政財界倶楽部(恩田将葉見聞録)

若者達がジャパニーズ・ドリームを夢みれる国を願い、「政治をもっと身近に!」というスローガンのもと、日本人に愛国心を喚起する。

靖国参拝問題

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靖国問題の解決策:靖国存続霊璽簿廃止 
2006年8月18日

 靖国の問題は、戦後61年間、大切な問題でありながら、多くの日本人が等閑にしてきてしまった問題の一つである。ただ、一つだけ明確なことは、靖国の問題は、現世の私達の問題ではなく、靖国に集う英霊達の問題であり、俗世の私達が本来とやかく言う問題ではないということだ。しかし、現実問題、靖国のことが問題になっているので、何とか解決の道を模索しなければならない。

 基本は、静かに手を合わせる、それだけで構わないことだ。ところが、後付で現世の人間の思惑がそこに加わり、非常に複雑なことになってしまっている。神官も人間だ。神殿では、神官であっても、神殿を一歩出れば俗世に生きる一人の人間であり、色々な考え方や思想を持っているのかもしれない。しかし、靖国神社が神社本庁に所属さないという形態を見てもわかるように、神社の中でも「公」の色の強い神社である。そうである以上、そこに務める神官も、本来日常に渡ってその自覚をもち生活するべきである。私的感情や思想よりも、靖国の神官としての自覚が、何よりも大切である。

 合祀だ、分祀だ、戦犯だ、何だかんだとマスコミをはじめ世間では騒いでいる。非常に俗世的であり、靖国に集う英霊達は悲しく思っているように思える。次元がまったく違うのではないか。

 ならば、そのようなことが起こってしまった原因を排除すればよい。それは、一部の人間の思惑で為された「祭神名票」に基づく「霊璽簿」の作成ということではないか。それぞれの宗教団体に、それぞれの定義や方法論がある。それを否定するつもりはない。しかし、靖国が「公」の色の強い神社である以上、また、そこに祭られる御霊のことを最優先するということであれば、妨げになる「霊璽簿」を廃止してもよいのではないか。

 例え、霊璽簿がなくとも、神は神、天は全てをお見通しのはずだ。「霊璽簿」なるもの自体が、非常に現世の人間的発想でしかない。私の親しくするある神社では、このような「霊璽簿」はない。その代わり一人一人の御霊が宿る仏教の位牌に相当するような木製の柱を行満堂という所に祀ってある。当然のことながら、本殿には天照大神が祀られている。この神社は新興宗教ではなく、一の宮であり、かなり大きな有名な神社である。

 このように、同じ神社神道においても、祀り方も異なる。よって、この祀り方でなければ、有り得ないということはないのではないか。大体、宗教というのは、人の心の持ち様の問題であり、形は二の次であるはずだ。にもかかわらず、融通が利かない形に固執する考え方をすること自体に、大きな問題がある。

 昭和天皇のメモのリークは許せぬことである。あのメモの信憑性にも大きな疑問を感じる。が、しかし、多分昭和天皇が仰りたかったことも、そこのところではないかと私は思う。それまで、上手く対処していたものを、特定の神官の個人的な思想に基づき昭和天皇をはじめ多くの関係者を蔑ろにし、早まった処置をしたが故に、昭和天皇は不満を漏らしたのではないか。

 大体が、これらの俗世的問題が生じる問題は、霊璽簿にある。霊璽簿がなければ、合祀だ、分祀だということも言えぬ。また、太平洋戦争以前はいざ知らず、本来であれば戦場での戦死者だけでなく、被災者も祀られて当然である。戦場に赴いた人々は、国を思い、家族を思い、愛する人々の名前を叫び、「天皇陛下万歳」と叫びながら、尊い命を落としていった。しかし、日本に残された人々も、戦地に赴いた愛する人々のことを思い、竹槍をかざし、子供達や年寄り達を守りながら、多くの人々が戦火に晒され死んでいった。日本国内に残り、空襲を受けながらも国を守り被災した人々も、戦場での戦死と変わりはない。

 であるならば、そのような被爆者や被災者の御霊も一緒に靖国にお祀りしても何の問題もないはずだ。そのためにも、現在の靖国のように霊璽簿を基にした形ではなく、「無名戦没者を祀る靖国」という形にするべきではないか。そうすれば、A級戦犯の合祀がどうのこうの、分祀しろの、何だかんだととやかく言われる筋合いもなくなる。

