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この聖書は、わたしについてあかしをするものである (ヨハネ福音5:39)

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【 永遠の命 】

【 ヨハネによる福音書 / 5章 39-40節 】
 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、
 この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。

【 ヨハネによる福音書 / 11章 25節 】
 わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。

【 ヨハネの第一の手紙 / 5章 12-13節 】
 御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。
 これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、
 永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。


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本当にお久しぶりの更新です。
週1回の集会の時だけクリスチャンの人を「サンデークリスチャン」と呼びますが、
年1回では「七夕クリスチャン」ですか・・・

ところで、今回は「永遠の命」について書きたいと思います。
前回は、「死」で、そのまま更新なしでしたので・・・

多くのクリスチャンは、漠然とではあるが「永遠の命」を追い求めているのではないでしょうか。
主イエスが生きておられた時代の人々も「永遠の命」を追い求めていました。
「永遠の命」を追い求め、聖書を熱心につぶさに調べていました。
私たちもそうではないでしょうか。

しかし、主イエスは言います。
 「この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
   しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」
 「わたしはよみがえりであり、命である」

これらの聖書の箇所は、主イエスこそが「永遠の命」そのものであり、
それ以外の方法はないことを示しています。
私たちに必要なのは、聖書を熱心に調べることでも、熱心に集会に出席することでも、
熱心に奉仕することでも、神聖な生活をおくることでもありません。
主イエスご自身を持つことだけが絶対条件です。
それ以外の聖書や集会や奉仕なども不要とは言いません。
主イエスご自身を持つこと、生きることに導くためには有益です。
しかし、「永遠の命」は主イエスご自身だけです。

ヨハネの第一の手紙 5章 13節では、
 「神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせる・・・」
と言っています。
そうです、神の子の御名を信じる私たちは、すでに永遠のいのちを持っているのです。
この「永遠の命」である主イエスご自身を生きることこそがクリスチャンライフです。

「七夕クリスチャン」の私ではありますが、主イエスご自身を生きたいと願います。




※聖書の箇所は、日本聖書協会「聖書」(口語訳)より引用
            

【 死 】

【ヘブル人への手紙 / 9章 27節】
 そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、

【ローマ人への手紙 / 5章 14節】
 しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、
 死の支配を免れなかった。


【ヨハネによる福音書 / 5章 24節】
 よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、
 永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。

【ヨハネによる福音書 / 5章 29節】
 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、
 さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。

【ヨハネによる福音書 / 6章 40節】
 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。
 そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう。

【ヨハネによる福音書 / 11章 25節】
 わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。



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お久しぶりでございます。ほぼ1年ぶりですね。
久しぶりなのに重いテーマで申し訳ありません。

実は、最近、私の周りで2人の方が亡くなりました。
1人は先月で、もう1人は今月です。
どちらも20代と30代で、まだまだ若く、双方の親御さんの悲しみは量る術もありません。
「死」とは何か、「生」とは何かと、考えさせられました。

聖書では、「死ぬこと・・・人間に定まっている・・・」また、「・・・死の支配を免れなかった」とあります。
どんな人でも「死」から逃れることはできません。
善人も悪人も、お金持ちも貧乏人も、みんな等しく死ぬことが定まっています。
クリスチャンも例外ではありません。
アダムもアブラハム・イサク・ヤコブもモーセも死にました。
人として主イエスさえも死なれました。

しかし聖書には、2人の特別な例外もありますが・・・
 エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。(創世記/5章24節)
 そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。(列王紀下/2章11節)


「死」と同様に「よみがえり」も人間に定められています。
クリスチャンだけがよみがえると勘違いしている人もいるかもしれませんが、
聖書によれば人間はすべてよみがえります。
しかし、よみがえった後の結果は異なっています。
善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえります。
悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえります。
善と悪というと、人の行いを考えてしまいますが、
聖書で善とは、「主の言葉を聞いて、主をつかわされたかたを信じる」、「子を見て信じる」ことだと
言っています。なぜなら、それが永遠の命を受ける条件だからです。

「死」がなけれが「よみがえり」はありません。
言い換えれば、十字架がなければ復活はありません。
私たちクリスチャンも、日々の生活の中で十字架の死を経験し、よみがえりの命に生きたいと願います。

