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田波目、多和目の神社をネットで調べていると、弁天さまが祀られている神社がありました。

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近在では珍しい両部鳥居でした。
東松山の箭弓稲荷神社しか記憶にありません。

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弁財天社
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弁天さま、毘沙門さま、大黒さまが祀られていました。

他にも数社祀られています。

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稲荷社の後ろには、大きな木があります。

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カゴノキだそうですが、はじめて知った木でした。

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離れてみるより近くで見ると、幹の造形の見事さに、見とれてしまいました。
カゴノキとしては、最北の巨木だそうです。


多和目天神社 埼玉県坂戸市多和目383−1   地図




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入間道の大家が原のいはゐづら ひかばぬるぬる吾にな絶えそね」

入間道の大家が原
  伊利麻治能 於保屋我波良能   伊波為都良 比可婆奴流奴流  和尓奈多要曽祢
      万葉集巻十四 3378

この碑は、坂戸市、日高市、狭山市にあります。
坂戸と日高のみを取り上げます。

大家の地名は、坂戸市に大家村がありました。現在も大家小学校があります。
日高市は大谷沢があります。
どちらにも場所に関する確実な文献があるわけではありません。

坂戸市四日市場の歌碑

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坂戸市四日市場325-3  東京国際大学グラウンドの入口  地図

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坂戸市四日市場325-3

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坂戸市の土屋公園にも、万葉集第11巻「くれなゐの浅葉の野らに刈る草の束の間も吾を忘らすな」があります。
土屋公園  埼玉県坂戸市浅羽野2-2-1  地図    

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「くれなゐの浅葉の野らに刈る草の束の間も吾を忘らすな」万葉集第11巻 2763

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他にも坂戸市浅羽の学校内にもあるようです。

「紅の 浅葉の野らに 刈る草の 束の間も 吾を忘らすな」  第11巻2763

ここは周囲を回るだけにしました。


日高市大谷沢の碑 

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JAいるま野高萩南農産物直売所  日高市大谷沢189   地図
向こうは県道407

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JAいるま野高萩南農産物直売所

ここには家内が買い物に時々行っています。
檀家さんも、お墓参り用の花は、ここで買う人が多いようです。

ここの駐車場、北東角にあります。



日高市の巾着田にも万葉歌碑があります。

高麗錦 紐解き放けて 寝るが上に 何ど為ろとかも あやに愛しき」

巾着田には、何度か行っていますので、写真があるはずですが、見つかりませんでした。
後日行ってこようと思います。

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坂戸に用があり、帰りに国渭地祇神社にお参りに行きました。
国渭地祇神社   埼玉県坂戸市森戸616   地図        

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以前、国渭地祇(くにいちぎ)神社お参りしたのは、15年ほど前だったと思います。
上田村麻呂の創建、藤原秀衡の創建、あるいは延喜式内社にある国渭地祇神社であるとの説もあるようです。

明治初年まで、山本坊配下の修験・大徳院が別当を務めていました。
山本坊と言えば、平将門公の子孫と称していました。藤原秀衡の創建が伝えられていたとすると、将門公のライバルですから、つい変だなと思ってしまいます。

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ここには獅子舞が受け継がれています。

場所は西大家駅のすぐ側で、坂戸西高校の生徒が駅まで、歩いていました。

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それほど大きくないお社ですが、境内はきれいに管理されています。

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ご神木の「椎木」は、まだまだ勢いがありますね。

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神社のお隣さんには、大きなキリーク(阿弥陀如来)が彫られた青石塔婆ありました。
鎌倉時代には、さぞかし有力な武将がいたのでしょう。
この神社の周りには、土塁らしき跡が残されているようです。

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秋葉神社
他の所にありましたが、こちらに遷座されたと書かれていました。

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八幡神社

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この日の目的は、北辰尊星王碑です。
私は、妙見菩薩を当時調べていました。
北辰尊星王も北辰妙見菩薩です。

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山本坊配下の大徳院は、天台系の修験です。
本山は聖護院でした。
かつて、聖護院は三井寺が本山でしたが、尊星王の信仰があります。
その関連の石碑なのかもしれません。三井曼荼羅図(尊星王を中心とした曼荼羅)


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私が住職をする寺境内の天神社宮司は、都下檜原村にて滝行の会を主催しています。
数日前でした。行きたかったのですが、私のカメラだけが滝に同行です。
画像をお借りし、ブログを書かせていただきます。

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熊野古道が世界遺産さんに登録され、山伏の修法や滝行が注目されたそうです。
いつも滝行に来られる、真言宗豊山派の僧侶二人もアシスタントとして参加しました。
二人は修験の行者さんでもあります。

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最後にインタビューがあり、自然と信仰、神道と仏教の関係 、日本人の生死感、また宗教感などの質問があったそうです。

一般の参加者の中、紅一点は女優さんでした。
時々CMで見かける方だそうです。

皆さんお疲れ様でした。


※追記
調べてみると、このテレビ局は日本各地を取材しているようです。

 

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日高市に用があり、手前の道を右に回るつもりが、行き過ぎて次の道で行かざるを得なくなりました。
八高線に沿って右に折れると、「八高線事故慰霊碑」があります。

日本において鉄道史上、最大の事故でした。八高線事故の検索
東飯能駅から高麗川に向かう列車です。定員の三倍の乗客で、すし詰め状態だったようです。

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この高さですから、脱線したら大変なことになったことは、誰でも分かるでしょう。
死者184人、重軽傷者459人でした。

いつもここを通るときには、降りて手を合わせてから行くようにしています。
通る時、けっこうお花が上がっています。


昭和54年の三十三回忌に建立されたことが分かります。
この時の法要のニュースや記事で、事故のことを初めて知った方も多かったと思います。
日本一死者の出た事故でした。文化新聞記事

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私は子供の頃、両親や学校の先生から何度か話を聞いていました。

戦中から食料が配給の時代でした。米の配給検索
闇米は高すぎて十分に食事の出来ない方々が、リュックに衣類などを詰めて、農家にお米などと交換して頂くために、すし詰めの車両に乗り出かけました。
闇で儲けていた人もいた人もいたようです。
皆さん生きていくために必死でした。

地元ではありませんが、ある農家のお婆ちゃんは、衣類など交換していっぱいになったと話していました。
現金を持って買いに来る人もいたそうですが、十分に儲けるほど米を備蓄していたわけでは無かったと言います。
もう要らないからと、お米を分けてあげたこともあると話していました。
泣きながら感謝されたそうです。

しかし検閲があり、大事な食料を没収されたこともあるそうです。
分かっていて取り上げる人も辛かったでしょう。

ある先生は、「塩か?」と言われ、「塩化ナトリュウムと言う科学薬品だ」と答えて、難を逃れたと話していました。

この電車にも、そのような人が大勢いたのかもしれません。


場所は圏央道「狭山・日高インターチェンジ」から高麗川駅方面に向かい、八高線高架下をくぐらず、右折するとスグです。

道が狭いですので、ユックリ駐車できません。


事故現場  埼玉県日高市上鹿山   地図

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