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先ずは、摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳資料館に行きました。
今年、4月21日に開かれたばかりですので、グーグルマップやカーナビには載っていません。

摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館    小山市大字飯塚335  場所   

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すぐ近くに両古墳が見えます。

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左手が摩利支天塚古墳

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琵琶塚古墳

摩利支天塚古墳は、大和政権が下野の国(ほぼ現在の栃木県)全体を支配下に置いた、最初の大首長の墓(5世紀末から6世紀初頭)と言われているようです。

摩利支天塚古墳の次に造られたのが、栃木県で一番大きな古墳・琵琶塚古墳です。
親子なのかもしれません。
下毛野古麻呂(不詳 - 和銅2年・710)の先祖のお墓のようです。

琵琶塚古墳のすぐ北側が、東山道と推測されているようです。PDF資料

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施設が新しいので、新しい技術が使われています。
先ずは、大きな画像が映し出され、両古墳のビデオ?が始まります。

次に展示室に向かいます。

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両古墳だけでなく、他の優れた発掘品も展示されていました。
展望スペースもあり、両古墳をながめることが出来ます。

先ずは道の反対側の琵琶塚古墳です。

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続いて、摩利支天塚古墳です。

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ここは、天台宗台林寺の持ち物です。

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特に戦前は、多くの参拝者で賑わったようです。
今でも年に一度、お護摩をおこなっています。

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確認できませんでしたが、内部に素晴らしい装飾があるそうです。


天台宗台林寺です。
栃木県小山市飯塚1582   台林寺ホームページ       

広い通りに面し、摩利支天塚古墳からは300メートルほどの場所にあります。

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広い通りに面し、摩利支天塚古墳からは300メートルほどの場所にあります。
境内の庭園が素晴らしく、ゆっくり楽しむことが出来ました。


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季節ごとに、趣が違うと思います。桜の時期が見事だと思います。

この記事に

龍興寺 栃木県下野市

龍興寺は真言宗智山派に属し、近在に末寺を多く抱える本寺格のお寺です。
下野薬師寺別院で、かなりの格式だったようです。
龍興寺 栃木県下野市薬師寺1416  

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全ての建物が整備され、裕福なお寺であることを感じます。


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有名な道教のお墓が、ここにあることは、調べるまで知りませんでした。
薬師寺が受戒の寺で、周りに支院や末寺があり、有力な龍興寺に葬られたのでしょう。もともとは古墳だったようです。

薬師寺の他の僧侶達のお墓は、どこだったのでしょう。


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沢山の新しい石仏が並んでいました。

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境内の庭園が整備され、あちこちに石仏が祀られています。

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聖例殿は自治医大に献体された、身寄りのない方々のお骨が納められています。


この記事に

先ずは下野薬師寺歴史館に入りました。
下野市薬師寺1737   場所     リンク    

受付でパンフレットをいただきました。
先ずは見てから回ることをお勧めします。
見ないと私のように帰ってから後悔することになります。

写真も禁止の表示があるところ以外は、撮影できます。

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下野市では、下毛野古麻呂が7世紀末に建てた寺と考えられているようですが、確かなことは分かりません。
その一族が中心だったのでしょう。

下野薬師寺は奈良東大寺、筑紫観世音寺と共に、三戒壇でした。
道鏡は称徳天皇が崩御後に薬師寺別当を命じられて、ここに来ました。
道鏡の墓(道鏡塚)は、近くの龍興寺にあります。

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下野薬師寺の復元模型

寺域は東西250メートル、南北350メートルでした。

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戒壇院内部模型

現在の東大寺戒壇院は、檀上に国宝四天王像が祀られています。
かつては東大寺も、壇上で受戒したのでしょう。

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戒壇院内部

受者1人に戒和上1人、教授師1人、羯磨師(こんまし)1人、二証の図です。
羯磨はカツマと読むとばかり思っていましたが、コンマとも読むのを初めて知りました。  羯磨Wikipedia


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沢山の出土品が、展示されていました。


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博物館の屋上からは、薬師寺跡が望めます。

薬師寺跡に向かいました。

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整備されているのは、南西の一部と、回廊の一部、東側の再建の塔跡だけですが、かなり広いのが分かります。

