|
「男は男らしく、女は女らしく」それは、「男を立て、女を守る」ということ 2006年12月1日 昨今、教育現場でも、社会全般に於いても、嘗てあまり経験したことのないような諸問題に遭遇することが多くなった。例えば、子供が親を殺めたり、子供が親を殺めたり、教師達が子供達に媚びたり、子供達が教師を無視したり、と嘗ては考えられなかったような深刻な事態や事件が頻発している。そのような深刻な状況を目の当たりにすると、日本の社会構造全体に地殻変動を起こりつつあるようにさえ思えてくる。教育問題にしても、それ以外の諸々の問題にしても、目先の解決策だけでは、このような深刻な現象を解決する根本的な解決策にはならないような事態に、既に至っているような気がしてならない。 それでは、その原因は何であろうか? という疑問が起こるのは当然である。実は、多くの人々は、もう既に薄々その原因の一つに気付いている。しかし、口にできずにいるのではないか。それは、時代の流れで、下手なことを言えば、人権侵害だとか、男尊女卑だとか、趣旨を誤解され、趣旨とは違った部分での謗りや批判を受けることになりかねないからだ。だが、このことを自覚し、解決策を模索する議論を闘わせることなくして、本当の解決策を得ることは出来ないと私は思う。 先日、胃癌で亡くなられたある小学校の校長先生が、私にこう仰っていた。「本当であれば、6年間の小学校生活の中で、全ての生徒達に、男性教師と女性教師両方の担任を経験してもらいたい。ですが、今の教育現場では、男性教師が圧倒的に不足してしまっているのです。教育で、最も大切なことは、バランスだと私は思っています」と。実は、この言葉の中には、今社会が抱える問題の解決の糸口となる、非常に大切な事柄が含まれている。私は、この話を聞いた時、そのように思った。「教育とは、バランス」このことは、案外、今の教育現場で等閑にされているが、非常に大切なことである。男性教師と女性教師の比率の問題だけでなく、全ての面でバランス感覚が失われている気がしてならない。 子供達は、無垢な白紙の状態である。その白紙の状態である子供達は、教育を受け、知識を得て、それらを自分なりに消化しながら育っていく。その段階で、徐々に色をつけていく。決して、教師や大人達が色を勝手につけてはならない。誰にも、そのような権利はない。である以上、教育現場に於いて中庸を保つということは、非常に大切なことになる。ところが、戦後61年間の教育現場では、主張ばかりがなされ、子供達を中庸に保つことを忘れられていた。その結果、昨今起こっているような悲しむべき事件が、頻発してしまうようになった。 一部の親や教師達が、学校で国歌を斉唱し国旗を掲揚することに反対する。その理由として、自分の思想に反する行為を強要されるべきではない、というようなことを盛んに主張する。だが、子供達にまだ思想はない。その思想とは、親や教師達の勝手な思想だ。そして、彼らは、子供達も、主張する大人を目の当たりにすることによって、問題意識を持つようになり良い、というようなことまで言う。しかし、それは間違っている。主張することは大切である。だが、主張するという行為は、まだしっかりと人として確立されていない子供達に植え付けるものではなく、子供達が自らの考えを持てるようになった時に、初めて自分の内から湧き出るものであるはずだ。そのような未熟な段階では、拒否するという行為だけを面白おかしく捉えてしまう可能性が高い。そのような未熟な時期に、子供達に見せ付けるべきことではない。それよりも、親を敬い、教師を敬い、他人に礼を尽くし、というような道徳心を育むことの方が先である。そのような道徳教育もなされていない内に、主張ばかりを押し付けられた子供達が、どのような大人に育つかは火を見るよりも明らかである。にもかかわらず、そのような主張を繰り返す教師や大人達は、その段階で、教師や親としての資質を疑わざるを得ない。子供達のいない職員室で、国歌斉唱や国旗掲揚を拒否しようが、それはそれぞれの教師の自由である。しかし、子供達の面前で、そのようなことをすることは、如何なる理由があろうとも許されない。 そして、このようなバランス感覚の喪失ということは、学校という教育現場だけの問題ではない。家庭におけるバランス感覚の欠如という問題の方が、むしろ学校よりも大きいように思う。 子供達は、親の後姿を見て育つ。親の言動を真似して育つのである。