 ただ、いくつかの問題点も残る。それは、英霊達の問題とは言っても、やはり現世に存在する靖国の経済的な問題の解決策、それと鳥居の問題だ。諸外国の拒絶反応の一つに鳥居がある。鳥居が、かなり日本軍国主義の象徴的な存在になってしまっているという事実もある。鳥居に対して拒絶反応を示す外国人は、非常に多い。しかし、靖国から鳥居がなくなれば、何か靖国ではなくなるような気さえしてしまう。それが、日本人だ。非常に難しい問題である。

 日本は、日本として、日本人としての主張をもっとするべきだ。中国人も韓国人も、大陸人である。こちらがおとなしくしていれば、いくらでも調子にのって声を上げる。しかし、こちらも声だかに反論をすれば、それなりに解決策も見えてくるはずだ。日本は、もっと自国の主張をすべきである。私は、そう思う。
靖国問題の解決策は唯一:静かに手を合わせること (2)
靖国の問題は国のために命を落とした先人達の問題
騒ぎ立て問題化しているのは道徳心の欠片もない隣国と反対勢力
2006年8月15日

 韓国は、小泉首相の靖国参拝を受け、小泉はもう過去の人であり、次期首相が靖国参拝するか否かで今後の韓日関係の行方は決まる、というようなコメントを発表した。この外交感覚、国際感覚こそがおかしい。にもかかわらず、日本のマスコミは、そのような韓国や中国の反応ばかりを、非常に大きく取り上げ、あたかも小泉首相がこの5年間で国際社会での日本の立場を失墜させたかのごとく報道している。それどころか、中国の日本大使館前に抗議デモを断行した中国の活動家のインタビューまでをも報道した。たった30人で行われたデモを、まるで中国人全てが反日感情を抱き、それが大きな動きになるかのごとく報道していた。非常に大きな違和感を覚える。まるで、戦前、戦中の統制された報道機関のようだ。一つ違うところは、戦前、戦中は軍部に報道各社は統制されていたが、今のマスコミは財界に統制されているように見えるのは、私だけではないはずだ。

 本来、靖国問題のような事柄に於いては、マスコミの果たす役目が大きいはずである。マスコミが、偏向しない報道姿勢でこの問題を報道し続けてくれば、思惑で理不尽な主張を繰り返す隣国に付け入られることもなかったはずだ。純粋に靖国問題や極東軍事裁判の問題や戦犯の問題なども、他国からとやかく言われることもなく自国内で総括することができたであろう。しかし、そうできなかった責任の一旦は、マスコミにあると言っても過言ではない。正しく、偏ることなく歴史的事実を検証し、当事者の数だけある真実の解れた糸を丹念に手繰り寄せ紡いでこそ、昭和史の本質を後世に残すことができたはずだ。ワイドショー的に数字を追うばかりではなく、損得を度外視して一石を投じるような気概ある報道姿勢が損なわれてきたからこそ、政治や財界の思い通りの戦後61年が過ぎ去ってしまったのではないか。嘗ては、気骨ある政治家も、筋金入りの財界人も、勇気あるジャーナリストも日本には存在した。しかし、昨今、そのような大きな器の人々を見かけなくなってしまった。悲しむべきことである。

 目の前の我欲に溺れ、国を憂うなどということをしなくなってしまった日本人。今だからこそ、国のために尊い命を落とした先人達に手を合わせるべきなのではないか。「先憂後楽」私の好きな言葉である。しかし、今の日本は、「先楽後楽」煩悩に溺れる国にしか見えない。日本の将来を憂うのは、私だけではないはずだ。
靖国問題の解決策は唯一:静かに手を合わせること (1)
靖国の問題は国のために命を落とした先人達の問題
騒ぎ立て問題化しているのは道徳心の欠片もない隣国と反対勢力
2006年8月15日

 本日午前7時半過ぎ、小泉首相が靖国神社を参拝された。評価するに値する行為である。国のために命を落とした先人のために手を合わせることに、何の問題があるのであろうか? そのことに異議を唱え、騒ぎ立てる反対派の人々やマスコミの行為には呆れ返る。当たり前のことが、当たり前として為せないことほど悲しむべきことはない。そんな国に成り下がってしまった日本を憂うのは、私だけではないはずだ。一番悲しく思っているのは、国のために尊い命を落としていった英霊達に違いない。

 小泉首相の靖国参拝は評価する。しかし、敢えて言うならば、首相に就任した際、靖国参拝を公約する必要があったのか否かということである。そして、公約したのであれば、誰が何と言おうと、この5年間、怯むことなく8月15日に参拝し続けて欲しかった。政治家が靖国を参拝するだけで、自国の思惑に基づき理不尽な主張を繰り返す隣国の尻馬に乗って騒ぎ立てる日本人の風潮を改革するべく、小泉首相は靖国参拝も公約したのであろうと思う。当たり前のことが、当たり前として為せない、そんな国に日本をしたくないという思いからであることは想像できる。

