政財界倶楽部(恩田将葉見聞録)

若者達がジャパニーズ・ドリームを夢みれる国を願い、「政治をもっと身近に!」というスローガンのもと、日本人に愛国心を喚起する。

社会・文化

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8年ぶりのビリー・ジョエルは健在でした
2006年11月28日

 今夜、8年ぶりにビリー・ジョエルと同じ空間で、同じ空気を吸ってきました。彼は、変わっていませんでした。まったく変わっていませんでした。さすがに60歳、少々おじさん臭くなっていましたが、精神年齢はまったくかわらず元気でした。相変わらず、心で奏で、心で歌い、我々の心を揺さ振ってくれました。心の共鳴に、国境も、年齢も、関係ないということを彼は証明してくれました。心が温かくなり、楽しくなり、アメリカに帰りたくなりました。ありがとう。これからも、世界中の人々の心に語りかけ続けてください。親愛なるピアノ・マン。
道徳心が欠落し当たり前のことが当たり前に為せぬ現代日本
今こそ「教育勅語」と「修身」を見直し道徳心の回帰を
2006年7月31日

 戦後、日本の復興と弱体化政策を推し進めるGHQによって、「教育勅語」も、「修身」も、一方的に悪の象徴とみなされた。何故なら、劣勢であるにもかかわらず日本軍が勇猛果敢に戦ったのは、日本国民が現人神天皇陛下の下、「教育勅語」や「修身」を信じ、一致団結して頑張ったからと信じたからだ。結局、1946年に「教育勅語」と「修身」の奉読と神格的取り扱いは禁止され、1948年には失効確認が決議された。それ以来、「教育勅語」も「修身」も、我々日本人にとっては、口にすること自体タブーとなって60年余の月日が流れ去った。

 嘗て、日本の学校には、門の横に奉安殿という建物が必ず建っていた。そこの中に、「教育勅語」は、桐の箱に入れられ、桐の盆に載せられて安置されていた。そのような形態で奉られていたので、GHQは真っ先に奉安殿を取り壊し、「教育勅語」を廃止したのかもしれない。だが、あの当時、GHQが真剣に「教育勅語」の精査をしていれば、もしかすると廃止されてはいなかったかもしれない。

 戦後60年経った現在でも、共産党をはじめ一部の日本人は、「教育勅語」は天皇を神として奉り主権在民の現行憲法に反する、戦時中や軍国主義を回帰するなどと言って、今でも遮二無二否定し続けている。しかし、それは、あの時代、天皇が現人神であった時代であるならば、確かに「教育勅語」は天皇が国民に直に下した言葉、という捉え方をされても致し方ない。だが、現代において、そのような捉え方をするのは時代錯誤だ。誰も、あの時代に回帰するべく、「教育勅語」のことを口にする日本人はいないはずだ。

 偏向することなく、また明治天皇が発した言葉ということを除外して、道徳心という視点で「教育勅語」や「修身」ということを見直すと、今、現代日本で失われている道徳心の在り方が見えてくるはずである。世界の中で日本が特異な国、得意な美徳を持ち、非常に礼儀正しい国民として見られていたのは、「教育勅語」や「修身」によるところが大きかったようにさえ思えてくるのは、私だけではないはずである。

 その証拠に、アメリカの故ロナルド・レーガン元大統領やイギリスのサッチャー首相は、自室に英訳された「教育勅語」を飾っていたという。80年代のアメリカは、現在の日本のように物質文明を極め豊かにはなっていたが、道徳心は失われ凶悪犯罪が頻発し、検挙率も低迷していた。心を痛め、アメリカの将来を憂いた故レーガン元大統領は、「教育勅語」を参考に、道徳心を説く本を出版することを側近に指示し実現した。その本は、現在では、英語だけでなく、フランス語、ドイツ語、スペイン語などにも翻訳され、道徳心のバイブルとして、世界中で3000万部以上を売り上げている。それだけではない、フランスの通信社AFPの東京支局長であったレオン・ブルー氏も、「外国人記者の直言」という読売新聞の欄に、「教育勅語と漢文の問題」という論文を掲載し、「教育勅語」は素晴らしい道徳の教えであり、「教育勅語」をめぐる論争はさっぱり理解できない、とさえ言っている。また、在日フランス大使館に勤務していたポール・ボネ氏は、現代における日本の子供達の傍若無人ぶりと、教育の一環としての体罰を暴力と位置づけている現代日本の平和ボケぶりを痛烈に批判すると同時に、「教育勅語」の廃止を嘆き、修身教育を絶賛している。

