政財界倶楽部(恩田将葉見聞録)

若者達がジャパニーズ・ドリームを夢みれる国を願い、「政治をもっと身近に!」というスローガンのもと、日本人に愛国心を喚起する。

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チベット問題の経緯(2)「1959年末時点での独立国チベット」
2008年5月23日

 まず、誰もが理解しなければならない事実がある。それは、初めて中国人民解放軍が侵略してきた1949年末当時、チベットは国際法上も独立国であったということだ。

 国際法律家委員会の法律査問委員会は、チベットの独立国としての立場に関しての調査結果として、チベットの法的状態を以下のように述べている。
(1)1913年から1950年まで、国際法で一般に認められている主権国家の条件を備えていた。
(2)1950年の時点で、一民族が一定の領土に住み、政府機関がそれを治めていた。
(3)外国政府がそれを内政干渉することもなかった。
(4)近隣諸外国も、チベットを独立国家として扱っていた。その証拠に、インド、ネパール、モンゴルなどの近隣諸国は、チベットを独立国家として認めた上で平和条約等を相互に交わしていた。

 当時、チベットの領土は、ヒマラヤ山脈の北側にあるインドと中国の間に位置するチベット高原と一致し、面積は250万平方キロメートルの広さであった。人口は、中国人民解放軍侵攻時点で、約600万人であった。首都はラサにあり、国家元首はダライ・ラマであった。チベット政府は、大臣からなる内閣(カシャグ)、国民議会(ツオンドゥ)、そして、広大な領土を統治するための大官僚機構によって構成されていた。

 そもそも、独立国チベットは、7世紀に、ソンツェン・ガムポという王が出現し、アジア有数の大国として建国された。それと前後して、インドから仏教が伝来した。元々、チベット人達はポン教を信仰していたのだが、インドから仏教が伝来して以降、仏教がチベット人達の精神的な支柱となった。インドとも中国とも異なる独自の民族文化を開花させ、宗教的にもチベット仏教という形で独自の進化を遂げた。

 そして、そのような国家としての進化の過程で、ソンツェン・ガンポ王(7世紀)、チャンチュプ・ギェルツェン(14世紀)、ダライ・ラマ5世(17世紀)、そして、ダライ・ラマ13世(19世紀)によって、司法制度の基礎が確立されていった。

 国民に税金を課し、独自の通貨を発行し、郵便制度を運営し、切手を発行し、小規模ながらも自国の軍隊を持ち、政府が行うべき業務全般を執行していた。これらのことを見てみても、チベットが独立国家であったことは明確である。

 中国政府は、「チベットを国家として承認した国は1つもない」と主張している。だが、前述したように、モンゴルとチベットは1913年に独立を承認する条約を正式に結んでいる。また、ネパールもチベットと平和条約を結んでいる。それだけではない。インドも、インドがイギリス領であった当時、イギリスがチベットを独立国として認め外国関係を持ち、ラサに外交事務所を設置したりしていたことを、独立後もそのまま継承した。それは、イギリスから独立後のインド政府も、チベットを独立国と認めていた証しだ。ただ、静かに、平和を保つことを希求していたチベットが、多くの国と外交を持つことをしていなかったことも事実だ。

 そもそも、中国は、チベットを植民地的な侮蔑した目で見続けている。そのことは、中国の歴史書に、チベット人を自分達と異なる民族として「吐蕃(とばん)」と蔑称している、と記されていることからも明確だ。にもかかわらず中国政府は、チベットは中国に帰属すると主張している。それも、700年前と200年前にあったといわれるチベットと中国の交流を根拠として、非漢地域としての領有権と開発権を「主権帰属」という言葉を頻繁に使い主張しているのだ。だが、この中国政府の理論は、日本に対する尖閣諸島問題や海底ガス田問題の理論と全く同様のご都合主義的理論でしかない。尖閣諸島に関しても海底ガス田にしても、そこに資源が眠っているということがわかってから、それまでまったく興味も示していなかった中国は、俄かに権利を主張するという非常に勝手な主張をしだしたのだ。チベットに関しても、全く同じことがいえる。何故なら、チベットは人知れず天然資源の宝庫なのである。第二次世界大戦後、中国共産党による中国政府が、にわかにチベット侵略を為した大きな理由の1つが、チベットに眠る天然資源にあるといわれている。
チベット問題の経緯(1)「1959年チベット民族蜂起」
2008年5月23日

