政財界倶楽部(恩田将葉見聞録)

若者達がジャパニーズ・ドリームを夢みれる国を願い、「政治をもっと身近に!」というスローガンのもと、日本人に愛国心を喚起する。

靖国参拝問題

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「昭和天皇『合祀』に不快感」という報道に大きな疑問
2006年7月20日

 7月19日水曜日の日本経済新聞を皮切りに読売新聞の夕刊、その日と翌日のテレビ・ラジオのニュース、そして、翌日の朝刊等の一面で、昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀に関し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」という旨を語ったとされるメモを、当時の宮内庁長官故富田朝彦氏が残していたと一斉に報道した。しかし、小泉首相の靖国参拝問題が取沙汰される今、また、ポスト小泉が世間の話題になっている今、何故このようなメモが突然できたのかということに、大きな疑問を感じざるを得ない。非常に意図的な感じがしてならない。

 読売新聞の7月20日木曜日の夕刊一面には、このように書かれている。「遺族によると、富田氏は昭和天皇との会話を日記や手帳に詳細に記していた。このうち88年4月28日付けの手帳に「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私はあれ以来参拝していない それが私の心だ」などと記述がある。また、この記事の中では、このメモが如何に信頼性の高いものか、ということが強調されている。

 確かに、故富田宮内庁長官は、昭和天皇の言葉をメモに残していたのかもしれない。だが、天皇陛下が発せられた言葉を一字一句洩れなく書き留めていたかは疑問である。物理的に言って、人が人の喋った言葉を、間違いなく一字一句書き留めるということは、特別な訓練をされた人間でない限り無理である。勿論、要旨を書き留めることは可能である。しかし、言葉に秘められた行間的な思いや、微妙なニュアンスまでは、100%確実に書き留めることは不可能なはずだ。十人十色、感じ方も、考え方も違うのである。同じ言葉を聞いても、聞く人間の思想や思惑によって、内容は微妙に変わってしまうはずである。

 大体、何故、この微妙な時期に、このようなメモが登場しなければならないのだ。非常に意図的なものを感じる。これだけしっかり残されているメモであるならば、何もこの時期ではなく、もっと早い段階で世間の知るところとなってもおかしくはない。一部の人間の思惑が、このメモの公開に影響しているとしか考えようがない。

 ポスト小泉が焦点になっている現状、また、隣国より小泉首相の靖国参拝が問題視されている今、靖国問題自体がポスト小泉の選択に影響がでるこの時期に、このようなメモが出てくること自体、非常に不自然である。このメモの登場によって、靖国問題の世論が変わり、ポスト小泉選択にも影響が出れば、喜ぶのは靖国問題を盛んに取沙汰している隣国だけであり、日本は外圧に屈指、内政干渉されたと言っても過言ではない事態にさえ成り得る。ある意味、今回のメモ騒動は、国益に反する行為であると言っても過言ではない。そのように、国益にも大きな影響が出る可能性があるような報道を、迷うことなく一面に掲載する大手新聞社の倫理観を疑わざるを得ない。

 大体、昭和天皇が心中で思っていた問題であり、その立場上公言はできなかった問題である。それをこのように公にしてしまうということは、その行為自体が昭和天皇に対する冒涜行為であり、昭和天皇の尊厳をも損ないかねない行為と言っても過言ではない。このメモを記事にするべく加担した人間達の罪は非常に重い。戦後、昭和天皇には象徴天皇としての立場があった。その中で、嘗て現人神であられた昭和天皇が、人として歩を進めていくには色々な苦しみも悩みもあったに違いない。我々一般人のように、自由に発言することも許されず、全てが公であり、自由というものはまったく許されていなかったと聞き及ぶ。だからこそ、そのような昭和天皇の尊厳は、未来永劫守らなければならないのではないか。

 百歩譲って、メモの通りの思いを昭和天皇が持っていたとしよう。だからといって、昭和天皇は、そのことによって、政治的に影響を及ぼしたいと考えたであろうか? 答えは、否である。そのことによって、隣国の主張に日本国が屈することを昭和天皇が望んだであろうか? この答えも、否であろう。