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平安時代に天台宗延暦寺に戒壇がもうけられたために、薬師寺は衰微しました。
その後、鎌倉時代に慈猛(じみょう)が戒壇を再興し、灌頂を行いました。
かなり隆盛したようです。

薬師寺は室町時代に足利尊氏、直義に寄って全国に設けられた安国寺に、そのまま移行しました。
戦国時代は戦禍により、大半が焼失してしまいました。

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安国寺(薬師寺)六角堂は、元薬師寺戒壇の跡に建てられました。
内部には鑑真和上の図を納めたお厨子を中心に、不動明王、韋駄天を祀っています。


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復元された回廊


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後で気がついたのですが、スマホで薬師寺を再現することが出来ました。
歴史館でもタブレットを貸し出ししています。
パンフレットをよく読めば、もっと楽しめたはずです。

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設定方法は、このパンフレットに書かれています。


ただし、私のらくらくホンでは、対応していません。
次にスマホを替えるときは、絶対らくらくホンにはしません。
私の使用法には、全く不向きな製品でした。


下野薬師寺跡の内部には、後継寺院の安国寺があります。
真言宗智山派 安国寺  下野市薬師寺1737   Wikipedia        

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山門は最近直されたようです。
ご本堂は修復中でした。

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下野薬師寺礎石


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江戸時代には、他の寺と薬師寺の名称を争ったようです。
裁定は、「安国寺は戒壇、○○寺は鑑真墓所を守護する」となりました。
ともに由緒のあるお寺ですので、ハッキリとした結論を出せなかったのでしょう。


率直に読めば、薬師寺は戒壇としての寺院です。薬師寺には鑑真和上は来ていませんので、お墓はありません。○○寺に供養碑はあります。
ですから‥‥。
ただ、歴史の流れは複雑です。簡単に言える訳ではないのでしょう。

中には、有名な古代寺院名を何ら関係ない平成の新しい寺院が、名乗っていることもあります。
字名、町名に○○寺とある場所に、新しく○○寺を名乗った寺もありました。
どちらもホームページに、きれい事を書いていましたが、地元の方々は認めていないでしょう。
脱線、申し訳ありません。

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歴代住職のお墓に手を合わせから安国寺で気がついたのですが、新しい墓石は大学の恩師の墓でした。おそらく間違いないでしょう。

先生がいつも「薬師寺」と言っていたのを思い出します。
薬師寺は、日本全国にたくさんありますので、下野薬師寺とは思っていませんでした。先生としても、こだわりがあったと思います。
もうしばらくすると、薬師寺となっているのでしょう。

先生は学生の前で、他の大学の給料と比べ、あまりにも少ないので、恥ずかしくて受け取らないと話していました。
大学や宗派を愛していたのに違いありません。


安国寺の東側にも、薬師寺跡が続いています。

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憧竿支柱跡

もっと長い竿に、きれいな憧がはためいていたのでしょう。


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再建の塔跡

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あいている土地のみを発掘しているわけですから、今後さらに重要な物が見つかるかもしれません。


この記事に

先日、下野国分寺を中心に散策して参りました。
あいにくの雨模様でしたが、大雨で被害に遭われた地区が、日本全国にあり、多くの方々が亡くなられました。
心から哀悼の意を表します。

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先に国分寺跡に行きましたが、先に風土記の丘資料館に行くことをお勧めします。

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この地域はかなり広い範囲が、しもつけ風土記の丘として整備されています。
雨でなければ、多くの方が散策していたでしょう


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国分寺跡だけでなく、多くの古墳にあった埴輪などの土器や銅器、刀などが展示されています。
説明を読んでいるだけで、多くの知識を得ることが出来ます。


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各地の国分寺市資料館には、七重の塔の模型がありますが、やはりここにもありました。


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ここで私が一番気に入ったのは、甲塚古墳の機織形埴輪でした。
初めて見ました。

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現代にも伝わっている結城紬の機織機と、よく似ています。
以前は私の寺の檀家さんも、機織りをしていたのを思い出します。
はたおり機の歴史展PDF         


