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今日は特に朝夕が過ごしやすくて
秋の雰囲気を感じ始めました。
予報ではまた明日から暑さが戻るそうですが、
昼間は仕方がないものの朝夕が涼しく感じるだけで
ずいぶん体調面が変わりますから。
一足早くそこだけは秋が来て欲しい気持ちですね
なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった。
(ローマ人への手紙 / 6章 14-18節)
今日の6章ではここの部分が気になりました。
律法ではなく主イエスの十字架復活による恵みによる救い
を得るのがクリスチャンという事なのですが、だからといって
一度洗礼を受けてクリスチャンになったからもう
罪を犯しても、御国にいけるから大丈夫か
といえばそうではないと。
あくまで、罪の僕から義の僕に変わっただけですから
それは、御国への最低限の道だけれども
その後神様に従い、聖書に書かれてあるように
義として生きることが大切。
ですから神様のことを知らない時よりも、
そういうことを気にしながら生きますから最初は慣れない分
とにかく疲れるけど、慣れてくればそれがごく当たり前である事も
見えてきて、また保護されてるという安心感に
満たされてくるように思います。
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先週は、暑さのためか気力が萎えていたようで
ちょっと休んでしまいました。
急ぐ必要は無い。ゆっくりやればいいのですから
これからもマイペースで更新していきたいと思います。
それだけではなく、患難をも喜んでいる。
なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、
知っているからである。
そして、希望は失望に終ることはない。
なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、
神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、
不信心な者たちのために死んで下さったのである。
正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。
善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが
死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
(ローマ人への手紙 / 5章 3-8節)
「患難をも喜んでいる」非常に凄い言葉ですね。
私も含めてみんな日々生きている時にどうしても困難が
多くて、一つのその問題をクリアしたかと思えばまた新たな
問題が・・・「一難去ってまた一難」という感じで
次から次へと困難が来て、癖々することがありますが、
この困難を「忍耐」として希望を生み出すための鍛錬と
言う風に考えれば良いと言われます。
そういう風に考えれば耐えられる・・・確かに同じような困難が
くれば、前の経験が生きたりしますから。
このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、
また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、
死が全人類にはいり込んだのである。
というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、
罪は罪として認められないのである。
しかし、アダムからモーセまでの間においても、
アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。
このアダムは、きたるべき者の型である。
(ローマ人への手紙 / 5章 12-14節)
一人の人とは人祖アダムの事を言っているのでしょう。
まあ彼が余計な事をしなければと、愚痴の一つもこぼしたくなりますが
まあ、今それを行っても仕方が無い。
神様はそれに対応する方法を示された。
それが「きたるべき者」その方の為の型。そうなれば人間の神様に
対する姿勢がここで問われるから、強引な見方をすれば
アダムの犯した事すらも結果的にありだったのでは
そこで原罪が発生したから、そこからの悔い改めという選択肢
を自己裁量のある人が自ら判断する事が出来るという
とも考えられますが、うーん難しいですね。
パウロさん、最初の宣教者であり最初の神学者ですね。
くれば、前の経験が生きたりしますから このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、
ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、
ひとりの従順によって、多くの人が義人
(ローマ人への手紙 / 5章 18-19節)
アダム一人の罪ですべての火と辰巳を持ったけれど
義の方である主イエスの行為によって、今度はすべての人に
義が及び死から逃れられるという。まあ主イエスを受け入れるという
条件付ですが。
パウロ神学という言葉を聞いた事がありますが、パウロさん
のこの高度な神学知識というかそういうものによって、主イエスの十字架
への重要性が見えてくる。そして彼以降の神学者達はその事を
より解りやすく体系付けられるために研究を重ね
これらの聖書の聖句・御言葉を徹底的に分析して言った。
神様の言葉とも言われるこれらを見事に解釈する事は
難しいのでしょう。でもそれをしないと神様との関係が曖昧になる
から、やはり聖書を読み続けることは
本当は大切なのだろうと思いますね。
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旧約聖書の預言書を見ると、行いを住している記述があるのにもかかわらず新約聖書では行い以上に信仰を重視している記述に変わります。
この4章でそのあたりが書かれてありますが、当時のユダヤ人達の父とも
言えるアブラハムを例にとって説明されます。
それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。
しかし、神のみまえでは、できない。
なぜなら、聖書はなんと言っているか、
「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
(ローマ人への手紙 / 4章 1-3節) ここで、アブラハムは行いではなく神を信じて義と認められた
とあります。ここでの行いの良し悪しとは、ファリサイ(パリサイ)人と
いわれる人たちに対しての事だったのでしょうか?
それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。
そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、
かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。
なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。
(ローマ人への手紙 / 4章 10-13節)
さてこれは、きっちり調べました。というより知っていました
創世記にきっちり根拠が示されています17章です。
アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、
「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。
あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、/あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の/父とするからである。
(創世記 / 17章 3-5節)
あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。
あなたがたのうちの男子はみな代々、家に生れた者も、また異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でない者も、生れて八日目に割礼を受けなければならない。
あなたの家に生れた者も、あなたが銀で買い取った者も必ず割礼を受けなければならない。こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう。
(創世記 / 17章 11-13節)
アブラハムは神が自分に言われたように、この日その子イシマエルと、すべて家に生れた者およびすべて銀で買い取った者、すなわちアブラハムの家の人々のうち、すべての男子を連れてきて、前の皮に割礼を施した。
アブラハムが前の皮に割礼を受けた時は九十九歳、
その子イシマエルが前の皮に割礼を受けた時は十三歳であった。
この日アブラハムとその子イシマエルは割礼を受けた。
(創世記 / 17章 23-26節) アブラハムがまだアブラムと言う名前の時に創世記にきっちり根拠が示されています12章で、神様から召命をうけてからしばらくやり取りが合って
この17章の時点で神様がアブラムを正式に認めたかのような
(それまでは、念のためにチェックしていたかも)
感じで契約を結ぶ事となり、そこで神様の契約の条件として割礼の施し
が言い渡されました。
つまりアブラハムの神様への信仰心がなければ割礼という
形での契約はなかったという根拠になるわけですね。
しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、
わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。
主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。(ローマ人への手紙 / 4章 23-25節)
でも、本当時大事なのはここかもしれませんね。
アブラハムだけだと、よく言われていたアブラハム、イサク、ヤコブの神
というので終わってしまいますが、そうではないと異邦人全体の
神であると言います。ただし条件とし
て主イエスを死人の中から蘇えさせられた方を信じるかどうか。
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では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。
それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。
すると、どうなるのか。もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、
その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。
断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。
それは、/「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、/
あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」/と書いてあるとおりである
(ローマ人への手紙 / 3章 1-4節)
ユダヤ人が選民という事を先ずここで説明していますね。
ユダヤ人が選民という事が現在でも続いているといいますが
非常にねじれてしまっているというか、
選民が事もあろうに救い主を偽メシアとしている状況が複雑で
それがいじめの対象になったり・・・この問題やりだしたら
キリがないのでこのくらいにしますが。
すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。
絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、
わたしたちはすでに指摘した。
次のように書いてある、/「義人はいない、ひとりもいない。
悟りのある人はいない、/神を求める人はいない。
すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。
善を行う者はいない、/ひとりもいない。
彼らののどは、開いた墓であり、/彼らは、
その舌で人を欺き、/彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。
彼らの足は、血を流すのに速く、
彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
そして、彼らは平和の道を知らない。
彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。
(ローマ人への手紙 / 3章 9-18節)
ユダヤ人が選民かもしれない。
がしかし、異邦人も含めて義人つまり罪のない人は
いないと書いてあります。
その根拠として旧約のこれは詩篇でしょうか?