 先の大戦では、多くの日本人が命を落としていった。その先人達の魂は、靖国神社に宿っている。それは、今に生きる我々には理解できないことであり、我々が現世で議論するべきことでもない。当時、何も知らずに、召集令状に従い、愛する家族や人々を守るべく、国のために出征していった先人達は、上官の命令を信じ、日本国を信じ、「死んだら靖国で再会しよう」ということを合言葉に命を国に捧げていった。彼らが拠り所としていった場所が、靖国神社なのである。それは、宗教だの、政治だの、という問題ではなかったのだ。その思いを、我々は一番大事にしなければならない。理屈ではなく、政治的な思惑でもない。国の為に命を落とした先人達の屍を踏み越えて、今の日本の平和は成り立っている。だからこそ、靖国参拝の是非を議論する以前の問題として、国の為に亡くなった先人達が拠り所にしていた靖国に手を合わせるということは、当たり前のことなのである。そのことは、如何なる理由があろうとも、誰にも批判されるべきことではない。何も、宗教云々という問題ではない。靖国神社を信じろとか、靖国神社に手を合わせろと言っているのではない。靖国を拠り所として命を落とした先人達の魂に手を合わせてしかるべき、と言っているだけのことである。小泉首相が靖国を参拝する思いも、まったく同じ次元でのことであると思う。例え、公人である総理大臣であろうが、いや、総理大臣だからこそ、国の為に命を落とした先人達の英霊にまずは手を合わせる、それが当たり前ではないか。A級戦犯が合祀されているか否かという問題以前の良心の問題である。

 A級戦犯の是非は、簡単には語れない。そのことを判断しようと思えば、極東軍事裁判の是非をまずは正しく検証しなければならないであろう。現状、それが無理な以上、そのこと是非は明言できない。ただ、A級戦犯の人々に関しても、それぞれ絞首刑等で罪を負ってこの世を去ったわけである。死してまでも罪を問われ、手を合わせてもらうことも許されないというようなことは、人の道として、本当に正しいことなのであろうか。非常に大きな疑問を感じる。そのような発想になれば、究極の発想として、何故天皇陛下は、現人神であり最高責任者であったにも関わらず、彼らA級戦犯の人々によるとされる暴挙を止められなかったのか、という発想にまで至ってしまう。それは、あってはならないことだ。

 例えば、会社で、代表取締が感知せず、知らされていなかったことでも、一旦ことが起これば、代表取締役が責任を取らされるではないか。組織というのは、大きくなればなるほど、一個人の力が働かなくなる瞬間があるものだ。例え、独裁者だとしても、パイオニアだとしても、あるポイントを過ぎると自らの力が働かなくなり、見えない力に操られ動いていってしまうものである。それが、人の世の常であり、一人一人の人間の小さな力が結集されての大きな魔力なのである。先の戦争では、そのような魔力が、悪い方向に働いてしまった。だからこそ、占領軍は天皇陛下を象徴天皇として、今度は一人一人の日本人の神通力が、良い方向に働くように仕組んだのではないか。そのことの是非も、今は問えないのだが。

 ただ、ハッキリと言えることは、もう二度と、天皇陛下や皇室を政争や政治的思惑で利用してはならない、ということである。何故なら、皇室というのは日本の文化の一部であるからだ。今回のメモに関してのスクープは、そのような暗黙の掟を破る行為であり、日本文化を汚す行為である。それが皇室お膝元である宮内庁関係者から出たということに、大きな懸念を覚える。と同時に、日本人の道徳心というものが、そこまで地に落ちてしまったのかと、日本の将来を憂わずにはいられない。本来、「先憂後楽」でなければならないはずが、今の日本は、「先楽後楽、我欲一辺倒」となってしまっている。本当に、これで良いのであろうか。非常に大きな疑問を感じる。

靖国問題、愛国心、道徳心、その原点は教育勅語に
2006年6月29日

 靖国の問題は、隣国にとやかく言われて、我が国の姿勢を左右しては絶対にいけない問題である。このような問題は、世界中の隣国同士、形は違っていても、どこででも起こっている問題である。日本と韓国だけ、日本と中国だけが特別なわけではない。それを、日本のマスコミが、自分達の偏向した視点で取り上げ続けるから、このように国内でも、おかしな論争になってしまっているのだ。我々日本人が解決する問題であり、他国に干渉されるべき問題ではない。

 また、如何なる理由があろうとも、亡くなった先人に手を合わせることは、人としての人の道であり、人として当たり前の行為である。それは、最も基本的な道徳心ではないか。そこに、思想やら主張などを持ち込むこと自体が間違っている。純粋に手を合わせることは、どこの国の人々もしていることである。勿論、中国でも、韓国でもだ。日本だけが間違っている、というような隣国の思惑での主張に軽はずみに同調してしまう日本人が多くいるというところに、大きな危機感を覚える。