 靖国問題に関しては、おかしなことが多々ある。本日のぶら下がり記者会見で小泉首相が言っていた通り、マスコミや反対派は「政教分離」がどうのこうのと捲くし立てる。が、しかし、小泉首相をはじめ歴代の首相や閣僚達が伊勢神宮に参拝しても、参拝した事実だけしか報道しない。実際には、神道形式にのっとった参拝をしているが、そのことを取沙汰するマスコミも反対派も、この戦後61年間で皆無に近い。伊勢神宮での参拝は「政教分離」に抵触せず、何故靖国神社参拝だけが、こんなにも問題になるのか? 反対派やマスコミに聞いてみたい。多分、A級戦犯が合祀されているからだ、というような答えが返ってくるであろう。それは、しかし、答えにはなっていない。その問題と、靖国や伊勢神宮参拝の問題では、本質が違う。実際には、歴史や日本の文化を深く学習もせず、理解もしていない記者や反対派の人間達が、あたかも全てを理解したかのように騒ぎ立てている証だ。非常に大きな問題である。

 大体、彼らが騒ぎ立てて喜ぶのは、中国や韓国だけである。自国の思惑で理不尽な主張を繰り返す隣国を喜ばせることが、何故国益で、国のために尊い命を落とした先人に手を合わせることが、何故国益に反するというのか? 理解に苦しむ。

 本来、こういうことは、政治的に利用する問題ではなく、静かに手を合わせ、先人に感謝の念を抱けばよいことである。それを、何時の頃からか、政治的に取沙汰するようになったから、このように問題が複雑化するのである。ましてや、総裁選で靖国参拝問題まで論点にすることは、以ての外で論外だ。確かに、学問的に言えば、靖国神社には歴史的な意味があるのかもしれない。しかし、それは別問題である。先人の御霊に手を合わせるという行為は、そういう俗世的な発想とは別次元のことである。大体、本来、靖国とは、我々現世に生きている人間のためにあるのではなく、靖国で再会することを信じて国のために散っていった先人達のためにあるはずだ。それを、亡くなった先人達の心や思いを踏みにじり、ああでもない、こうでもない、ととやかく言うこと自体が間違っている。

 個人が参拝する分には問題がない。しかし、一国の総理が参拝するから問題なのだ、と多くのマスコミや反対派の人間は言う。だが、本当にそうであろうか。三権の長に、「私」はない。第一級の公人である以上、24時間365日が「公」である。よって、小泉首相に、この参拝は公人としての参拝か私人としての参拝か、などという愚問を浴びせかける記者達の感性こそ疑わざるを得ない。記者としての資格ゼロである。もっと、まともな質問をするべきである。とってつけたような質問を繰り返し、自分が所属する会社への自己アピールとしか聞こえない。愚かなことである。総理が参拝するということは、私的な部分や気持で参拝したとしても、公人であるに決まっている。だが、公人である総理だからこそ、小泉首相は靖国に参拝したのだと私は思う。私人である、小泉純一郎が靖国に参拝することは当たり前である。総理が参拝するからこそ、意味があるのだ。どういう意味かといえば、それは多くの国民が忘れかけている日本人の美徳、道徳心を喚起するという大きな意味だ。先人を敬い、先人を尊ぶ。そして、亡くなった先人に手を合わせるということは、特別なことではなく当たり前のことである。そんな当たり前のことが、当たり前として為されなくなり、為しにくい日本になってしまったことを憂いてのことであるはずだ。本来であれば、如何なる理由があろうとも、形式はどのようであろうが、天皇陛下に手を合わせて頂ければ、何も問題はないはずである。それが実現できないというところに、悲しむべき現実がある。