 今、教育現場では、混乱が起きている。子供達の発育は、想像以上に早くなった。小学校高学年で、思春期の反抗行動さえ始まっている。しかし、体の成長に彼らの精神的成長が追いついていない。そのことで、多くの教師は、高い壁にぶつかっている。何故なら、彼ら生徒達をまとめられなくなっているからだ。心無い親達は、教師の質が落ちた、などなど教師を批判するような言葉を無神経に子供達の前で吐く。それだけではない、父親の悪口さえ子供達の前で披露する有様である。子供達が、道に迷って当たり前である。

 確かに、戦後教育に大きな問題があった。そのツケが、今回ってきている、ということもいえる。しかし、現状、教育現場を見ていると、子供達にとって最も身近な存在である大人達すなわち親達に、問題がある場合が多い。PTAでは、体罰を暴力として禁止し、教師は教育現場というジャングルで、雁字搦めの丸腰状態で奮闘している。生徒に体罰を加えようものなら、その教師はたちまちPTAによって「暴力教師」として葬り去られてしまう。このような環境で、どうして子供達の教育などできようか? 親の道徳心が欠落しているのである。子供達の道徳心が欠落していても当たり前である。子供達を教育する前に、まず国は親達大人を教育しなければ、この国は本当に滅びてしまうであろう。非常に大きな危機感を覚える。当然のことながら、教師もお座成りの教育は許されない。何年かに一度、教師資格の更新審査などの制度も取り入れ、やる気の無い教師には退陣願う。しかし、同時に、我々親も、道徳心を養う必要があるのではないか。強く、そのように思う。そこで、ここに「教育勅語」の原文と口語訳文と「修身」を掲載することにした。よく、読み直して、色々なことを感じて頂きたい。


■教育勅語■

朕惟フニ、我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。 我カ臣民、克ク忠ニ克ク

孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ

存ス。 爾臣民、父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ、朋友相信シ、恭儉己レヲ持シ、博愛衆ニ及
    
ホシ、學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ、徳器ヲ成就シ、進テ公益ヲ廣メ、世務ヲ開キ、常ニ國

憲ヲ重シ、國法ニ遵ヒ、一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。是ノ如
    
キハ、獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。

斯ノ道ハ、實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所、之ヲ古今ニ通シテ謬ラ

ス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス。朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。

明治二十三年十月三十日

御名 御璽

■教育勅語 口語訳文■

 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じる。そして、国民は忠孝両全の道を完うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じる。

 国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じあい、そして、自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければならない。そして、これらのことは、善良なる国民としての当然のつとめであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、更にいっそう明らかにすることでもある。

 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、このおしえは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、まちがいのない道でありますから、私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものである。

※日本道徳教会訳文参考
            

■教育勅語十二の徳■

1) 父母ニ孝ニ
   親や先祖を大切に。

2) 兄弟ニ友ニ
   兄弟は仲良く。

3) 夫婦相和シ
   夫婦はいつも仲睦まじく。

4) 朋友相信ジ
   友達はお互いに信じあう。

5) 恭倹己ヲ持シ
   自分の言動を慎む。

6) 博愛衆ニ及ボシ
   広く全ての人に愛の手を差し伸べる。

7) 学ヲ修メ業ヲ習イ
   勉学にはげみ技能を身に付ける。

8) 知能ヲ啓発シ
   知徳を養い才能を伸ばす。

9) 徳器ヲ成就シ
   人格の向上に努める。

10)公益ヲ広メ政務ヲ開キ
   広く世の人々や社会の為に尽くす。

11)国憲ヲ重ンジ国法ニ遵イ
   規則に従い社会の秩序を守る。

12)一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ
   勇気をもって世の為に尽くす。


■日本の修身■
1) 家庭のしつけ
2) 親孝行
3) 家族・家庭
4) 勤労・努力
5) 勉学・研究
6) 創意・工夫
7) 公益・奉仕
8) 進取の気象
9) 博愛・慈善
10) 質素・倹約
11) 責任・職分
12) 友情・朋友
13) 信義・誠実
14) 師弟
15) 反省
16) 素直・至誠
17) 克己。節制
18) 謝恩
19) 健康・養生
20) 武士
21) 愛国心
22) 人物・人格
23) 公衆道徳
24) 国旗と国歌
25) 国際協調
正露丸裁判にみる裁判官の良識の無さ
2006年7月28日