それは、何も人間だけのことではなく、全ての生き物にDNAとして埋め込まれている本能だ。親が、天に唾を吐けば、その子供も同じことをする。 例えば、こんな親子を見たことがある。ある都内の公園で、親が腰掛け、その周りで子供達が遊んでいた。その親は、子供の前で、飲んでいた缶ジュースの缶をその場に置き去りにして立ち去ろうとした。子供達も、その親が置き去りにした缶ジュースの缶に並べて自分達の缶を置いた。ところが、突然、その親が子供達にこう言い放った。「並べて置いたら目立つだろ」そう叱咤された子供達は、戸惑った様子であった。それはそうである。子供達は、親がしたことを真似ただけである。にもかかわらず、怒られれば、子供達は何が何だかわからなくなってしまう。当然のことだ。 保護者会などに参加した帰り道、保護者同士で話をしているのに聞き耳を立てると、教師の悪口や学校への不満話で盛り上がっている様子が聞こえてくる。きっとこの親達は、家に帰っても、子供達の前で、無神経に同じような教師の悪口や学校への不満話をしているのだろうな、と思ってしまう。また、我が家は父子家庭なので、ずっと、全ての学校行事やPTAにも私が参加していた。どうしても、皆の輪に入りづらい時がある。それは、父親、即ち自分達の夫の悪口を盛んにしあっているからである。この時も同じく思う。子供達の前でも、きっと同じように父親の悪口を言っているのだろうなと。人間である以上、不平不満を言うのは仕方がない。しかし、時と場合を考慮してなさなければ、それは思わぬ結果をもたらすことになりかねない。 随分と前置きが長くなってしまったが、ここで本題に入る。今、起こっている諸問題を解決するには、まず「男は男らしく、女は女らしく」ということを、皆がそれぞれに自覚することが大切である、と私は強く思う。何も男尊女卑で言っているのではない。男女は平等である、と私も思っている。女性は素晴らしいし、女性なくして男性は成り立たないし、生きていくことができないこともよくわかっている。ただ、男には男にしか為せないことがある。そして、女性には女性にしか為せないことがある。このことが、昨今見失われてしまっている気がしてならない。どんなに優秀なキャリア・ウーマンでも、男に成ることはできない。どんなに、料理が上手く、家事を上手にこなす男でも、女になることはできない。そのことを、子供達に教えることを怠れば、将来、日本の社会はアンバランスな住みにくい社会になってしまうであろう。 昔は、わざわざそんなことを教えなくとも、家族という小社会の中で自然に子供達は学んでいた。家族の中には、祖父母がおり、時と場合によっては、叔父叔母がいたり、その家族も同居していたり、兄弟も沢山いた。その家族という小社会の中で、家長である父を敬い、家族は父を立てることを母親の立ち居振る舞いから学び取った。また、それぞれの家族の立場が尊重され、暗黙のうちに人との係わり合いということを学び取っていた。その結果、家族という小社会よりも大きい、学校という社会生活の中でも、友達や先生とどう接し、どう関わるべきか、ということを自然に体得していた。ところが、昨今、そういう人との関わりという基本的なことを学び取る機会がなくなってしまった。 大体、嘗ては、教師は聖職であり、地域全体から尊敬の念を持って対応されていた。そのような大人達の立ち居振る舞いを目の当たりにした子供達は、自然と教師を敬い、教師に礼を尽くすということを体得した。そのような教師と生徒の健全なる関係によって、教え教えられるという教育ということが成り立っていた。 ところが、昨今、家庭で、保護者達が、教師や学校のことを子供達の前で罵倒していることが多い。そういう環境では、子供達が教師を敬うわけがないし、学校で学ぼうとするはずもない。教師のことも、学校のことも、親達を真似してバカにしてしまうからだ。このことは、学校や教師へ対してだけではない、男親へ対しても同じことが言える。 家族とは、万国共通、男親が家長として支えている。男親が、家族を守るものである。しかし、その家長たる男親を、母親が子供達の前で罵倒してしまえば、子供達が父親に対して尊敬の念を抱くわけがない。そうなれば、男親も面白くはない。家族のために一生懸命働いているにもかかわらず、文句ばかり言われ、自分がいない時には、母親と子供達が結託し悪口を言っている。当然のことながら、父親の気持が家族から離れる。