 日本人というのは、大きな流れにのまれて流される国民性を持っている。こんな実験をアメリカ人の親友としたことがある。舞浜のディズニーランドに行き、駐車場に車を入庫する時のことだ。手前にも沢山空車スペースがあるにもかかわらず、皆、係員の指示通り一列に並んで入庫していた。私とアメリカ人の親友は、顔を見合わせニタリと微笑み実行に移した。何を実行したかって? 係員の指示を無視して、入り口に最も近い駐車スペースへと暴走したのだ。結局、列は崩れ、皆一斉にクモの子を散らすように思い思いの駐車スペースに向かって暴走しだした。そして、勝手に、思い思いの駐車スペースに駐車しだした。

 誰も、自分では最初の一歩を踏み出せない。ところが、誰かが堰を切れば、平気で暴走する。それが、日本人特有の護送船団意識の強さなのかもしれない。結局のところ、抑圧されている分、はじけた時の反動は大きい。先の大戦でも、国内においてはこのような意識が国民の中でも起こっていたことが想像できる。

 組織というのは、例えその組織を立ち上げリードした人間でさえも、力が及ばなくなり、集合された力がそのようなワンマンな独裁者の力を上回ってしまい止まらぬ動きへと流れ出す瞬間がある。そうなると、例え独裁者やワンマン経営者といえども、流れを止めることはできなくなってしまう。誰でも、経営者や組織のリーダーを経験したことのある人間ならば、こういう瞬間を経験したことがあるはずだ。これは、理屈ではなく、人間の見えざる煩悩が自然力によって、小さな一つ一つの力が結集される瞬間である。これが怖いのだ。そして、これが人間なのだ。

 今、日本人は、よく研究も、勉強もせず、聞きかじりで全てを知ったような気分になり、国の足を引っ張る動きに軽はずみに加担してしまう。これこそが、怖いことであり、現代社会で頻繁に起こっていることである。ここのところに、非常に大きな危機感を覚える。全ての答えは、歴史の中にあるのだ。にもかかわらず、歴史を学ぼうともせず、目先のことで判断してしまう。恐ろしいことだ。

 日本は、今、モラルが非常に低下している。道徳心ということが、戦後教育で等閑にされ続けた結果であろう。よく、「最近の子供達は・・・」などと大人達が言うのを耳にするが、そのような言葉を耳にするたびに、待てよ、そういう大人のモラルはどうなっているのか、と非常に大きな疑問を感じてしまうのは私だけではないはずだ。

 何時の時代も、子供達は大人の後姿、親の後姿を見て、手本にして育つ。ということは、今社会で起こっている諸々の問題の原点は、我々大人にあるのだ。そのように素直に認識することが、まず我々日本人の大人達が今為さなければならないことだ。

 そして、「国の将来を憂う」ということ、愛国心ということは、押し付けたり、頭で考えることではなく、自然と身体の内から湧き起るものでなければならない。「愛する人々を守る」という感情の延長線上に、「家族を愛し守る」という感情があり、その「家族を愛し守る」という感情の延長線上に、「その家族が帰属する国を愛し守る」という感情があり、最終的にそのような気持が、真の愛国心という形で結実されるべきなのである。

 愛国心とは、押し付けであっては絶対にならない。心の内から自然と湧き起るものでなければならない。それには、正しい教育をしなければならない。押し付けではない、偏向していない教育を。

 子供達は、白紙の状態で生まれてきて、そこに大人達が勝手に色をつけてしまうのだ。そうではなく、色々な体験、経験をさせ、学ばせ、その中から自分達で自分達独自の道を導き出し、身に付けていく、そういうことができる教育システムであり、社会であれば、「国を憂う」ということもなくなるはずだ。

 靖国の問題も、今社会で起こっている諸々の悲惨な事件も、その原因は、日本人の道徳心と愛国心の欠落にある。そして、その道徳心と愛国心の欠落は、戦後教育によってもたらされた悪しき流れである。今こそ、「教育勅語」を今一度回顧するべき時ではないか。この素晴らしい道徳心の教えを、日本人は忘れてしまっている。しかし、世界では、日本人が置き去りにしてしまった日本の「教育勅語」を、道徳心の手本として注目しだしている。