 腹痛止めの薬として有名な正露丸が裁判をしていたということは、案外知られていないかもしれない。同時に、ラッパのマークのモノだけでなく複数の薬品会社から正露丸の類似品が販売されていることも、あまり広く一般に知られていないのではないか? 何故なら、多くの消費者は、正露丸は正露丸、1つしかなく1社しか製造してないと思い込んでしまっているからだ。だが、実際には、大小含めて8社から9社の製薬会社から、正露丸は発売されている。このような状況下、正露丸を発売する大幸薬品株式会社は、人知れず類似品を販売する和泉薬品工業株式会社を相手取り、平成17年11月24日大阪地方裁判所に、「不正競業行為差止等請求事件」として提訴していた。そして、昨日すなわち7月27日、大阪地裁は大幸薬品側からの訴訟を棄却する判決を下した。しかし、この判決には、非常に大きな疑問が残る。何故ならば、裁判官が現実を全く把握してないと思われるからだ。

 確かに、大幸薬品側にとっても、自社が80年以上販売してきた製品の類似品が、しかもパッケージ等も酷似した状態で販売されているこということは、非常に重要な問題であり、由々しき問題でもあるはずだ。だが、それ以上に、正露丸を長年愛用する消費者にとって、これは大きな問題である。何故ならば、正露丸愛用者の多くは、幼少時より服用し、正露丸へ対しての信頼は肌染み付いている。また、その効果に対しても、当然のことながら、長年に渡り安心感を抱いている。だからこそ、海外に渡航する時にも、その臭いや見た目から検査されるという煩わしさがあるにも関わらず、常備薬として持ち歩くのではないか。愛用者である消費者の気付かぬ内に、その正露丸の類似品が販売されているどころか、そのパッケージも酷似していて、間違って買ってしまう可能性が非常に高いなどということは、正露丸を信頼し長年愛用している消費者にとって非常に大きな不利益を被ることになることは言わずと知れたことだ。斯くいう私も、大幸薬品の正露丸でないモノを、間違って買ったり買わされたりした経験が何度もある。

 例えば、大手量販店で購入した時などは、大幸薬品の正露丸と100%思い込み、購入し帰宅した。服用してみたところ、粒の硬さや大きさ、そして、微妙に臭いも違うような気がした。改めてパッケージを見直してみたが、いつもの正露丸のような気もするし、違うような気もする。何故なら、正露丸は、一種類しかないと思い込んでいるので、自分が幼少時から服用していた正露丸が大幸薬品という製薬会社から発売されているということもそんなに意識もせず、当たり前で服用し続けてきた。また、ラッパのマークとは言うが、そこまで常日頃から意識して服用してきたということもない。橙色の箱に入り、シンボル・マークが丸い囲いの中にあり、ビンは茶色の半透明で蓋は橙色、そのようなイメージで正露丸という商品は記憶されている。だから、他社のモノは、シンボル・マークがラッパのマークでないので判別できる、などという理由で訴えを棄却する裁判官は、消費者の心理をまったく理解していないとしか言いようがない。また、実際に、ご自分で、薬局に行き、一般人と同じように正露丸を購入した経験も、店頭を視察した経験もないのではないか、としか思えない。

 例えば、薬局によっては、「こちらが正露丸を下さい」というと、何の断りもなく類似品を出してくる。「これは類人品である」という説明もまったくなしである。気付いた場合はよいが、大抵の場合は気付かない。万が一、気付いて問い質すと、「効能にはまったく違いがありません。こちらの方が値段も安くお得ですから」と訳の解らない言い訳をする。長年信頼して服用している薬を、損得で変えることを勧める薬局の人間や薬剤師の感性を疑う。モラルを逸している。金儲けのためなら、商売のためなら、安心や信頼まで、かなぐり捨てるのか? 薬局や薬剤師というのは、誰にでもできる業種ではないはずだ。その自覚というものはないのか? 非常に大きな憤りと疑問を感じていた。そんな矢先、このような判決が下された。本当に、日本人のモラル意識、道徳心というのはどうなってしまったのか。裁判官がこれでは、一般の日本人のモラル意識も低下するのは当然である。

