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【ヘブル人への手紙 / 9章 27節】 そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、 【ローマ人への手紙 / 5章 14節】 しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、 死の支配を免れなかった。 【ヨハネによる福音書 / 5章 24節】 よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、 永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。 【ヨハネによる福音書 / 5章 29節】 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、 さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。 【ヨハネによる福音書 / 6章 40節】 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。 そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう。 【ヨハネによる福音書 / 11章 25節】 わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 お久しぶりでございます。ほぼ1年ぶりですね。 久しぶりなのに重いテーマで申し訳ありません。 実は、最近、私の周りで2人の方が亡くなりました。 1人は先月で、もう1人は今月です。 どちらも20代と30代で、まだまだ若く、双方の親御さんの悲しみは量る術もありません。 「死」とは何か、「生」とは何かと、考えさせられました。 聖書では、「死ぬこと・・・人間に定まっている・・・」また、「・・・死の支配を免れなかった」とあります。 どんな人でも「死」から逃れることはできません。 善人も悪人も、お金持ちも貧乏人も、みんな等しく死ぬことが定まっています。 クリスチャンも例外ではありません。 アダムもアブラハム・イサク・ヤコブもモーセも死にました。 人として主イエスさえも死なれました。 しかし聖書には、2人の特別な例外もありますが・・・ エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。(創世記/5章24節) そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。(列王紀下/2章11節) 「死」と同様に「よみがえり」も人間に定められています。 クリスチャンだけがよみがえると勘違いしている人もいるかもしれませんが、 聖書によれば人間はすべてよみがえります。 しかし、よみがえった後の結果は異なっています。 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえります。 悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえります。 善と悪というと、人の行いを考えてしまいますが、 聖書で善とは、「主の言葉を聞いて、主をつかわされたかたを信じる」、「子を見て信じる」ことだと 言っています。なぜなら、それが永遠の命を受ける条件だからです。 「死」がなけれが「よみがえり」はありません。 言い換えれば、十字架がなければ復活はありません。 私たちクリスチャンも、日々の生活の中で十字架の死を経験し、よみがえりの命に生きたいと願います。 まとまりのない文章になってしまいましたが、少し「死」について考えてみました。 ※聖書の箇所は、日本聖書協会「聖書」(口語訳)より引用
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2009年04月29日
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