 自国の文化を忘れた国は、必ず滅びる。そうやって考えてみると、日本は本当に世紀末的危機にあるのかもしれない。外国人が禅寺を継承し、日本人は拝金主義に奔走する。日本人が忘れた日本の教育勅語を、外国人が注目する。気付いていないのは、日本人だけなのかもしれない。

 国の宝は、子供達であり、国の将来は子供達にかかっている。故に、教育というのは国の中心であり、最優先課題であることは間違いない。私は、そう信じている。

靖国神社と追悼施設

靖国神社と追悼施設
2006年1月7日

 昨年は、小泉首相が靖国神社を参拝するということに対し、非常に大きな反響が国内外から噴出した。この問題は、小泉さんが首相に就任以来続いて取りざたされている問題である。昨年は、東シナ海の海底ガスの問題を有利に進めるべく中国が、竹島の問題をめぐっては韓国が、それぞれの思惑で小泉首相の靖国参拝に対し、激しく抗議の声を上げた。中国や韓国のこのような理不尽な主張に同調して、日本の大手マスコミは一斉に小泉批判を噴出させた。そして、一部の日本人さえもがマスコミの報道に翻弄され、中国や韓国の主張を支持した。しかし、解散総選挙の結果をみてみると、小泉首相率いる与党の大勝であった。多くの国民が小泉首相の改革路線を支持したのである。にもかかわらず、未だに多くの大手メディアやコメンテーターなどと呼ばれる似非文化人達は、中国や韓国の主張を支持するがごとくのコメントを吹聴し、小泉首相の靖国参拝を批判している。
 中国や韓国が小泉首相の靖国参拝に異議を唱えるのは、それぞれの国の外交的思惑での発言なので、百歩譲って、まあ仕方ないとも言える。ただし、これは完全なる内政干渉であるから、中国や韓国が主張するのは勝手だが、その主張に日本が耳を貸す必要はない。靖国神社参拝問題は、中国や韓国の外圧に関係なく、日本人が日本の国政問題として独自に考察し、慎重に結論を出せばよいことである。如何なる理由があろうとも、外圧によってこの問題の結論が左右されることがあってはならない。
 この問題で一番の問題点は、日本人であるにも関わらず、よくよく考察することもなく、大手メディアの報道に左右され、靖国神社参拝に反対する輩がいるということである。日本の国の為に命を落とした先人達の思いを差し置いて、中国や韓国の理不尽なる主張ばかりを擁護する、偏り不公平な主張を繰り返す人々がいるということは、日本の国にとって悲しむべきことである。
 確かに、靖国神社には、A級戦犯達も合祀されている。先の戦争を引き起こした責任の多くが、彼らA級戦犯の人々にあることは否定しない。しかし、彼らの数よりも何万倍も多くの先人達が、靖国神社には祀られている。彼ら無垢なる心の先人達は、純粋なる愛国心の下、尊い命を日本の国のために落としたのである。そして、彼らが後ろ髪を引かれながらも日本の国の為に命を落とすことができたのは、彼らが心底より愛した家族を守るために、日本の国を命懸けで守らなければと信じたからである。そして、そんな彼らは、恐怖の中、「靖国で再開しよう」ということを合言葉に、その言葉を心底より信じつつ、念じつつ、戦いに身をさらし、尊い命を国のために捧げていったのだ。
