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折れた菜の花
私の首のように 茎が簡単に折れてしまった しかし菜の花はそこから芽を出し 花を咲かせた 私もこの花と 同じ水を飲んでいる 同じ光を受けている 強い茎になろう この詩を作るまでに、どれだけの長い歳月を要したのだろうか。この詩ができるまでの苦労は想像を絶する。スポーツマンだった著者が、事故により肩より下がすべて麻痺という重度の障害を負い、絶望的な闘病生活を乗り越え、自分の力で文字を書き、また絵を描くようになるまでの命の記録。 星野さんの体は、もう一生動くことはないだろう。しかし、あれだけ輝いている。自分が抱える悩みなど、ちっぽけなものに思えてきた。 群馬県の中学校の体育教師になった著者。しかし、その教師生活はたった2ヶ月で終わった。クラブ活動の指導中に、頭から落ちてしまったのだ。以後、9年間に及ぶ闘病生活が始まる。 体のどこかが
体のどこかが 人の不幸を笑っている 人の幸せがにがにがしく 「あいつもおれみたいに動けなくなればいい」 と思ったりする 体の不自由から生じたひがみだろうか 心の隅にあったみにくいものが しだいにふくらんできたような気がする 自分が正しくもないのに 人を許せない苦しみは 手足の動かない苦しみを はるかに上回ってしまった ただ花を見て 白い紙に向かっている時だけ その苦しみを忘れる なずな
神様がたった一度だけ この腕を動かして下さるとしたら 母の肩をたたかせてもらおう 風に揺れる ぺんぺん草の実を見ていたら そんな日が 本当に来るような気がした 絶望的な障害を負いながら、それでもわずかに残った機能を使って生きがいを見出し、前向きに生きている。そんな彼がなりたかった教員という職業に、私は今就いている。私は大したことはできないけど、それでもできることを精一杯やらなければならない。なんだかそう思ってきた。 私は自分の足で歩いている頃、車椅子のひとを見て気の毒にと思った。みてはいけないものをみてしまったような気持ちになったこともあった。私はなんとひとりよがりな高慢な気持ちを持っていたのだろう。
車椅子に乗れたことが、外に出られたことが、こんなにもこんなにもうれしいというのに。初めて自転車に乗れた時のような、スキーをはいて初めて曲がれた時のような、初めて泳げた時のような、女の子から初めて手紙をもらった時のような・・・・・・。 でも今、廊下を歩きながら私を横目でみていった人は、私の心がゴムまりのようにはずんでいるのを多分知らないだろう。健康な時の私のように、哀れみの目で、車椅子の私をみて通ったのではないだろうか。 幸せってなんだろう。 喜びってなんだろう。 ほんの少しだけれどわかったような気がした。それはどんな境遇の中にも、どんな悲惨な状態の中にもあるということが。そしてそれは一般に不幸といわれているような事態の中でも決して小さくなったりはしないということが。病気やけがは、本来、幸、不幸の性格はもっていないのではないだろうか。病気やけがに、不幸という性格をもたせてしまうのは、人の先入観や生きる姿勢のあり方ではないだろうか。 今度どんな境遇になっても、その中で幸せ、喜びを見つけられる人になりたい。「強い茎」になろう。
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