政財界倶楽部(恩田将葉見聞録)

若者達がジャパニーズ・ドリームを夢みれる国を願い、「政治をもっと身近に!」というスローガンのもと、日本人に愛国心を喚起する。

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国歌斉唱口パクチェック問題
2012年3月14日

 大阪府立泉高校校長による、国歌斉唱の際に教員が歌っているか否かの口パクチェックをしたという問題が、メディアによって取り上げられたことによって賛否両論世間を騒がせている。だが、メディアの取り上げ方に問題があり、この問題の論点がすり替えられていることを理解しなければならない。その上で、メディアが行う街頭アンケートなどの結果を見なければ、まったく違った意味になってしまい、この問題の大切な部分がうやむやにされてしまうことを懸念する。メディアのワイドショー的なノリでの取り上げ方に、大いに問題を感じる。

 この問題で、まず明確に理解しておかなければいけないことは、口パクチェックをしたことが良いか悪いかではない。そもそも、無垢で白紙の状態の子供たちが学ぶ教育現場で、いくら教師にも思想の自由があるとはいえ、教師の個人的思想を子供たちに押し付けるような、国歌である君が代斉唱や国旗掲揚に際して、起立することを拒んだり、国歌を斉唱することを拒んだりすること自体が、そもそも大いなる問題なのだ。世界中どこの国で、自国の国歌や国旗に敬意を表さない国があるであろうか。その点を良く理解して頂きたい。その上で、この問題を論じるべきである。

 自国の国旗や国歌を敬うことを教えることは、国際社会に於いても活躍できる子供たちを育てるためにも大切なことである。自国の国旗や国歌を敬わない人間を、生まれも育ちも違う他国の人々が、どうやって信頼することができるであろうか。全てはそこから始まるはずだ。にもかかわらず、先の戦争のどうのこうのと屁理屈を並べたて、自国の国歌や国旗を蔑ろにするような教師が、教育現場で、真っ白な無垢の子供たちに、彼らの偏った個人的思想を押し付けるような行為は如何なる理由があろうとも許されるものではない。彼らが、勝手に個人の思想信条を持つのは勝手だ。だが、教師という立場で、しかも教育現場で、その個人的思想信条を生徒たちである子供たちに押し付けたり、示したりすることは絶対にあってはならない行為である。これは、洗脳と同じ行為だ。そのことをよく理解して頂きたい。

 その上で、この校長先生が、口パクをチェックしたことに対して、賛否両論がでてくることは仕方のない事だ。だが、これが悪い事であるとは、私には思えない。寧ろ、生徒たちの前で、自分勝手に自分の個人的思想信条を行使する行為の方が、大いに問題があり反発されてしかるべき問題である。何も知らない子供たちは、そういう先生の姿を目の当たりにして、間違った考えを植え付けられてしまうことになりかねない。教師は、如何なる理由があろうとも、自分の思想を無垢の生徒たちに洗脳する権利はない。だからこそ、昔は、教師というのは聖職といわれ、人格的にも、地域、社会で尊敬される存在であったはずだ。間違っても、このような国旗や国歌を蔑ろにするような人物は、教員になれなかったのだ。そのことを、今回のこの問題を通じ、皆様には理解して頂きたいと強く思う。

 教育とは、押し付けではなく、子供たちに出来るだけ多くの選択肢を与え経験させ、その選択肢を無垢な子供たちが、自分達の頭と体で考え理解し、一歩一歩前進していくべきことであり、間違っても、上から目線で、押し付けられたり強制されたりするものではないということを、教師も親もよく理解するべきである。子供たちと大人も、目線の高さは同じでなければならない。そこで、お互いに学び敬うことが本来の姿であるはずだ。ここのところが、今の教育の大いなる問題点であると私は強く思う。学歴社会に翻弄され、本来学び舎で子供たちが学ばなければいけない、人間としての基本、生きていくための力を学べず、知識ばかりの押し込み教育になっているから、このような昔は存在しなかった問題が起こるのだ。未来を担う子供たちのためにも、この国のためにも、まずこの教育現場の改革、教育改革こそが、最優先課題であろうように強く思う。

子供たちの目線で見た3.11東日本大震災
2012年3月11日

 各テレビ局で、震災1年目の番組をやっている。それぞれ、考えさせられことがある。1年経って、客観的にあの日のことを冷静に振り返ることができた。それぞれの人々に、それぞれのドラマがあの日起こった。別れ、悲しみ、出会い、喜び、絆が生まれ数々のドラマが震災によって生まれた。そんな中でも、フジテレビが放送した番組が心に響いた。それは、被災した子供たちの目線による内容であった。いやドラマであった。涙が零れた。涙が止まらなかった。子供たちは、強かった。大人たちよりも強いかもしれない。思い知らされた。一言で言えば、政治家も、役人も、全ての大人たちは、どんな綺麗ごとではなく、どんなご都合主義でもなく、どんな屁理屈でもなく、子供たちの目線で震災を見て、子供たちの声に耳を傾けるべきである。子供たちは、大人たちの勝手に翻弄され、自分達ではどうにもできないけれども、彼らの目でちゃんと見て、彼らの耳でちゃんと聞き、彼らの心でちゃんと感じているのだ。この国の未来を支えてくれる彼らの目や、声や、心の声に耳を傾けずして、本当の意味での復興などあり得ない。家族を失い、心を痛めながらも、彼等は笑顔を絶やさず、一歩一歩前進している。歩みを進めている。大人は、自分達ばかりが悲しみを背負っていると思わず、子供たちの心の痛みに、思いを寄せなければならない。そのことを強く気付かされた。