 このような事実がある以上、靖国神社に参拝し手を合わせることは、如何なる理由があろうと、批判したり反対したりするべきことではない。靖国で手を合わせるということは、理屈でも、思想でも、宗教でも、意地でもなんでもない。純粋に、国のために命を落とした先人に手を合わせ感謝することである。そのことが、いけないことだと言うのなら、日本には、もう道徳心などというものは一切ないと思わなければならない。誰が祀られているから手を合わさないとか、一国の首相だから手を合わせるべきではないとか、そういう次元の問題ではない。反対を唱える人々は、靖国神社とは別に追悼施設を建立すれば良いと簡単に言う。しかし、魂の宿らない施設に、誰が参拝するというのだ。それこそ、対外的な形式事でしかなく、税金の無駄遣いでしかない。
今の日本の平和と繁栄は、靖国に祀られている我々日本人や日本のために尊い命を落とした多くの人々の屍の上に成り立っている。そのことを否定するということは、彼らの死をも否定し、日本の国自体を否定することになる。いや、それだけではない。感謝し、手を合わせることを否定するという精神は、平和ということをも否定することになる。声だかに「平和」を唱えることは容易い。しかし、「平和」ということの原点は、手を合わせ感謝する気持ではないか。国の為に命を落とした先人達が祀られる靖国で手を合わせることが、そんなに悪いことなのか? 非常に大きな疑問を感じる。小泉さんは、日本の首相だからこそ、国民の代表として率先して先人達の御霊に手を合わせているのではないか。それが道徳心というものではないか。
 我々大人が、国の為に命を落とした先人達へ手を合わせることを否定したならば、そのことを背後から見ていた子供達は、絶対に手を合わせないであろう。それだけではない、彼らにとっての先人である我々親の世代がこの世を去った後に、そんな大人の姿を目の当たりにした子供達は、絶対に我々の墓の前で手を合わせることもしないであろう。実際問題、先祖の墓参りをする日本人が年々少なくなってきているそうだ。立ち行かなくなっている寺院も多いと聞く。嘆かわしいことである。
 大人が率先して、先祖や先人の御霊に手を合わせることをして見せなければ、子孫らは決して手を合わせることを学ばないであろう。大人が手本になって当たり前。一国の首相が手本になることは当然のことである。日本だけではない。世界中どこの国でも例外ではない。実際に、中国だって、韓国だって、アメリカだって、皆先人達の御霊に手を合わせる。日本人よりも、敬虔に。日本だけが、何故こんなにも当たり前のことが許されないというのだ。何故日本人だけが、自国の先人に手を合わせることを批判し、批判されるのか。非常に大きな疑問を感じざるを得ない。今こそ、国を憂い、国を思い、国を愛する心を回帰しなければならぬ時だ。日本の将来を憂い、心穏やかでないのは、私だけでないはずである。

