|
家庭教育崩壊を顕著に露呈する図書館本の扱い 2006年12月13日 昨日の読売新聞夕刊一面に、「図書館の本 傷だらけ」という記事が掲載された。読んでみると、信じがたい現象が公共図書館で起きていることがわかった。何と、図書館の若い利用者達が、躊躇いもなく図書館の本を切り抜いたり、線引きをしたり、と皆の本をまるで自分の本のように独占するような行為をしているというのだ。それどころか、切り抜きに気付いた図書館職員が注意すると、その若い女性利用者は、「いけないんですか?」と不満気に問い返してきたという。世も末である。 図書館の本を大切に使うということは、別に教えられなくとも、ごく当たり前に普通のモラルを身につけていればわかること。それがわからないということは、非常に大きな危機感を覚える。これは、もう学校がどうのこうのという問題ではない。家庭の問題、親の問題である。 あまりにも、自己中心的であり、常識はずれである。世界中どこの国に於いても、こんなに非道徳的なことはあり得ない。その上、それが当たり前で、注意されれば開き直る。これは、もう一線を越えているとしか言いようがない。そういう若者達は、親である大人達の言動を真似しながら育ったはずである。ということは、これは子供や若者の問題ではなく、日本人全体の問題であるということだ。 他にも、同じようなことが多々ある。外国人を日本で迎え、何処の国から来た人々も一様に驚くことがある。それは、日本の高速道路でのことだ。合流地点で、絶対に合流をさせないように車間を詰める車が非常に多いことにである。ウィンカーを出していても、無理やりにでも車間を詰めてくる。しかし、合流地点というのは、順番に一台一台が譲り合う地点であることは、教習でも教えられていることであり、モラル的にいっても当たり前の「譲り合い」だ。ところが、それが、今の日本では為されていないのだ。アメリカ人はもとより、あの激しい運転で名高い韓国でさえ、合流地点での譲り合いは当たり前であり、日本のようなことはないという。日本人は、一体どうしてしまったのだ。 数日前、こんなことがあった。左折するために歩行者が渡りきるのを待っていた。ご承知の通り、左折は、横断歩道の歩行者があるため、歩行者用の信号が赤に変わり、その直後に前進用の青信号が黄色、赤色へと変わってしまうほんのわずかに許された時間に左折をしなければならない。ところが、歩行者信号が赤に変わったにもかかわらず、小さな子供連れの父親が、手で車を制止し子供を渡らせようとしたのだ。これには、さすがに、温厚な私も瞬時にしてキレた。窓を開け、怒鳴りつけた。ところが、この父親は、子供の前であるにもかかわらず逆切れし、血相を変え居直ったのだ。どう考えてもおかしい。どこに、我が子を、わざわざ危険にさらす親がいるのだ。赤信号に変わった横断歩道を、5歳〜6歳の子供を、どこの親が渡らせるのだ。しかも、それを注意され、子供の前で逆切れとは何たることだ。このような親を見て育った子供たちは、それは平気で図書館の本でも切り取るであろう。世も末である。これは、本当に危機的な状況であることを物語っている。日本人一人一人が自らを省み、真剣に社会の中の自分ということを見つめなおし、学び直さなければならない時にきていることは間違いない。教育の問題は、この原点から取り組まなければ、日本という国は、本当に大変なことになってしまう気がしてならない。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2006年12月13日
全1ページ
[1]
|
側溝カバーや門扉盗難は高度経済成長をしている国の仕業 2006年12月12日 近年、ステンレス製の側溝カバーや一般家庭の門扉が盗まれるというような事件が相次いでいるという。他にも、表面だってはいないが、鉄製の公共物やペット・ボトルなどの廃材が盗難にあうケースが急増している。以前は、処理に困っていたような廃材ばかりが盗難にあい、不思議に思っていたら、ここにきて、廃材にとどまらず、街中に点在する公共物や私有物にまで被害が出だしている。犯人は捕まらない。しかし、犯人はハッキリしている。現在、驚異的な高度経済成長を続けている国の人々であることは間違いない。何故なら、まったく同じことが、日本の高度経済成長期、アメリカでも起こっていたからだ。 私がアメリカに住んでいた1980年代でさえ、既に高度経済成長期ではないにもかかわらず、日本の商社は廃材の中から金属資源を集めることに躍起になっていた。 サンフランシスコでのことであった。出会いがどのようにであったかは、もう覚えていない。しかし、彼とは半年ほど仕事、というかセカンド・ビジネスを一緒にした。