 一部の学者やコメンテーター達が、自らの歴史認識を明確にしてから参拝するべきだとか、小泉首相の靖国参拝は外交ゲームだとか、ということをテレビや新聞を通じ声高に言っている。確かに、靖国問題や歴史問題には、それぞれの当事国の歴史観やら、外交問題やら、色々な問題がある。しかし、そのことと靖国参拝ということを一緒くたにするべきではない。何故なら、国のために亡くなった先人に対して手を合わせるという行為は、そのような俗界的なことではないからだ。純粋に手を合わせ感謝の念を抱き、恒久の平和を願う。それだけのことである。理屈ではない。それこそ、「心」の問題なのである。道徳心の範疇であり、政治的問題でも、学術的問題でも、ましてや国際的問題でもない。外交ゲームだとか、国益に反するとか、理屈をこねくり回す諸氏は、まず知覧の特攻会館を観覧してきてからモノを言って頂きたい。あれが、全てではないであろう。しかし、あそこには戦争が如何に悲惨なモノであるかを表す事実が、偏向されることなく展示されている。これらの問題を議論していると、いつも知覧の特攻会館のことを思い出し、涙が止まらなくなり言葉を失ってしまう。あそこを観覧して、涙を流さぬ人は一人もいないはずである。理屈ではない事実が、人々の涙を誘う。あそこには、何人の思惑も演出もない。戦争の悲惨、英霊の純粋なる思いが、有りの儘に展示されている。

 確かに、学術的な見地や、歴史的見地、国際関係学的見地からすれば、色々な問題がある。しかし、歴史には、裏表がある。表裏一体で歴史は成り立っている。そして、事実は一つだが、真実は当事者の数だけある。当事者の多くが存命していない今、全てを解明することは非常に難しい。一部の当事者による真実だけを参考にしても、歴史の本質に迫ることはできない。全ての当事者がそれぞれ抱く真実を全て見聞して、初めて歴史の本質を見極め、事実を正しく受け止めることができる。ましてや、それぞれの国には、それぞれの立場がある。全ての関係国が、同じ歴史観に立つということは、有り得ないことだ。そのことは、どの国も承知している。承知の上で、自国の都合での歴史観を繰り返しているのである。しかし、そのことは何人も批判できない。また、批判するべきでもない。ただ、日本人は、日本人としての立場に立ち、自国の国益を考えて、日本としての歴史観を構築すればよいのである。隣国がこういうからどうだとか、というような次元の問題ではない。ただ、これだけは言える、靖国問題に関しても、歴史問題に関しても、如何なる理由があろうとも、他国に干渉されるべき問題ではない。日本の国内で、日本人が議論を戦わせて、結論を導き出す努力をすればよい問題である。

 大体、漠然と反対している人々は、どれだけ歴史のこと、政治のことを勉強しているのであろうか。非常に大きな疑問を感じる。マスコミも、ただ、小泉首相が靖国を参拝するから、中国や韓国の近隣諸国との関係が悪化するとばかり声だかに報道する。しかし、この5年間の小泉首相の中国や韓国に対する政治的対応を検証してみれば、中国や韓国の主張が如何に理不尽かは一目瞭然である。そして、その尻馬に乗って騒ぎ立てる日本の財界やマスコミ、そして反対派の主張が、いかに理不尽かということも一目瞭然である。靖国参拝問題以外の問題は、全て中国や韓国の主張を受け入れ、また理解を得ながら外交努力を重ね良い結果を出しているではないか。にもかかわらず、そのようなことは一つも報道されず、靖国の問題ばかりが報道されるので、国民も皆、まるで中国と韓国とは、国交断絶にでもなってしまうかに思ってしまっている。非常に偏向した報道により扇動された偏向した意見が、世の中に蔓延してしまっている。

 小泉首相の言い分ではないが、一つの意見、即ち靖国問題で日本が言うことをきかないからといって、全てを拒絶するような対応自体が非常に理不尽であり、多様化する国際社会に於いて、配慮の欠落としか見えない。大人気ない対応である。にもかかわらず、小泉首相ばかりが責められること自体に、不自然さを感じる。しかも、自国のマスコミや財界が批判するとは、もっての他であり、他国では有り得ないことである。如何に日本が平和ボケしているかを顕著に表している。