ちょっと調べきれないのでまたどなたかに教えて欲しい
ところですが、根拠が示してあると。
ここはでも未信者の人がものすごく嫌がるところですね。
何も悪い事をしていないのに生まれながらの罪人というのは
「アダムの野郎が余計な事をしたから」と言いたくもなりますが
これはどうしようもない事ですけどね。
しかし今や、神の義が、律法とは別に、
しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、
すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
彼らは、価なしに、神の恵みにより、
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、その血による、
信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。
それは神の義を示すためであった。
すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
それは、今の時に、神の義を示すためであった。
こうして、神みずからが義となり、
さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
(ローマ人への手紙 / 3章 21-26節)
ここは本当に凄いと思います。高等神学というか、
しかし、ある程度の啓示を受けていたとは思いますが
それに加えて既存の律法の知識を総動員して
導きあげたのしょうから。
ユダヤ人達が神様に上等のものをささげ物として
上げないといけない。神様はその行為を見るのであって
別にそんな献げ物など必需品でもなんでもないというのが
あったと。
そこで、御子が世に来て生贄になったと。
その事でこの人を救い主というとそれまでの生贄をする必要が
ないとなるのですから、
私が初めて聞いた時はやはりピンと来ませんでしたし
何となく理解すればするほど凄いというか、こういう発想を見事に
意義付けらて2000年間守られた事実。
これすらも神様の奇跡とさえ思いますね。 それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。
また、異邦人の神であるのではないか。
確かに、異邦人の神でもある。
まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、
また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。
すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。
断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。
(ローマ人への手紙 / 3章 29-31節)
ここは、ユダヤ人だけの神様ではないよという事の
説明ですね。当時ローマ帝国でギリシャ人達はギリシャの
神々を拝んでいるか、知を楽しむかのような哲学に
嵌っていた人たちばかりだったでしょうから
当初はユダヤ人達の神様の話をしに来たと思ったのでしょう。
それは違うという事と、そこでユダヤ人達の割礼がなくとも
信仰によってそれは可能であるという。
ただ、注意しては行け亡きのは律法は生きているという事
一つ間違えると勘違いの多い内容が含まれています。
じっくり読むとその当たりはっきり書いてありましたね。 |
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私はパウロ書簡に対して、元々苦手なだけだったこともあり、
改めて一章ずつじっくり見ると
目からうろこ的なことが満載ですね。
これだけの書をしたためたパウロに目をつけ、
そして用いた神様の目は我々とは違いすぎますね。
だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。
あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。
さばくあなたも、同じことを行っているからである。
わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。
あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
(ローマ人への手紙 / 2章 1-3節)
これは鋭いというか、過去の過ちは本当に良く
やってしまうから怖いですね。
現在でもこの考えが正しいと間違った相手を指摘するのは良いけど、
それを一つ間違えればその人を裁くという行為に走っている
恐れがあるという。
普通に現在ネット上の世界でも起こりうることだけに、
慎重に行動する必要がありますね。
神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。
すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、
光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。
悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、
善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。
(ローマ人への手紙 / 2章 6-10節)
ここは、ユダヤ人とギリシャ人(異邦人)との間で区別や差別を
しないというところですね。
ユダヤ人は選民だけれど、だから特別扱いではない不義を行えば
だめで、耐えて善を行えば良しと。
例えにやや無理はあるかもしれませんが、例えば正社員と派遣社員
がいて、もちろん給与の出所などは違うけれど作業自体はあくまで対等
であり、その結果も同じであるという思想のようですね。
(そういうところは将来伸びる。逆に区別するところは・・・・・)
もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、
御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、
さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、
やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、
なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。
姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。
律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。
聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。
もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。
しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。
だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。
(ローマ人への手紙 / 2章 17-26節)
ここは、割礼にこだわっているユダヤ人への警告のようですね。
当時はエルサレム教団とパウロのアンティオキア教団とではそのあたり
認識が違っていた時期があったと使徒行伝などで書いてありますが、 これも現在に置き換える事が出来そうです。
つまりいくら洗礼を受けてクリスチャンだといってもそれで後が
続かず、未信者と同じような事をしているのであれば、
ここで指摘している割礼の人とあまり代わりがないのでしょう。
本当は洗礼を受けるのが筋だけど
もし、家族の事情とかそんな感じで洗礼を受けていない求道中の身
だけど神への義を求める姿とか、主イエスとかの想いとかが
しっかりしているのであれば本来的にはそっちの方がクリスチャンとも
言えなくは無い。
でも、それをやりだすと洗礼の定義的な話とか神学云々とか
聖霊の洗礼とか水の洗礼とかがああだこうだとか、話がややこしいから
あまりいわないほうがいいけど、ニュアンス的にはそんな感じかなあ
と思いました。
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