 多分、類似品の方が、薬局にとっての利益率が高いのであろう。そうして、信頼と安心を蔑ろにした分、消費者にとっても多分粒数や値段が、薬局の人間が言うように得なのであろう。ということは、今回の大阪地裁の判決は、類似品を販売している会社の販売促進に加担したと取られてもおかしくない。まったく常軌を逸した判決としか言いようがない。

 効能は、ほとんど変わらない、ラッパのマークでないのでなどと言われても、消費者にとっては、何の解決策にもならない。効能は、あまり変わらなくとも、信頼度はまったく違う。そのことを、この裁判官はまったく無視している。というか、消費者の意識をまったく理解せず、消費者不在の判決であるとしか言いようがない。

 昨今よく耳にするジェネリック医薬品(特許権や商標権の切れた後にオリジナル薬の類似薬品を同業他社が製造し販売する医薬品)という概念にも、消費者の立場からすれば、形は違うがその在り方に影響する裁判ではないか。ジェネリック医薬品は、医師の処方箋が必要なようであるが、その延長線上には一般医薬品もあるはずだ。そういう意味でも、今回の正露丸の裁判は、もっと精査し、如何なる理由があろうとも、消費者に不利益を及ぼすこのないような判決を出すべきであった。それでなくとも、保険業界と製薬業界は、あらゆる意味での硬い砦で守られていると言われている業界である。今までは、全てが製薬業界の方にばかり偏った流れできてしまっている。これからは、消費者側の立場に立った流れにならなければならないはずである。莫大な利益を上げる製薬会社は、政治的な力も強大である。だからと言って、何でも許されるというのではいけない。今回の判決は、ジェネリック医薬品の普及を厚生労働省が推進しだした矢先の判決である。製薬業界の大きな見えざる圧力が働いたのではないか、と勘繰りたくなるのは私だけではないはずだ。

 大幸薬品は、今回の判決を不服として控訴するという。正しい判断であると思う。今後の、裁判を我々消費者も、他人事ではなく、自分達の一番身近にある医薬品の信頼性の問題として関心を持ち、見守り続けるべきである。何故なら、自らの安全は自ら守るしかないのが、今の日本であるからだ。一体、道徳心に守られた、古き良き日本は、一体何処へ行ってしまったのか。それにしても、保険業界と製薬業界が抱える、見逃すことのできない黒く汚い問題は他にも沢山ある。我々国民一人一人が、厳しい目で見守るべきである。

諸悪の根源は企業にあり
2006年5月9日

 社会に於いて、本当の悪は何であるかを見極めることこそが非常に大切なこと。兎角日本人は、自分の見聞ではなく他人からの噂話や、右向け右で自分の意思というよりも、皆と同じ方向を向いていた方が良い、というような判断基準を持っている人々が多い国民性を持っている。そのような社会環境の中で、日本ほど企業が偽善者面して、正義の味方よろしく、金に物を言わせ政治家までも動かし、自分達のご都合主義で法律まで変えてしまう程に、大きな権力をもっている国はない。そして、そんな企業の餌食となっている一番の被害者は、民、即ち一般国民であり消費者なのである。しかし、そんな企業は法律というバリアで守られ、自分達の権利はしっかりと主張できる偏向した社会体制にあるのが日本である。

 このような社会環境だからこそ、隣国からの圧力に屈してしまうような、隣国の理不尽な主張までをも受け入れてしまうような世論を扇動するようなことが起こってしまうのだ。小泉首相が言う通りである。隣国が、外交戦略で理不尽なことを言ってくるのは、100歩譲って仕方ないとする。しかし、そのような理不尽な隣国の主張に同調し擁護する日本人がいることこそが、憂慮すべき大きな問題点なのである。

 体制を批判し、体制に反発することで生き甲斐を見出してきた団塊の世代。その団塊の世代が、社会のリーダーシップをとっている。彼らは、左よりな思想を背景に、浅はかなる平和主義を盾に、国益をも損ねようとしている。日本のマスコミは、現状そのような世代がトップに君臨している。そして、そのマスコミは、企業よりの広告収入で成り立っている。そのようなマスコミを左右する企業は、自社の利益を国益よりも何よりも優先する。だから中国の理不尽なる主張を擁護するような輩が世の中に横行するのだ。偏向した報道姿勢により、多くの国民が惑わされ国益に反する方向へと導かれてしまう。