 日本が常任理事国入りしようとした際、中国も韓国も賛成に手を挙げなかった、だからといって小泉首相率いる日本は、中国や韓国を批判したか。また、彼らを全て拒絶するような行動をとったか。答えは、ノーである。そんなことはしていない。北朝鮮がミサイルを撃ち込んできた時に、国連での採決の際も同じことが言える。当初彼らは、手を挙げなかった。しかし、日本は、だからと言って中国やロシアとの話し合いを拒絶したか。この答えも、ノーである。日本政府、小泉首相がとった態度こそが、国際社会に於いても良識ある大人の対応である。中国や韓国が靖国問題を引き合いにだして行っている行為こそが、大人気ない行為であり、日本への内政干渉でしかないことは、第三国から見れば一目瞭然の事実だ。ただ、中国の力が急激に増大しているので、アジア諸国の多くは、将来を見据えて、中国との関係を大切にせんがために熟慮した行動をとっているだけのことである。それを、まるで日本だけが、アジアで孤立してしまっているような、中国の側に立ったような報道を繰り返す日本の報道機関の良識には大きな疑問を感じる。だからと言って、アジア諸国を蔑ろにしろと言っているのではない。アメリカとの日米同盟を大切に温存し発展させつつ、アジアとの国交も発展させていかなければ、アメリカにとっての日本の魅力も半減してしまうことは目に見えている。そうかといって、アメリカや近隣アジア諸国に阿る必要は全くない。アメリカにとって日本は、軍事戦略上、また経済戦略上、最重要国であることはこれからも変わりない。また、日本にとってのアメリカも、軍事戦略上、また経済戦略上、最重要国であることも変わらない。そして、日本の近隣諸国も、アジアが発展していき、グローバル化が急速に進む世界情勢にあって、日本にとって大切なライバルであり同盟国であるべきであることも間違いない。偏ることなく中庸を保つことが、アジアで、世界で、日本が取るべき道であろう。スイスのような永世中立国で有り得るのは、地球上で唯一の被爆国である日本の権利であるはずだ。それには、積極的な主張ができる国に成長しなければ、ということが日本に課せられた今後の課題であろう。
靖国A級戦犯合祀問題は昭和天皇並びに其々のA級戦犯を深く理解してこそ初めて語れる大切な問題
2006年7月25日

 今回の昭和天皇のお言葉を故富田元宮内庁長官が書き残したというメモが見つかった問題をキッカケに、小泉首相の靖国参拝反対という世論が60%を越えたという。非常に悲しむべき結果である。この時期に、一部の政治家や財界人の私利私欲や思惑のために、あのようなメモを世間に公表し、世論を扇動することを画策した人間達の罪は非常に重い。

 靖国におけるA級戦犯合祀の問題は、隣国からとやかく言われどうこうする問題ではない。また、このようなメモがスクープされたということだけで、靖国参拝反対の世論が扇動されてしまうというような軽い問題でもない。本来、当時の昭和天皇のおかれていた立場、それぞれのA級戦犯のおかれていた立場と責任、また、当時の日本の状況、世界情勢、アメリカの思惑など、全てのことをよく検証し、研究し、理解し、東京裁判自体をも公平なる見地で検証し直して、初めて論じることができる問題である。近代日本史において、この問題は、最も重要で大切な問題である。それが、こんなにも軽はずみに報道され、日本国民に偏向した情報のみを流す昨今のマスコミをはじめ、政治の風潮には、非常に大きな懸念を覚える。

 今、どれだけの日本人が、当時の日本の状況を正しく理解し、靖国参拝反対だの、皇族廃止だの、A級戦犯合祀反対だのと大きな声を上げているのであろうか? 近隣諸国の思惑で吹聴されている一方的な情報だけを基にし、まるで全てを知ったかのようなことを言っている日本人が非常に多いように思う。

 当時、日本は帝国憲法下にあった。帝国憲法は、立憲君主制を旨としていた。どういうことかというと、君臨すれども統治せずということである。先の大戦開戦にあたって、昭和天皇一人が、専制君主なみの強い意志を発揮できたわけではない。裏を返せば、戦争を回避するために昭和天皇が強い意志を発揮することも、非常に困難な状況であったのだ。これは、昭和天皇擁護論ということで言っているのではなく、それが当時の日本政治の在り様であったということを偏向することなく言っているのだ。

 戦後の平和憲法で、昭和天皇は象徴天皇となった。しかし、実際のところ、戦前戦中も、実はそれに近い立場であった。勿論、名目上は大日本帝国憲法第11条によって、天皇陛下は日本国軍隊の頂点とされていた。だが、実際には、昭和天皇の立場は象徴的であり、強固な軍人にも、強固な平和主義者にも成り得ない立場であった。が、故に、「四方の海、みな同朋と思う世に、など波風の立ちさわぐらん」という句に、自分の力が及ばぬ虚しさと開戦への失望感を込め、昭和天皇は詠ったのだ。そのことは、戦後、マッカーサー元帥と昭和天皇の通訳をした寺崎英成氏らによる昭和天皇への聞き取りによって編纂された「昭和天皇独白録」にも、明確に記されている。一部を抜粋する。

「私が、もし開戦の決定に対して『Veto(拒否権)』をしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は亡びることになったであろうと思う」