 そもそも、全ては第二次世界大戦終結と共に始まった。

 1949年、中国を完全に支配した中国共産党政権は、「人民解放」という手前勝手な大義名分を打ち立ててチベット侵攻を開始した。しかし、中国人民解放軍は、一気にチベット全土を支配するような粗暴な侵攻はしなかった。真綿で首を絞めるように、周辺部から徐々に侵略していった。外堀を埋め本丸を攻略するかの如くの戦法で、まず首都ラサを中心とした中央チベット周辺を1つ1つ確実に日本で「県」に当たる「省」として取り込んだ。日を追うごとに追い詰められたチベットは、結局気付くと首都ラサを中心とした中央チベットのみとなってしまっていた。大河の流れのような長い歴史と広大な領土は、中国の勝手な思惑によって追い詰められてしまった。そして、遂に、1951年9月、首都ラサにも、中国人民解放軍が侵攻してきた。ただ、中国政府は、その際も、いきなり占領するようなことはしなかった。まず、「チベット自治区準備委員会」を設置し、如何にもチベット人を解放することを目的にしているかのように演出し侵略を進めた。

 しかし、そもそもチベット人が、チベット政府に迫害されたり、弾圧されたりしていたというような事実はまったくない。寧ろ、東アジアの永世中立国とさえいわれるほど、平和で温和な国であった。それを、中国政府は勝手に「解放」と叫んで侵攻した。だが、一体何からの解放なのか、まったく理解できない。そのような、真綿で首を絞めるような、邪悪な我欲による侵攻が、首都ラサにまで迫るまでの間、中国人民解放軍による理不尽な侵略からチベットを守ろうとするチベット人達と人民解放軍は、チベット各地で武力衝突を繰り返した。その度ごとに、中国政府は、チベット人達による反中行動を、逆手にとり侵攻の大義名分とし、更なる侵攻を推し進めた。

 そのような厳しい状況下、1959年3月10日、チベット人民の堪忍袋の緒が切れてしまった。第14世ダライ・ラマ法王の身に危険が迫ったことを察知したチベット民衆は、自分達の国を中国から守るべく蜂起した。チベット人達は、危機感を覚えたのであろう。これが、1959年チベット民族蜂起である。「3月10日」は、今でも「抵抗運動の記念日」として、チベット民族の拠り所となっている。

 そして、この民族蜂起の最中、命の危険を感じた第14世ダライ・ラマ法王は、ヒマラヤ山系を越え、インドへと亡命した。時のインド最高権力者、故ネール首相は、亡命してきた第14世ダライ・ラマ法王を快くインドに受け入れた。そして、チベット難民施設の設置と、チベット亡命政府樹立を快諾した。

 中国3000年の歴史とは、先達の苦悩や努力から学び積み重ねられた歴史であると理解していた。しかし、中国によるチベット侵攻には、何の学びもない。ただ、そこにあるのは自分勝手で邪な思惑だけだ。大体、日本をあれだけ避難している中国であるにもかかわらず、結局のところ自分達も同じようなことをチベット民族へ対してしているではないか。しかも、現在もチベット民族の苦しみは続いている。にもかかわらず、そのことは棚に入れて鍵でも掛けてしまったかのごとく等閑にし、日本の誠意ある対応に目を向けようともしない。日本からのODAによる金銭だけはしっかり手にしながら、未だに日本を非難し続けている。まったくもって矛盾に満ちた対応であるとしか思えない。しかし、その原因は、中国共産党による人民への反日洗脳教育によるところが大きいように思う。その証拠に、今まで「日本は悪」という意味のない先入観を植え込まれていた中国人達も、今回の四川大地震を通じ、日本人の真心に触れ感激している様子が、連日メディアで報道されている。

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