 テレビの力は大きい。その影響力は絶大である。そのテレビを支配しているのも、企業である。企業による広告費は、昨年一年で3600億円を超える大きさだ。小さな国の国家予算を大きく上回る額だ。そんな企業人が、愛国心もなく、倫理観もなく、価値基準は「金」ということでは、日本が良くなるわけがない。

 よく「最近の子供達は・・・」などという言葉を耳にする。しかし、私は言いたい、「最近の大人こそ・・・」と。大人が、そんなエゲツナイ価値基準で、金儲けに奔走していて、子供が良く育つ訳がない。子供達は、大人の後姿を見て育つのである。

 昨日のトヨタのセクハラ問題に関してのトヨタ会長のニヤケ顔を見れば、全てが押して知るべしである。「タイミングが悪い・・・」日本の財界を背負う人間が、あの有様である。タイミングではなく、倫理の問題だ。ニヤケテ記者会見する問題ではない。本当の社会悪は、企業悪に他ならない。法律の網の目ギリギリで、金儲けに奔走する企業。彼ら以上の悪党が、この世にあるであろうか。

 どこの世界にも、悪党も善人もいる。しかし、肩書きや業界で決め付けることほど、差別的で侮蔑的な行為はない。人には色々な運命があり、それぞれの運命を背負って生きている。それでも、人は一生懸命生きているのである。政治の世界にも、良い政治家もいれば、金儲けと名誉欲に奔走する政治屋もいる。財界にも、悪党も善人もいる。任侠の世界もしかり。任侠の世界に身をおいているから、十派一絡げで皆悪党という偏向した考え方は間違っている。寧ろ、心の清い、しかし、少々不器用にしか生きられない男気のある、善人が実は沢山いる。私は、強くそう思う。

 暴対法ができて以来、日本はおかしくなっている。暴対法を施行するという発想自体が、偏向しており間違っている。それは、何も任侠界のみの話ではないのだ。暴対法という偏向した法律がまかり通ってしまうということ自体が、日本の形が歪になってきた証拠である。その発端が、暴対法だと私は思う。昔の紳士録と、何ら変わらない発想ではないか。企業が自己防衛の為に、金に物を言わせごり押しで創った法律ではないか。共同共謀正犯に関しても、同じような印象を持つ。人を決め付ける法律。悪法である。

 人を勝手に決め付けることほど、この世に於いて理不尽で悲しむべき行為はない。いくら頑張っても認められない、なんていう社会が良い社会のわけがない。一部の既得権者のみにとっての天下であり、間違っていることは疑いない。任侠という世界は、日本の文化だ。歴史だ。任侠を否定することは、日本の歴史を否定するに等しいことであると私は強く思う。

 人は、人を、色眼鏡ではなく、常に公平な目で見るべきである。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」福沢諭吉の教えである。小泉さんは、慶応ボーイ。この教えが根底にあると、私は信じたい。ジョン・レノンの「イマジン」という曲の中にも、同じことが歌われている。慶応卒のオノ・ヨウコの影響であろう。しかし、この言葉ほど、心に染み入る良い言葉はない。

◆参考文献◆

 福沢諭吉は海舟の批判者であり続けた。戊辰戦争の折に清水港に停泊中の脱走艦隊の1隻である咸臨丸の船員が新政府軍と交戦し徳川方の戦死者が放置された件(清水次郎長が埋葬し男を上げた意味でも有名)で、明治になってから戦死者の慰霊の石碑が清水の清見寺内に立てられるが、福沢は家族旅行で清水に遊びこの石碑の碑文を書いた男が榎本武揚と銘記され、その内容が「食人之食者死人之事(人の食(禄)を食む者は人の事に死す。即ち徳川に仕える者は徳川家のために死すという意味)」を見ると激怒したという(註1)。

(註1)次郎長もこの石碑が建てられた際に来ているが、意味がわからない子分のために漢文の内容を分かりやすく教えている。自己犠牲というアウトローが尊ぶ精神構造と似ていたせいか福沢と教養面で隔絶した文盲の子分たちは大いに納得していたという。