彼は、パキスタン人であった。流暢な日本語を話し、頭の良い男であった。私が、何故そんなに日本語が上手なのかと尋ねると、日本の商社の外部スタッフとして働いていたからだと言っていた。仕事の内容を聞くと、彼は世界中から金属資源を買い付けることだと言っていた。そして、渡米したてで車も持っていなかった彼は、私に仕事を一緒にすることを求めてきた。不思議であり、興味深かったので、私は手伝ってみることにした。 仕事の内容は簡単であった。まず、電話帳等でジャンク・ヤードを探す。ジャンク・ヤードとは、文字通りポンコツ置き場即ち廃材取扱業者である。当然のことながら、サンフランシスコであったので、その近隣でである。正確に言えば、半径200〜300キロ以内というところであった。調べてみると、案外ジャンク・ヤードというのは多いことがわかった。サンフランシスコ近郊のいくつかのジャンク・ヤードをリスト・アップし、私達はそれらのジャンク・ヤードを一つずつ巡った。そして、それぞれのジャンク・ヤードで、ジャンク即ちポンコツ廃材を買い付けるのだ。それを、港でよく見かける積載用の長方形コンテナへ詰め込み、日本の商社へ売りつけるのだ。いや、売りつけるというよりも、日本の商社が、ノドから手をだして待っているのだ。ハッキリ言ってしまえば、彼は日本のある商社から依頼されてアメリカにきていたのだ。彼は、フリーランスだと言っていたが、私は彼がある日本の大手商社から派遣されてきていたと確信していた。何故なら、彼が買い付ける廃材は、ある日本の大手商社一社へと全てが買い取られていったからである。 流れは、簡単であった。ジャンク・ヤードで、重量で買い付け、それを港まで運ばせ、コンテナに詰め込み日本へと送る。サンフランシスコから日本へは、約2週間で到着する。それを繰り返すのだ。大体、2週間掛けてジャンク・ヤードを回り、その間に発送したコンテナは、日本へ到着する。到着すると、日本の商社側から金銭が送金されてくる。それを確認すると、次のコンテナを発送する。この繰り返しだ。 日本の大手商社は、隙間なく廃材が詰め込まれたコンテナを、1コンテナ$8000(当時)で買い取ってくれた。大体、廃材を買い付け、業者に港まで運ばせ、コンテナに詰め込み、コンテナを日本の大手輸送業者に日本へ輸出させると、全てで$4000〜$5500程度掛かった。要するに、その差額$2000〜$3000が、コンテナを送り出す1回当たりの純利益であった。ジャンク・ヤードを見回る際、足元が悪く泥だらけになったり、車が汚れたりするリスクを差っぴいても、決して悪い商売ではなかった。その上、エクストラの利益もあった。アメリカのジャンク・ヤードでは、金属の種類によってより分けはしておらず、目方で買い付ける。そんなアメリカ人の大雑把さが幸いするのだが、その廃材の中には、磁石でつく鉄材にまざってアルミニュームやステンレスの廃材が混ざっているのだ。このアルミニュームやステンレスが、当時は高値で売れた。当然のことながら、1コンテナ当たりの廃材の量から比べれば、その量は非常に少ない。ところが、アルミニュームやステンレス廃材は、コンテナ一杯分の鉄廃材より格段に高く売れたのだ。 彼に、こんなガラクタを何故日本の大手商社が買いあさるのだと尋ねてみると、彼はこう答えた。「ガラクタではなく、宝の山だよ。これらの廃材は、溶かして再製するのだから。金属資源が不足しているんだよ」 携帯電話メーカーが、ひっきりなしに新機種を売り出す。そすると、新しいモノ好き浪費癖のある日本人は、次から次へと携帯電話を買い換える。当然のことながら、古い携帯がジャンクになる。その多くが海外へと転売されるという。だが、ある東北の会社が、廃棄された携帯電話を買いあさり、莫大な利益を上げているという報道がなされたことは、皆様の記憶にも新しいと思う。携帯電話の中には、微量だが純金が使われているという。その純金を集めての商売だという。 また、NHKのドキュメンタリー番組では、ペット・ボトルや日本のジャンク・ヤードで中国人の廃材ブローカーが廃材を買いあさっているという物語を放送していた。日本の高度経済成長の比ではない勢いで急成長している中国は、金属資源も、天然資源も、あらゆる資源を渇望しているのだ。13億の民がいる分、日本の比ではない急成長なのだ。しかし、あまりにも、モラルを逸している気がする。東シナ海の海底ガス田の問題にしても、日本での公共物や私物の盗難に関しても、やってよいことと悪いことがあるのではないか。非常に大きな疑問を感じる。 日本の高度経済成長期でも、他人様のモノに手をだしてまでのことを、日本人はしなかった。確かに、買いあさりはしたが、他国に迷惑を掛けるような非道徳なことは決してしなかった。アメリカ人が、こんなことを言っていた。「中国人は、空のモノは飛行機以外、海のモノは潜水艦以外、何でも食べるよ。そして、中国人が通ると、電線も、線路も、切り取られてなくなってしまうんだよ。気付いた時には、既に溶かされ別のモノになっている。精製しなおされた鉄に、名前は書いてないからね(笑)」皮肉だが、的を得た言いようのような気がする。
