に近い山中で行われた牛の角突きの行事を扱った作品で、大正十一年院展に出品したが、龍子の期待を裏切って批評家の評判はあまりよくなかった。同時に出品した「庭上印象」の方が無難だったのか評判はよかった。「つのづきの巻」は現在ではあまりに有名だし、大きさの都合もあって割愛したが、「芭蕉翁」は「つのづきの巻」の翌年、第九回院展試作展に出品された作品で、かつて霊泉由来を求めて、鹿沢から草津へ歩き、また「神戦の巻」の際に日光湯本の旅から得たものを、白雲流水の東洋的自然観にしたがって、絵巻的表現と金泥多用の描法で描いている。後年奥の細道行脚に赴くが、すでに古くから旅の思想が頭の中にあったようである。]
 
 この「芭蕉翁」を制作した大正十二年の九月一日は、関東大地震があった日で、龍子は三十七歳、茅舎は二十六歳であった。この頃、茅舎は異母兄・龍子の家にも出入りして、洋画家・岸田劉生に師事していた。劉生は京都に避難していて、茅舎も京都の正覚寺に滞在し、劉生の指導を受け、十一月には、芸術院展に「静物」が入選している。
 当時の龍子は、洋画家から日本画家に転身して、その地位を着実に確保しつつあったが、茅舎は、未だ、一所不在の画学生という趣で、異母兄の龍子が日本画なら洋画家でという感じでなくもない。
龍子と茅舎が師事した劉生とは未知の関係で、後に、茅舎の縁で龍子は劉生とも知己になるが、劉生は、昭和四年(一九二九)に満州旅行の帰途、山口県徳山で急逝してしまった。この劉生の急逝と相俟って、茅舎は病弱が激しくなり、劉生亡き後の画業はなく、失意のまま「ホトトギス」一辺倒となる。
ここで、興味深いことは、芭蕉翁のように、一所不在で青春彷徨を繰り返していた茅舎と同じように、一家を支えるために若くして洋画家(挿絵画家)として定住・自立しつつ、龍子もまた、「白雲流水の東洋的自然観」に惹かれて、その放浪の詩人、俳聖・芭蕉翁を憧憬していたということなのである。
この「芭蕉翁」の前年作の、「角突(つのづき)之巻」(越後二十村行事)は、横山大観の「生々流転」と同じように絵巻物一巻で、縦四五・五センチ、横七七四・三センチという大作である。これらの作品は、日本の伝統的なもの、風土的なものへの執拗的な取り組みで、それを如何に、「現代的な構成の中へ再現させるか」という、西洋画から日本画へと転向した、当時の龍子の格好なテーマでもあった。
この龍子の「芭蕉翁」というのは、そういう「日本の伝統的なもの、風土的なもの」への回帰を求めての、その一環にあるものであって、単なる思いつきや、単なる要望に添って描いたものではなく、龍子の内なる創作姿勢と密接に絡み合ってのものであった。
その意味では、龍子というのは、当時の画家の中で、「芭蕉翁」に対する崇敬の念とその理解度はずば抜けたものがあったと推測することもあながち無理なことではなかろう。
と同時に、戦後、晩年の龍子は「奥の細道」行脚を決行することになるが、それは、龍子が洋画家から日本画家に転身して、そのスタートの時点から、龍子の胸中にあったものと理解して差し支えなかろう。
即ち、画人・龍子には、その本質的なところに、俳聖・芭蕉翁らの系譜の、「白雲流水の東洋的自然観」への憧憬がある。そして、俳人・茅舎には、直接的な俳聖・芭蕉翁とのかかわりは感知されないが、その根っ子のところに、異母兄の画人・龍子と同じように、「白雲流水の東洋的自然観」への憧憬が滲み出た生涯であっという思いを深くする。
そして、その画人・龍子が、俳句を無上のものとしてそれを嗜んでいた父と、その俳句に生涯をかけたところの異母弟の茅舎の「終の棲家」として「青露庵」を建て、その庭に芭蕉を植えたということも、これは単なる偶然ではないように思われるのである。
さらに、その茅舎が亡くなったときに、龍子は、その最期の別れに際して、その芭蕉の花をその茅舎の亡骸の側に供花するということは、単なる偶然ではなく、亡き俳人・茅舎には、俳聖・芭蕉翁に通ずる芭蕉の花こそ相応しいと、そういう思いが龍子の胸中にあり、それが、最期の瞬間に結実したのではなかろうか。
そして、それだけではない。龍子は、茅舎の墓の一角に、茅舎の異名の「露の茅舎」とその露を宿すところの「芭蕉の葉」の句碑を建立するのである。
 
ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな   茅舎
 
この茅舎句碑と、そして、龍子の洋画家から日本画家へと転身した頃の紙本着彩画「芭蕉翁」とは、何故か相互に響き合っているような、そんな思いがしてくるのである。
 
(伊豆修善寺の茅舎句碑)
 
 
 
(龍子画「芭蕉翁」七一・七×八四・一センチ 大正一二年作)
 
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