小泉首相による靖国参拝の是非
靖国参拝は内政問題であり他国に干渉される問題ではない
他国による内政干渉「靖国参拝に対する抗議」が続く限り参拝すべき
2005年10月17日

 本日、午前10時15分、小泉首相は、靖国神社を参拝した。この問題に関しては、何度も取り上げてきたので繰り返しになってしまうが、大切な問題なのでやむを得ない。基本的に国のために命を捧げた先人達に礼を尽くすということは、国民として当たり前の行為であり、何ら非難されるべき問題ではない。確かに、首相は公人である。しかし、日本国の首相である以上、国のために命を捧げられた多くの先人に礼を尽くすことは当然のことである。他国にとやかく言われる問題ではない。一国の首相が、一国民として、先人に手を合わせるという模範を示すことは当たり前のことである。世界中、どこのどんな国でも、国のために命を落とした先人に手を合わせることは当たり前のことである。国のために亡くなった先人のために手を合わせない国があるであろうか。もしあるのなら教えて欲しいものだ。靖国に参拝するな、公人である日本国首相は、国のために命を落とした先人に手を合わせることも許されないというのならば、中国の首相にしても、韓国の首相にしても、宗教色が少しでも感じられる自国の先人慰霊碑には手を合わせないということを実践されてから、日本に対しても抗議をして頂きたいものだ。大体筋が通っていない。自分達は何をしても良くて、日本に対してはダメだと抗議する。そのくせ、中国など、東シナ海の海底ガス田に関しては、まるで泥棒猫のようなことをしていても、当たり前という顔をしている。東シナ海のガス田の問題は、国際問題であるが、靖国に参拝することは内政問題であり、他国によって干渉される問題ではない。にもかかわらず、何故日本のマスコミは、他国の肩を持ち、自国の足を引っ張るような報道をするのか理解に苦しむ。
 中国や韓国が、不快に感じるのは仕方がない。それは、中国や韓国には、苦い戦争体験があるのだし、中国や韓国にも感情はあるのだから。日本人は口に出して言わないだけで、日本人だって先の戦争では多くの辛い思いをしてきた。特に終戦前後時には、立場がまったく逆転した酷い体験だってしている。しかし、一度でも、そのような体験に関し、日本の国民は中国へ対し抗議をしたことがあるであろうか? 日本政府も、思うところは多くとも、戦後60年間中国や韓国へ対し誠意を持って対応してきた。種々の感情は、各々の国の国民の感情であり、国としては、如何なる理由があろうとも、他国の内政に干渉するべきではない。それが、人として、大人としての対応だ。
 このような内政干渉が続く限り、靖国参拝は断固として続けるべきである。それが、日本の国としての姿勢である。如何なる国も、如何なる理由があろうとも、他国に内政を干渉されるべきではない。そのような内政干渉には、国として断固とした態度で臨んでしかるべきである。
 他国の肩を持つ日本のマスコミの報道姿勢は、日本の国益をも損ねることである。これだけ、中国や韓国が神経質になっているのだから、火に油を注ぐような報道をせず、静かに見守るべき問題であることは分かり切っていることである。小泉首相靖国参拝直後の官房長官による定例記者会見で、日本の大手マスコミ各社から、この問題は外交的問題であり責任は重大である、というような質問が殺到していた。その様子は、日本の大手マスコミの記者達が、まるで中国や韓国の代理人であるかのごとくにさえ見えた。自国の政府の足を引っ張るような、内政干渉する国の肩を持つような質問に終止する大手マスコミの記者による報道姿勢には、非常に大きな疑問を感じる。それでは、彼らマスコミ人に問いたい、中国が東シナ海で勝手にやっている海底ガス田は正しいというのか。日本は、黙って中国による東シナ海の海底ガス田を許せというのか。彼らの質問の仕方を聞いていると、そうとしか聞こえてこないのは私だけではないはずだ。彼らの質問自体が、悪意に満ちており、日本の国益を著しく損ねかねない。そのことに気付いていない一部記者達の、記者としての資質に大きな疑問を感じざるを得ない。
 アメリカの多くのメディアは、この問題に関して非常に冷めた見方をしている。というのも、多くのアメリカ人は、この問題は日本の内政問題であり、他国に干渉されるべき問題ではないという印象を持っているからである。数カ月前に来日したアーミテイジ氏にしても、筑紫哲也氏によるインタビューに於いて、「靖国参拝問題は、日本の内政問題であり、如何なる理由があろうとも中国や韓国の抗議に屈するべきではない。そのような内政干渉が続く限り、堂々と参拝すべきである。小泉首相の対応は、間違っていない。そのような内政干渉がなされなくなった段階で、初めて日本の国内で日本人によって靖国の問題を解決すればよいではないか」という見解を述べていた。
 正にその通りである。他国による内政干渉が続く限り、参拝は続けるべきである。他国による圧力や内政干渉によって、靖国参拝の問題を解決するべきではない。あくまで、他国による内政干渉とは別の次元で、日本国として独自の判断で、内政問題として解決しなければならない。それには、今は余りにも時期が尚早である。何故ならば、これだけ中国や韓国が騒いでいる時期に、靖国とは別の慰霊碑等を作るというようなことを決めてしまえば、日本はどのような外圧にも屈する国というレッテルを貼られ、次から次ぎへと無理難題を突き付けられるのが落ちである。それこそ、日本の国益を損なう大きな問題である。
 東シナ海ガス田問題や竹島問題など現状続けられている対中、対韓問題の解決にも大きな影響を与えると、中国、韓国のメディアをはじめ、日本のメディアまでもが報道している。が、しかし、内政問題である靖国参拝問題をそれらの外交問題と絡めて語ること自体が非常におかしい。日本の大手メディアが、日本は中国や韓国の言いなりになれ、と言っているに等しいような報道姿勢であることに、非常に大きな驚きを覚えるのは私だけではないはずである。