|
|
人の心を癒す建築家フランク・ロイド・ライトの生き方 2006年12月11日 思い掛けず、素敵なドキュメンタリー映像を観ることができた。それは、旧帝国ホテルなどを設計・建築したことで日本に於いても周知の建築家、フランク・ロイド・ライトに関してのドキュメンタリーであった。建築ということに生涯を捧げた巨匠フランク・ロイド・ライトの不器用だが信念を貫き通した生き方を映し出すことにより、建築という域を超越し、人としての在り方を探求し続け、建築という方法で体現した彼の生き様の物語であった。強く心を動かされた。 フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright:1867年6月8日生−1959年4月9日没)は、アメリカを代表する建築家であった。近代建築の四大巨匠の一人として、ル・コルビュジェ、ミース・ファン・デル・ローエ、ヴァルター・グロビウスと並び称された。ほとんどの作品がアメリカ大陸に現存し、日本にも幾つかの貴重な作品を残している。その代表的な建築物が、現在でも愛知県の明治村に移設され残されている旧帝国ホテルや、東京都豊島区池袋に現存する自由学園明日館、兵庫県芦屋市に現存するヨドコウ迎賓館、旧甲子園ホテルで現武庫川学院甲子園会館(ライトの愛弟子遠藤新/作)などである。 「貧富の別なく人間は豊かな住生活が保障されるべきである」という信念を実践し、人々の生活の拠点を作り続けたフランク・ロイド・ライトは、住宅建築を最も得意とし好んだ。また、「デザインとは、自然の要素を純粋に幾何学的な表現手段によって抽象することである」という彼の言葉からもわかるように、一貫して自然と建築の共存を提唱し、有機的建築を数多く残した。その代表作が、天然の滝の真上に建築したペンシルバニア州のカウフマン邸(落水荘)である。現在でも、このカウフマン邸は、近代建築の最高峰と言われている。 だが、そんなフランク・ロイド・ライトも、多くのスキャンダルや、信念を曲げず協調性に欠ける言動から、一時は世間から見放された時期もあった。その苦難の時期も、独自の広大な敷地からなる工房にて、妻と弟子達との共同生活を営み続けた。彼の思想により、単に建築ということを学ぶのではなく、生きることの基本全て、即ち自労自治ということを実践することによって、弟子達を育てていたということがこのドキュメンタリー映像では、彼の孫や弟子達によって語られていた。世間から彼の工房は、頑固者の独裁者によるサンクチュアリー(聖域)とまで揶揄されながらも、決して彼は信念を曲げることはなかった。決して商売上手とは言えず、時としてその強情さは、人々の手を焼いたという。大抵の場合、その主導権を、施工主から奪い取り、彼が全ての主導権を握っていたともいう。だが、それだけの自信が、彼にはあった。建築予算や工費が嵩むことは当たり前。しかし、誰に媚びることもなかったという。 このようなエピソードを見聞した時、私は一人のアメリカン・ドリーマーを思い出した。ライトとは、まったく違うタイプの人間であるが、何か共通点があるような気がした。それは、ラスベガスの産みの親と言われているバグジー(Bugsy)ことベンジャミン・シーゲル(Benjamin Siegel:1905〜1947)のことであった。彼は、ニューヨークのユダヤ系マフィアであった。その彼が、西海岸制圧のためロサンジェルスにやってきた。そして、当時、まだ小さな田舎町であったラスベガスに大きな夢を抱き、一大カジノ・リゾート建設に乗り出した。当初、ニューヨークのマフィア組織から100万ドルの投資を引き出した。しかし、構想はドンドン広がり、結局600万ドルものお金を追加で引き出すことになってしまった。しかし、彼には自信があった。根拠のない自信であった。しかし、その根拠のない自信は、彼の上に天から舞い降りた、彼にとっては確信を得た自信であった。しかし、彼は、その夢半ばにして暗殺された。ところが、彼の死後ほどなくして、彼の夢は現実のものとなった。そして、今では、世界一のカジノ・リゾートにラスベガスは成長した。 