下野国分寺跡    下野国分寺跡Wikipedia

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早い時期に国の史跡として登録されたのだと思います。
下野国分寺跡は開発が遅れて、ほぼ全域が残されているようです。
周りも自然が多く残されています。

下野国分寺跡 


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資料館にあった機織機の埴輪の出た甲塚古墳です。
ここに葬られている首長は、機織りをする方々を束ねていたのでしょう。
どのような糸で、織っていたのか気になります。

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国分寺、国分寺尼寺が建てられたのは、有力な下毛野氏の本拠地近くであったためのようです。


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中門・回廊・金堂跡

不謹慎な私たちは、さすが栃木県、大谷石を使っているなどと言っていました。
実際には、どのような石を使用していたのでしょう。

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講堂跡


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晴れていれば良かったのですが、草花についた水に、靴は濡れてしまいました。
可憐な草花が楽しめます。


下野国分尼寺跡

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国分尼寺跡は、国分寺跡の600メートル東にあります。
国分尼寺跡は規模が小さいのが分かります。

しかし、かなり荘厳な寺だったのでしょう。


真言宗豊山派 瑠璃光山安養院国分寺 

国分尼寺跡の北方に現在の国分寺があります。

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住職が住んでおらず、檀家さんが力を合わせて維持しているようです。
現本堂は、平成22年に再建されました。

国分寺  栃木県下野市国分寺1541        


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カーナビには現国分寺が表示されず、薬師堂として図に表示されるだけでした。


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五輪塔と歴代住職の石塔がありました。
長い期間、兼務寺で住職が住んでいなかったようです。


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沢山の石仏が祀られていました。
この近辺のお寺には、十九夜の石塔が多く見られるようです。


民俗資料館 夜明け前 
下野市国分寺820-1  場所      

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国分寺跡、国分尼寺跡の南にある施設です。
天平の丘公園の中にあります。

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ここの施設の中では、テンピクニックテーブルスがあり、お食事が出来ます。
イタリアで修行したシェフが、腕を振るっているそうです。

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昼には、まだ早かったのですが、女性達が4人入っていきました。
常連のようです。

雨でなかったら、散策で来られる方々で、賑わうのでしょう。


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下野市に向かう途中、カーナビに大宮神社がありました。
気になるので、お参りをすることに致しました。

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ガソリンスタンドの先を左折すると、鳥居が立っています。
この道が、かつては参道だったのでしょう。


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行ってみると、いくらでもありそうな神社でした。
神社の前を右に折れても、かなり先に鳥居があるようです。

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大宮神社

おおみや幼稚園児の元気な歌声が聞こえます。


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碑の文字を読んでいくと、神社の南が小山氏の支城だったことが分かります。小山(おやま)氏

江戸時代には、大老堀田正俊の三代で、堀田正虎の陸奥福島藩・上野安中藩と共に、下野大宮藩2万石がありました。堀田正虎
その陣屋がこの神社の南東に置かれていたようです。

駐車場から、神社に向かう途中にも、土塁や掘と思われる跡が残されており、明らかに境内も含む広範囲が、城跡だったのだと思いました。
大宮藩陣屋跡も城跡と重なる部分があったと思いますが、伝承が取り違えられたのかもしれません。


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南側からの参道


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拝殿と本殿


お参りの後、神社の周りを散策致しました。

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神社の四方に、堀と土塁跡と思われる所が、残されていました。

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西側と南側は川が流れており、平地ながら高低差は、かなりあったと思われます。


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神社の裏側の土塁の外側は、埋め戻されているようです。

実際には、神社境内を含むもっと広い範囲が、城跡だったのだとのだと思います。
神社の杜があったために、境内部分だけの遺構が残されたのでしょう。


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稲荷神社の彫り物は、見事でした。


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愛宕社


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南からの参道を通ったときは、古墳と思ったのですが、調べてみると大宮藩陣屋の櫓台の跡とする人もいます。
この右手に陣屋が置かれていたようです。

大宮神社 栃木県栃木市大宮町1638   地図       


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