まとまりのない文章になってしまいましたが、少し「死」について考えてみました。



 ※聖書の箇所は、日本聖書協会「聖書」(口語訳)より引用

教会の究極 L(・o・)」

【ヨハネの黙示録21章】

2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った
花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から
下って来るのを見た。


9 最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の
御使のひとりがきて、わたしに語って言った、
「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。

10 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に
連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、
神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。

11 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉の
ようであった。


22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。
全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。

23 都は、日や月がそれを照す必要がない。
神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。


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通読で【ヨハネの黙示録】を読んでいました。

ヨハネの黙示録21章に「新しいエルサレム」があります。

聖書をよく見ると、この「新しいエルサレム」は、教会を
指していると分かります。


エペソ人への手紙の中で、

2:22 そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、
霊なる神のすまいとなるのである。

6:31 「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
ふたりの者は一体となるべきである」。
6:32 この奥義は大きい。
それは、キリストと教会とをさしている。


それに、ヨハネの黙示録21章を照らし合わせる時、教会は
「新しいエルサレム」になると言う事ができます。

私たちは、「新しいエルサレム」に住みたいと言うべきでは
なく、「新しいエルサレム」になりたいと言うべきです。

「全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所」であり、
「神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかり」です。

まさしく、そこは神のすまいです。

人間では理解できません。
しかし、神が決められたことは、かならず成就します。

教会の究極は、「新しいエルサレム」です。



 ※聖書の箇所は、日本聖書協会「聖書」(口語訳)より引用

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詩篇 第133篇

【詩篇 第133篇】

見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。
それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、
その衣のえりにまで流れくだるようだ。
またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。
これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。


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昨日、本当に久しぶりに教会の集会に行ってきました。
友人に誘われて、特に用事もなかったので行くことになりました。
実は、十数年前に通っていた教会だったので、本当に久しぶりでした。
大きな集会だったので、隅のほうでこっそりと思っていたのですが、
旧知の兄弟姉妹が集会の前後に大勢訪ねてくれました。
ちょっと気疲れしたけど、声をかけてもらえて嬉しかったです。
2回の集会に参加しました。

今回の集会は、詩篇第133篇から「教会の一」に関するものでした。

要約すると、主の祝福は、「兄弟が和合して共におる」ところにある
ということでしょうか・・・。


わたしたち(御父と御子)が一つであるように、彼ら(教会)も一つに
なるためであります。【ヨハネ福音17:22】

平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。
からだは一つ、御霊も一つである。 あなたがたが召されたのは、一つの
望みを目ざして召されたのと同様である。
主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内に
います、すべてのものの父なる神は一つである。 【エペソ4:3〜6】



現在のキリスト教の状況を見る時、分派分裂だらけと感じます。
どこに「一」があるのでしょうか・・・。
人の目で見る時、そこに「一」は無い様に思います。
しかし、神様の目には、「からだ(教会)は一つ」です。
教理・信条によれば分裂です。
しかし、命の中では「一」です。
すべての兄弟姉妹が、真の「一」になる時がくるのでしょうね。



教会については、以前の記事でも少し書かせてもらいましたので、
興味のある方は覗いて下さい。
http://blogs.yahoo.co.jp/seisho_mori/16969674.html



  ※聖書の箇所は、日本聖書協会「聖書」(口語訳)より引用

結婚式【エペソ5章】

【エペソ 第5章31〜32節】

「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体と
なるべきである」。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とを
さしている。


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土曜日に結婚式に出席しました。カトリックの教会で行われました。
その時、ふとエペソの5章に思いをめぐらしました。

エペソ5:22〜33では、夫と妻の関係を扱っているようですが、実は、
キリストと教会の関係を示しています。

私達の夫婦の関係は、キリストと教会の関係の予表です。

夫が妻を愛するのは、「キリストが教会を愛してそのためにご自身を
ささげられた・・・」ことの予表です。

「わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。」

正に、「ふたりの者は一体」です。

キリストと私たち(教会)は、一体です。分けることは不可能です。

何とすばらしいことでしょうか!




  ※聖書の箇所は、日本聖書協会「聖書」(口語訳)より引用

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