靖国参拝問題に寄せられるコメントに驚きと悲しみ
2005年10月4日

 靖国参拝問題に関するコメントが書き込まれているサイトを徘徊してみて驚いた。なんと、悲しむべき内容の書き込みが多いことか。民主主義国家である。基本的には、どのような意見があろうとも、どのような考え方をしようとも、十人十色、多種多様で構わない。しかし、非常に酷い内容のものが目につくことに大きな悲しみを覚える。それも、冗談半分の書き込みではなく、そのような考え方が正しいと信じてコメントされていることに、恐ろしささえ覚える。
 先人達は、なにも好き好んで死んでいったのではない。国のためと信じて、死んでいったのだ。確かに、当時の政治に問題があったのであろう。そして、そのような政治を反強制的に信じなければならない環境にもあったのかもしれない。しかし、共通することは、皆日本の国を愛し、日本の国を守り、家族を守るためであると信じ、尊い命を落としていったということだ。経過や結果はどうあれ、そのことは事実である。そのような彼らの無垢な思いを踏みにじる権利は、誰にもない。それが正しかったのか、間違っていたのか、死んでいった彼らにはわからないし、知る由もないのだ。
 我々は、結果を知っている。しかし、当時に生きていたわけではなく、伝え聞いたり、ものの本で読んで知るのみである。にもかかわらず、当時の状況を目の当たりにしたり、まるで死んでいった人々の心の内まで覗き見てきたような物言いをしたりして、国のために命を落とした人々を愚弄するべきでは絶対にない。
 このようなことを言うと、大体「英霊」だのと戦死者を美化するような考え方をすること自体に問題がある、というようなことを言われる方々もいる。確かに、「英霊」という言葉は、死者を敬い、特に戦死者を敬う言葉かもしれない。しかし、そういう言葉がどうのこうのという問題ではないのではないか。日本の国を信じ、国のため、家族のために、尊い命を落とした人々を、尊敬の念をもって敬称することの何が悪いのだろうか? 戦争を美化しているのでもなんでもない。国のために、純粋な気持で命を落とした人々を敬う気持のどこが悪いのか? 今の日本の平和は、彼らの尊い命の犠牲の上に成り立っていることは間違いない。そのことは、誰も否定できない。彼らの犠牲があったからこそ、日本人は自分達の過ちを繰り返さないという強い信念を心の中に刻み込むことだってできているのではないか。
 このようなことを言うと、靖国だから問題なのだ。靖国でなくても良いではないか、靖国神社の姿勢は昔も今も変わっていないではないか等々、攻撃される。確かに、靖国でなければならない、という決まりはない。しかし、まったく関係のない場所で手を合わせても意味はない、とは言わないが何か滑稽だ。死んでいった先人達は、靖国で再会できる、と信じて死んでいったのだ。死んで靖国で物理的に再会できるとは、誰も思っていなかったであろう。それでも、彼らは、唯一そのことだけを拠り所とし、恐怖の中でも国と家族を思いつつ命を落としていったのだ。その彼らの気持を踏みにじり、亡くなってからまでも、まるで彼らの死自体を否定するような、存在自体を否定するような言動が、他国民からだけでなく、自国民、日本人からあるということこそ、非常に悲しむべきことである。純粋な気持で身を捧げられた先人達に申し訳ない気持で一杯であるのは、私だけではないはずだ。彼らを死なせたことだけでも、申し訳なく思うのに、彼らに手を合わせることまでをも否定されるとは、この国に「人が人として生きる道」、というものはなくなってしまったのか、と非常に大きな憤りと不安を覚える。
 国のために命を落とした人々に手を合わせることは、特別なことではなく人として当たり前のことではないか? そこには、靖国だから、何処だから、どうのうこうのという如何なる理屈も必要ない。敬い感謝する気持だけで、充分ではないか。感謝などという言葉を使うと、また、戦争を美化している、などと揚げ足をとる、くだらぬ輩がいるかもしれない。しかし、そんな次元の低いことではない。
 人の命とは、この世で一番重く尊いものなのだ。理屈ではない。無心で手を合わせる、そこに理屈はいらない。故人に礼をつくすということは、万国共通当たり前のことである。中国人も、韓国人も、アメリカ人も、他の国々の人々も当たり前で行っている。何故、日本人だけが、先人に手を合わせることも許されぬというのか? それなら、前出したような国々の元首達が、自国の先人を戦没慰霊する時にも、同じように政教分離と抗議して頂きたい。まったく宗教色のない戦没慰霊碑などは、あまり聞いたことがない。