 政治家は、子供たちの目線に目を向け、彼らの声に耳を傾けるべきである。彼等には、拒むこともできない。与えられた運命を黙って進まなければならないのだ。そのことを、我々大人、全ての大人は理解するべきである。さもなければ、あまりにもこの震災は悲惨なドラマしか残さない。だが、子供たちは、決して後ろ向きではない。悲しい運命を背負うことになっても、前向きに、前を向いて、一歩一歩歩みを進めている。そのこと自体、素晴らしいことでありドラマだ。これ以上のドラマはないと思えるほどのドラマだ。彼らの心は、泣いているかもしれない。でも彼等はいつも笑顔を絶やさず生きている。強い心で生きている。もの凄く強く生きている。そのことを我々大人は忘れてはならない。私は、そのことを強く思い感じた。

付帯私訴

付帯私訴
2012年3月3日

 今やっていたTBS「報道特集」で、一件の交通事故事案が取材されていた。非常に興味深い案件であった。東名高速道路で事故が起こり、オートバイを運転していた被害者が亡くなり、加害者であるスポーツカーを運転していた人間は、罪を背負いながらも執行猶予4年で罪を償った。判決を左右した論点は、加害者が主張した時速90キロであった。だが、調べ直してみると、実際には140キロの時速を証明することができた。既に7年の月日が流れ去ったが、被害者の父親がこの7年間で、民事と刑事での判決の違いに大きな疑問を感じ、自動車修理会社を経営する父親が自ら証拠や証人を集め再審を求め、上告しようとしたが棄却されピリオドを打ったというものだ。日本では、憲法で、一度出された判決を再度取り直すということは憲法上認められていない。だが、捜査や裁判の段階で、全てが尽くされず事実とは違う判決結果が出されてしまうということも起こり得る。いや、案外頻繁に、民事判決と刑事判決が同一案件でありながら異なるということは起こる。その最たるものとして、報道されていたが、非常に興味深く意味が深い内容であった。実際、このことは、過去に私が取材した事故でも、同じことを強く感じたことがあり、ずっと疑問を感じ続けていたことだ。だが、実際には、全てをやり直すということはできないのが現実である。

 しかし、日本では昭和23年に廃止されてしまったが、諸外国では付帯私訴ということが認められており、被害者も裁判に参加し審理し直す権利を得ることが出来る。日本では、あまりにも取扱い案件が多いので、多分裁判所、司法の立場としては、このようなことを認めるとで、煩雑になってしまい司法の秩序が妨げられると考えているように思う。だが、事実でない以上、事実を掘り起し、被害者を納得させることも、司法の役目であるように私は思う。何より、事実と反する判決が出れば、命を落とした被害者は浮かばれない。何も、加害者ばかりを、判決を出すことで庇うのではなく、被害者の権利というものも憲法で認め、改憲することも必要なのではないかと強く思う。

一元的なドラスティックな改革を
2012年2月26日

 今日本は大きな壁にぶつかっている。日本人なら誰でも気付いていることだ。大きな岐路に立っていると言えるであろう。戦後、遮二無二頑張ってきた高度経済成長期からバブルがはじける90年代初頭までの我武者羅な時代は終わりをつげ、この国の状況も環境も一変した。しかし、この国の統治システムは旧態依然として制度疲労を起こしている。問題は山積され、二進も三進もいかない状況だ。

 このような状況下、経済も低迷し、デフレに呪縛され身動きできなくなっている。政治家や評論家は、経済復興が最優先、震災復興が最優先、公務員改革が最優先、政治改革が最優先、社会保険制度改革が最優先、消費税率反対と勝手なことばかりをいっている。だが、どの問題も、等閑にはできない大切な問題だ。それぞれの問題を部分解決しようとしても、解決できない状況なのだ。全ての問題を一元的な視野で解決していかなければ、どこまでいっても解決することはできない。そのことを、政治家も、役人も、財界人も、そして、我々国民も真摯に受け止めなければならない。

 にもかかわらず、与野党二大政党の政治家たちは、目先の私利私欲党利党略にばかり奔走し、問題の本質を見誤り、足踏みばかりを繰り返している。今の状況を本気で思い理解すれば、そんな詰まらない政争ばかりを繰り返すのではなく、全てのシステムを今の日本の状況に合ったシステムに、総とっかえしなけれければ何も変わらないし変えられない。現状をみていると、賛否両論あるが、本気でそんな状況を理解し、一番解決に近いドラスティックな改革を御旗として立てているのは、維新の会のみであるように思う。