 昭和天皇は、軍部の主導により、国民の中に、既に止めることのできない攻撃的な雰囲気が蔓延しだしてしまっていることを感じ取っていた。そのことにより、絶望感を抱いていたことを滲ませていたことを物語る一文である。

 立憲君主制は、権威(天皇陛下)と権力(軍部・政治)の二重構造であった。だが、権力は、往々にして、権威を利用することができた。「統帥権の独立」は、その典型的な例であった。統帥権とは、天皇陛下が軍を統帥する権限のことである。内閣や議会の助言や関与なしに、軍部の助言のみで、天皇陛下が判断を下せるシステムが「統帥権の独立」である。つまり、軍が恣意的に天皇陛下を囲い込むことができる考え方だ。言ってしまえば、この「統帥権の独立」が諸悪の根源であったのだ。集団の力というのは、どんなに強い個の力よりも勝ってしまう瞬間があり、その瞬間を越えた時、集団は暴挙へと邁進する。そのことは、幾度となく歴史で繰り返されてきた悲劇の原因の一つでもある。日本も、例外ではなかった。

 ここでよく検証し、理解しなければならないのは、それではそのような集団の力を扇動したのは誰達で、誰達の思惑や私利私欲で全てが動き出してしまったのかということだ。一般的には、当時内閣総理大臣であり、陸軍大臣や内務大臣も兼務し、参謀総長をも務めていた、軍部の最高権力者であった東条英機が、先の戦争の張本人であり、全ての責任は東條英機にあったとされている。その東条英機が、靖国に合祀されているから、靖国参拝反対とする隣国や日本人も多い。しかし、本当に、東條英機が先の戦争を始めたのであろうか? ここのところには、非常に大きな疑問が残る。このことは、東京裁判と合わせ、新たに一から検証しなおさなければならぬ重要かつ大切な問題であると思う。何故ならば、事実は一つだが、真実は当事者の数だけ存在するからだ。真実とは、それぞれの当事者の思惑が事実に影響して成されるからだ。

 東條を知る多くの人の証言として、東條英機という人間は、世間一般が抱いている印象とは正反対で、軍人といっても事務方エリート官僚というイメージが非常に強かったということだ。破壊的ではなく、和を重んじ、争いごとを好まなかったという。そして、誰もが口を揃えて東條について語ることがある。それは、東條英機という人間は、無宗教で、あまり感情も表さない冷めた人間であったが、一つだけ熱き思いを抱いていた。それは、昭和天皇へ対しての情愛であった。これは、十人が十人語る東條英機の印象である。東條英機は、心底昭和天皇のことが好きで、大切に思っていた。故に、東條英機だけは、絶対に昭和天皇が望まないことを推し進めるようなことは望まなかった、と多くの人々が証言している。

 その証拠に、一般的には、東條が先の戦争を始めたと言われているが、昭和天皇の開戦を望まないという意思を知り、必死に開戦を避けるべく対米和平交渉を推し進めようとしていたというのだ。しかし、残念ながら、堅物で物静かなエリート官僚的な軍人東條英機にとって、海千山千のアメリカ人を相手に外交手腕を発揮することは難しかった。そのことが、後に外務省や軍部を暴走させる、一つのキッカケにもなったとさえ言われている。皮肉なことに、何だか今の日本を見ているような気がしないでもない。

 ただ、ここで、一つだけ理解しなければならないことは、当時、アメリカは、どうしても日本を戦争へと追い込みたかったということだ。それが、アメリカの政治的思惑であった。よって、東條に代わって誰が、アメリカと和平交渉をしたとしても、結果は同じであったことは間違いない。1941年8月、アメリカは日本への経済制裁の最終段階として、石油輸出を全面禁止した。これは、アメリカの戦争史を振り返れば一目瞭然だが、アメリカが戦争を利用する際の常套手段である。このような当時の世界情勢や背景、そして、今まで直隠しにされてきた当時のアメリカの思惑を考慮し、極東国際軍事裁判(東京裁判)に関しても、今こそ改めて表裏を通して検証し直すことが、歴史を正しく残していくということであり、我々現代日本人に課せられた役目ではないか。当時は、アメリカはじめとする連合軍側の思惑で裁判が行われ、判決が下され、歴史として残された。しかし、どんな歴史にも表裏があり、そのような表裏の事情を正確に見極めて、本当の歴史を残すということを、後世の人間がしなければ歴史は歪曲され、偏向された事実に反する形でしか残らない。