 「瘠我慢の説」という公開書簡によって、海舟と榎本武揚(共に旧幕臣でありながら明治政府に仕えた)を理路整然と、古今の引用を引きながら、相手の立場を理解していると公平な立場を強調しながら、容赦なく批判している。勝が維新後に栄誉を受けたことを転身、裏切りとするこの手の意見は今も絶えないが、勝、榎本両者は徳川家には充分尽くしたのであり、また徳川家という狭い枠にとどまらず、日本のために尽くしたのである。 現に明治維新という急激な改革に不平士族たちが反乱を起こすが、最大の敵性グループであった旧幕臣たちはついにそむくことはなかった。これは勝や大久保一翁、山岡鉄舟らの尽力によるものである。このことはもっと評価されてもよい。

「ライブドアの創設者堀江貴文氏が保釈」
2006年4月27日

 94日間の拘置所生活に終止符を打ち、本日午後9時半過ぎにライブドアの創設者堀江貴文氏が保釈になった。保釈金は、3億円であったという。保釈金の額は、男の値打とも言う。3億円の保釈金は、堀江貴文という男が半端ではないことを証明している。

 世間では色々と言われている。嘗ての堀江ファンである出資者達も、今ではその多くが彼のことを批判したり罵声を浴びせたりしている。確かに、株主を裏切ったことは良くない。そのことは、真摯に受け止め反省してもらいたい。ただ、これで終わりということではない。彼は、まだ33歳である。しかも、優秀な男である。頑張ってもらいたい。

 依然、容疑に関しては、否認を続けている。否認を続けているにもかかわらず、保釈が認められたということは彼にとっては良いことである。これからは、裁判での争いになる。一貫して否認を続ける彼の信念と根性は、なかなか頼もしい限りである。他の幹部達は、早々に全てを認め保釈されていた。結局のところ、他の幹部達は偉そうなことを言っても唯の凡人であったということだ。やはり、ライブドアという会社は、堀江氏あってのライブドアであったということだ。

 企業とか事業ということは、ある程度まで肥大化すると、代表取締役の意思を他所に動き出し、代表者の意思が働かなくなり、止めることもできず、また、止まらなくなる場合がある。ある意味、今回の事件によって、そんなライブドアにブレーキがかかり、止まることができたことで一番救われたのは、堀江氏自身であったような気がしてならない。実は、彼自身もホッとしているのではないか。

 彼は悪党ではない、と私は今でも信じている。あの目は、悪党の目ではない。あの言動は、悪党の言動ではない。ただ、若気の至りで、踊りだしたら止まらなくなり、止めることもできなくなってしまっていたのではないか。色々な人間の思惑が、堀江貴文という異端児の周りを、ライブドアという異色の会社の周りを渦巻き、彼の意思とは別のところで、別の動きをし始めてしまっていた。彼は、そのことに気付いてはいた。しかし、それを自力で止めることがもうできないところまでいってしまっていた。そんなところだろう。

 今日、保釈された堀江氏の姿は、そんな大きなプレッシャーからこの3ヶ月間で開放された、素の堀江貴文に戻った姿のように見えたのは私だけではなかったはずだ。8キロ痩せたということだが、無駄に肥大していた彼自身の身体も、毒抜きをしてすっきり健康的にスリムにハンサムになって戻ってきた。まだ、33歳である。そして、彼は優秀な人間である。この過ちを素直に反省し再起すれば、こんどこそ無敵の大物になれる可能性がある。私は、そう思う。

 裁判は、刑事裁判での結果が、民事裁判の結論に影響する。彼が否認を続けているということは、彼の裁判を視野に入れた闘いは既に始まっている。彼には、譲れない信念が見て取れる。それは、容疑を早々に認めた幹部達にはない信念である。その信念は、彼がライブドアを起こした当初より続いているように私には思える。それは、堀江貴文という人間そのものであるような気がする。作り物ではない、堀江貴文という人間そのものなのだ。その中心は、反骨精神である。体制への反骨精神である。今回の事件に於いても、そのような反骨精神は感じ取れる。彼の芯の部分では、理不尽な旧態依然とした財界・政界の体制へ対しての反骨精神が、マグマを宿し活火山として彼の中で息づいているに違いない。だからこそ、辛い中でも、独り否認を続けてこられたのであろう。多分、裁判という新たなる土俵で、彼は一生懸命闘うことであろう。負けないように。負けるということは、彼が彼自身を否定すること、そのように彼は思っているに違いない。堀江貴文という男は、そういう人間であると私は思う。数年後の、彼がどのように逞しくなっているか楽しみである。日本の若者達へ勇気と度胸と夢を与えるべく、再び頑張ってほしいものだ。

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