 何でもダメと言いダメダメばかりいっていたら、全てが駄目になり、何一つ解決することなどできない。そのことを良く理解し、私たち国民も肝に銘じなければならない。そのためには、タブーはない。何でもありだ。政治家の思惑はいらない。今この国のシステム疲労を修繕するには、修繕ではなく壊して新たに立て直すしかないのだ。それには、予想外の人の繋がりがあってもよい。不思議は一つもない。民主党や自民党など既成政党からでさえも、飛び出し手を組み、この国の再生を真剣に望む政治家が出てもおかしくない。超党派で、目差すところが一緒であれば、民主党だろうが、自民党だろうが、他政党や松下政経塾出だとか、どうのこうのという理屈や柵はいらない。この国を真剣に愛し思う人間たちのみが手を組み、この改革に当たれば良いのだ。そして、胆略的に政治をするのではなく、次から次へと総理が変わるような政治自体も終わりにしなければならないように思う。じっくり腰を据え、命懸けで改革をしなければなのだ。そのこと肝に銘じるのは、政治家だけではない。全国民が、そのことを肝に銘じるべきである。本気で肝に銘じて行動に移すべきである。そんなことを強く強く強く思う。

橋下大阪市長が目標意識を持たせるため小学生にも留年容認
2012年2月23日

 橋下市長が、市教委幹部へのメールで「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」「留年は子供のため」などと指摘した事実があることが昨日明らかにされた。留年を推進するということではなく、目標意識を持たせることの方が重要であり、事実上留年を容認したと取られる報道があった。正確に言えば、留年について弾力的に考えるよう伝えたとのこと。

 この橋下市長の指示に対しては、賛否両論がある。橋下氏の数々の提案に共感してきた私も、このことに関しては多少問題があるように思う。橋下氏が言わんとしていることはよく理解できる。ダラダラとした教育現場を、もっと有意義な教育現場に改革したいという彼の気持ちの表れであろうと想像できる。当然のことながら、橋下氏が言う「目標意識を持たせること」、そして、「子供たちを目標レベルまで面倒みること」が、教育現場に課せられた義務と捉えての発言であろう。全てが間違っているとは言えない。

 だが、子供たちには、成長の速度も含め色々な意味で個人差がある。そういう個人差を無視して、一概に全ての子供たちをどんぐりの背比べのように競争させるようなことは、あまり適切でないように思う。今、成績が悪く理解力がなくとも、数年先には、今クラスでトップになっている子供よりも理解力も豊かになり秀でる場合もある。教育の難しさは、子供たちの身の丈にあった教育を適切に施すことであって、十派一絡げにすることではない。勿論、橋下氏がそう言っているわけではない。だが、教育現場において一番大切なことは、「子供を信じ気長に待つこと」そして「ダメといわないこと」このことが、何より大切なことであると私は思っている。

 「気長に待つということ」は、子供たちを信じるということで、これには大きな労力が必要だ。押し付けたり、無理強いしたりするのではなく、子供たち自身の判断で一歩を踏み出す機会を与えてあげることが、我々大人がしなければならないことであり、唯一出来る事であると私は信じている。自分達自身で、選択肢を乗り越え前進すること。確かに、目標レベルまで導くことも大切であろう。だが、それが子供たちが理解できていない状況下での無理強いであれば意味はない。

 それと、教育や育児において、世間体を気にすることはご法度だが、実際には子供たちを持つ親達大人の多くが、学歴社会という現実社会で、橋下氏が提案したような留年をも容認してまでの目標達成レベルまでの教育現場の義務ということを理解できるか。そういう寛容さを育児に追われる親たちが、精神的に許容できるか大きな疑問が残る。親が世間体を気にせず、我が子を他の子と比較することなく、子供たちに劣等感を持たせたり、体罰や虐待を助長させたりしてしまうのではということを懸念する。そのことの方が、大きな問題であるように思う。

 確かに、目標レベルまで達成させる義務が教育現場にはあるであろう。だが、子供たちには成長の速度がそれぞれある。ゆっくりの子にはゆっくりの子の良さがあり、早い子には早い子の持ち味がある。それをどんぐりの背比べのようにしてしまうことには、大いに問題がある。本来子供とは、皆無垢な白紙の状態で人生という歩みを一歩一歩歩んでいる。その真っ白なキャンパスに色を塗っていくのは、我々大人ではなく彼ら自身でなければならない。目標意識を持つことは正しい。だが、それが押し付けになってしまうことは、間違っている。ゆとり教育とは、このゆっくり子供たちを信じて待つことであると、私は強く信じる。競争は、社会にでてからでも遅くはない。皆様は、如何お考えであろうか?

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