実は、このライトの映像作品の中で、当時の弟子達によって、カウフマン邸(落水荘)設計に関してのエピソードが披露されていた。弟子共々、その滝のある土地に、三ヶ月もライト達は生活していたという。ところが設計どころか、建築に関わることは何一つなしていなかったという。そんな状況下、三ヶ月目のある日、建築依頼主であるカウフマンから突然電話があり、今から三時間後にそちらに到着するので、設計図を見せて欲しいと言われたという。当然のことながら、何も手をつけず、この三ヶ月間は遊びほうけていたので、弟子達は焦ったという。ところが、ライトは、まったく焦る様子もなく、お待ちしていますので、と伝えるように弟子に言ったという。その直後、ライトは、設計用の机に向い、まるで何かがとり憑いているかのごとくに筆を走らせだしたという。それは、まさに天と繋がっているかのようでさえあったと弟子達は証言していた。そして、依頼主であるカウフマンが到着した時には、完璧な図面が出来上がっていたという。それどころか、その図面には、正確な寸借まで記載されており、この三ヶ月間で、ライトが遊んでいるようでありながら、滝をはじめ周囲の自然を全て熟知していたことに、弟子達は驚嘆したとも語っていた。しかし、多くの建築家は、その図面を見て、こんな幻想のような図面が現実にできるわけがない、また出来たとしても、直ぐに崩壊してしまうに違いない、と罵倒したという。だが、細部にまで計算されつくされたその図面に基づき、滝の上に建てられたその家は、今でも現存し、世界中の建築物の最高峰と称されている。まったく生き方も、タイプも違うライトとバグジーであるが、何故か私はこの二人のことがダブって見えてしまった。 上記したカウフマン邸からもわかるように、ライトの建築物は意表をついていた。誰もが、信じがたい作品であった。しかし、彼には、根拠のない自信があった。だが、その根拠のない自信は、彼の中で確固たる自信へと変化するのであった。それは、綿密なる計算によって、確固たる自信へと変化するのであった。だが、その綿密なる計算が、神がかり的であったのだ。何故なら、それは理屈では有り得ないような形態であっても、彼の頭の中で計算されたものは、理屈にあてはまってしまうからであった。ある時など、柱の構造形体が特殊で、耐久性と建築基準に問題があるという役人に対し、ライトは激怒した。木っ端役人達にプライドを傷付けられ激怒したライトは、柱の一本に耐久基準の十倍もある堆積物を載せ、役人の目の前でその安全性を実証して見せたという。それほど、彼はプライドが高かった。しかし、そのプライドは、実力と自信に裏づけされた確かなものであった。また、こんなエピソードもある。 帝国ホテルを建築し、池袋の自由学園明日館を完成させアメリカへ帰国したライトのもとへ、二年後ある知らせが届いた。それは、関東地方に大地震が発生した、という知らせであった。関東大震災である。その一報を伝えた弟子は、ライトが落胆すると思っていた。ところが、ニコニコしながらライトはこう言ったという。「大丈夫。関東には、二棟だけ倒壊しない建物が残るはずだ。それは、帝国ホテルとMr. & Mrs.羽仁の自由学園明日館だよ」そのいずれも、ライトが設計し建築した建物であった。まだ、建築して二年しかたっていなかった。その言葉を聞いた弟子達は驚いたという。しかし、数日後に、更に驚かされたという。それは、日本から連絡があり、どちらの建物もまったくの無傷で矍鑠とした勇姿を保っている、ということを知ったからだという。この時のライトの自信には、多くの人間が驚嘆したという。自然と協調する建築を極めたライトだからこそ、天災を相手にしても、彼の自信は揺らぐことがなかったのであろう。 このドキュメンタリー作品の最後に、孫の一人が、涙ながらに語っていた。あれだけのカリスマ的存在であった祖父フランク・ロイド・ライトだが、彼の屍は生前の気骨高い祖父とは比べ物にならぬほど小さく、ただの抜け殻でしかなかった。祖父の矍鑠とした立居振舞は、彼の精神によって醸し出されていたカリスマ性であったことを知った、とその孫は感慨深げに回想していた。「あなたが本当に信じることは、いつでも実際に起きる。それを信じる心がそうさせるのである」と、ライトは言っていたという。この言葉こそ、彼の信念の柱であり、彼を建築界のカリスマとして生き抜かせたのであろう。 フランク・ロイド・ライトが残したどの建物も、自然に調和している。いや、根付いているといった方が正確かもしれない。外観を眺めていても、建物の中から窓越しに外の自然を眺めていても、心が洗われ癒やされる。本当に不思議である。本物の建築物である証ではないか。私は、そう思う。
|
全1ページ
[1]