 こんなことを言うと、歴史がどうだからこうだからと言う人々がいる。しかし、歴史認識こそ、双方向から見聞して語らなければならぬことである。どこの国でも、自国を美化するのは当然。そんな歴史観を鵜呑みにして、まるで自分の目で見てきたことのように、歴史について偏った意見を述べる人々が日本には何と多いことか。タイムマシーンにでも乗って、歴史のそれぞれの場面を見聞してこられたというのなら分かる。しかし、自分の目で見てもいないのに見たようなことを言われることには、大きな疑問を感じる。もっと、冷静に、公平な目で、机上論ではなく、ご自分達で汗を流し検証してから、モノを言って頂きたい。
 私の嘗ての上司は、騎馬兵として満州から中国方面へ出兵していた。最終的には、ロシアの捕虜になりシベリアに5年以上抑留されていた。その上司が、よく戦争中の話をしてくれた。彼は盃を傾けながら、「戦争は惨いものだよ。誰も、戦争なんかやりたくもないし、いきたくもないよ。(中略)人と人というのは、生まれ育ちが違っても、心が触れあうこともあるし、狂気と化す時もあるということを知ったのも戦争だよ」と涙を流しながら語っていた。彼から聞いた印象的な話をいくつか参考までに、ここに書き記しておくこととする。
 日本人も随分と酷いことをしたよ。でもね、全部が全部じゃないんだよ。そういう日本人もいたということだ。そういう輩はね、別に相手が中国人だから、朝鮮人だからということではないんだよ。日本人である自分達に対してだって、酷い仕打ちをしやがった。結局は、どこの国の人間だからどうってことじゃなくて、その人間の性質(たち)なんだよ。ただ間違いないことは、戦争ってやつは人間を狂わすってことだね。最初の頃は、人を殺めても涙を流していた。ところが、その内に、無造作に殺めることができるようになってしまう。恐ろしいことだよ。
 正直、慰安所みたいなところはあったよ。行列してね。悪いことだとわかっていても、寂しい思いが一杯で夢中で抱きつく。女の方も寂しく絶望的だから、案外優しかったよ。優しくすりゃ、優しくしてくれる。中には、酷いことをするやつもいたよ。可哀想な女も沢山見た。そういうのも全部戦争なんだよ。
 でもね、日本人ばかりがそうじゃないんだよ。戦争ではね、両方ともが狂うのさ。日本人も狂ったけど、中国人だって随分酷いことを日本人にしたんだよ。最後に捕まった時なんかはね、素っ裸で猿ぐつわされて皆正座だよ、それを殴る蹴るはまだ我慢した。だけど耐えられなかったのはね、そんな俺達の前で、無力な日本人の女子供を犯しやがることだね。見てられなかったよ。それも一人や二人じゃなくて、寄ってたかって死んじまうまで犯し続けるんだよ。わざと旦那の前で奥さんを犯しまくり、娘を犯しまくる。まだ、十二や十三の子供をだよ。救けることも何もできなくて、舌でも噛んで死にたかったよ。でも、猿ぐつわされててそれもできない。あれは地獄だったね。今でも、泣叫ぶ声が耳の奥に残っているよ。
 それに比べリゃ、抑留時代は良かった。大変は大変だったけど、俺にとってはまだましだったね。絶望感でどうしようもなくて、精神的にまいって死んじまうやつも沢山いたけど、俺は上手くやってたよ。ロスケ(彼の言葉のまま。ロシア人を侮蔑する呼称のよう。しかし、彼の響きには、親しみも感じられた)は、中国人に比べると、ずっと人道的で親しみやすかったよ。ロスケの野郎、クソしても紙でふかないんだよ。それでも汚れないんだからまいっちまうよな。ロスケのクソは、ウサギのウンコのでかいやつみたいで、コロコロなんだよ。正露丸のでかくて色の薄いやつって感じだよ。寒いとこで、肉ばっか食ってるからなんだな。
 それと、ヤツラ元気なんだよ。こっちが一生懸命畑で労働してるってのによ、離れたところでロスケの真っ白な女と年がら年中乳繰りあってんだよ。どうしようもなく寒いんだぜ。いや、まいったよ本当に。でもね、時々な、密かに家に呼んでくれて、肉を一杯食わせてくれたんだよ。案外、心が通じ合ってた。気の持ちようで、悲観的になってダメだって言いながら死んでいった日本人も沢山いたけどね。俺は、案外ロスケとは気が合ったよ。
 全ての捕虜がこうであったのではなかろう。しかし、気の持ちよう、それとやはり相手の「人となり」によって、辛い思いをした日本人捕虜も、上記したように良い想い出を作った日本人捕虜もいたのであろう。ただ、帰国したい気持を忘れたことは、一瞬たりともなかった、とも言っていたことを付け加えておく。

 このように、過去の出来事、歴史には必ず裏表がる。表裏一体で、本当の意味での歴史なのである。歴史的出来事においても、歴史の本や教科書にでてくる表の綺麗事の裏側には、裏方としてその歴史的事象を実現するために根回しをしていた裏方の歴史だって必ずあったはずだ。歴史は、絶対に一面からだけ見て判断してはいけない。色々な側面があり、色々な出来事が重なりあって歴史は成り立っている。決めつけの歴史観ほど恐ろしいものはない。偏った決めつけの歴史観をもっともらしく吹聴することほど大きな罪はない、と私は強く思う。

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