 最後に、東條英機の人柄を表すエピソードとして、「戦陣訓」のことを少し語ってこの文章を締め括ることにする。東條英機が、陸軍大臣として1941年に発した「戦陣訓」には、当時の日本の軍の状況や日本人の精神性の一端が顕著に表れている。改めて「戦陣訓」として、天皇陛下の軍隊であることの誇りと、日本伝統の武士道精神を重ね合わせ行動規範とした。その背景には、日本軍兵士の問題行動があったと言われている。中国戦線において、民間人の殺害や略奪やレイプなどが頻発し、日本軍人による暴挙が目に余る状況になっていたことに、東條は心を痛めていたという。その為、東條は、軍隊内での規律を正そうと「戦陣訓」を発したと言われている。

 ただ、皮肉なことに、東條がこの「戦陣訓」を発したが故に、多くの日本兵達を死に追いやってしまったという事実もある。何故ならば、「戦陣訓」では、捕虜になることを恥だとも解いていたからだ。しかし、道徳心が著しく欠如する昨今、軍国主義を回帰するのではなく、「教育勅語」や「戦陣訓」の回帰により、道徳心や大和魂、そして、日本人としての美意識を回帰することは、現代日本人にとって必要なことではないか。

 追記として、東京裁判で、東條英機の発言が二転三転したのも、東條が昭和天皇の戦争責任を何とか回避させたいという強い思いから、自らの誇りを捨ててのことであったということを記しておく。

【戦陣訓其の二・第八】
 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励してその期待に答うべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ。
【戦陣訓其の三第一の6,7】
 敵産、適資の保護に留意するを要す。挑発、押収、物資の燼滅等は規定に従い、必ず指揮官の命に依るべし。皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。
昭和天皇まで政争や商売に利用した許しがたき反小泉勢力の暴挙
2006年7月23日

 先の記事でも指摘したが、日本経済新聞のスクープとして、「A級戦犯合祀」に関わる昭和天皇の胸中を表すとされるメモが公開された。何故、ポスト小泉で世間が揺れるこの時期に、ワザワザこのようなメモが世間の目に晒されなければならないのか? 非常に大きな疑問を感じる。一部のコメンテーターは、昭和天皇の心中を詳らかにした、靖国参拝問題に一石を投じる非常に意味あることだ、というような馬鹿げた発言を、公益性の非常に高いテレビ等で偉そうにコメントしている。しかし、そうであろうか?

 確かに、嘗て現人神であられた昭和天皇も、戦後は象徴天皇となりある意味一人の人間であるのかもしれない。しかし、昭和天皇は、我々一日本人とは違い、「自由」もなく、「私」もなく、24時間全てが「公」であった。それは、日本国の恒久の平和を願ってのことであったはずだ。昭和天皇は、個人を捨て国のために自らの一生を捧げられた。メモに書かれていたような、個人的な私心はあったのかもしれない。しかし、それは如何なる理由があろうとも国民の目に晒してはならない、ということが「私」を捨てられ日本国のために全てを捧げられた昭和天皇へ対する最低限の礼儀ではなかろうか。

 そして、昭和天皇は、そのような特殊な環境下にありながら、側近中の側近である宮内庁長官を信頼し、心中を吐露されたに違いない。にもかかわらず、お膝元である宮内庁の長官のメモが、世に流出するということは何事か。しかも、政治が靖国の問題で揺れているこの時期、ポスト小泉で揺れるこの時期、どこまで昭和天皇や皇室を政争に利用したら、政治家や財界人は気が済むのか。これは許されざる暴挙であるとしか言いようがない。

 側に仕えていれば、昭和天皇の私心を耳にすることもあるであろう。しかし、生まれ育ちの全く違う侍従が、その行間や本意まで100%理解できるとは考えにくい。人は、十人十色考え方も感じ方も違う。受け取る人間によって、同じ言葉でも意味が違って伝わる場合だってある。ましてや、昭和天皇のお言葉を、軽はずみに国民に晒すことが必要なのか? そのこと自体が、「私」を捨てられ、国に全てを捧げられた天皇陛下を冒涜する行為ではないか。