そうなれば、家族という子供達にとってこの世で最も大切な小社会に不協和音が生じる。その結果、子供達は大きな不安を心中に抱く。その不安の捌け口が、いじめや諸々の良からぬ行為となってでる。心のやり場がなくなった子供達にとっては、それが逃げ道、捌け口なのである。きっと、最初は、心で叫び、親へもSOSを出していたはずだ。だが、親がそのSOSを受け止めなければ、子供達は益々迷路に迷い込むことになる。今必要なのは、子供達に声を出させることよりも、親達に子供達のSOSを受け止めさせることだ。間違っても、鬱陶しがって、子供達からのSOSを聞き流したりしないようにすることだ。 と同時に、「男は男らしく、女は女らしく」ということに思いを巡らし回帰することだ。女性が強くなった。その反面、男性が弱くなった。このことは間違いない。だが、男と女の役割は、時代が変わろうが、天と地がひっくりかえろうが、変わることはない。女は、色々な意味で男を立てなければならない。それは、女の役目である。男を立てなければ、家族が立たない。家族が成り立たなければ、父親が帰属する会社が成り立たなくなる。そして、会社が成り立たなければ、社会が成り立たない。社会が成り立たなければ、この国が世界の中で成り立つ訳がない。男は女に立てられれば、必ずその気になる。それはDNAで埋め込まれている。その気になれば、男は女を守り、家族を守る。女を守り、家族を守るために、一生懸命働く。男が一生懸命働けば、男が帰属する会社が繁栄する。会社が繁栄すれば、男の家族は潤う。同時に、男の会社が繁栄すれば、社会も繁栄し、国も栄える。 確かに、男が弱くなった。男が弱くなったから、女が強くなったのかもしれない。しかし、男を強くその気にできるのは、女だけなのだ。そのことを女は忘れてはならない。女を忘れた女に、男をその気にさせ動かすことはできない。同じことが、男へ対しても言える。男を忘れた男には、女をその気にさせることはできない。男は、強くなければならない。そして、女を守り、家族を守らなければならない。それは、それぞれのDNAに埋め込まれた、逃れようのない宿命なのだ。「男は男らしく、女は女らしく」ということは、男は男を忘れず、女は女を忘れず、女は男を立て、男は女を守るということなのだ。このことに気付かずして、如何なる解決策も有り得ない。私は、そう思う。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2006年12月01日
全1ページ
[1]
|
「庶民の常識」に重点 自民党幹事長 中川秀直氏 読売新聞2006年12月1日朝刊より 安倍首相が揚げる「開かれた保守主義」は、庶民の常識的な文化、伝統、歴史を大切にする部分と、民主主義など普遍的価値観を大切にする部分から成り立つのだと思う。戦後60年を経て、日本の文化、伝統、歴史と、世界的な共通の価値観が結合し、完全に保守すべきものになった。 「庶民の常識」について語りたい。保守主義は、常に庶民の常識に回帰することだと考える。理想主義に向かおうとするのは保守ではなく、革新勢力だ。世界の歴史を見ると、これらは、上からのエリート支配と一体となり、大半が独裁政治になった。庶民の常識は、こうした支配に対する抵抗手段だ。日本の場合は極めて強固で、そのせいで革命も起きず、現実主義的な政治が行われてきた。 軍部と戦った保守政治家は、どちらかというと鳩山一郎氏の民主党に入った。反軍部の官僚は吉田茂氏の自由党に来た。両方とも「反軍」で共通点があり、庶民の常識を代弁して自民党ができた。鳩山氏が日本という国家の栄光を重視したのに対し、吉田氏は経済復興を重んじた。当時の庶民の常識は、経済的に豊かになることだったので、自由党系の政治家による時代が続いた。ただ、庶民の常識は本来、上からの近代化の装置である官僚制と相いれない。真の「保守本流」ではなかったのではないか。 今、庶民の常識の力点は、心の豊かさ、共同体の存立などに移りつつある。庶民の常識を指針とする保守の時代だ。 上からの近代化に依拠している人もまだ大勢いる。だが、「約束したことをやります」というマニフェスト(政権公約)政治の時代になった。マニフェストを守らなければ、庶民は“反乱”を起こす。民意の動きを、目を凝らしてみるべきだ。 非常に分かり易く、中川氏の現在の心境、即ち政府の姿勢が表れている文章であるように感じられたので、転載させて頂いた。
|
全1ページ
[1]