 大体、昨年の古賀誠氏による遺族会の意志を歪曲して政争に利用した事件にしても、今回のことにしても、反小泉勢力は、国益よりも私憤や自分達の思惑を果たすべく手段を選ばぬ行為を繰り返している。今回の件も、昨年の遺族会を利用した時と、あまりにも流れが酷似している。中国にゴマをすり、中国に擦り寄り、中国のマーケットを確保したい日本財界を味方につけ、日本の国益に反するような行為を、まるで愛国の徒のような顔をして行う。これは、非常に許しがたいことである。靖国参拝問題にしても、これは心の問題であり、隣国にとやかく言われて動くべき問題ではない。日本国として、内政として、一切の他国からの内政干渉を排除して結論を模索すべき問題であり、それには、今、その問題が隣国の思惑で取沙汰され、ポスト小泉の争点になっているこの時期に、答えや変化をだすべき問題ではない。にもかかわらず、昭和天皇のご心中を記したであろうメモまで引き合いに出し、政争に利用しようとしているということは、許されるべきことではない。拝金主義に目が眩んだ日本の財界人が背後で糸を引いていることは、この昭和天皇のメモをスクープしたのが日本経済新聞であることからも一目瞭然である。そして、これは、財界にとどまることなく、政界にも一派が広がっており、懸念すべき非常に大きな問題である。商売のために、自我のために、中国に日本の魂まで売るのか、と大きな声で問いたい。これこそ、正に売国奴と呼ばれても致し方のない悪行である。

 最後に、今回の昭和天皇の私心を表したメモに関しては、必ずしも100%正確に昭和天皇の心中を伝えたものではない可能性があることを明記しておく。どういうことかと言うと、昭和天皇と接触のあった侍従や宮内庁長官の発言や今回のようなメモは、その部分だけを切り取ってみても、本意を見極めることはできない。長い時間、昭和天皇と日々接触してきた人々の話や文章を総合して判断しなければならない。確かに、あのメモだけを見聞すれば、いかにも昭和天皇が「A級戦犯全員との合祀に反対していた」かのように受け取れる。しかし、行間を読み取り、前後の言葉を読み取らなければ、昭和天皇の本意を理解することはできない。

 確かに、合祀に大きな不快感を表していたのかもしれない。だが、それはA級戦犯全員に対してではなく、日本を間違った方向、即ち三国同盟へと導いた松岡洋右と白鳥敏夫に対し、終戦直後、いや戦中から昭和天皇は不快感を示していた。よって、この故富田朝彦元宮内庁長官のメモにある文章の行間には、昭和天皇による松岡や白鳥合祀に対する憤りが潜んでいる。その松岡や白鳥に対する憤りに端を発し、このような言葉が繰り出されていたと理解した方が自然であろう。もし、昭和天皇が、全てのA級戦犯を否定的に捉えていたならば、戦後、松岡と白鳥以外のA級戦犯遺族に、毎年命日に引き出物を贈るようなこともしなかったはずである。占領軍として戦後、日本を治めていたアメリカへ対しての昭和天皇の立場的配慮は、昭和天皇の吐露される言葉の全てに伺える。そのことも配慮して、昭和天皇のお言葉を理解するべきである。大体、実際にA級戦犯が合祀されるのは、このメモの日付から3年後のことである。どう考えても、不自然である。合祀される前から、参拝は中止されていたのである。

 天皇陛下も人間である。心中どのように思われても、それは自然である。ただ、立場上、皇室の方々は、自分達の「私」を捨て、日本国の平和のために「公」で生きていらっしゃる。信頼する侍従や側近である宮内庁長官に心中を吐露されることもあるであろう。しかし、それは皇室の方々と宮内庁職員との信頼関係の上に成り立ってのことであるはずだ。それが、今回のように軽々しく公表されてしまうのでは、それでなくとも「私」もなく「自由」もない日々を強いられている皇室の方々は、どうされたらよいのか? 非常に大きな疑問と憤りを覚える。例え、このようなメモが存在し、そのような昭和天皇の私心があったとしても、それは公開するべきではなく、誰にも公開する権利はない。それどころか、このような微妙な時期に、このようなメモをリークした人々は、国賊と断じられても致し方ない。この報道を、隣国が利用して糾弾してきたら、それこそ日本の国益に反することは間違いないのだから。

 どちらにしても、このメモをリークした人間も、後先考えずにこれをスクープした記者も、その記事を受け入れ掲載したメディアも、また、このことを政争に利用しようという思惑でメモをリークさせるべき圧力や説得をした政治家や財界人も、その罪は重い。決して、許されるべきものではない。

 本当に、日本人の道徳心というのは、どこにいってしまったのか? 大和魂はどこにいってしまったのか? このような悲しむべき日本の現状に於いて、全ての諸悪の根源は、子供達でもなく、若者達でもないことは明らかだ。物質主義と拝金主義に翻弄される日本の財界や政界に君臨する支配階級の大人達や企業こそ、廃退した現代日本の諸悪の根源であることは間違いない。日本は、今こそ「憂国の士」を必要とする時ではないか。

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